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2006年9月

2006年9月30日 (土)

閏10月2日「平宗盛降伏の使者を義仲に遣わすという」

閏10月1日 天気晴れ、
「日蝕」
この日、日蝕である。
「時刻勘文に相違す」(略)
「春日朔弊」(略)

閏10月2日 天気晴れ、
「藤原光雅院宣を伝う」
「天下乱逆は崇徳院怨霊の所為という」
「成勝寺内に祠を建つべきか」
「御陵改葬の事につき先例の子細等を兼実に問う」
「山陵を置かずただ仏教によりて訪うべし」
「平城上皇の例」
「藤原兼光来る」
 16時頃、頭弁の藤原兼光が来た。私はこれに会見した(その儀は光雅に同じ。蔵人頭といえども家来であるの故なり)。
語り云う、平氏は始め九州に入ると雖も、在地の武士等は歓迎しないので、逃げ出で、長門(山口県西部・北部)の国に向かう間、又国中に入れず、よって四国に入ろうとした。平貞能は出家し、西国に留まるようだ。此の由は周防(山口県東部)・伊予(愛媛見)両国より飛脚を進め申したようだ。
「平宗盛降伏の使者を義仲に遣わすという」
又ひそかに義仲は兼光の許に使いを送った。其の男の説の如し。相違無し。その上申し云う、前内府(平宗盛)の許より義仲の許に使者を送り云う、今に於いてひとえに帰降すべし。ただ命を乞うと欲すようだ。この上三種の神器の事、支障無く、迎え取り奉られ難き事、第一の大事である。次第の指図は又以て説に背くか。
「改元あるべし」
「北野御幸賞」
「北野社内小神の神位増位の事」

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2006年9月29日 (金)

10月28日「義仲頼朝と雌雄を決すという」

10月28日 天気晴れ、
「頼朝11月頃入京か」
伝聞、頼朝が去る19日に出国し、来たる11月一日に入京すべし、是は一定の説のようだ。
「義仲頼朝と雌雄を決すという」
又義仲去る26日(あるいは28日即ち今日なり)、出国し、来月45日の間入京すべし。頼朝と雌雄を決する為のようだ。これにより院中以下天下の人は皆以てあわただしいようだ。人皆云う所であるようだ。恐るべし、恐るべし。
今日親経が来た。五節供の事を辞退した。

10月29日 天気晴れ、
「源雅頼卿来たり」
源雅頼卿が来た。世上の事を談じた。大略、物事の終末、終わりぬの世である。すでに存命の計略をすでに失くした。なりゆきに随がい勢州(せいしゅう、伊勢)の知る所に下向するようだ。
「良通任大臣を望むにつき院より仰せあり」
この次語り云う、去る日摂政(基道)が密かに云う、法皇より右大将(良通)を大臣に任ずべし間の事を仰せ合はされた。其の趣旨に云う、この事忽ち速くすべきではない。しかるに兼実が頗りに望み申すは如何。松殿(藤原基房)定めて怨まれるか。公の意に於いて如何。指図は只法皇のお考えに在るべき由を申したようだ。
「五節参入御覧の事」(略)

10月30日 天気晴れ、
「念誦を始む」(略)

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2006年9月28日 (木)

10月24日・・・10月27日

10月24日 天気陰、
伝聞、頼朝は先日の法皇の使い(泰貞)に付き申さしむる事等、各許容無し。天下は法皇の乱させたるこそとして、縁をよじりたちまちその路を塞ぎ、美濃以東を横領しようと欲するようだ。但しこの条は実説は不明である。

10月25日 雨下

10月26日 
「蔵人親経御即位の事を兼実に問う」(略)
「紫宸殿王相方に当たる」(略)
「一条院の例憚るべきか」(略)
「伐日の忌は新造家にかかる」(略)
「当日臨幸に難なし」(略)
「藤原親経を家司に補す」(略)

10月27日 天気晴れ、
伝聞、来月法皇は春日社に行幸すべし。宇治に於いて、摂政(藤原基通)が御配膳以下の雑事を設けらるべしのようだ。又聞く、此の一両日、今一層天下は物騒である。何事か不明のようだ。

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2006年9月27日 (水)

10月23日「俊尭僧正の諌言により法皇二国を義仲に賜うという」

10月22日 天気晴れ、
 10時頃、大外記頼業が来た。世上の事を談じた。ひそかに示す所の趣意は私の案に同じ。賢士というべしと。学問の卿大夫等、多く偏る調子に入るようだ。政治を行う事と学問とは素より格別の道である。

10月23日 晴れ
「信円書を送り上洛の日次を兼実に問う」(略)
「院御占いあり」(略)
「賀茂在宣に条々の事を尋ねる」(略)
「朔旦の事」(略)
「朔旦は十九年を一章とす」(略)
「保元中朔旦と算勘さるるも止めらる」(略)
「御即位所並びに方角の事」(略)
「衰日等の忌の軽重の事」 (略)
「俊尭僧正の諌言により法皇二国を義仲に賜うという」
ある人云う、義仲に上野・信濃を与えるべし、北陸を横領すべきではない由、指図を遣わされた。又頼朝の許へも、件の両国を義仲に与えるべし、和平すべしの 由、指図されたようだ。この事、或地位の低い者の申し状に依る。俊尭僧正は一昨日参院(御持仏堂の時と)し、此の由を法皇に申し上げた。善と称し、たちま ち僧正の進言に従い、忽ちこの綸旨(勅命を受けて書いた文書)を下されたようだ。この条は愚案であり、一切叶うべきでは無い。およそ国家滅亡の結願、ただ この事に在り。弾指すべし、弾指すべし。朝廷に在る王候卿相、僧と俗人、身分の高い人と低い人、併しながら私を顧み、公に在らず。実に是愚にして猶愚かな り。国非ざれば、家建つること無し。君非ざれば、親建つること無し。
「人々敢えて正言せず」
もし身の安全を思うならば、先ず、国家の静謐(せいひつ、しずか)の計略を巡らすべしの処、各左右を恐れ、敢えて正言せず、又皆重事を謀る度量が無いか。悲しむべし、悲しむべし。

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2006年9月26日 (火)

10月20日「平頼盛逐電す」

10月18日 午後雨下る、
「慈円無動寺に登る」
この日、(慈円)法印が登山された。日来(去る6月下旬の日よりなり)近隣(女院の新御所)に座された。
「北斗念誦」(略)
「詩」(略)

