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2006年8月10日 (木)

7月21日「追討使兼実家の傍を経て発向す」

7月20日 晴れ、
(丹波)知康法師を呼び出し、病の間の事を尋ねた。仏厳上人を頼み、文書の間の事を示した。

7月21日 晴れ、
「追討使兼実家の傍を経て発向す」
 12時頃、追討使が出発した。三位中将(平)資盛(重盛の子)が大将軍と為し、肥後守(平)貞能を引き連れ、多原方面へ向かう。私(兼実)の家の東小路(富小路)を経由した。家来などが密々に見物した。
「其の勢僅か千騎」「有名無実の風聞これをもつて察すべし」
その勢は1080騎のようだ。(確かに之を計数したようだ)、日頃、世間の推定では7、8千騎ないし一万騎のようだ。しかるにその軍勢の実在を見るに、わずか千騎である。有名無実の風聞、これをもつて察すべしである。
「法皇法住寺殿に臨幸」
今夜、法皇は法住寺殿においでになられた。事火急の時、おいでになるべしの故のようだ。
7月21日 [吉記]
 今日、新三位中将資盛卿と舎弟の備中の守師盛(重盛の子)、並びに筑前の守定俊等が家来を相従えた。資盛卿の家来が宣旨を首に懸けた。肥後の守(平)貞能を相伴い、12時頃に出発した。都廬三千余騎。法皇は密々に御見物有り。宇治路を経て江州に赴いた。資盛は水干小袴を着け、弓矢を帯びるようだ。

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