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2006年8月

2006年8月31日 (木)

8月15日「門司関を閉じる」

8月15日 天気晴れ、
 夕方、(左少弁藤原)光長が来た。院宣を伝えて云う、
「法皇成勝寺に神祠を建立し崇徳天皇の霊を蕩しめんとす」
成勝寺の内に神のやしろを立てられるべき由思案する所である。その故は、ちかごろ以来、乱逆が連綿し、天下静かならず。かの怨みを抱いてたたりをする死霊(崇徳)により此の災難有る由、世間の思う所である。依ってその霊魂をはらい除く為、神のやしろを立て、影降を待つべき由、法皇のお考え一決する所である。その間の儀を協議し申し上げるべしといえり。申し云う、この事暗に協議し申し難し。例を外記に問われ、かんがへ申すに従い、其の沙汰有るべきかといえり。光長云う、左内両府(左大臣、内大臣)が問うべしと。この事は社(やしろ)か廟(びょう)か。八幡宮及び北野宮の例等に准ずれば、廟となすべきかと。
「門司関を閉じる」
 この次語り云う、平家の余勢は幾らも非ず、船百余艘、現在、備前国小島に在るようだ。九州は門司の関を閉じる。よって九州に通行する事は出来ない。南海・山陽両道を領有すべき由、計画すると雖も、定めて叶わざるかと。
「慈円二十五三昧念仏を修す」
夜に入り、御堂に向かう。法印(慈円)は弟子等を率い、二十五三昧念仏を修めせしめた(源信僧都この行を始めたようだ。最上の功徳なり。この法印、年来は日常住んでいるへやに於いてこれを修した。今月この辺に座せらる。よって御堂に参らしめ修された。私は結縁(けちえん)のため女房を率い聴聞する所である)。聴聞の為参る所である。夜明け後帰宅した。大将(良通)同じく参入した。私は扇を少々僧達に施さんと欲した(法印相加へ八口)。しかるに別の願いに依り、この如き事無き由、法印示された。よって翌日かれの房に送るなり。
(注釈)
廟(びょう)・・・祖先の霊を祭るところ。
結縁(けちえん)・・・仏道に入る縁を結ぶこと。

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2006年8月30日 (水)

8月14日「義仲以仁王の王子を推す」「王者の沙汰に至りては人臣の最にあらず」

8月13日

8月14日
夜に入り、大蔵卿(高階)泰経がお使いとなり来た(是より先、招集が有り、病に依りその由を申した。依って来る所である)。私は、すだれを隔ててこれに会見した。
「践祚の事につき法皇より諮問せらる」
泰経が云う、天皇の即位の事、高倉院の宮が2人、(一人は平義範の娘の子供で5歳(惟明親王)、一人は藤原信隆卿の娘の子供で4歳(守貞親王))の間で、思案する処、以っての外の大事が出現した。
「義仲以仁王の王子を推す」
義仲が今日申し云う、故三条の宮のご子息の宮が北陸に在り。義兵の勲功はかの宮のお力に在り。依って立王の事に於いて、異議有るべからざる由の所存であるようだ。依って重ねて俊尭(ぎょう)僧正を以て(義仲と親密たる故)、詳細を仰せられて云はく、我が朝庭の習い、君主の位の受け継ぎは武力を用いずを以て先と為す。高倉院の宮が両人おいでであり、其の王者の子孫を置きながら、強ちに孫王を求められる条、神のみこころは測り難し。この条猶不適切であるようだ。義仲重ねて申し云う、此の如き大事においては、源氏等が執着し申すに及ばずと雖も、大略の道理を思案するに、法皇が御隠居のおり、高倉院は権力を持った家来(清盛)を恐れて、政治を行う事は無きが如し。三条宮はこのうえない孝行に依り其身を亡した。どうして其の孝行を考慮し忘れないことがあろうか。猶この事其の気のふさぎを散じ難し。但し此の上の事は法皇の英断に在りといえり。此の事いかにと協議し申し上げるべしといえり。申し云う、他の朝議に於いては、事の許すか許さないかを顧みず、諮問ある毎に私の愚見を述べた。
「王者の沙汰に至りては人臣の最にあらず」
王者の英断に至りては、人臣(けらい)の最上のものに非ず。昔法皇の御字の始め、近衛上皇の死去の後、誰を以て主と為すべきやの由、鳥羽院は此の法性寺入道相国(藤原忠通、兼実の父)に問い仰せられた。たちまち奏するに我が君の御事を以てした。彼の言に従い即位はすでに終了した。かの時猶神の見張りを恐るるに依り、二度三度よしあしの判断を言わず、只王の英断を願い、王の質問が再三に及びし時、道理を以て申し上げた。朝庭の重臣、国家の元老、猶重事の軽からざるを恐れ、るる自から専らにする能わず。況や区々の末生、愚かな臣下、得て言上すべきではない。偏に法皇の英断に任せ、当然にお占いを行ふべき由、協議し申し上げるべしと雖も、其の条も猶恐れ有り。只法皇のお考えの欲する所を以て、天運の然らしむ由を存ぜしめおはしますべきかといえり。奏経は退出した。

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2006年8月29日 (火)

8月12日「行家勧賞の懸隔に忿怨す」「天下の体三国史の如し」

8月11日 雨下る、
先日進上した所の大神宮の剣箱等が、今日参着の日である。よって神斎、祓を修し遙拝した(衣冠)。
「昨日の勧賞の聞書を見る」
去る夜の聞書を見た。義仲は従五位下(じゅごいのげ)、左馬頭(さまのかみ)、越後守(えちごのかみ)、行家は従五位下、備後守(びんごのかみ)のようだ。

8月12日 雨降る、
「行家勧賞の懸隔に忿怨す」
伝聞、行家はてあつい賞に非ずと称し怒り恨むようだ。且つ是は義仲へ与えた賞と程度のはなはだしきの故である。門を閉じ辞退したようだ。
「平時忠の返礼が到来す」
一昨日夜、時忠卿の許に遣わされた文書の、返書が到来した。其の条に云う、京中が落ちついた後、三種の神器以下の宝物等お帰り有るべき事、前内府(宗盛)に仰せ下さるべきかと。事の態は頗るあざけりさえずるの気あるに似たり。又貞能の答申書に云う、能(よき)様に計ひ沙汰すべしと。
「平家備前の国小島にあり」
現在は備前国の小島に在り。船は百隻余のようだ。或る説に云う、九州の諸国に国司を任命したようだ。
「天下の体三国史の如し」
大略、天下の体制は、三国史のようだ。西に平氏、東に頼朝、中国すでに三種の神器無し。政道は偏に横暴と弱腰とである。甚だ、其のたのみ無きに似たるか。征伐は遅引し、院中の公卿諸人は、欠国及び荘園等にのみ関心を持ち、法皇も又此の欲に執着した。上下の境を合わせ、歓喜の他無し。天下の供え物が亡くなることを知らず、国家の傾いて危うい事を顧みず、あかごの如く、鳥やけだものの如し。悲しむべし、悲しむべし。今夜、方違えの為大将(良通)の宅に向かう。

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2006年8月28日 (月)

8月10日「源氏等の悪行止まらず」

8月10日 天気晴れ、
「院評定に参る」
昨日の招集に依り、16時頃、直衣(のうし)を着け院に参る。是より先、左大臣(藤原経宗)・内大臣(実定)は西対代南庇(ひ、ひさし)の座に在り。私は同じく其の座に加わる。昨日の集会の時、病気に依り参入不定の由を申した。よって私の参入以前に、大略議定したようだ。両府(左内)其の趣の概略を語る。各云う、兼光が評定の趣を奏聞のため御所に参上した。未だ帰り来たらずの間であるようだ。この間三人、語を交わした。兼光猶来たらず。よって左大臣(経宗)は蔵人を呼び、私が参入の由を兼光に連絡した。暫しありて、兼光が来た。左府に仰せて曰く、条々お聞きなされた。
「親王宣旨のあるべきかの事」
但し、親王宣旨の事、重ねて協議し申すべしということだ。左大臣は私に目配せられた。私は曰く、親王宣旨を下さるべき間の儀か。まさにかの宣旨が有るべきや否やの議か。兼光曰く、両条共に定め申しむべしということだ。私は云う、光仁天皇の例に任せ、親王宣旨無しと雖も、何事かこれ有らんや。且つ宣下の間、便宣無き上、宝亀の例最吉たりということだ。左内両府(左大臣・内大臣)之に賛同した。この事、私が参入以前に両府、親王の宣旨有るべき由を申されたようだ。しかるに今ここに其の儀を変更し、私の議に同じくされた。此の後、兼光条々の事を私に質問した。両府以前に申した事等である。
「皇居の事」 (中略)
「漏刻(ろうこく、水時計)の事」(中略)
「御倚子の事」(中略)
「時簡の事」(中略)
「伝国爾宣命宣下せらる場所の事」(中略)
「御装束を渡さるべきかの事」(中略)
「剣爾の事」(中略)
「若宮の渡御の議の事」(中略)
「除目の事」(中略)