10月20日 天気晴れ、
「良通方に穢出現す」(略)
「平頼盛逐電す」
伝聞、去る18日平頼盛卿が行方をくらまし逃げた。京中は又騒動したようだ。
16時頃、頭中将藤原隆房朝臣が来た。穢れ(けがれ)有りの疑いに依って親族を呼ぶ(略)

10月21日 天気晴れ、
「五体具足の穢れにつき法家の勘文到来す」(略)
「七日穢れとす」(略)
「兼実亭は穢れに非ず」(略)

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2006年9月25日 (月)

10月17日「義仲備前の国を焼き払い」

10月15日 天気晴れ、
頭中将(藤原隆房)が、大将(良通)の五節供の事、重ねて集まりに加えた。猶なすすべ無しの由を申した。

10月16日 天気晴れ、
終日、(中原)師景の文書の事を指図させた。
「鎮星大微に入る」
天文博士(安倍)広基、主税助(安倍)晴光が来た。天変の事を示した。13日雷電、14日大地震、並びに鎮星(ちんせい、土星)大微に入るの変等である。鎮星の変は殊に重いようだ。

10月17日 天気晴れ、
「虹が二筋出現す観性西山に入る」
 6時頃、虹が二筋(其の色常の如し、殊に分明)、南西より東北に至る。又東天に赤い光のようだ。観性(法橋)が西山に入山した。基輔が相具し行き向ふ。地形を見せる為である。夜に入り雨下る、
「義仲備前の国を焼き払い」
伝聞、義仲の従兵の中、少々が備前の国を超えた。しかるにかの国と備中の国の在地の武士等が軍勢を起し、皆悉く伐り取った。たちまち、備前の国を焼き払い帰り去ったようだ。又聞く、義仲の勢無しのようだ。

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2006年9月24日 (日)

10月13日「院庁官再度頼朝の許に遣わさる」

10月11日 雨下る
仏厳聖人が来た。後世の菩提の事を談じた。

10月13日 天気晴れ、夜に入り雨下る、深く更に大雨
「方違」
方違いの為堂に向かう、
「院庁官再度頼朝の許に遣わさる」
この日隆職が来た。世上の事等を談じた。院の庁官で官吏生(中原)泰貞、(先日御使いとなり頼朝に向かい、去る比帰来した)重ねて御使いとなり坂東に赴くようだ。件の男が隆職の許に来た。頼朝の詳細を語ったようだ、記録するに時間がない。
又云う、御即位は南殿に於いて行われるべし。しかるに方角の指図に依り、陣の座に参るべき由を、親経が相招集したようだ。
又云う、平氏が西海(九州)に入りたりは決定のようだ。

10月14日 天気晴れ、
「大地震」
10時頃に大地震、同刻に帰宅した。
「菊池・臼木・緒方等平氏に服さず」
(藤原)伊明が云う、平氏は去る8月26日九州に入ったようだ。放火以ての外と。肥後の国(熊本)の武士、菊池・豊後の国(大分)の武士・臼木・御方等が未だ降参しないようだ。

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2006年9月23日 (土)

10月9日 「頼朝忽ちに上洛すべからざる故を申す」

10月9日 天気晴れ、
「頼朝忽ちに上洛すべからざる故を申す」
静賢法印が来た。世間の事を談じた。頼朝が使者を進上した、忽ち上京する事が出来ないようだ。
「藤原秀衡頼朝上洛の跡入る事を恐る」
1は(藤原)秀衡・(佐竹)隆義等が上京の跡に入れ替わるだろう。
2は数万の軍勢を率いて、入京すれば京中は堪える事が出来ない。
この二つの理由に依り、上京は延引したようだ。凡そ、頼朝の様子は、威勢厳粛、其の性強烈、成敗分明、理非断決のようだ。
「志田義広の上洛を欝申す」
今度、使者を献上し、不快を申す所は、三郎先生志田義広の上京である(本名義範)。叉義仲等は、平氏を追討せず朝家を乱した、尤も奇怪、しかるに忽ち報償を行われたのはおおいに謂われ無しと。申し状等にその道理は有るか。この他多く雑事を談じた。詳細に記録する事は不可能だ。
 伝聞、義仲は播州(ばんしゅう、播磨、兵庫県南西部)を経廻し、もし頼朝が上京すれば、北陸方へ超えて逃げるべし。もし頼朝が忽ち上京しないならば平氏を討つべし由の準備をするようだ。
「小除目」
今日、小除目があったようだ。陰陽頭の賀茂宣憲は名誉無しと雖も、代を重ねる老衰により、抽任せらるるか。尤も然るべし。
「頼朝本位に復す」
叉頼朝がもとの位に復帰する由の指図が下されたようだ。

10月10日 朝晴れ、午後陰風吹き
「日吉諸社に一階加う」 (略)
「紀伊国丹生・高野社」 (略)

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2006年9月22日 (金)

10月8日「頼朝が飛脚を進上」

10月5日 天気陰、
この日蒜(ひる、草の名)忌の内であるので、御堂に参らず。大将(長男の良通)が参る所である。夜に入り、按察入道(源資賢)が来た。蒜慎みの間に依り簾を隔てて之に会見した。世間の事等を談じた。私に種々の讒言(ざんげん)有りの由を聞き及んだ。且つ、その事に謝し遣わした。
(注釈)
讒言(ざんげん)・・・人をおとしいれるため、事実をまげ、またいつわって、その人を悪く言うこと。

10月7日 天気晴れ、晩に及び小雨、
「最勝金剛院領、伊賀国四ケ庄国司山本義経のため停廃さる」
最勝金剛院の領地、伊賀国四ケ庄皆悉く停廃した。国司山本兵衛尉義経が、院奏を歴て停廃する所のようだ。よって(高階)泰経卿に付き院奏を経て、今日(源)兼親を以て示し送る所である。返事の如きは大略無論の事のようだ。

