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2006年7月

2006年7月31日 (月)

6月6日「官軍敗績後の事計申すべき旨院より仰せられる」

6月6日
「官軍敗績後の事計申すべき旨院より仰せられる」
大蔵卿(大蔵省長官)の泰経卿が法皇のお使いとして来た。疾であるが之に会見した。仰せに云う、北陸の官軍等空しく以て帰京した。此の上は何様に行われるべきやという。申し云う、百千万の事叶うべくもなし、只天下が落ち着いた時、徳政を施すべしの由、法皇のお考えより起り、御願い立たれるべし、この外の他の計り事は、一切叶うべからずという。

6月6日 己亥 朝雨下る [吉記]
「敗軍等今日多く入洛」
 14時頃に建礼門院(徳子)に参る。北陸の事は驚き存ずるの由を前の内府方(宗盛)に示し入る。朝庭の大事に依ってである。延暦寺に於いて、千僧の御読経を行わるべし。その行事を執行すべきの由、左大弁(源経房)が談る。追討使の間の事、人々に仰せ合わさるべし。左府(左大臣、藤原経宗)が去夕に参られ、今日書き進めるべきの由これを申された。右府(右大臣、兼実)は病気を申された。仍って大蔵卿が彼の亭に参向した。内府(内大臣実定)今日参らるべし。堀河大納言は病気を申された。梅小路中納言は今日参上すべきである。広く及ぶべきの由先ず議有りと雖も、止めらるようだ。敗軍等が今日多く入京したようだ。

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2006年7月30日 (日)

6月4日「北陸の官軍潰滅す」

6月4日
「北陸の官軍潰滅す」
伝聞、北陸の官軍は悉く以て敗績した。今朝早くに飛脚が到来した。官兵の妻子等が泣き悲しむ事は極まり無しのようだ。この事は去る1日のようだ。早速の風聞(うわさ)疑い有りと雖も、六波羅の気色(気持ち、気分)損ずる事のようだ。
(注釈)
六波羅(ろくはら)・・・京都鴨川の東、五条と七条の間の土地、平家一門の居宅六波羅殿があった。
(砺波山、倶利伽藍峠の合戦のようである。)

6月5日
故女院(皇嘉門院)御月忌に依り御堂に参る。
「中原有安北陸の官軍敗亡の子細を語る」
 前飛騨(岐阜県北部)の守中原有安が来た。官軍の敗亡の詳細を語る。四万余騎の軍勢のうち甲冑を帯びる武士は僅か45騎許りである。その外の過半数が死傷した。其の残り皆悉く武具を棄て、山林に交わり、大略そのきっさきを争うよろいをつけた兵士等、併せ以て切り取られたようだ。平盛俊、平景家、藤原忠経(以上の三人はかの平家一門の第一の勇士である)等、各ひとえもので前を結び、束ねた髪を引き下して逃げ去った。希有に存命したと雖も、従者を一人も伴わないようだ。凡そ事態はただ事ではない。誠に天の責めを蒙(こうむ)るか。敵軍は僅か五千騎に及ばないようだ。かの三人の郎等は大将軍等と権盛を相争う間に、この敗戦が有るようだ。
「官軍敗績の事につき院評定あり」
今日法皇より招集が有り。北陸の官軍の敗績の事について定められる為である。しかるに病と称し参入しなかった。病は重からずと雖も、多くの人の出仕の故及ばざる故である。

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2006年7月29日 (土)

5月22日「減服御常膳詔」

5月22日
早朝、北東方向に赤雲あり。その様子は紅旗に似たようだ。
「減服御常膳詔」
この日、忠親卿が朝廷の公事の座席に着き、服御常膳を減ずるの詔(みことのり)の事を行はれた。頭中将(とうのちゅうじょう)の隆房が、これを仰す。大内記光輔が詔書を進らせ、摂政(基通)が御書を加えたようだ。中務(なかつかさ)少輔兼親に下し行いました。
「位記請印」
その後、家通卿が公事の座席に着き、位記請印(しょういん)を行う。
(注釈)
詔(みことのり)・・・天皇のことば。
頭中将(とうのちゅうじょう)・・・近衛の中将と蔵人所の蔵人頭を兼任。
中務(なかつかさ)・・・中務省(なかつかさしょう)、天皇の側近に侍従する。
輔(すけ)・・・省の次官。
位記(いき)・・・叙位(官位を授ける)の旨を記して天皇が授与する文書。
請印(しょういん)・・・規定の文書に内印(天皇の印)または外印(げいん、太政官の印)を押すこと。