「源氏等の悪行止まらず」
今日、参院の前に、大外記頼業が来た。世上の事を談じた。法皇のご指図が違背し混乱の上、源氏等の悪行止まらず。天下忽ち滅亡を欲した。悲しむべし悲しむべし。血の涙を拭い、真心をくだく。賢なるかな賢なるかな(おそれ多い)。

「除目延引され勧賞行わる」(中略)

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2006年8月27日 (日)

8月9日「先日二百余人解官せらる」「平時忠その中に入らず」

8月7日
「春日社の奉幣細剣を献ず」
今日春日社の奉幣(ほうへい)、又同社に細剣を一腰を献上した(紫檀(したん)地銀、二筋樋剣なり)。祓(はらう)ひを修し遙拝した。又自から心経千巻を読み、御社に法楽(ほうらく)した。又今日鏡箱二つを伊勢大神宮(内外社の料)に進上した。来たる11日参着すべきである。
(注釈)
奉幣(ほうへい)・・・神に幣帛(へいはく)をささげること。
幣帛(へいはく)・・・神に奉納する物の総称。
法楽(ほうらく)・・・神仏の手向けにするわざ。

8月8日
今日より祈り始めた。

8月9日
今日、百度の祓ひ(ひゃくどのはらい)を修した、
「先日二百余人解官せらる」
伝聞、去る6日に解官(げかん)が有り200余人のようだ。
「平時忠その中に入らず」
時忠郷その中に入らず。是は天皇のお帰り有るべき由申されるの故であるようだ。朝務の弱腰、是を以て察すべし。憐れむべし憐れむべし。
(注釈)
百度の祓ひ(ひゃくどのはらい)・・・神前で中臣(なかとみ)の祓詞(はらえことば)
を百度読むこと。

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2006年8月26日 (土)

8月6日「京中の物取り追捕逐日倍増」

8月6日
「京中の物取り追捕逐日倍増」、
 京中の物取りや追捕は、逐日に倍増した。天下すでに滅亡した。山掘(さんくつ)厳穴(がんけつ)、静かなるべきの所無し。三界(さんがい)無安の金言(きんげん)、誠なるかなこの言。
(注釈)
山掘(さんくつ)・・・山中のいわや。
厳穴(がんけつ)・・・岩のほらあな。
三界(さんがい)・・・衆生が活動する全世界。
金言(きんげん、こんげん)・・・古人の残した模範となる言葉。

「立王の事につき法皇より諮らる」
この日院に参り、定能卿を以て申し入れる。頭弁兼光を以て、仰せ下せられて云う、立王の事、思案し悩む所である。先ず、天皇のお帰りを待たれるべきや。まさに又且つ三種の神器無しと雖も、新天皇を立てるべきやの由、御占いが行われしの処、官・寮共に天皇を待たれるべき由を申した。しかも猶、この事思案する所に依り、重ねて官・寮に問われた。各数人(官2人、寮8人)の申し状は、彼是同じではない。但し吉凶半分である。此の上の事、何様沙汰有るべきや、協議し申すべしということである。申し云う、先ず次第の指図は、頗る以て非合理に依るか。先ず議定が有り。人々の意見が一決せず。ひとえに占いに訪ねるべき由、議奏の時、御占い有るべし。しかるに先立ちて以て御占い行わる。今又、かの趣に背かれるの条、太だ以てその謂われ無し。占いは再三せずと。しかるに度々に及ぶの条、また以てしかるべからず。しかして今に於いては、ひとえに占い用いられるべし。先ず重ねて良将吉神等の趣に随ひ、取捨選択有るべきか。但し、私の愚案の及ぶ所、立王の事を今まで遅らせなまけたのは、私の心は傾き思ふ所である。その故は、先ず、京都の狼藉、今に止まらない。是、天皇がおいでにならないのが原因である(是一つ)、次に当然に急ぎ征討されるべき処、平氏等が天皇及び三種の神器を具し奉り、すでに西海に赴く。天皇を立てず、征伐有り。議に於いて妨げ有り(是二つ)。

「継躰天皇剣爾なく践祚の例あり」
次に我が朝廷の習いでは、三種の神器を得ざる天皇の即位、かって例無し。しかるに継躰(けいたい)天皇臣下たり。迎えられし時、国史の文の如き、これを践祚(即位)と書く。甲申(こうしん)、天皇が樟葉宮に移る。辛卯(しんう)、三種の神器を得て即位したようだ。古来、譲位・即位の分別無しと雖も、今の文の如くば、即位以前すでに天皇と称し、又践祚と謂う。たちまち、皇居を移され、その後三種の神器を得て即位したようだ。しかればたちまち、準拠尤も合うべき由存する所である(是三つ)。
「天子の位一日も空しくすべからず」
凡そ天子の位は、一日も空しくすべきではない。政務が悉く乱れると。今まで遅延の条、万事違反混乱の源である。早速沙汰有るべし。異議有るべからずということだ。左大臣同じく参候したようだ。一所に非ず。兼光参上し、しばらくして帰り来たりて云う、申す所しかるべし。就中、征伐の為、天皇を立て奉るべき条、事の肝心である。よって早く立王の事有るべしということだ。私の案の、次第の沙汰、悉く以て違乱散々。凡そ左右する能わず、左右する能わず。未曾有の事なり。天下の滅亡、ただ此の時なり。悲しむべし、悲しむべし。

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2006年8月25日 (金)

8月3日「解官の事如何様に行われるべきか」

8月3日 天気陰。
伝聞、(蔵人藤原長正の説)、去る比、御所の板敷きの上に牛が昇り横たわる。数刻に及ぶ。長正之を見て追い下したようだ。又昼の御座の上に狐が糞をまり置いたようだ。
「解官の事如何様に行われるべきか」
今日、12時頃、頭弁(とうのべん)兼光、お使いとなり来て、云う。解官の事、法皇の勅(天子の命令)か、又は内々に仰せらるべきか、大外記両人に問うの処、
「両大外記申状」
頼業は申し云う、只宣(せん)奉勅(ほうちょく)に載すべし。法皇の字有るべからず。
師尚は申し云う、ただ内々外記に仰せられ、追って宣旨を成さるべしと。
申し云う、師尚の申し状が穏便だろう。猶、宣旨が有るならば、法皇の勅に載せるべきである。只、勅を奉るの条は感心出来ない。
この次に、京中や畿外の狼藉を止められるべき詳細を申し、条々の理を立て申さしめた。是和説なり。更に用いらるべき由存ぜず、ただ忠を存ずる為である。
(注釈)
解官(げかん)・・・官職を免ずること。免官。
大外記(だいげき)・・・太政官の役職。文書の作製などを担当。
宣(せん)・・・みことのり。
宣旨(せんじ)・・・天皇の命令を伝える公文書。
奉勅(ほうちょく)・・・天皇のことば(みことのり)を承ること。
畿内(きない)・・・大和・山城・河内・和泉・摂津の五畿。
畿外(きがい)・・・五畿以外。

8月4日
今日大原野社(大原野南春日町)に内々、御進物を献上した。又今日より7ケ日を限り仁王講(仁王経の会、護国安穏を祈る)を修した。今日神斎祓(みそぎを行う)を修した。

8月5日 天気晴れ、
弥勒講(みろくこう、弥勒菩薩に祈る)に依り御堂に参る。
「玄上出来す」
経家朝臣云う、玄上(びわの名器の名)が出で来た。検非違使の平知康の許の女がこれを持ち来るようだ。

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2006年8月24日 (木)

8月2日「法皇摂政基通を艶す」

8月1日 天気晴れ。
今日は八条院(法皇の妹、鳥羽天皇皇女)を以てに内々申し入れる事が有り。御返事があきらかになりました。

8月2日 天気晴れ。
伝聞、摂政(基通)は2ケ条の由緒が有り、動揺すべきではないようだ。
一は、去る月20日頃、前内府(宗盛)及び重衡等の密議に云う、法皇をお連れし奉り、西海に赴くべし。もし又、法皇宮に参住すべしと。此の如し評議決定を聞き、女房を以て(故藤原邦綱卿愛物、白川殿の女房(平盛子)冷泉院局)、法皇に密告し、此の功に報いらるようだ。
「法皇摂政基通を艶す」
一は、法皇は摂政を愛し、其の愛念により抽賞するようだ。秘事であり、希異の珍事であるといえども、子孫に知らしめるため記述して置く所である。
「藤原基房師家の摂政就任を泣いて所望す」
また聞く、入道関白(藤原基房)は病ひを帯ながら(瘧病、マラリア)、法皇の御所の北対に参宿し、前中納言(藤原)師家(生年12歳)を以て、摂政に任ぜられるべき由の願望を書きしるした。法皇の機嫌はこれを許さないようだ。
「源雅頼と世上の事を談ず」
今日、前中納言(源雅頼)が来た。世上の事を談じた。この次語り云う、去る6月1日、主上(安徳天皇)が南殿の南階より溜下(たまりした)に落下した。以っての外の怪異である。蔵人(くろうど)平親資が抱き奉り、陣(衛士)辺に上げた。上官の一二人が之を見た。深く以て、秘蔵するようだ。
(注釈)
摂政(せっしょう)・・・君主に代わって政務を行う。
抽賞・・・多くの者から引き抜いて賞する。
蔵人(くろうど)・・・蔵人所の職員
蔵人所(くろうどどころ)・・・天皇に近侍し、雑事を担当する役所。