10月8日 天気晴れ、
「頼朝が飛脚を進上」
伝聞、一昨日頼朝が飛脚を進上し、義仲等が、頼朝を伐つべき由の用意の事を不快に思うと申したようだ。(高階)泰経卿の許に文書を送るようだ。
また聞く、平氏等は九州に入ろうと欲すの間、猶在地の武士等を恐れ、なお周防(すおう、山口県東部。防州。)の国に帰還したようだ。
「法皇石清水御幸」
この日、法皇は石清水(いわしみず)宮へおいでになった。諸卿以下束帯(そくたい、天皇以下文武百官の正服)を着けお供したようだ。

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2006年9月21日 (木)

10月4日「頼朝3ケ条申し状」

10月3日 雨下る、
「蒜を服す」
今日に至り、蒜(ひる、草の名)を服用した。すべて25合である。ただ今の様子では、その効果は未だ見えない。
(注釈)
蒜(ひる、草の名)・・・ネギ・ニンニク・ノビルなどの総称。

10月4日 陰晴れ不定、
晩に及び太夫吏隆職が来た。内密に頼朝の進上する所の合戦の報告書、並びに折り紙等を持って来た。法皇のお使いの庁官の持参する所のようだ。件の折り紙は先日の聞く所に違いはない。しかしながら後代の為に之を記録して置く。
「頼朝3ケ条申し状」
「社寺に勧賞行われるべき事」「謀臣の輩出洛するは仏神の罰によるか」
1.勧賞を神社仏寺に行われるべき事、
 右日本国は神国である。しかるに近頃の年の間、主君に反逆する臣下の者ども、神社の領地を立てず、仏寺の領地を顧みず押領の間、遂にその罪に依り、7月25日忽ちに京都を出で、あちこちに散らばり失せた。王法を守護する仏神、目には見えない神仏の罰を加えられた所である。全く頼朝の微力の及ぶ所ではありません。然かれば報償を神社仏寺に行われるべきであります。近年仏にそなえる灯油の用途すらこれを欠き、先跡(せんせき)無しが如しであります。寺領を元の如く本所に付すべき由、早く宣下されますように。
「平家押領の王候卿相領を返付すべき事」
1.諸院宮・関白以下の領地、元の如く本所に返付せらるべき事、
 右王と諸侯公卿の御領を、平家一門が数所を押領した。しかる間領家は其の指図が出来なかった。堪忍する事が出来ない。早く聖日の明らかな天子のお言葉を降し、うれいの余気を払うべきでしょう。災をはらい福を招くはかりごと、何事も之に及ばないでしょう。頼朝なお彼の領地等を領有するならば、人の嘆きは平家に相同じであるだろう。宜しく道理に任せご指図有るべしといえます。
「落参の平家郎従の斬罪を宥すべき事」「頼朝勅勘を蒙ると雖も今朝敵を討つ」
1.奸謀者と雖も斬罪を寛宥せられるべし、
 右平家の郎従のうち降参する者ども、たとい不注意から起こる過失が有りと雖も身命を助けられるべし。その理由は、何となれば、頼朝が天子のとがめを蒙り事に座すと雖も、更にはかない命を全うし、今朝敵を討伐しました。後代に又このような事が無くはないのです。忽ち、死罪を行われるべきではありません。但し、罪の軽重に随い、ご指図有るべきです。
 以て前3ケ条の事、一心の所存この如し。早くこの趣を以て申し上げた事を計らい下さい。よって大概を記載し、申し上げることは件の如しであります。
 合戦記を詳細に記録するのに時間が無い。

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2006年9月20日 (水)

10月2日「頼朝三ケ条の事を院庁官に付す」

10月1日 陰雨下る、昼間晴れ、晩に及び風吹き。
伝聞、先日頼朝の許へ派遣した所の院の庁官、此の二三日以前に帰参した。きわめて多くの贈り物を戴いたようだ。頼朝は折紙に記載し三ケ条の事を申したようだ。

10月2日 朝間天気陰、午後曇り晴れ、
「頼朝三ケ条の事を院庁官に付す」
ある人云う、頼朝が申す所の三ケ条の事、
1は平家が押領する所の神社仏寺の領地は、確実に元の如く本社本寺に還付すべき由、宣旨を下さるべし。平氏滅亡は、仏神の加護たるの故であると。
1は院宮諸家の領地、同じく平氏が多く以て横領したようだ。是も又元の如く元の主に返しなされ、人々の憂いを休められるべしと。
1は降参し帰来の武士等、各其の罪をゆるし、死罪にするべからず。其の故は何とならば、頼朝は昔、天子のとがめありの身なりと雖も、身命を全うするに依り、今君の御敵を討伐の任に当たる。今又落ち参る者どもの中に、自ら此のような類例が有るかもしれない。よって身を以てこれを思うに、敵軍なりと雖も、帰降の者どもにおいては罪科をゆるし、身命を生存させるべしと。この3条を折り紙に記載して言上したようだ。
一一の申し条は義仲等とはかなり異なるようだ。
「即位に紫宸殿を用うべき院宣有り」
ご即位の間、人々の申し状、去る夜、藤原親経の許へ返し遣わした。今日、返事が到来し、紫宸殿を用いるべしの由、院宣が有った。しかるに方角の事に依り、その指図は未だ出ないようだ。
伝聞、今年は五節供有るべしと。即位以前に五節供は久寿(きゅうじゅ、近衛・後白河天皇朝の年号)の例(二条院)のようだ。

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2006年9月19日 (火)

9月28日「頼朝上洛の風説」

9月28日 天気陰、雨小下る、
「頼朝上洛の風説」
ある人云う、頼朝の上京は明年の45月のようだ。例の如くの風説か。
「大風」
夜半大風。今明け方、或る女房の夢見は、私の為に最吉の事であるようだ。

9月29日 朝間天気晴れ、
夜に入り或る人が来た。数刻言談した。国家、朝廷を思う故である。仏や天の神は知見するだろう。今日、蔵人の宮内権少輔親経の許より、先日(19日)の申し状を書き送りて云う、言葉を以てたちまち申し上げた。然れども後代の為、猶申された趣を記録し置いた。よって大略この定めを覚悟した。もし相違あれば、書き直しさるべしと。見られる処は尤もすなおである。但し、一二か所を書き直した、すなおの由を答えた。そもそも即位は猶紫宸殿(ししんでん、正殿)を用いられるべき由の事が定まり、天下のあざけり有るか。然れども全く議定して申し上げる旨にこだわるにあらず、まま政教の道理を残存させるため、申し上げる由を申した。又申し云う、今般正殿(紫宸殿)用いられるの条、ただに聖意無私の美をのこすのみではないのである。そもそも又民力のわずらい有るの愁いを省くものである。重ねて申し上げようと欲すれば、非難を招くだろう。退いて黙止せんと欲すれば、不忠をのがれ難い。進退の間、ひとえに法皇のお考えに任せ、これを協議されるべしの状件の如しということである。

