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2006年8月13日 (日)

7月25日「法皇御逐電」

7月25日 晴れ、
「法皇御逐電」
午前4時頃、ある人が知らせて来た。法皇がゆくえをくらまして逃げたようだ。これは日頃全員の願望であった。しかし今の状況では準備不足というべきだが、詳細は後で聞くことにしよう。午前6時頃、同じ情報を得た。依って女房等は少し山奥のお堂の近くへ避難させ、私(兼実)と弟の慈円法印は一緒にさらに他の僧侶達と共に、最勝金剛院の堂に向かい、仏前で待機した。この時、参議大納言の藤原定能卿が来た。「法皇の幽閉場所を探しだし、密かに隠していたのです」
「宗盛以下安徳天皇を奉じ淀に向かう」
 午前10時頃になり、平家軍将兵が安徳天皇を連れ、淀地方面へ向かったようだ。九州方面にたてこもる計略のようだ。前内大臣の平宗盛以下一人残らず。六波羅・西八条等の平家一族の家屋敷は、一所残らず、燃え尽きた。一時の間、煙炎は天に満ちた。昨日までは、官軍と称して、ほしいままに源氏等の追討をしようとした。今日は、朝廷に逆らい、天皇の辺地を指して逃げ去った。盛者と衰者の道理が、眼に耳に満ち満ちた。悲しい事だ。生死の煩悩の果報である。何人もこの難を免れようか。恐るべし恐るべし。慎みむべし慎みむべし。摂政の藤原基通は自からその災いを逃れ、雲林院(信範入道堂辺)方へ逃げ去ったようだ。

「法皇御登山」
ある人が報告した。法皇は比叡山に御登山した。他の人々は未だ参らず。暫し、秘蔵有りと。
「貞能比叡山に参ず」
平氏等皆落ちた後、貞能卿は比叡山へ参りました。くだんの卿に依頼し参入は如何の由を申しまた。16時頃、落ち武者等また帰京した。あえて信用せざるの処、この事一定である。貞能が一矢射つべし由を称するようだ。

「平家鎮西に赴くにあたり公卿を取り具さんとす」
或るいは又、天皇及び三種の神器等を伴い奉り、九州に向かおうとするに、しかるべき臣下が無くてはならない。よって然るべき公卿を取り伴おうとするためであるようだ。恐怖限り無しといえども、忽ちの計略に及ばず、天を仰ぎ、運に任せ、三宝を念じ奉るの処、
「帰京の武士等、この最勝金剛院をもって城郭を構えんとすの報に接し兼実等日野に向かう」
帰京の武士等は、この最勝金剛院をもって防御陣地を構えるべしの由、下人が来て告げた。よって人を派遣し見させた処、既に少々向かい来るようだ。同居すべきに非ず、追却すべきに非ず。よってあわてふためき女房を少々相伴ない(その残りを山奥の小堂に隠す)、日野辺り向かう処、
「木幡山」
源氏すでに木幡山に在るようだ。よって忽ち稲荷下社辺りに宿泊した。狼藉は多すぎて数えることも出来ない。しかれども社前に参り法文を唱え奉りました。自然の参詣は機縁と言うべきか。この辺りなお怖れあるようだ。よって明朝、日野に向かおうと欲した。今朝この事の前、法印(慈円)は白河房に帰られた。今の間、使者を送り伝えた。我が房に来るべし。今夜相伴い、比叡山に登山を欲すといえり、路次の怖れ有りてより、行き向かわず。寄宿の家の状態は、およそ下品の至り、未だかって無し。身に一過無く、今この如しの難に遇ふ。宿業悲しむべし。

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