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2006年7月 4日 (火)

10月4日「平氏諸国追討に赴く」

10月4日 天晴 
「平氏諸国追討に赴く」
 伝聞、来る十一日、平知盛・清経等は越前の国に向かうべし。重衡は東国(東海道・東山道)に赴くべし。維盛は昨日近江の国に下向した。これ猶北陸道を襲うべきの手段のようだ。頼盛卿は、紀伊の国に下向すべしと。

10月6日 
「東海道・東山道武士等出来す」
 伝聞、海道道・東山道、共に奥地より、武士等出で来たるの由風聞したようだ。

10月10日 天晴 
「越前等の武士路を開くは謀によるか」
 或る人云く、越前・加賀等の武士、切り塞ぐ所の路を開いた。国内無人のようだ。若くは官兵を引き入るべきの謀略かもしれない。還って怖れ有りの由を、人々云いせしむか。明日の官軍の下向は延引した。来る十三日のようだ。先日定められる所の手段は相違し、知盛卿(左兵衛督)以下は下向しないようだ。北陸道は、知度・清房(以上故禅門子息等なり)。この外、重衡卿(左近衛権中将)・資盛朝臣(右近衛権少将)等、は野宇美(ぬくみ峠、温見峠)越に同じく北陸に向かうべしと。平維盛・清経等の朝臣は、東海道・東山道を兼ねるべし。頼盛卿の子息二人は、熊野方面を襲うべし。前の幕下(宗盛)・教盛・頼盛・経盛等は、洛中(京都)を護るべし。以上の軍勢は、相並び五六千騎に過ぎず。而るに各方面に相分ち、各々行き向かうならば、京中の武士は僅かに四五百人か。頗る恐る所無きにしも非ずと。

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