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2006年9月18日 (月)

9月25日「頼朝文覚を以て義仲を勘発す」

9月24日
長者が、職事の季佐を以て、吉田神社の怪異を告げられた。今朝は物忌みである。

9月25日 雨下る、
「頼朝文覚を以て義仲を勘発す」
伝聞、頼朝は文覚聖人を以て義仲等を問いただしたようだ。是は追討をなまけ、さらに京中を損ずる由のようだ。たちまち聖人に書き述べ遣わしたようだ。

9月26日 雨下る、
或る人云う、法皇の天下の政治、指図が乱れ、ぼうぜんとさせたようだ。

9月27日 雨下る、
八条院(鳥羽天皇皇女、法皇の妹、暲子内親王)より仰せられ云う、かの譲りの間の事、重ねて申さしむる処、病気が危急でないならば、必ずしも急ぐべきではない事だ。すっかり世には人もないようであると。重ねて詳細を申した。

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2006年9月17日 (日)

9月21日「義仲の逐電は平氏追討のためという」

9月20日 天晴れ
「良通の病を訪う」(略)
「義仲逐電す」
夜に入り、人伝え云う、義仲が今日、俄に行方をくらまし逃げた。その行方が知れない。郎従等大騒ぎし、法皇の御所の中はまた物騒のようだ。

9月21日
「義仲の逐電は平氏追討のためという」
伝聞、義仲は一昨日法皇の御所に参り、御前に呼び出された。法皇のお言葉に云う、天下静かならず、また平氏は勝手気まま、毎事不便であると。義仲は申し云う、地方に向かうを任ぜられるならば、明日あけがた地方に向かうべしと。たちまち法皇は手づから剣を取りこれを与えた。義仲これを取り退出し、昨日俄に地方に向ったようだ。

9月22日
「良通平癒す」(略)
「八条院(鳥羽天皇皇女、法皇の妹、暲子内親王)御不例(病気)」(略)

9月23日 陰晴れ不定、
「義仲行家を避ける」
定能卿が来た。雑事を談ず。人伝え云う、行家を追討使に遣わすべき由、法皇より再三義仲に申し付けた。義仲は決定を申さず。俄に以て逃げ下る。行家を籠(かごめる)める為のようだ。

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2006年9月16日 (土)

9月18日「良通所労危急に及ぶ」 

9月17日 

9月18日 天晴れ、
「良通所労危急に及ぶ」
今日、大将(良通)更に発病した。殆ど危急に及ぶ。依って私と女房及び法印等、たがひに以て行き向かい、種々の願いを立てた(信助阿闍梨が諸願書を書き、之を読み上げた)。又仏厳聖人おいで願い、受戒せしめた。
「慈円薬師供を修す」
又法印をして薬師供を修せしめ、夜に入り帰宅した。

9月19日 陰晴不定、
「五位蔵人親経御即位間条々事を兼実に尋ねる」
今日、宮内権少輔親経(五位蔵人)が来た。私は簾を隔てて之に会見した。(略)
「御即位延引の可否」(略)
「即位十二月に延引するも憚りなし」(略)
「践祚は忽ちに行わるも即位は猶沙汰あるべし」
そもそも三種の神器を受けず、天子の位を踏むの例、人代以来、かってその例無し。(略)
「朝廷の大事剣爾紛失に過ぎるはなし」
凡そ朝廷の大事、三種の神器を紛失に過ぎるは無し、(略)
「初度行幸の事」(略)
「晴礼の儀を用いずとも失たらず」(略)
「民部省南門を会昌門に擬すべきかの事」 (略)
「民部省南門は高座の正南に当たらず」(略)
「民部省北垣を移し立てるが宜しきか」(略)
「紫宸殿高座を官庁に移す事の可否」(略)
「治歴の寸法で新造すべし」(略)
「列身定考何処で行われるべきかの事」(略)
「官西庁宜しかるべし」(略)
「紫宸殿における即位を忌む事兼実欝陶す」(略)
「豊楽院なきにより大極殿を用いる」(略)
「大極殿焼失の後は紫宸殿を即位の場と定むべし」(略)
「天子の居を置きながら諸司にて即位行われるは不当なり」(略)

「北陸の宮(加賀)明日入洛あるべし」
北陸の宮(加賀)が明日入京するようだ。今日、三井寺に到着したようだ。

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2006年9月15日 (金)

9月14日「師景文書を召寄す」

9月12日 今日念仏十八万反。

9月13日  日念仏十二万反。

9月14日 陰晴不定、
「師景文書を召寄す」
今日、師景文書等を寄せ集めた。すべて二百七十余号である。内府(実定)が示す旨有りと雖も、理に伏し避けた。今日百万遍が終了した、今日十二万反。

9月15日 天気晴れ、
「念仏結願」
今日、18時頃、念仏が結願した。それ以前、念仏一万遍(其の中一千遍、高声の念仏である)。阿弥陀大呪一千遍、礼拝百遍、未だ曾て数反の礼拝を修せず。今度始めて此の礼拝を致した。然り間脚気は倍増し、殆ど其の功遂げ難し。然れどもひとえに仏法の為身命を捨てた。数遍満ちたりの後、ひとえに以て横になり、存するが如く亡きが如し。此の夜例の如く法印が御堂に於いて二十五三昧を修せられた。女房が来て聴聞した。

9月16日 天晴れ、
「師景文書の部分け目録を取らす」
文書等、段に分け目録を作成した。たちまち今日より男共に仰せ付け、部を分かち目録を取るべきものである。今日夜に入り家に帰りの次、大将(良通)方に向かう。病気に依りてである。

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2006年9月14日 (木)

