« 「愚管抄」(現代文) | トップページ | 8月2日「法皇摂政基通を艶す」 »

2006年8月23日 (水)

「解説」

「解説」
 このように「玉葉」「吉記」「愚管抄」より、義仲軍が入京前に京都市内は僧兵や一般市民などの略奪や放火などで大混乱の状況であり、その鎮圧を義仲軍に期待したのである。つい最近イラクのバグダッドに米軍が進攻し、フセイン軍が退却し無警察状態のとき一般市民が略奪に走ったのと同様の状況である。
 平家物語にはそのような混乱の記述は無く、平家軍は平家の屋敷のみ焼き払い何の混乱も無く退却し、義仲軍入京後に略奪混乱が始まったように記述している。慈円の愚管抄によれば、義仲軍入京後は「かくて、ひしめきてありけるに」と記述し、義仲軍が「ものとり」したとか「ついぶく(略奪)」したなどの記述は無い。義仲軍入京前の僧兵や一般市民などのついぶく(略奪)や放火などのほうがひどかった事を示すものである。このように平家物語の記述と愚管抄の記述は全く逆の状況である。どちらが信用出来るか。平家物語の原作も案外事実を記述していたかもしれない。平家物語は一般市民などのへの語り物として広まった。一般市民などの前で一般市民などの略奪や放火などの悪事は語る事は出来ない。当然この場面は削除されるだろう。その他権力者の朝廷や頼朝の不都合な場面も削除されるだろう。義仲は頼朝に反抗して亡んだ。悪事を捏造して語っても大丈夫だろう。後日、文章化されたとき義仲軍の捏造された場面のみが強調された。
 「愚管抄」は後年、戦乱が落ち着いた頃、慈円が冷静に記述したものである。「玉葉」にも源氏軍の乱暴の記述がある。しかしこれも兼実が病床にいて、ある人の大袈裟な報告を事実を確認出来ないまま記述したに過ぎない。「愚管抄」の著者の慈円は「玉葉」の著者の兼実の弟である。平家物語を聞き玉葉も読んだはずである。

|

« 「愚管抄」(現代文) | トップページ | 8月2日「法皇摂政基通を艶す」 »