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2006年8月23日 (水)

「解説」

「解説」
 このように「玉葉」「吉記」「愚管抄」より、義仲軍が入京前に京都市内は僧兵や一般市民などの略奪や放火などで大混乱の状況であり、その鎮圧を義仲軍に期待したのである。つい最近イラクのバグダッドに米軍が進攻し、フセイン軍が退却し無警察状態のとき一般市民が略奪に走ったのと同様の状況である。
 平家物語にはそのような混乱の記述は無く、平家軍は平家の屋敷のみ焼き払い何の混乱も無く退却し、義仲軍入京後に略奪混乱が始まったように記述している。慈円の愚管抄によれば、義仲軍入京後は「かくて、ひしめきてありけるに」と記述し、義仲軍が「ものとり」したとか「ついぶく(略奪)」したなどの記述は無い。義仲軍入京前の僧兵や一般市民などのついぶく(略奪)や放火などのほうがひどかった事を示すものである。このように平家物語の記述と愚管抄の記述は全く逆の状況である。どちらが信用出来るか。平家物語の原作も案外事実を記述していたかもしれない。平家物語は一般市民などのへの語り物として広まった。一般市民などの前で一般市民などの略奪や放火などの悪事は語る事は出来ない。当然この場面は削除されるだろう。その他権力者の朝廷や頼朝の不都合な場面も削除されるだろう。義仲は頼朝に反抗して亡んだ。悪事を捏造して語っても大丈夫だろう。後日、文章化されたとき義仲軍の捏造された場面のみが強調された。
 「愚管抄」は後年、戦乱が落ち着いた頃、慈円が冷静に記述したものである。「玉葉」にも源氏軍の乱暴の記述がある。しかしこれも兼実が病床にいて、ある人の大袈裟な報告を事実を確認出来ないまま記述したに過ぎない。「愚管抄」の著者の慈円は「玉葉」の著者の兼実の弟である。平家物語を聞き玉葉も読んだはずである。

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2006年8月22日 (火)

「愚管抄」(現代文)

「愚管抄」

(現代文)
北陸道の国々の方面では、皇太子御所の警備隊長を勤めた源義賢の子で、木曾義仲と云う若武者などもたちあがりました。

高倉王(以仁王)の御子(みこ)などと云う人も京から下り北陸道の国においででした。清盛は三条の以仁(もちひと)の宮をうちとり、いよいよ得意になっていましたが、東国に源氏が反旗をひるがえし、国の重大事になりましたので、小松内府(重盛)の嫡子で三位中将の維盛(これもり)を大将軍にして、追討の宣旨(天皇の命令)を下して頼朝を討つため、治承四年九月廿一日京より下りました。人々が注目しているうちに、駿河(静岡)の浮島原において合戦にもならずに、東国の武士を従えていたのだが、皆敵の方へ降参して行ってしまったので、帰り上るときは逃げまどう姿で京へ入りました。その後、平相国入道清盛は治承五年閏二月五日、熱病が重態で程なく亡くなりました。その後に後白河法皇に国の政治の実権は還り、内大臣の宗盛が平家を継いで指図をしていました。高倉上皇は先立つ正月十四日にお亡くなりでした。かくして日に日に、東国、北陸道はみな塞がって、このいくさに勝とうとする事の指図がありましたが、上も下も諸人の心はみな源氏側に付きました。次第に攻め寄せる知らせなど有ながら、入道亡くなって後、寿永二年七月までは三年程経ちました。先づ北陸道の源氏軍が進軍して近江国に満ちみちました。これより前に越前の方面へ平家軍を派遣しましたが、散々に追い返されて終わりました。となみ山(越中国砺波郡)の合戦です。
 そのうちに七月廿四日の夜、事は火急を要すると、六はらの平家の屋敷へ安徳天皇が行幸なされて、平家一家の者達も集合して、山科(やましな)方面の警護に大納言頼盛を派遣しようとしたが再三辞退しました。頼盛は、「治承三年冬のころ不評を聞いたので、ながく武芸は捨てると、故入道殿(清盛)に申しました。福原に遷都のころ申し上げました。今はこのような事には参加することはできません」と云いましたが、内大臣宗盛は聞きいれません。言いふせられて、無理矢理に山科へむかいました。
 このようにして今日か明日か義仲や東国の武田などと云う者も入るようになる状況になり、さらに京中において大合戦があるだろうと、おそれ震えあううちに、廿四日の夜半に法王はひそかに法住寺殿をいでて、京都の鞍馬山の方面より廻り横川(比叡山三塔の一、よかは)へのぼらせまして、近江の源氏の許にこの状況の使者を送りました。たゞ北面の武士で知康、鼓の兵衛と云う男は御輿かつぎなどして仕えていました。
 あけがたにこの事を怪しみいぶかりはじめて六はらは騒動となりました。朝7時頃から、約6時間をかけて、わけもなく天皇のお供をして、内大臣平宗盛以下平家一族そろって鳥羽の方面へ落ちてゆき、船に乗り四国の方面へむかいました。

六はらの平家の家屋敷には火を付けて、焼き払おうとしたので、京中の物とりと名乗る者達が現れて集まり、火の中へあらそいながら入りこみ、物とりをしました。

その中で頼盛が山科にいるにも知らせなかった。そうと聞いて先づ子の兵衛佐(ひょうえのすけ)為盛(ためもり)が使いとなり、鳥羽にて追いついて、「どうしますか」と聞きましたが、返事をも出来ず、心も失っているように見えるので、急いで帰るように云いましたら、やがて後を追って落ちてきたが、心中では京に留まろうと思った。又この中に三位中将資盛(すけもり)はそのころ後白河法皇の寵愛があり、御意向をうかがおうと思いました。
 この二人は鳥羽より引き返し法住寺殿に入り居たところ、又京都市内は騒動していますが、比叡山へ二人そろって事の由を申しましたので、頼盛には、「そのように聞いている。ひごろよりそのように思います。ひそかに八条院(後白河院の妹)の辺に来なさい」と御返事を承りました。もとより八条院の乳母の宰相と云う寛雅(くわんが)法印の妻は姑(しうとめ)ですから、女院の御後見であるので、そのように留まりました。資盛は申し入れる者も無く、さらに御返事も聞かなければ、再度落ち行き平家軍と一緒になりました。
 さて廿五日東塔(比叡山三塔の一)の円融房(円徳院の本房で円仁の弟子承雲が初祖)へ法皇がおいでになりましたが、天台座主の明雲は元は平氏の護持僧(その人のために常に祈祷する僧。明雲は安徳天皇の護持僧だった)ですから、留まるのは悪いと云いましたので、比叡山へはのぼりながら法皇の前には参りませんでした。
 さて京の人は多分摂政の近衛基通は必ず平家と共に落ちるだろうと思いましたのに、違いて留まり比叡山へ参りました。松殿入道(基房)も九条右大臣(兼実)も皆のぼりあつまりました。

その短期間、京都市内では、たがいに追捕(ついぶく、略奪)をして物もなくなりましたので、「残りなく平氏は落ちて行ました。恐れはあるまい」として、

廿六日の早朝、法皇は京に下りましたので、近江に待機していた武田軍が先づ入京しました。続いて又義仲軍は廿六日に入りました。六条堀川の八条院の母の尼の家を頂いて住んでいました。

(以下8月)

かくして、押しあってごたごたしているうちに、「いかにも安徳天皇は神璽(しんじ)・宝剣・内侍所(ないしどころ)の三種の神器を持ちまして西国の方面へ落ちてゆきました。この京に国主がいないのはどうしたものか」と云う次第の指図となりました。父の法皇がおられますので、西国王(にしのこくわう)・・・

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2006年8月21日 (月)