9月9日「大神宮恠異の事の沙汰につき法皇より諮問せらる」

9月9日 天晴れ、
今日、念仏十四万遍。この日蔵人宮内権少輔親経が来て、院宣を伝えた。(私は念仏に依り之に会見しなかった。人を介して之を伝え申さしめた)。
「大神宮恠異の事の沙汰につき法皇より諮問せらる」
去る7月17日、大神宮に奇代の不思議な事が発生した。しかし、すでに先朝(前天皇)の御時の事である。当今(現天皇)に指図有るのはいかに。協議し申し上げるべしといえり。私は申し云う、且つ準拠の例を尋ねられ、協議し指図が有るべきである。もし不思議な事の様子が奇異の事であるならば、黙止の条は如何といえる。念誦の間であるので、文書を見ず、又詳細を申し上げなかった。

9月10日 この日念仏十七万遍。

9月11日 
この日念仏二十一万遍。今日、頭弁兼光が私の南家に来たようだ。然れども念仏の由を聞き、此の堂に来なかった。待機の男に示し置き退出した。事は急事ではなかった。よって御念仏以後に参上し、承るべき由示すようだ。夜に入り聞く所である。御即位の間の条々の事を尋問された。すでに念仏以後、委しく披(ひら)き詳細を申すべき文書等を見て、之を書写した。
「兼実女房夢想」
此のあけがたに女房が夢見を云う、夜相共に新築の家宅に渡る。頗る以て作りかけのようだ。見回りの後、相共に就寝しようとする間、ある人が女房に告げて云う、其の殿(は私を指す)は大職冠(藤原鎌足)の後身であると。女房夢中に思う様、極めて恐れ有る事である。年来種々の大願を立て、国家の安全・仏法の興隆等を祈願していた。事の様子は、近代の風に似ず。奇しく思ふ処、今彼の後身たる由を聞き、尤も其の謂われあること思い覚めたようだ。法成寺入道殿(藤原道長)は聖徳太子(厩戸皇子)並びに弘法大師の後身である。先代も有る事である。信仰すべし、信仰すべし。

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2006年9月13日 (水)

9月6日「基房の謀略」

9月6日 天気晴れ、
「院供花」
今日より院の供花である。昨日より始めようとした。しかるに勅使参着の日たるに依り、忽ち延引したようだ。女医博士(丹波)経基を呼び寄せ、歯下針を加えた。
「基房の謀略」
 伝聞、入道関白(基房)が少将顕家を以て使いとなし、行家の許へ示し送られ云う(法皇が御逐電の刻の事である)、先ず摂政の職に於いては、正妻の子でなければ二男に及ぶと雖も、いまだ三男に及ぶの例は無い。しかるに私がその任務に当る由、世間が吹聴するのは太だ不当であると。又法皇に申し上げる旨も同前のようだ。この事は、ひごろ聞き及ぶと雖も、信用せざるの処、今日定説を聞き、驚奇は少なくない。凡そ天子の位、摂政の運、全く人力の及ぶ所ではない。たくらみの様子は軽々しい様に似たものだ。之に加え三男に及ばないの由はいかに。貞信公(藤原忠平)・大入道殿(藤原兼家)・御堂(藤原道長)、此の三代の例を棄て置くのか。法皇は白黒を区別せず、源氏は是非を知らず。只一言の狂惑を以て、万機の巨務を全て治めようとした。はかりごとの至り、神仏の罰は定めて速きか。弾指(警告のためつまはじき)すべし、弾指すべし。但し私に於いて、乱世の摂政は好む所ではない。

9月7日 今日頭を洗う、明日より念誦すべし、潔斎の為である。

9月8日 天晴れ、
「恒例念仏を始める」
早朝、法印(慈円)が来た。10時頃、仏厳聖人が来た。たちまち私は御堂に渡る。今日より恒例の念仏始めの為である。先ず受戒(聖人を戒師と為す)。午後1時頃、念仏を始めた。今日二万遍。

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2006年9月12日 (火)

9月5日「京中の万人存命不能」

9月5日 雨下る、
「平氏の余勢減ぜず」
早朝ある人云う、平氏の党類、余勢は全く減少していない。四国並びに淡路・安芸(あき)・周防(すおう)・長門(ながと)並びに九州の諸国一同が加勢した。旧主(安徳天皇)崩御(ほうぎょ)の由が風聞した。誤りの説のようだ。当時は周防の国に在住した。但し国中に皇居に用いるべき家が無く、よって船に乗り浪の上に浮かぶようだ。
「鎮西に内裏を立てんとすという」
貞能以下、九州の武士の菊池・原田等、皆以て味方し、すでに九州に内裏を立て、出で来るに随い関中に入るべしと。明年の八月には上京すべくの由を計画するようだ。是等は皆風説に非ざるものである。14時頃、弥勒講に依り御堂に参り、晩に及び帰宅した。
「京中の万人存命不能」
ある人が言いました。近頃京都市内の物取りは、今や一層倍増し、どんな小さな物も外に持ち出す事も出来ない。京都市内の全ての人が、今や、一切生き永らえる事が出来ない。義仲軍は法皇の所領以下も不法に横取りし、日々倍増した。おおむね、僧も一般人も、身分の上下にかかわらず、みな泣いています。
「頼朝の上洛を頼みとす」
たのむ所はただ頼朝の上洛のようだ。かれの愚賢また暗に以て知り難し。ただ我が朝の滅亡、其の時すでに至るか。法皇は敢えて国家の乱亡を知らず。近日大造作(建築)を始められるようだ。院中の上下、嘆息のほか他事無きか。誠に仏法王法滅尽の秋である。
(注釈)
安芸(あき)・・・広島県の西部。
周防(すおう)・・・山口県東部。
長門(ながと)・・・山口県西部・北部。

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2006年9月11日 (月)