5月23日
「最勝講終わる」
最勝講は終わりである。右大将(良通)が参入した。事終わり後参入した。不敵(適?)なり。但し16時頃以前に夕座は終了した。摂政(基通)が今夜方違えあるべきに依り急ぎ行はれたようだ。頗る過法か。
(注釈)
夕座・・・夕方設けられる読経などの座。
方違え(かたたがえ)・・・陰陽道の俗信、出かけるとき、良い方角の家に一泊して方角をかえて行くこと。

5月29日
「内侍所三ケ夜臨時御神楽」
今夕より三ケ夜内侍所に於いて神楽が行われ、征討の事、並びに治承四年摂州に渡し奉る事を祈請されたようだ。
(注釈)
内侍所(ないしどころ)・・・神鏡をまつってある所。
神楽(かぐら)・・・神社で神をまつるために奏する歌舞。
摂州・・・摂津、今の大阪府、兵庫県の一部。
祈請(きせい)・・・神仏に祈り請う事。

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2006年7月28日 (金)

5月17日「八幡奉弊使を立てらる」

5月17日
「八幡奉弊使を立てらる」
この日八幡の奉弊使を立てられ、東大寺の大仏の焼損、並びに近日修補の事を告げ申された。指揮する公卿は権大納言実房卿、先ず日次の定めあり。大内記光輔が宣命の草を進らせた。行事の弁は右少弁兼忠、使は権中納言実宗卿のようだ。
(注釈)
奉弊使(勅命によって奉幣を神社などに奉献する使者)

5月19日
「最勝講初日」
最勝講の初日である。摂政(基通)及び内大臣(実定)以下が参入したようだ。右大将(良通)も参入した。
「賑給定」
この日実房卿が朝廷の公事の座席に着き、賑給使の事を定め申したようだ。
「東大寺大仏仏面を鋳造す」
叉今日東大寺の大仏の面を鋳造したようだ。
(注釈)
最勝講・・・最勝王経を講説させて国家の安泰を祈る。
賑給(しんきゅう)・・・貧民にほどこして、にぎわす。

5月21日
今日、法皇の御所に於いて、五壇の法(ごだんのほう)、征討の御祈りの修行を始められたようだ。
(注釈)
五壇の法(ごだんのほう)・・・密教の兵乱鎮定などを祈願する修法。

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2006年7月27日 (木)

5月12日「官軍加賀に攻め入る」

5月12日
「官軍加賀に攻め入る」
伝聞、去る3日、官軍が加賀国(石川県南部)に進攻して合戦し、両方とも死傷者が多数のようだ。

5月15日
「佐保山陵使を立てらる」
今日佐保(さお)山陵(みささぎ、天皇・皇后の墓所)使を立てられた。東大寺の大仏が焼損し、並びに近日修補の事を謝し申されたようだ。指揮する公卿は大納言宗家卿、参議親宗卿、使座に参着し、先ず時日を定められた(今日すでに2点)大内記光輔が宣命使を進らせた。参議親宗朝臣、前和泉(大阪府南部)守季長朝臣(四位)等が参向したようだ。蔵人(くらんど、蔵人所(宮中の雑事)の職員)二人が叙爵(じょしゃく、始めて従五位下に叙せられる)したようだ。
「院供花」
法皇の供花例の如しと。

5月16日
「官軍越中にて源義仲等と戦い大敗す」
去る11日官軍の先鋒が、勝ちに乗じて越中国(富山県)に進攻した。木曽冠者義仲・十郎蔵人行家及び他の源氏等が迎え合戦した。官軍は敗績し、過半数は死亡したようだ。
「月食」
今夜は月蝕(皆既)である。内裏(だいり、天皇の住居)に於いて御読経を行はれた。指揮する公卿は実家卿のようだ。

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2006年7月26日 (水)

5月1日「官軍越前に攻め入る」

5月1日
「官軍越前に攻め入る」
伝聞、去る月26日に官軍が越前国(福井県東部)に進攻したようだ。

5月3日
「軒廊御卜」
軒廊(正殿に付属する小部屋)の御占いあり。鴨御祖社(下賀茂神社)に羽蟻(しろあり)出来た事のようだ。

5月4日
「公卿勅使帰参」
公卿勅使が帰参したようだ。

5月5日
「皇嘉門院月忌」
皇嘉門院(崇徳天皇の皇后、藤原忠通の長女)の月忌に依り御堂に参る。
「円宗寺御八講始まる」
この日円宗寺(天台宗)御八講始めである。指揮する公卿は参らず、右少将兼忠が参り、これを行うようだ。