7月30日 [吉記]「追捕物取」

7月30日 [吉記]
「追捕物取」
 京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及んだ。また松尾社の神職等が防戦の間、神職等の家に放火した。梅宮社の神殿も追捕された。広隆寺の金堂も追捕され、度々合戦した。行願寺また追捕されたようだ。
「三種の神器」
成範卿が院宣を奉り、時忠卿の許に仰せ遣わした。また内々に貞能の許に仰せ遣わすの旨等が有るようだ。
「京中守護」
京中守護を義仲が院宣を奉りこれを支配した。
   源三位入道子息      大内裏(替川に至る)
   高田四郎重家・泉次郎重忠  一條北より、西朱雀西より、梅宮に至る。
   出羽判官光長       一條北より、東洞院西より、梅宮に至る。
   保田三郎義定       一條北より、東洞院東より、会坂に至る。
   村上太郎信国       五條北より、河原東より、近江境に至る。
   葦数太郎重隆       七條北より、五條南より、河原東より、近江境に至る。
   十郎蔵人行家       七條南より、河原東より、大和境に至る。
   山本兵衛尉義経      四條南より、九條北より、朱雀西より、丹波境に至る。
   甲斐入道成覺       二條南より、四條北より、朱雀西より、丹波境に至る。
   仁科次郎盛家       鳥羽四至内。
   義仲           九重(皇居)内、並びにこの外所々。
    以上を義仲が指図したようだ。
(注釈)
源三位入道子息・・・馬場源氏。頼政の孫。右衛門尉有綱
高田四郎重家・泉次郎重忠・・・尾張源氏。尾張の国の住人
葦数太郎重隆・・・尾張源氏。尾張の国の住人。佐渡の守。
出羽判官光長・・・美濃源氏。検非違使。(伯耆の守)
保田三郎義定・・・甲斐源氏。(遠江守)
村上太郎信国・・・信濃源氏村上系。右馬助  
山本兵衛尉義経・・・近江源氏、甲斐源氏。(伊賀の守、若狭の守)
甲斐入道成覺(義兼法師)・・・近江源氏、       
仁科次郎盛家・・・信濃領主、平姓。左衛門尉

いずれも国守級の軍事貴族。       

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2006年8月20日 (日)

7月30日 続き2「勧賞行なわれるならば除目の議如何すべきか」

7月30日 続き2
「勧賞行なわれるならば除目の議如何すべきか」
 この間、私は左府(左大臣の藤原経宗)に質問した。もし勧賞者に行なわれるなら、除目の議いかん。左府曰く、この事難題である。一昨日議定の時、問われると雖も除目は有るべきや否や、その間の議に於いては、未だその沙汰に及ばず。ただしおもわくは、院の殿上に於いて、下名を行われるべしということだ。春秋の除目のように、官の外記の庁に於いて下さるべし。私は曰く、庁において下名を下さるべくば、ただ陣(公卿が列座)において除目を行われるべきだろう。およそ宣旨(天皇の命を伝える公文書)・官符(太政官符)を以て施行される事等、皆庁の御下文(くだしぶみ)に改められた。それたちまち法皇の御指図である。宣旨を成し、官府を請印する条、しかるべからざる故なり。何ぞ下名に至り其儀破るべきや。すべて院の殿上の除目、甚だ感心せず。左府云う、この事もとより世にまれな権儀である。然れども他の計略が無きに依りこの儀がある。私は云う、勧賞に於いては、ただ内々にその人に仰せ、新天皇の即位の式の時、除目に戴せらるべきだろう。左府云う、諸国多く以って国司の欠員有り。併しながら口で述べるの条は穏便ではない。私は云う、他の任人に於いては暫く相待つべきだろう。長方卿云う、そもそも天皇のお帰りを相待つ条、もっとも以て不定である。立王の事、何時を以て期すべきなのか。私は云う、事の肝心ただ是に在り。左府云う、勅問(天皇の質問)に就き評定すべきである。この条は尋問されなかった。進上し申し上げる条、便無かるべきか。このような協議の間、兼光帰り来たりて云う、勧賞、除目その儀いかん。宣しく協議し申しあげるべしということである。忠親卿云う、準拠の例を外記に問われるべきだろう。左府が善しと称した。たちまち兼光を以って之を問う。帰り来たりて申し云う、

「行幸賞の如く其人に仰せて後日除目に載せるが宜しかるべし」
頼業・師尚等申し云う、諸社の天皇等のおでかけ等の賞の如く、先ずその人に仰せられ、後日、除目に戴せられるのが宣しい。又嘉承に摂政の詔、先帝崩御(堀河天皇)、新主(鳥羽天皇)末だ御いでにならず、法皇の詔を以て、仗下(公卿が列座)に於いて下された。然れば、新儀を以て殿上に於いて行われた、また御定めに在るべし。但し、初の議は穏便か。且つ、是(源)時中参議を任ずるの例である。(円融院、太井川逍遙、舞いの賞に依り、参議に任ずる由を仰せられた。後日除目に載せられた。此の事は小野宮記に見える。かの記の意、上皇の宣を以て参議を任ぜらる条、甚だこれを難ず)人々皆此の議を以て是(ぜ)と為した。左府又こだわりを破り之に同じた、兼光が帰参した。たちまち帰り来たり云う、各議奏の趣、皆以てしかるべし。早くこの定めに行われるべしということである。今に於いては、各御退出在るべしということだ。私はたちまち退出した。
「摂政下京」
摂政(基通)今日京に下るようだ。数日山上に在り。人々は奇異と感じたようだ。
「慈円来る」
今日法印(慈円)が来られた。ふだんの如く西家に居住した。今日より僧一人吉田社に籠もり、七日の間、仁王講を修業するようだ。又進物を奉る。
(注釈)
除目(じもく)・・・国司等の任官の儀。
請印 (しょういん)・・・ 文書発給に際して内印(天皇印)もしくは外印(太政官印)を押捺すること。

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2006年8月19日 (土)

7月30日 続き1「京中の狼藉及び兵糧用途如何すべきか」

7月30日 続き1

「京中の狼藉及び兵糧用途如何すべきか」
1.法皇のお言葉は云う、京中の狼藉は、将兵の巨万の致す処である。各その軍勢を減ずべき由、ご命令下される処、不慮の難の怖れる処無きに非ず。これを為すいかん。兼ねてまたたとえ人数を減ぜらると雖も、兵糧が無ければ、狼藉は絶ゆるべからず。その用途は又いかん。同じく協議し申し上げるべしということである。人々申し云う、今においては徒党の怖れ、定めて群を成すに及ばないだろう。将兵の人数を減ぜられるは最もよいはかりごとというべし。兵糧の事は、頗る異議有り。(大納言、藤)忠親・(中納言、藤)長方等は云う、各1ケ国を与え、その用途に宛てるべし。私は反論して曰く、勧賞は任国の外、更に、国を与えるの条いかん。両人云う、その用途が終わるとき他人に任ぜられる、何の難が有ろうか。私は曰く、道理はしかるべし、ただ、彼ら定めて没収の恨みを持つだろう。ただ没収した土地など中より、然るべき所を撰び、宛て与えるべきだろう。しからずば、また1ケ国を以て両人に分ち与えるべきだろう。但しこの条、頗る争いの基に成るだろう。猶、没収した土地を与えるのが宜しかるべし。左大臣云う、両方の議各しかるべし。法皇の決定に在るべし、(頗る私の議案に賛同されるようだ)

「関東・北陸の神社領等に使いを遣わし沙汰致すべきか」
1.法皇のお言葉に曰く、神社仏寺及び諸人の所領は、関東・北陸に多く在り。今に於いては、各その使いを遣わし、指図を致すべき由、本所(本家)に命令するべきか。一同申して云う、異議あるべからず。早く命令されるべしということだ。兼光は人々の申し条を聞き、御所へ参上した。その後数刻を経た。

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2006年8月18日 (金)