9月4日「義仲の許に落書あり」

9月4日 陰晴れ不定、
前源中納言雅頼卿が来た。私は病気のため簾を隔てて之と会見した。世上の事等多く以て談説した。其の中に私の為に無用の事等有り。
「義仲の許に落書あり」
去る日義仲の許に落書有り。たちまち義仲の所行の不当悲法等、悉く以て注載した。
「兼実を登用せざる事を難ず」
其の次、私が登用されないのは、尤も不便である。朝庭の重器たる由、詳しく以て之を載せるようだ。この事は私の辺の事を不快に存ずる者どものしわざのようだ。誠にこの事甚だ由無き事である。
「中原親能雅頼に飛脚を送り頼朝の上洛を告げる」
又語り云う、頼朝は必らず上洛すべし。次官の中原親能(広季の男)は頼朝とはなはだ深い知り合いであり、当時同宿した。くだんの者、又源(雅頼)中納言の家人であり、たちまち左少弁兼忠の乳母の夫である。くだんの男一昨日飛脚を以て示し送り云う、十日余りの日、必ず上洛すべし。先ず頼朝の使いとなり、法皇に申す事あり。親能上洛すべきである。万事は其の次に申し承るべしと。此の如し等の事、多く以て談語し、刻を推(うつ)して後、帰った。明日は公卿勅使参着の日である。供花を始められた。世の傾く所である。夜に入り、観性法橋が来た。出ながら之に会見した。くだんの人は内大臣(実定)母堂(藤原豪子)の忌に籠もる故である。語り云う、頼朝は今月3日に出国し、来月1日に入京すべし。是必定の説であるようだ。但し猶信受せられずの事である。

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2006年9月10日 (日)

9月3日「四方の通路皆塞がる」

9月1日 雨下、
「滝口名簿を送る」(略)
「名簿書様」(略)
「良通に除目を教える」(略)

9月2日 天晴れ、
「女官除目」(略)
「政始」(略)
「公卿勅使進発」(略)

9月3日 天陰、時々雨降り、
「大夫吏隆職昨日の公事の事を注送す」(略)
「女官除目」(略)
「義仲頼朝の上洛を迎え撃つべく支度すという」
ある人云う、頼朝が去る月27日国を出で、すでに上洛するようだ。但し信受せず。義仲は偏に立ち会うべく準備するようだ。天下今一重の暴乱出で来たるか。
「四方の通路皆塞がる」
ある人が言いました。おおむね、最近の京都市内では、武士以外の者は、一日として生き永らえる方策が見つからない。そこで身分の上下なく武士以外の多くの人は市外の片山や田舎へ避難したようだ。東西南北の四方の路は全て通行出来ない。つまり四国及び広島より西の山陽道や九州等は平氏を征伐する以前なので通行出来ない。北陸道や山陰道は義仲が不法に占領している。法皇以下の国司は、役人としての一切の職務の遂行が出来ない。東山道や東海道は頼朝が不法に占領し上洛する以前なので、又通行したり国司の職務の遂行が出来ない。京都周辺の諸国の近辺の所領は、田畑の段歩なども残らず刈り取られた。又京都市内及び周辺の神社・仏寺・人屋・在家を悉く追捕した。その他運よく京都に届いた所の庄園や公領の運上物も、多少にかかわらず、身分の高低を選ばず、全て皆横取した。此の災難は、市中にも及び、昨日は売買など商売も出来ないようだ。どうして神様や仏様は何の罪も無い庶民を見捨てるのだろうか。やれやれ悲しいことだ。
「人々の災難法皇の乱政と源氏の悪行より生ず」
このような災難は、法皇の特に好むところの乱れた政治と源氏の奢りや法令を順守しない悪行とより出たものである。このようなとき、天下のことを思う忠臣や、俗世のわずらわしさを逃れる聖人なども、それぞれ過分の不慮の災難に遭う。これでは素直に成仏出来ない。哀しむべしはただ前世の所業の善悪のみか。

(ミニ解説)
さて、これを兼実に報告している「ある人」が誰かが問題である。いつもの官吏ではないようである。「昨日売買の便を失う」と言わせているから、出入りの商人かもしれない。商売人は本当の事は言わないものである。儲かつてしょうがないときは「ぼちぼちです。」、「赤字ですよ」と言うときは収支とんとん。大赤字で首が回らないときは夜逃げと。残らず刈り取ったり、残らず奪い取ったりしたら、京都市内は餓死者があふれそうだが、そのような風聞も無い。病で寝込んでいて、人の話を確認も出来ずに書いているだけである。

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2006年9月 9日 (土)

「愚管抄」

「愚管抄」

このようにして押し合ってごたごたしているうちに、「いかにも国王は三種の神器を所持して西国の方面へ落ち行きなされた。この京に国主が不在とはいかがであろうか」と云う指図がありました。父の法皇がおいでなので、西の国王の安否確認の後かなど様々に指図がありました。この間の事は左大臣、右大臣(兼実)、松殿入道(兼実の兄)などと云人に申し合せましたが、右大臣(兼実)の申す事がことに詳しいとして、それを用いることになりました。さてどうしても即位はあるべしとしても、高倉院の王子は三人おいでであります。一人は清盛の妻の時子がお世話をして船に乗せお連れになりました。残りの二人は京においでになります。その中の三宮(さんのみや)・四宮(しのみや)を法皇がおよびして、見ましたところ、四宮は人見知りもなく近づきになりました。又占いにもよく出ましたので、寿永二年八月廿日に四宮の即位の儀式が行なれました。万事が新例の儀式なので、申し合せながら、右大臣がことを処理して、国王がこゝに出現しましたので、天下はこのようであればいかにも落ちつこうとするぞと、日本国の有り様は今はこのようにとて、摂政こそはこのような事を指図することを、比叡山より下山するとやがて、近衛殿(基通)に摂政は元のようにと申し付けました。必ず平氏に同道し落ちるだろうと人は申しましたのに。又どのような事があったのだろう。されど近衛殿はこのような事を申し指図が出来る人ではありません。すこしでも確かでない事は右大臣に問いながらでありますので、たゞ名目ばかりの事にて、庄園の文書なども、自分よりも年下のまゝ母の手より得たる由にて、清盛にこのようになされた人であるが、猶このようにしてあらわれた。いかにも人々は心得ぬことにてありますが皆得心されました。これ程に乱れる世は何事も合理な事はあるまじき時節である。おおむね摂政の役目が始まりて後に、これ程までも役に立たない才能の人はいまだなし。かくてこの世は過ぎました。後に左大臣を贈られた範季(のりすゑ)が申すには、「すでに源氏は近江国に満ちて六はらの平家が大騒ぎの時、法皇は今熊野(三十三間堂の東南)に籠もりておいでの時に、近習に召し付けられてましたので、ひまの候しに、「いかにも今は不可能でしょう。東国の武士は人夫までも武術に関与していますので、此の平家はかなひません。平家を避け逃れるような御指図をなさるべし」と申しましたので、笑みをうかべまして、「いまこそ、その時期だ」とお言葉がありました」と語りました。もとよりの御案でありました。この範季は後鳥羽院(四宮)を養育しまして、即位の時もひとへに指図をなされた人である。位階は進みて二位までなりましたが、現在の天皇の母后(ぼごう)の父である。さて贈位(ぞうゐ)も頂きました。範季の姪の刑部卿の三位と云う人は能円法師の妻である。
(中略)