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2006年7月25日 (火)

4月26日「伊勢公卿勅使進発す」

4月26日 晴れ
「伊勢公卿勅使進発す」
今日公卿の勅使が出発した。指揮する公卿は宗家卿、使は参議中将の通親卿、摂政の基通が天子の直筆の手紙の宣命を清書した。但し摂政は神祇の官庁に参らず。指揮する公卿以下は参向し出発した。御願いの意趣は、今年の御厄(やく)、並びに近日の異変、及び追討等であるようだ。

4月27日 雨下る。
「摂政内舎人隋身を辞す」
今日、摂政(基通)は外出のときの警護の舎人(とねり)の隋身を辞する文書を上進した(兼光これを作り、親雅これを書く)。忠親卿は勅使の事を行う。大内記光輔これを作る。文書の使いは右少将成定、勅答(天皇が臣下に答える)使は左中将通資朝臣のようだ。その後吉書(吉日を選んで奏聞する文書)あり、例の如し。
「内大臣実定拝賀」
内大臣(実定)の拝賀、したがう公卿は大納言実房、中納言実家、実宗、参議の経房等のようだ。

4月29日 
「蹴鞠(けまり)」
この日堂に向かう。少将親能(定能卿の息子、生年15歳)が来た、蹴鞠をした。容貌美麗で、また堪能である。尤も歎美するに足る。

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2006年7月24日 (月)

4月23日「征討将軍発向」

4月23日
「征討将軍発向」
征討将軍等は、或は以前に、或いは以後に、次第に出発し、今日皆終了したようだ。

4月24日 
この日堂に向かう。賀茂幸平が来た。切立(衣服の下手おろし?)の事あり。大将(良通)の命に依るなり。女房等行向かう。

4月25日 
「神宮穢疑につき御卜行わる」
神宮に穢れの疑いあり。公卿の勅使を延期すべきか否かの御占いあり。蔵人宮内少輔親経、官寮を中門辺りに召し、これを占い申させたようだ。官の側は吉の由を申し、寮の側は快からざる由を申したようだ。
「平宗盛に頼朝・信義追討を仰す」
又左大臣(経宗)が左中弁の兼光朝臣に仰せて云う、源頼朝・同(武田)信義等は、東国・北陸を横領した。前内大臣(平宗盛)に仰せ、追討せしむべしといえり。

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2006年7月23日 (日)

4月20日「公卿勅使定」

4月20日
「公卿勅使定」
公卿勅使の定めがあり。指揮する公卿は宗家卿、五位蔵人親経が行事を執行し、右中弁光雅は行事の弁のようだ。今日、大内記光輔を召し、宣命の趣を仰す。勅使の参議通親卿が、殿上に参り仰せを承る。天子の直筆の手紙、宣命の草稿は、文章博士(もんじょうはかせ)の光範これを承るようだ。
(注釈)
文章博士(もんじょうはかせ)・・・大学の詩文と歴史の教授

4月21日 晴れ
「石清水臨時祭」
石清水八幡宮の臨時祭である。左近権中将平清経が使いとなる。権大納言宗家が宣命を奏した。去る月は穢(けがれ)れ気に依り延引の由の辞、別に載せられたようだ。右大将(長男の良通)が参入した。

4月22日
「平頼盛拝賀」
今日、私は法皇の御所に参りました。この日は権大納言頼盛卿が拝賀したようだ。

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2006年7月22日 (土)

4月15日「賀茂祭」

4月15日
「賀茂祭」
京都の賀茂神社の祭りである。内蔵寮(くらりょう)次官の清科重栄、右近衛府(うこんえふ)の少将藤成定、右馬寮の次官の朝房、皇后宮大進(だいしん、中宮などの判官のうち上位)親雅等がお供をするようだ。

4月16日
「解陣」
解陣(臨時の警護の陣を解く)である。忠親卿がこれを行う。頭中将隆房以下が直列したようだ。

4月17日
時忠卿が着陣し、左大弁の経房、右少弁の兼忠等、申文(もうしぶみ、下位の者から上位の者へ申し上げる文書)ありと。

4月18日
「吉田祭」
吉田神社(京都市左京区吉田神楽岡町)の祭である。儀式を指揮する公卿は権中納言家通卿。

4月19日(記述無し)