7月30日 「頼朝・義仲・行家への勧賞を如何に行わるべきか」

7月30日 天気晴れ、
「院にて大事議定す」
 朝早く、(大蔵卿、高階)奏経卿が書を、(和泉の守、源)季長朝臣の許に送りて曰く、今日院に於いて、重要案件を議定されます。10時頃、私も参加すべしということである。11時30分頃に冠直衣を着け、蓮華王院に参上した。これより先に左大臣(藤原経宗)、大納言(藤)実房、(藤)忠親、中納言(藤)長方等、御堂の南廊東面座(風吹くにより簾を垂れる)に在り。私も同じくかの座頭に加わる。弁兼光朝臣が法皇のお言葉を奉り来た。左大臣(藤原経宗)が法皇のお言葉を言う、条々の事、協議し申すべしということである(その事三箇条、左に載せる)。
「頼朝・義仲・行家への勧賞を如何に行わるべきか」
1.法皇のお言葉に言う、今度の義兵、考え企画は頼朝に在りと雖も、ただいまの成功の事は義仲・行家である。かつ賞を行おうとすれば、頼朝の不満は測り難い。彼の上京を待とうとすれば、また両人への賞の遅きを愁うだろう。両箇の間、法皇の考えは決し難い。兼ねてまた三人の勧賞等に差が有るべきか。その間の詳細を、協議し申すべしということである。
「頼朝参洛待たず三人同時に行わるべし」
 人々申して言う、頼朝が入京の期を待たるべからず。彼の賞を加へ、三人同時に行はるべし。頼朝の賞、もしふだんの心に背かば、申請に従い改易する、何の難があろうか。その等級においては、かつは勲功の優劣により、かつは本官(正式の官職)の高下に随い、協議し行なわれるべきだろう。総じてこれを論ずれば、第一は頼朝、第二は義仲、第三は行家である。
頼朝 (京官、任国、加級、左大臣は言う、京官は入京の時、任ずべし。私は言う、しかるべからず。    同時に任ずべし、中納言(藤)長方が賛同した)、
義仲    (任国、叙爵)
行家    (任国、叙爵、但し国の優劣を以てこれを任ず。上下差別すべしと。実房卿言う、義仲従上、行家従下が宜しいだろう)
(注釈)
勧賞(けんじょう)・・・功労を賞して官位を授け、または物を賜ること。
京官(きょうかん)・・・京都に勤務する官吏。
任国(にんごく)・・・国司として任命された国。
叙爵(じょしゃく)・・・初めて従五位下に叙せられること。

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2006年8月17日 (木)

7月29日 [吉記]「平家等すでに播磨に至る」

7月29日 天気晴れ、
「法皇の院庁へ参上」
 16時頃、大将(九条良通、兼実長男)を相伴い、法皇の院庁へ参上した。(右衛門権佐、藤原)定長を以て申し入れた。帰り来たりて暫し待機すべき由を示した。数刻の後、(参議大納言、藤原)定能卿が来たりて言う、御念誦を始められた。早く退出すべしと。よって退出した。
「九条亭に帰る」
直ちに九条亭に帰宅した。これより先に女房等は帰宅した。

7月29日 [吉記]「平家等すでに播磨に至る」
 降将の平家等すでに播磨(兵庫県南西部)に至るの由が風聞した。上総の介忠清・検非違使貞頼等は出家した。忠清は能盛の許に在り。貞頼は兼毫法印の許に在るようだ。然るべき武士等は多く付かざるの由、その聞こえ有り。今夜、祇園中路五條坊門以南が焼失した。六波羅密寺も同じく以て焼失した。また一日焼け残る所の故正盛朝臣(常光院)も焼失したようだ。

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2006年8月16日 (水)

7月28日「義仲・行家入京す」

7月28日 天気晴れ、
「義仲・行家入京す」
 今日、義仲・行家等、南北より(義仲は北、行家は南)入京したようだ。夕方に左少弁光長が来て語る、義仲、行家等を蓮華王院(三十三間堂の寺号)御所に召し、追討の事仰せ下された。大理(藤原実家)が殿上の縁にてこれを命じた。かの両人は地にひざまづき承る。御所であるためである。
「かの両人権を争うの意趣あり」
参入の間、かの両人相並び、敢えて前後せず。争権の意趣これを以て知るべし。両人退出の間、頭弁兼光が京中の狼藉を停止すべき由を命じたようだ。今朝、定能卿が来た。法印(慈円)は昨日下京した。

7月28日 [吉記]
「義仲行家御前に召し、前内大臣追討すべし由仰せ下さる」
 武将二人、木曽の冠者義仲(年三十余、故義方の男子、錦の直垂を着し、黒革威のよろい、石打の矢を負い、折烏帽子。小舎人童取染の直垂、劔(つるぎ)を帯し、また替矢を負い、油単を履く)・ 十郎蔵人行家(年四十余、故為義の末子、紺の直垂を着し、宇須部の矢を負い、黒糸威のよろいを着し、立烏帽子。小舎人童上髪、替矢を負う。両人の家来は相並び七八輩分別せず)参上した。行家先ず門外より参入して云く、御前に召されし両人は相並び同時に参るべきか。然るべきの由仰せられたようだ。次いで南門に入り相並び(行家左に立つ、義仲右に立つ)参上した。大夫の尉知康がこれを補助した。各々御所東庭に参進し、階隠間に当たり蹲踞した。院庁の長官が公卿の座北簀子(すのこ)の下に配置し、切石のある階下の前に進むべきの由これを仰せられた。然れども両将進まず、西面に蹲踞した。大理(藤原実家)が命じて云く、前の内大臣(平宗盛)の徒党を追討し進上すべきである。両人は唯(はい)と称し退出した。忽ちこの両人の様態を見るに、夢か夢に非ざるか、万人の注目、筆のはこびの及ぶ所に非ず。頭の弁が下知し相対し、仰せ含めの旨有り。
(注釈)
直垂(ひたたれ)・・・正面のえりの左と右がわとを垂らし引き違えて合わせる。
威(おどし)・・・よろいのさね(小板)を糸などでつづること。
石打(いしうち)・・・鷲の尾の両端の羽を矢羽として使用する。
折烏帽子(おりえぼし)・・・頂を折り伏せた烏帽子(黒い袋形のかぶりもの)。
童(わらわ)・・・髪を束ねない。
取染(とりぞめ)・・・所々に細い横筋が出るように染めたもの。
油単(ゆたん)・・・ひとえの布・髪などに油をひいたもの。
立烏帽子(たてえぼし)・・・中央部の立った烏帽子。
蹲踞(そんきょ)・・・両膝を折り、うずくまり頭を垂れる敬礼。

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2006年8月15日 (火)

7月27日「義仲行家を狼藉を停止させるため、早く入京すべき」

7月27日 天気晴れ、
中風が発生のため、今朝は御所に参る事が出来ない。
「平宗盛以下追討の事につき法皇より諮られる」
(参議大納言、藤原)定能卿が来た。また(右衛門権佐、藤原)定長がお使いとして来た。曰く、前内大臣(平宗盛)以下追討の事、内々にお言葉は下さるといえども、なお証文を、給わるべし。しこうして宣旨か庁の御下文か如何、私は云う、天皇はすでに賊の平家軍に伴う、宣旨の条はすでに文書偽造となる。法皇の御下文がよろしい。定長また云う、もし法皇の詔書となすべしか、私は云う、この事大事たりといえども、摂政の詔(みことのり)を下さるに似ざるか、ただ法皇の御下文がよろしい。
 私は問いて云う、三種の神器の指図は如何に、定長曰く、天皇・三種の神器は共にお帰り有るべしの由、定長御が文書に書いて、主典代の大江景宗が相伴い、平大納言時忠のもとに遣わすべし。私は曰く、この事甚だ弱腰の指図である。たとえ御文書を遣わすといえども、御使に於いては止められるべし、召し使い両三人の如きを、差し遣わすべしである。凡そ此の三種の神器のこと、別の奇策を以てかの縁辺の人を尋ね、誘惑されるべきである。事ひそかに有るといえども、安穏に出来ること、甚だ有り難き故である。
「義仲行家を狼藉を停止させるため、早く入京すべき」
 私はまた言う、今においては、義仲(木曽)、行家(十郎)等を士卒の狼藉を停止させるため、早く入京すべきである。その後早く速やかにお帰りあるべきである。そうでなければ、京都の乱暴乱雑はあえて止める事が出来ない。これらの趣を早く申し上げるべし、定長は帰りました。
「法皇京都に還御」
 14時頃、定能が告げて曰く、連々、日どり無しのため、今日俄にお帰りがありました(明日は復日、明後日は御衰日、晦日に至るの条、甚だ怠慢の故なり)。以て、ただちに法皇お出かけしました。
「兼実下山法性寺に宿す」
 私は法皇がお出かけの後同じく山を出発した。20時頃、法性寺に到着した。帰忌日のため僧の宿舎に宿泊した。法皇も同じく、帰忌日に依り、蓮華王院にお帰りのようだ。今度、中堂に参るべしの由、相存ずるの処、日どり宣しからざるの上、事はにわかの間、空しく以て下京した。所願成就の時、この残念を晴らすべき由、中心より祈願した。

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2006年8月14日 (月)