故卿(きやう)の二位は刑部卿三位の弟であり、ぴたりと君につき従いまして、このように果報の人になりました。

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2006年9月 8日 (金)

8月30日 「法皇公卿勅使御精進屋に入らる」

8月29日 天晴れ。午後雨下る。
大外記頼業が来た。世上の事を談じた。嘆息の外他事無し。実に悲しむべき世である。

8月30日 天晴れ
晩に及び大夫吏隆職が来た。世間の事を談じた。今夜は家の所苑である。常の如し。
「法皇公卿勅使御精進屋に入らる」
今夜より法皇は公卿勅使を御精進屋(しょうじんや)に入らしめた。明後日に発遣、明日は前斎の故である。
(注釈)
精進屋(しょうじんや)・・・宮座(みやざ)の祭祀で、頭屋(とうや)が精進潔斎(けっさい)のためこもる所。
精進潔斎・・・肉食を絶つなどして身をきよめること。

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2006年9月 7日 (木)

8月28日「武士十余人の頸を切る」

8月27日
「大臣を良通に譲るべく仮名書状を八条院に献ず」
今日、仮名書きを八条院(鳥羽天皇皇女、法皇の妹、暲子内親王)に献上した。大臣を以て大将(良通)に譲るべき由を法皇に申し上げていただくべき趣である。今日、仏厳聖人が来た。法文の事を談じた。

8月28日 天晴れ
「公卿勅使発遣の事につき法皇より諮問せらる」
16時頃、院の別当の式部権少輔の範季が御使いとなり来た。院より公卿の勅使を発遣される間、色々と御疑問の事があり、協議し申すべしと。
(中略)
「法体の上皇伊勢公卿勅使を立てられる例なし」 (略)
「公家より立てられるべきか」(略)
「滝口名簿を催さる」(略)
「頭中将隆房痴者なり」(略)
「武士十余人の頸を切る」
伝聞、今日七条河原に於いて、武士十余人の首を切ったようだ。

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2006年9月 6日 (水)

8月25日 「兼実の知行国安芸に替えられる」

8月24日

8月25日 
「除目」
この日、除目(人事異動)のようだ。
「兼実の知行国安芸に替えられる」
伯耆(鳥取県の西部、伯州)の守基輔が強引に安芸(広島県西部、芸州)の守に任命された。勿論々々。兼光が院宣を以て先ず触れ仰せられ、左右(決定)御定めにあるべしと申した。但し芸州に於いては、望みにあらざる由を申した。然れども猶強引に以てこれに替えられた。過怠(過失)尤も不審々々。
叉ある人が告げて云う、入道関白(基房)の息子の八歳で中納言の師家(生年十二歳)を直に左大将に加えるべしと。依って内々に嘆願の由を法皇に申し上げた。今度この事は無し。もし嘆願状を容れられたか。将に叉本よりその指図の事無きか。追って聞くと、此の事指図ありと雖も、忽然として止めたようだ。
(注釈)
基輔は兼実家の家司(けいし、家来)

8月26日
「除目聞書を見る」
聞書を見る。権大納言師家(兄基房の息子)、権中納言兼房(兼実の実弟)、此の外の事記さず。
「良経従四位上に加階せらる」
また良経(兼実の次男、従四位)は従上に叙された。太だ冷然々々。定能卿(女房の兄、藤原季行の子)が来た。世間の事を談じた。

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2006年9月 5日 (火)

8月21日「兼実寸白発す」

8月21日 
「兼実寸白発す」
今夜より重病となった。九死に一生を得た。寸白(サナダムシが病因か)のしわざである。今日大原の本成房が来た。数刻法文を談じた。

8月22日 時々雨下る
「藤原季行忌日」
病気による苦悩は同前。女房(藤原季行の娘)忌日に依り内密に東山の小堂に向かう。母の尼公が同道した。布施取少々これを催し送る。

8月23日
病気による苦悩は同前。晩に及び汗が少し出て、辛い苦しみが少し減少した。

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2006年9月 4日 (月)

8月20日「後鳥羽天皇践祚せらる」

8月20日 天気晴れ、
「後鳥羽天皇践祚せらる」
此の日立皇の事有り(高倉院の第四の宮、御年は4歳、母は故正三位修理太夫信隆卿の娘)。兼日、頗りに其の沙汰有り。先ず高倉院の両宮(三宮と四宮)を以て、占いにより(三宮が第一に立つ)の処、官(神祇官)・寮(陰陽寮)共に第一が吉の由を申した。その後、女房の夢想の事有り(詳細は先日の日記を見る。四宮立ち給ふべきの由である)。又義仲は加賀国においでの宮を引級した(詳細は先日記を見る)。此の如き間、更に又御占い有り(今度は四宮を一と立て、加賀の宮を第三に立てたようだ)。又第一が吉の由を占い申した。第二は半吉、第三は快からずのようだ。占いの形を以て義仲に遣わすの処、おおいにいきどおりうらみを申し云う、先ず次第の立て様、甚だ以て不当である。御年の次第に依れば、加賀宮を以て第一に立つべきである。そうでなければ、又始めの如く、兄宮を先とせられるべし。事の態、いつわりに似たり。故三条の宮の孝行を思案せざるの条、大いに以て遺恨のようだ。しかれども一昨日重ねて御使いを遣わし(僧正俊尭、木曽の定使なり)、数遍往還し、ついに御定めに有るべき由を申した。依ってその後一決したようだ。
(以下略)
「良通参院」
「御名字定」
「伝国宣命を奏聞す」
「人々閑院に参る」
「若宮御着袴の後閑院に渡御せらる」
「主上出御」
「左大臣経宗作進の践祚次第」
「践祚の間の不審条々を兼光に問う。」
「兼光返事」
「蔵人頭」
「五位蔵人」
「六位蔵人」
「殿上人」

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2006年9月 3日 (日)