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2006年7月21日 (金)

4月14日「武士等狼藉」

4月10日 
「除目聞書を披見す」
人事異動の文書をひらいて見た。耳目を驚かす事、先々に超過した。中務少輔(源)兼親(この事は私が推挙すべしの由再三申した。不当に依り執り申さず、しかるに寵臣の女房(成房の妻)につき奏達したようだ)。少将(藤原)宗長(刑部卿頼輔の孫、豊後前守頼経の子、近日の寵臣のようだ)三品両人(源顕信・藤原季能)等、未曾有の事である。凡そ後世の人は官位の望みについて敢えて其のすべは無しの事か。弾指すべし、警告すべし。

4月13日
「賀茂祭警護」
武者の家来等が、近くの畠を刈り取るの間に狼藉のようだ。警護の儀式を指揮する公卿は(中納言藤原)実宗卿のようだ。

4月14日 雨下る、
「武士等狼藉」
武士等の狼藉は昨日の如しのようだ、凡そ近日の天下この乱暴狼藉に依りて上下騒動した。人馬や雑物を、通路で眼につくものは横より奪ひ取る。
「平宗盛に訴えるも止まず」
前内大臣(平宗盛)に訴えると雖も、成敗するすることは出来ない。制止の要請が有りと雖も、更に以て制法に違反しないようだ。京都以外の所の事に於いては知ることが出来ない。京都近辺の秩序を乱す乱暴狼藉は大いにおそれおののくことである。仍って前内大臣の許に連絡を遣わした。制止すべしの報告が有りと雖も、更に其の終始は無し、実に悲しむべき世である。

(解説)
平家軍は義仲追討軍の出発にあたり、京都内外で追捕(ついほ、ついぶく)を始めたようである。この後、平家物語の北国下向に記述される追補の乱暴狼藉が続くことになる。平宗盛の申請により法皇や公家は黙認したようだが、著者の兼実には追捕について連絡が無かったようである。

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2006年7月20日 (木)

4月6日「内府家(藤原実定)に慶賀を遣わす。」

4月6日 天陰
「内府家(藤原実定)に慶賀を遣わす。」
(藤原)基輔朝臣を以て内府(藤原実定)家に遣わした。慶賀の事を示した。出行の間、示し置き云う。直ちに帰りたりと。

4月8日 
「灌仏」
灌仏会(かんぶつえ、釈尊の降誕を祝う)は常の如し。

4月9日 
「祭除目」
この日祭りのための人事異動が行われたようだ。儀式を指揮する公卿は家通卿、参議(藤原)泰通朝臣のようだ。
「大将還宣旨」
叉内大臣(実定)が大将の還り宣旨を仰せらる。大外記頼業が仰せを奉ると。
「北陸征討の事を祈り申す」
今日、北陸の征討の事に依り、太神宮以下が祈り申されたようだ。伊勢神宮以下十六社。神祇官(じんぎかん)人等各籠もり参り、五日祈り申したようだ。

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2006年7月19日 (水)

4月4日「任大臣大饗なし」

4月4日 雨下る、
弥勒講に依り御堂に参る。今日、仏厳聖人が来た。法文の間の事を示す。
「任大臣大饗なし」
今日は大臣の任命式である。盛大な饗宴は無し、希代の例である。
「藤原実定を内大臣に任ず」
内大臣は藤実定。大納言実房(正に転ずるなり)、権大納言平頼盛、中納言藤成範、朝方、平教盛(以上は正に転ずるなり)。権中納言藤頼実、参議藤修範、今日の儀式は、大外記(太政官の6等級)の(清原)頼業が注進の状は此の如し。