7月26日[吉記]「山僧等京に入る」

7月26日 晴れ、
「日野への路塞がるにより首途能わず」
 あけがた、日野に向かおうとすの間、その道は切り塞ぐにより、出立する事は出来ない。この間昨日帰京の武士等、成すこと無く、また逃げ去った。帰京の本意、未だその意図がわからない。武士の弱腰、所行の無礼、奇異の至り、例え取る物無し。
「法性寺に帰る」
 8時頃、法性寺に帰る、
「貞能より書札ありて比叡山に向かう」
 10時頃、(肥後守、平)貞能卿より書状を送り云う、御参上の事申し上げた。早く御参上有るべし。入道関白(藤原基房)も同じく参入される所であるようだ。早速出立し、14時頃に登山した。(鳥帽直衣(えぼしのうし))、前駆(さきがけ)・共人相並びに8人、各騎が馬車の前に在り、(藤原季経、藤原経家と坂下で参会)、侍45人、17時頃に西坂下に就く(九条より牛3頭なり)。手こし遅延の間、しばし経るほどに、18時頃に、こしとこしかき等が到来した(無動寺法印慈円の指図である)。即ちこしに乗り、西坂を登る。共人は皆悉く歩行した(坂口56町なお騎馬)。前駆等はこしの前を歩む。
「源雅頼に出逢う」
 路頭において、源(雅頼)納言に逢う(その子息の源の兼忠を相伴う)。こしを据えおき、共人を退け、会談した。納言は言う、三種の神器は賊臣の平家軍が悉く盗み奉り取った。左右無く平氏追討すべしの由、仰せ下さるの条、甚だ不便である。先ず、三種の神器の安全の沙汰有るべし。よってこのむねを申し上げ、許可有り。(右大弁、平)親宗を以て、御手紙を多田蔵人大夫行綱の許へを遣わした。この事猶、おおまかな沙汰なり。よって内内に女院(建礼門院)もしくは時忠卿(件の卿は平家軍と伴なうと)の許に仰せ遣わさるべきの由、重ねて以て申し上げた。しかるべし由仰せ有るようだ。即ち過ぎたり。
「慈円の青蓮院の房に着す」
 20時頃に東塔の南谷青蓮院に到着した。是より先、院主は法印(慈円)が任命された。無動寺よりただ今到着したようだ。件の房、伝嶺の後未だ到着せず。今日は吉日の為により、即ち移徒を用いるの由談ずる所である。
「法皇の御所に参る」
 私は暫し、休息の後、法皇の御所に参上した(円融房、是座主の房である)。路の間前駆等は松明を取り前を行く。その程45町ばかりである。私は鳥帽子、直衣、手こしに乗る、(参議大納言、藤原)定能卿を以て見参に入る。お呼びに依りて御前に参り、暫し慎みてひかえて粗く思う所を申し上げた。三種の神器と源氏入京の間の事である。ただ和をそしるの怖れ有りと雖も、なんぞこれ忠在りによる、納得か否かに於いては法皇のお考えに在り。法皇曰く、西海方面に連行さるべしを聞くにより、密行する所であるようだ。
「神爾紛失の事及び以仁王の事を法皇に問う」
 私は両条の不審を問い申し上げた。一は三種の神器紛失の事、(去る治承4年の日、盗み取られの由その聞こえ有り)、一は三条の宮(以仁王)が生存か否の事、仰せに曰く、両事共に真偽を知らず、但し、風聞の旨、共に以て実に非ずか(三種の神器は失せず、以仁王は生存ぜざる由なり)、しばらくしてから退出した。

7月26日[吉記]「山僧等京に入る」
 比叡山延暦寺の僧兵達などが、京都市内に入ってきた。道路付近の乱暴乱雑な状態は多すぎて数え切れないほどだ。平家の武将のゆかりの家だとして火を付けたり、追捕だとして略奪した。人の住む家で完全な所は無くなった。眼前に天下の滅亡を見る思いだ。悲しい事だ。幸いにも私の家はこの災難を免れた。まさに仏様神様のお助けである。

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2006年8月13日 (日)

7月25日「法皇御逐電」

7月25日 晴れ、
「法皇御逐電」
午前4時頃、ある人が知らせて来た。法皇がゆくえをくらまして逃げたようだ。これは日頃全員の願望であった。しかし今の状況では準備不足というべきだが、詳細は後で聞くことにしよう。午前6時頃、同じ情報を得た。依って女房等は少し山奥のお堂の近くへ避難させ、私(兼実)と弟の慈円法印は一緒にさらに他の僧侶達と共に、最勝金剛院の堂に向かい、仏前で待機した。この時、参議大納言の藤原定能卿が来た。「法皇の幽閉場所を探しだし、密かに隠していたのです」
「宗盛以下安徳天皇を奉じ淀に向かう」
 午前10時頃になり、平家軍将兵が安徳天皇を連れ、淀地方面へ向かったようだ。九州方面にたてこもる計略のようだ。前内大臣の平宗盛以下一人残らず。六波羅・西八条等の平家一族の家屋敷は、一所残らず、燃え尽きた。一時の間、煙炎は天に満ちた。昨日までは、官軍と称して、ほしいままに源氏等の追討をしようとした。今日は、朝廷に逆らい、天皇の辺地を指して逃げ去った。盛者と衰者の道理が、眼に耳に満ち満ちた。悲しい事だ。生死の煩悩の果報である。何人もこの難を免れようか。恐るべし恐るべし。慎みむべし慎みむべし。摂政の藤原基通は自からその災いを逃れ、雲林院(信範入道堂辺)方へ逃げ去ったようだ。

「法皇御登山」
ある人が報告した。法皇は比叡山に御登山した。他の人々は未だ参らず。暫し、秘蔵有りと。
「貞能比叡山に参ず」
平氏等皆落ちた後、貞能卿は比叡山へ参りました。くだんの卿に依頼し参入は如何の由を申しまた。16時頃、落ち武者等また帰京した。あえて信用せざるの処、この事一定である。貞能が一矢射つべし由を称するようだ。

「平家鎮西に赴くにあたり公卿を取り具さんとす」
或るいは又、天皇及び三種の神器等を伴い奉り、九州に向かおうとするに、しかるべき臣下が無くてはならない。よって然るべき公卿を取り伴おうとするためであるようだ。恐怖限り無しといえども、忽ちの計略に及ばず、天を仰ぎ、運に任せ、三宝を念じ奉るの処、
「帰京の武士等、この最勝金剛院をもって城郭を構えんとすの報に接し兼実等日野に向かう」
帰京の武士等は、この最勝金剛院をもって防御陣地を構えるべしの由、下人が来て告げた。よって人を派遣し見させた処、既に少々向かい来るようだ。同居すべきに非ず、追却すべきに非ず。よってあわてふためき女房を少々相伴ない(その残りを山奥の小堂に隠す)、日野辺り向かう処、
「木幡山」
源氏すでに木幡山に在るようだ。よって忽ち稲荷下社辺りに宿泊した。狼藉は多すぎて数えることも出来ない。しかれども社前に参り法文を唱え奉りました。自然の参詣は機縁と言うべきか。この辺りなお怖れあるようだ。よって明朝、日野に向かおうと欲した。今朝この事の前、法印(慈円)は白河房に帰られた。今の間、使者を送り伝えた。我が房に来るべし。今夜相伴い、比叡山に登山を欲すといえり、路次の怖れ有りてより、行き向かわず。寄宿の家の状態は、およそ下品の至り、未だかって無し。身に一過無く、今この如しの難に遇ふ。宿業悲しむべし。

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2006年8月12日 (土)

7月23日[吉記]「明雲が下京」

7月23日
六波羅のあたり(平家方)、嘆息の外他事無しのようだ。
「法皇法住寺御所に渡御」
今朝、法皇は法住寺御所においでのようだ。世間が物騒のためのようだ。

7月23日[吉記]「明雲が下京」
 早朝、比叡山延暦寺の座主の明雲が下京した。直ちに法皇に参上した。風聞にいわく、僧兵等申し云う、反乱軍等すでに山上に居住した。合戦に及ぶといえり、天台仏法破滅しむに異議無しか。和平されるべしの由、仰せ下されるべしの旨、座主を以て法皇に申し上げたきようだ。

7月24日 晴れ、
「法皇法住寺御所に行幸」
この一両日江州の武士が比叡山に登る。今夜、夜打ち有るべきと風聞した。よって忽ち法住寺の御所においでになられた。殆ど夜明けの空に及ぶようだ。
「兼実等法性寺に避難」
此の辺りは恐れ有るにより、私と女房は相伴い法性寺家に避難した。

7月24日 [吉記]「行家は大和の国に着く」
 十郎蔵人行家は伊賀を超え、すでに大和の国の宮河原に着くの由、別当僧正が殿下に申された。資盛卿は貞能を相伴い帰参すべきの由、泰経を奉行として仰せ出されたようだ。追討を奉る者は、未だこの例を聞かず。而る間猶帰京せず。本これ宇治一坂辺に宿泊した。件の所より八幡南を廻り、河尻方に向かう。これは多田蔵人大夫(源)行綱の命令と称し、太田の太郎頼助が、或いは九州の兵粮米を押し取り、或いは乗船等を打ち破り、或いは河尻の人家を焼き払うようだ。この事を鎮める為、先ず行き向かうようだ。

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2006年8月11日 (金)