8月19日「昨日議定の子細を兼光朝臣に問う」

8月19日 陰晴れ不定、
「昨日議定の子細を兼光朝臣に問う」
朝早く、昨日の定めの詳細を兼光朝臣の許に尋ねた。書きしるし送るの旨かくの如し。
参入の公卿は8人、左大臣(経宗)、(皇后宮大夫)実房、(堀河大納言)忠親、(民部卿)成範、(前源中納言)雅頼、(八条中納言)長方、(源宰相中将)通親、親宗(朝臣)、
「神鏡の事」
神鏡の事
 左大臣、皇后宮大夫(実房)、前源(雅頼)中納言、    (略)
 堀河大納言(忠親)、八条中納言(長方)、源宰相中将(通親)、    (略)
 民部卿(成範)、親宗朝臣、    (略)
「剣爾の事」
 源(雅頼)中納言、(略)
 源宰相中将(略)
「固関の事」(略)
「宣命の事」(略)
「時簡の事」(略)
「御譲位日時の定めの事」(略)
「先主尊号の事」(略)
「践祚の夜内侍の事」(略)
「御即位の事」(略)
「二代同輿の事」(略)
「新帝内裏に渡御の御装束の事」(略)
「大刀契行列の事」(略)
「頭弁兼光院宣を以て新主御名字の可否を問う」(略)
「兼実請文」(略)

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2006年9月 2日 (土)

8月18日「院にて議定あり」

8月18日 終日雨降り、
「院にて議定あり」
今日議定の趣、追ってこれを尋ね記録しよう。定めて異議無きか。近代の作法のみ。
「立王の事」
静賢法印が人を以て伝え云う、立王の事、義仲猶不満を申すようだ。この事、先ず始め高倉院の両宮を以て占われるの処、官(神祇官)・寮(陰陽寮)共に兄宮を以て吉と為すの由これを占い申した。
「法皇女房丹波の夢想により高倉院の四宮を立てられんとす」
その後、女房の丹波(御愛物遊君、今は六条殿と号す)の夢想に云う、弟宮(尊成親王、四宮、信隆卿の外孫なり)、行幸有り。松の枝を持ち給わるの由を見た。法皇に申し上げた。依ってうらないにそむき、四宮を立て奉るべき様思案したようだ。然る間、義仲は北陸宮を推挙した。依って入道関白(藤原基房)、摂政(藤原基通)、左大臣(藤原経宗)、私と四人、召しに応じ、三人参入し、私は病気に依り参らず。かの三人は各申されて云はく、北陸宮は一切不適切である。但し、武士の申す所、恐れあり。よって御占い行われ、かの趣に従われるべし。
「再度占いを行われる」
松殿(藤原基房)は一向に占いに及ばず。御詳細を義仲に仰せられるべしと。私はただ法皇の決定を奉る由申した。依って折中し御占い行わるるところ、今度は第一は四宮(夢想の事に依る也)、第二は三宮(後高倉)、第三は北陸宮。官・寮とも第一が最吉の由を申した。第二は半吉、第三は終始快からず。占形を以て義仲に遣わすの処、申し云う、先ず北陸宮を以て第一に立てられるべきのところ、第三に立てられる。謂われ無し。凡そ今度の大功、かの北陸宮の御力である。どうして黙止するのか。猶郎従等に申し合せ、あれこれを申すべきの由申したようだ。凡そ勿論の事か。左右する能わず。凡そ初度の占い、この度の占いと、一二の条を替え立てられる。甚だ秘事有るか。占いは再三せず。しかるにこの立王の沙汰の間、数度お占い有り。神定めて、霊告無きか。小人のまつりごと、万事一決せず。悲しむべしの世なり。
「摂政基通法皇に鐘愛せられる事の子細」
又聞く、摂政(藤原基通)は法皇に愛される事、昨今の事ならず。御逃去以前、先づ56日内密に参り、女房の冷泉局を以て媒介と為したようだ。去る7月御八講の頃より、御色気有り。7月20日比、御本意を遂げられ、去る14日参入の次、又色言御戯れ等有るようだ。事の態、御志浅からずのようだ。君臣合体の儀、これを以て至極と為すべきか。古来、かくの如き事例は無し。末代の事、皆以て珍事である。奇怪な事件である。密告の思いを報ぜらる。其の実ただ、愛念より起こるようだ。
「良通夢想」
今朝、大将(良通)が書き付けを送りて云う、去る夜の夢想、春日大明神が告げ仰せ云う、不審に申す事(私の運の事、日来の間、中心これを疑ひ、その告げを乞うと)、更に疑い有るべからず。たちまち夢中にこれを思い、信状極まり無しと。幼少(良通は17才)の心底この事を思う。尤も憐れむべし、憐れむべし。此の夢又信ずべし、信ずべし。

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2006年9月 1日 (金)

8月16日「受領除目・解官行わる」

8月16日
「受領除目・解官行わる」
(左少弁藤原)長光入道が来た。古事等を談じた。今夕受領の除目が有り。院の殿上に於いてこれを実行した。上卿(儀式の指揮者)は民部卿(藤原成範)、参議右大弁(平)親宗がこれを書く(清書の儀無しと)。外記を呼びこれを下した。又解官等有りと。任人の様子は、殆ど乱心と謂うべし。悲しむべし悲しむべし。
(注釈)
受領(じゅりょう)・・・ずりょう、諸国の長官。守(かみ)、権守(ごんのかみ)、介(すけ)など。
除目(じもく)・・・(任官の人名を記した目録の意)任官の儀式。
解官(げかん)・・・官職を免ずること。免官。

8月17日
 16時頃、頭弁(藤原)兼光が書き付けを送り云う、明日院に参るべし。三種の神器等、諸道の上申書の間の事、並びに雑事等、あらかじめ協議されるべきであるといえり。病気と称し参らず。今日法印(慈円)が来た。ある人云う、入道関白(基房)が院に申し上げて云う、東宮傳(とうぐうふ)を経験した人は、摂政に任ぜずと。この事信受せられざる処、両人の説を以てこれを聞く。奇(あや)しむべし、奇しむべし(不思議に思う)。
(注釈)
東宮傳(とうぐうふ)・・・東宮(皇太子の宮殿)の輔導をつかさどった官。
(兼実は東宮傳の経験があるので、基房は兼実が摂政になるのを阻止しようとしたのか)

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