4月5日 朝より雨降る、申の刻(16時)止む、
「大外記頼業注進状」
今日は大臣の任命式が有り、先ず左大臣の経宗が大外記頼業を招集し、大臣の任命式が有るべし。官庁の役人を招集し仰すべきの由を仰す、14時頃に権大納言実房卿・新権中納言家通卿、参議親宗朝臣、朝廷の公事の座席に着く。蔵人頭の左近中将(藤原)隆房朝臣が陣に出て、首席の公卿の事を仰す。儀式を指揮する公卿が外座へ移るの後、更に進み宣命の趣旨を仰す。(内大臣藤原実定、大納言同実房、権大納言平頼盛、中納言藤成範、同朝方、平教盛、権中納言藤頼実、参議同修範、)即ち大内記業実を召しこれを持ち仰す、首席の公卿(経宗)が弓場代に進み、隆房朝臣が宣命を奉した。権大納言忠親卿・権中納言実家卿・家通卿・参議経房卿・親宗朝臣が第2位の公卿の座に着く、(降雨に依り中門外南腋(わき)に座を設ける)少納言有家・外記・史以下これに着く(弁遂に着座せず)仗に近く階下に陣す、(左中将平清経朝臣は中門内の南腋に立つ、右少将顕家朝臣は西腋廊内に立つ)。
「内弁実房」
内侍(ないし、女官)東檻(かん、おり)に臨み、首席の公卿の実房卿は昇殿し下級官人を召し、少納言の有家が進みて目印の板に就く(中門内北腋)。首席の公卿の宣を承りこれを召す。権大納言忠親卿以下は中門内の北腋に列立した(弓場代北第二間)。首席の公卿が経房卿を召して宣命を給わる。首席の公卿が列に復する後宣制したと云う、内府(実定)大宮白河御所を申請しおはせらる。酒食のもてなし無し。又天皇の意思を伝達するため派遣される特使は無しのようだ。

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2006年7月18日 (火)

4月3日「二位中将兼房兼実に遺恨あり」

4月3日 天気晴れ、
中御門(なかみかど)大納言の藤原宗家・参議中将の藤原定能(女房の兄弟)等が来た。
「良通催馬楽を習う」
大将(九条良通、兼実の長男)が催馬楽(さいばら、平安の歌謡)(庭生)を、大納言の実定に習う、藤原定能卿が密かに語り云う、今度の中納言には、三位中将藤原頼実が任ぜられるようだ。二位中将(兼房、兼実の弟)の為には実に哀れな事である。左右能わずと、去年の春すでに、任ぜられる事を欲した。時に臨み罷免したのに今回は他の人を任命される。運報の至りは左右する能わざるか、先日(藤原)定長に付け示す。然れども未だ申し達せざるか。
「二位中将兼房兼実に遺恨あり」
凡そこの人(弟の兼房)は私に殊に遺恨有り。敢えて会釈も無し、然れども、家門を憶ふに依り、再三推挙を取る。許容無しの条は又愚兄の過失のみに非ざる。
「兼実大臣を良通に譲る由世間謳歌す」
定能又語り云う、私が右大臣を大将(良通)へ譲るべしの由、世間は謳歌し、一定の由遍く申すようである。この事が許容有るならば、尤も大望である。去年奏聞したのだが、左右大臣辞退の事はすでに以て許されない。殆ど法皇の怒りに触れる、況や譲与の条、更に叶うべくもない。よって申し出ない処、世の推す所、大将の大臣はすでに任務に当たるか、退いて猶思慮を加え左右すべし。猶年齢は幼少である。今一二年相待つべきか。今年は厄年が重なるし、旁(かたはら)謙譲すべきか。
「梅宮祭」
今日は右京区楳津の梅宮祭である。指揮する公卿は中納言の平頼盛卿である。

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2006年7月17日 (月)

1183年 (壽永二年 癸卯)

4月1日
「平座」
平座(天皇が出御しない床に着座の略儀)があり、儀式を指揮する公卿は権中納言(藤原)家通のようである。
恒例により春日神社の国司が神にさしあげる儀式は、昼12時頃より神道の法式により行う祭りで例の如し。

4月2日
兼実の長男の大将の九条良通の屋敷に行き向かう。その間に大夫史の小槻隆職宿祢が来たようだ。来る5日に大臣の任命式は一定のようである、饗宴と会食を設けるべきでないので、兼ねて宣旨も有るべきではないようだ。
「平野祭」
この日は北区にある平野神社の祭りである。権中納言の藤原家通が宣命を奏した。木工頭の平棟範を派遣したようだ。

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2006年7月16日 (日)

10月9日 「吾妻鏡」「城の四郎永用と木曽の冠者義仲と合戦」

10月9日 「吾妻鏡」
「城の四郎永用と木曽の冠者義仲と合戦」
 越後の住人城の四郎永用が、兄の資元(当国守)の跡を相継ぎ、源家を射奉らんと欲す。仍って今日、木曽の冠者義仲北陸道の軍士等を引卒し、信濃の国築磨河の辺に於いて合戦を遂ぐ。晩来に及び、永用敗走すと。
  (1181年6月の横田河原の合戦の記述のようであるが、玉葉、吉記と比較しても、ミスのようである。)