7月22日「行家大和国に入り宇多郡に住むという」

7月22日 朝間天陰、辰の刻(8時)以後晴れ、
 午前6時頃、報告あり。江州の武士等すでに入京し、六波羅あたりは物騒極まりなしのようだ。また聞く、入京は実説に非ず。
「比叡山の僧綱下京す」
 しかるに地元の武士等は比叡山に登り、講堂前に集会したようだ。ひごろ登山の僧綱等は併せ下京した。但し座主(明雲)一人下京しないようだ。無動寺の法印(慈円)同じく下京した。
「行家大和国に入り宇多郡に住むという」
 また聞く、十郎蔵人行家は大和国に入り、宇多郡に住し、吉野の僧兵等が味方したようだ。よって資盛、貞能等は江州に赴かず、行家の入京を相待つようだ。(平)貞能は昨夜宇治に泊まり、今朝多原の地に向かおうとするの間、この事有り。よって彼の前途を止め、この入京を相待つようだ。
「源行綱、平家に謀反、摂津・河内に横行」
 また聞く、多田蔵人大夫(源)行綱、従来は平家に従属した。近日、源氏に同意するの風聞あり。しこうして今朝より忽ちに謀反し、摂津河内両国に横行し、種々の悪行を張り行なう、河尻の船等を略奪したようだ。両国の人民は皆悉く味方したようだ。
「丹波追討使大江山まで引き退く」
また聞く、丹波の追討使、(平)忠度、その勢は敵対するに非ずの間、大江山まで引き帰したようだ。およそ一々のこと直事に非ざるか。今日、上皇の宮に、公卿が相参集し、議定の事有りのようだ。私も同じくその招集有りといえども、病気なので参上しなかった。今日、同宮においで有るべしの由、その議定が有りと雖も、縁起が悪いので延引し、明後日おいであるべしのようだ。

7月22日 [吉記]「知盛・重衡等は勢多に向かう」
 源氏等は東坂並びに(比叡山延暦寺の)東塔惣持院に上り、防御陣地を構え居住するようだ。12時頃、平中納言(知盛)・三位中将(重衡)等は勢多に向かう。共に甲冑を着け、両人の軍勢は二千騎に及ぶようだ。また夜に入り按察大納言(頼盛)が下向した。今夜、各々山科の辺に宿泊するようだ。

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2006年8月10日 (木)

7月21日「追討使兼実家の傍を経て発向す」

7月20日 晴れ、
(丹波)知康法師を呼び出し、病の間の事を尋ねた。仏厳上人を頼み、文書の間の事を示した。

7月21日 晴れ、
「追討使兼実家の傍を経て発向す」
 12時頃、追討使が出発した。三位中将(平)資盛(重盛の子)が大将軍と為し、肥後守(平)貞能を引き連れ、多原方面へ向かう。私(兼実)の家の東小路(富小路)を経由した。家来などが密々に見物した。
「其の勢僅か千騎」「有名無実の風聞これをもつて察すべし」
その勢は1080騎のようだ。(確かに之を計数したようだ)、日頃、世間の推定では7、8千騎ないし一万騎のようだ。しかるにその軍勢の実在を見るに、わずか千騎である。有名無実の風聞、これをもつて察すべしである。
「法皇法住寺殿に臨幸」
今夜、法皇は法住寺殿においでになられた。事火急の時、おいでになるべしの故のようだ。
7月21日 [吉記]
 今日、新三位中将資盛卿と舎弟の備中の守師盛(重盛の子)、並びに筑前の守定俊等が家来を相従えた。資盛卿の家来が宣旨を首に懸けた。肥後の守(平)貞能を相伴い、12時頃に出発した。都廬三千余騎。法皇は密々に御見物有り。宇治路を経て江州に赴いた。資盛は水干小袴を着け、弓矢を帯びるようだ。

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2006年8月 9日 (水)

7月17日「師景文書紛失」

7月17日 陰晴れ不定、
「師景文書紛失」
 右衛門権佐(藤原)定長が来た。呼び出しに依るものである。師景の文書が紛失の間の事を申した。節境中間と雖も後の恐れのためである。
「兼実不例により諮問に漏れるという」
定長は云う、法皇の御使いを江州へ遣わされる間の事、兼実に同じく問われるべき由の仰せが有りました。しかるに御病気に依り、具合が悪いの由と称し、(大蔵卿、高階)泰経は参らずのようだ。この事は理由が無い。屋敷に来たりて之を問う。病気に依るべからず、但し此の如しの事、偏にお尋ねに応じて意見を述べた。悦ぶべきである。

7月18日 雨下、
「泰山府君祭」
恒例の泰山府君の祭である。
(注釈)
泰山府君・・・中国山東省にある泰山の神。人の寿命・福禄をつかさどる。陰陽家や仏家で祭る。

7月19日 晴れ、
「師景文書の内天文書進上すべしとの勅報あり」
右衛門権佐(藤原)定長が来た。師景文書の間の事を仰す。先日、天子に申し上げるの勅報、師景の約束状に任せ、早く指図致すべし。天文書を撰び進上すべきである。その他の書籍は、お前の進退である。そもそも文書紛失の事、早く尋ね沙汰すべし、法皇より御指図は然るべからずといえり。

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2006年8月 8日 (火)

7月16日[吉記]十郎蔵人行家伊賀の国に入

7月14日 時々雨下、
「盆具を送る」
三所に盆具を浄光明院(故殿)、光明院(先妣(ひ、はは))(藤原仲光女)西御堂(故女院、皇嘉門院)へ送る。各礼拝は例の如し。

7月16日 晴れ、
「江州への院使いにつき左府・内府に諮られる」
静賢法印が来た。世上の事を談じた。法皇の御使いを江州へ遣わされるべきの間の事、左府(左大臣、藤原経宗)・内府(内大臣、実定)に問われた。各庁の御下文を遣わされるべき由を申されたようだ。

7月16日 天陰雨降らず [吉記]
 源氏十郎蔵人行家と称する者が、すでに伊賀の国に入(去る十四日と)り、家継法師(平田入道と号す、貞能の兄)と合戦した。また三河の冠者と号する源氏が大和の国に越え入るようだ。薩摩の守忠度朝臣が丹波の国に向かい出発した。百騎ばかりを引率したようだ。

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2006年8月 7日 (月)

7月9日 [吉記]「金峰山・多武峰等の衆すでに蜂起」

7月9日 晴れ、
「師景の文書目録を取り終える」
今日又使いを(外記大夫)師景の許へ遣わし、重ねて目録を取らせた。今日功を終へた。
今日大夫吏の(小槻)隆職が来た。簾前に召し世間の事を談じた。

7月9日 [吉記]「金峰山・多武峰等の衆すでに蜂起」
 金峰山・多武峰等の衆すでに蜂起した。頼政入道の仲間がその中に在るようだ。殿下より法皇に申された。また丹波(大部分は今の京都府)すでに興盛のようだ。

7月11日 晴れ、
大外記(清原)頼業が来た。簾前に呼ぶ。
「方違い」
此の夜秋節に違はん為、御堂の宿所に参り宿泊した。
(注釈)
方違へ:かたたがへ、陰陽道で、外出の際、天一神(なかがみ)、太白神などのいる方角を避け、行く方角がこれにあたると災いを受けると信じ、前夜別の方角の家(=方違へ所)に泊まり、そこから方角を変えて目的地へ行く。

7月12日 晴れ、10時頃、帰宅。

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2006年8月 6日 (日)

7月7日「節供」

7月6日 晴れ、
右衛門権佐(藤原)定長を招き、(中原)師景の文書の間の事を示す。定長云う、推問使の事は定能の談の如し。

7月7日 晴れ
「節供」
節供(七夕)、(陪膳は季長朝臣、分配は範季が辞退した。よって年預の光長が之を勤仕した)
「乞功奠(きっこうてん)」(巧(たくみ)になることを乞(こ)ひ祀る(まつる)
乞功奠等例の如し、仏厳上人が来た。
「外記大夫師景の文書目録を取る」
今日(外記大夫)師景の堂に使者等を遣わし、文書目録を取る(示す)。
「法勝寺御八講結願」
法勝寺の御(法華)八講の結願である。
(法勝寺は左京区岡崎にあった)

7月8日 晴れ、夜に入り雷鳴、
「最勝光院御(法華)八講に御幸有り」
最勝光院の御(法華)八講、初日、法皇の御幸が有るようだ。
(最勝光院は院御所法住寺殿にあった)

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2006年8月 5日 (土)

7月3日「賊徒入京の時期につき諸説あり」

7月3日 晴れ、
昨今物忌なり。
「八条院仁和寺に渡御」
今朝、八条院(鳥羽天皇皇女、法皇の妹)は仁和寺の御所においでになりました。
「賊徒入京の時期につき諸説あり」
或は云う、秋節以前に反乱軍は入京すべし。或は云う、関東の勢を待ち、九十月の日に入京すべしと。世間のかってきままの説、かれこれ知り難し、今日、デマに依り武士が騒動した。

7月4日 天晴れ、
「小除目」
去る夜、小除目(人事異動)有りと。内蔵頭(くらのかみ、内蔵寮の長官)平信基、左京(京職、きょうしき)権大夫(長官)藤光綱、従三位平資盛(重盛の次男、元蔵人頭)、蔵人頭藤兼光(左中弁)。
「僧事」
又僧の事有りと、権律師公胤(巳講)。

7月5日 晴れ、
「皇嘉門院月忌み」
病に依り女院(皇嘉門院、兼実の姉)の御月忌みに参らず。(参議大納言、藤原)定能卿が来て語り云う、推問使を遣わし和親すべしの儀有るようだ。然るに未だ一定しないようだ。

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2006年8月 4日 (金)

7月2日「義仲・行家四方より寄せんとす」

7月1日 晴れ、
「賊徒今日入洛すべしの由兼日風聞」
 反乱軍が今日入京すべしの由が連日風聞した。しかるにその事無し。伝聞によると(前筑前国司、平)貞能が会議で申し云う、追討使を派遣すべきではない、只勢多(瀬田、滋賀県大津市)辺りにおいて相待つべしとのようだ。今日、病気は殊に成す術無し。法皇は今日賀茂社に御参りし、お通夜有るべしのようだ。

7月2日 晴れ、
 10時頃、右大弁(平)親宗が法皇のお使いとなり来た。物忌みと雖も勅使であるので之を呼び入れ、重病なので簾(すだれ)で隔てて之に会見した。
「賊徒入洛の時院御所に行幸有るべきかにつき法皇より諮問せらる」
法皇のお仰せでは、反乱軍が入京すべき由が風聞した。その事もし事実ならば、法皇の御所に天皇がおいでになるべきか。しかるに内侍所(やたの鏡)は京外におはします事はいかにすべきか。兼ねて又、上皇の御所は定めて物騒のようだ。其の故は、平家の武士等が守護の為定めて御所辺りに待機している。しかして反乱軍が打ち入らば、たとひ君に於いて害心無きとも、守護の武士と雌雄を決するため、狼藉を致そうと云う。すでに戦場と為るべし。此の事はいかにすべきか。二つの事について計略し申し上げるべしといえり。
「兼実申し状」
私は申し上げた。反乱軍が京都に乱入の程の事、特別の事である。法皇・天皇が同居の事、なりように従うべきである。もし天皇がおいでになることが有らば、賢所(内侍所)は格別の儀、京外に候べからざる事、一切の遠慮有るべからず。是は通常の時の儀である。上皇の御所の狼藉の事、臨機応変に指図するべきである。連日の案は叶うべきではない。此の事は、はなはだ重要である、短慮は及び難きかといえり。親宗云う、左大臣(藤原経宗)に同じく此の問い有り。他人に及ばず。かの左大臣が申し云う、内侍所(やたの鏡)は役人を付き従え、温明殿(うんめいでん、神鏡を安置する殿舎)に有るべきか。反乱軍は内侍所を取り奉るべからずの故なりと。
「左大臣の申し状に兼実甘心せず」
此の申し状にはいささかの考えが有りか。然るに私は感心しない。行幸有らば、剣爾(草薙の剣と八坂の曲玉)はつれそい奉られるべし。賢所(やたの鏡)許りが天皇を離れ奉ると雖もなすべき方法が無い故である。今日午後天気陰る。16時頃、中御門大納言(藤原宗家)・前源中納言(雅頼)・左大弁(源経房)等病気見舞いの為に来た。各々之には会見せず。人を介して感謝を遣わした。重病の上、物忌みの為である。
「鳥羽天皇国忌」
今日、鳥羽院の御国忌に依り、法皇(今旦賀茂より直に鳥羽へ幸するなり)、及び八条院(法皇の妹)は鳥羽においでである。
「義仲・行家四方より寄せんとす」
伝聞、源頼朝は忽ち出るべからず、只木曽冠者・十郎等が、寄せ手を四方に分け、寄せるべし由を議定したようだ。
「僧事」
去る夜、僧の人事異動が有り。法印澄憲(前権大僧都)、権大僧都覚憲(山階寺権別当)、法勝寺の御八講の証誠共に為したようだ。

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2006年8月 3日 (木)

6月21日 [吉記]「賊徒の事に依って、山稜使を立てらる」

6月21日 去夜より雨降り [吉記]
「賊徒の事に依って、山稜使を立てらる」
 関東・北陸の反乱軍の事に依って、山稜使を立てられた。指揮する公卿は平大納言(時)、実務担当は右少弁兼忠。柏原(桓武)、新中納言(頼實)。圓宗寺(後三條院)、源宰相中将(通親)。成菩提院(白川院)・安楽寿院(鳥羽院)、藤三位(雅長)。清閑寺(高倉院)、右中弁(親宗)等である。先ず日時使等を定められた。
(注釈)
山陵使(さんりょうし)・・・山陵(みささぎ、天皇などの墓所)に告げる使い。

6月29日 日中降雨 [吉記]
「洛中上下騒動」
 世間の口やかましいさま驚かず。京中の上下人が東走西馳した。馬に負い車に積み雑物を運ぶ。叡山の静巖已講(いこう)が只今下京し文書を送りて云く、日来江州に入る源氏は末々の者である。木曽の冠者はすでに入りたり。但し叡山の僧兵は相議(武芸にすぐれた僧に於いては皆源氏に同じた。これ比叡山の根本中堂の僧兵等である。去る頃北陸道より帰山した)し、源平両氏は和平有るべきの由、僧綱・已講を以て奏聞しようと欲した。この事もし法皇の許可が無ければ、一山は源氏に同ずべしのようだ。その時もし猶入京のよし有るようだ。この条は尤も可であるようだ。
(注釈)
已講(いこう)・・・天台宗などの学階の一。

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2006年8月 2日 (水)

6月12日[吉記]「近江の国庄々の兵士を催さる」

6月12日 天霽(はれ) [吉記]
「近江の国庄々の兵士を催さる」
 風聞に云く、近江の国(滋賀県)の野・海・山を守護する為、当国の荘園の兵士を招集した。蔵人の次官の定長がこの実務を執行した。また北面(法皇の御所の北面で、警備の武士)に仕える武士は、強弱を論ぜず、東海道に下し派遣すべし。一人も漏れるべからざるの由の沙汰が有るようだ。叉前内府(宗盛)の家来の五位上は文官も武官も招集した。また肥後(熊本県)の守貞能は数万の兵を率い、すでに都賀辺に着いたようだ。

6月13日 陰晴不定 [吉記]
「源氏等すでに江州に打ち入る」
 源氏等すでに江州(近江、滋賀県)に進入した。筑後の前司重貞は単騎で逃げ上るようだ。

6月18日 天陰雨降らず [吉記]
「肥後の守貞能今日入洛す」
 肥後の守貞能が今日入京した。軍兵は纔(わずか)に千余騎のようだ。日来は数万に及ぶの由が風聞した。京中の人は頗る驚き恐れて顔色が青ざめるようだ。

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2006年8月 1日 (火)

6月9日「関東・北陸の乱逆につき兼実の申し状」

6月7日
祇園の御輿迎え例の如しと。
(注釈)
祇園会(ぎおんえ、八坂神社祭礼、6月7日から14日)

6月8日
「物気を渡す」
今日より物気を渡す。病厚きに依りてなり。
(注釈)
物気・・・たたり。
物気を渡す・・・

6月9日
「関東・北陸の乱逆につき兼実の申し状」
大蔵卿の奏経卿が先日示す申し状、記入し送るべしの由を示した。よって記入し遣わした。其の状は此の如し。
「関東・北陸乱逆の間事鎮められるべき間の事。
重ねて追討の事。征討の計略は将帥(将軍)の最(一番すぐれていること)である。かの議奏の趣について、重ねて評定に及ぶべしか、但し仰せ下さるる如くば、将兵の力は追討に疲れ、忽ちに叶ひ難しのようだ。
「伊勢・近江に辺将を置き中夏を守るべし」
もし然らば、伊勢(三重県)・近江(滋賀県)両国に各辺に将軍を置き、京都を守るべきか。
「仁恵を施さるべし」
神社仏寺及び諸人の所領を、或いは事を武威に寄せ、不法にこれを押領した。或いは力を権勢に仮り、非拠を以てこれを奪取した。ただに仏意神意の恐れのみにあらず。そもそも叉衆庶万民の愁いである。(略)
「二十二社に奉弊せらるべし」
神事の御祈りの事、(略)
「最勝王経勤行すべきか」
仏事の御祈りの事。(略)
「海内和平の時徳化を施さるべく御願を立てらるべし」
御願いを立てられるべき事。(略)

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