11月17日 天晴 
 権右中弁行隆、法皇の御使として来て云うには、伊勢神宮の神官等が東国に同意するの由の風聞が有るの件、尋ね問わる文書は此の如しである。罪科は有るべきや否や。計らい申すべしといえりと。
(私は申して云く、縦え祭主と雖も、謀叛に同意するの者、いかでか沙汰無きや。但し此の如きの風説、この文書の如きは、たしかに証拠に見えざるか。猶嫌疑の者に尋ねられ、所犯の事実にしたがい、沙汰有るべきか。)

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2006年7月15日 (土)

9月20日 [吉記]「北陸の賊徒すでに江州を掠領せんとす」

9月15日 「吾妻鏡」
「平氏の軍兵等、京都に帰る。」
 木曽の冠者義仲主を追討する為北陸道に発向する所の平氏の軍兵等、悉く以て京都に帰る。すでに寒気に入り、在国難治の由を披露すると雖も、真実の程は、義仲の武略を恐れるが故であるようだ。

9月20日 [吉記]
「北陸の賊徒すでに江州を掠領せんとす」
 盛職が江州(近江、滋賀県)より飛脚を上げて云く、北陸の賊徒すでに江州を横領しようと欲す。若州(若狭、福井県西部)閑かならずと。

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2006年7月14日 (金)

8月19日 [吉記]「追討使近江の国叶い難き」

8月19日 丁巳 天霽 [吉記]
「追討使近江の国叶い難き」
左少弁光長が語る、・・・何ぞ況や追討使下向の者、近江の国の勤めいよいよ叶い難きか。

8月20日 [吉記]
「伯耆の国成盛基保と合戦す」
 風聞に云く、伯耆(鳥取県の西部、伯州)の国の住人の成盛(海六と称す。先年基保の為滅亡された者なり)と基保(小鴨の介と称す)と合戦した。基保は追い落とされ、死者幾千を知らず。出雲(いずも、島根県東部、雲州)・石見(いわみ、島根県西部、石州)・備後(広島県の東部)等の国々が味方したようだ。

8月25日 雨下る 
「北陸道の追討使また猶予」
 伝聞、北陸道の追討使また猶予と出で来た。毎事ただ準備の沙汰無きか。不便々々。

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2006年7月13日 (木)

7月28日 [吉記]「宗盛の家来が東国へ逃げる」

7月28日 丙申 時々雨降る [吉記]
「宗盛の家来が東国へ逃げる」
 伝聞、前の馬の允(軍馬の役所の三等官)の行光(三條宮(以仁王)の侍で専一の者なり)・前の瀧口(宮中警備)(実名を知らず。馬大夫(允で五位の者)式成の男、重衡卿の侍)・上野の国の住人の奈越の太郎家澄等(当時前の大将(宗盛)の許に祇候す)、都廬五十人ばかりの者が二十三日出京し坂東に赴いた。近江の国高島に於いて成すこと無く搦め留められた。或いはまた逃げ下ったようだ。

7月29日 丁酉 天晴 
「宗盛の家来が東国へ逃げる」
 早朝、全玄僧正が来た。大将(息子の良通)を訪ねて来た。語りて云く、前の幕下(宗盛)が年来召し仕う所の侍が二三人、引率し東国に逃げ去る。三條宮(以仁王)の子の宮を具し奉るようだ。而るに路頭に於いて、皆悉く搦め留められたようだ。また或る人云く、讃岐の前司重季は北陸道に向かった。もし事実ならば、左右に能わざる事である。

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2006年7月12日 (水)

5月11日「菊池貞能の許に帰降」

5月11日 雨下る 
「菊池貞能の許に帰降」
 伝聞、菊池が貞能の許に帰降し来たようだ。西海は安穏だ。天下の悦びか。

5月27日 丙申
  改元、養和二年を改め、壽永元年と為す。
「壽永と改元さる」
 この日改元なり。左大将上卿、公卿七八人ばかり参入した。壽永(俊経卿撰び申すと)を用いらる。改元は全く物の用に叶うべからざる事か。

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2006年7月11日 (火)

4月15日 「法皇御登山の間洛中の武士騒動」

4月15日 朝間、大雨大風 
「法皇御登山の間洛中の武士騒動」
 早朝、天下騒動の事が出で来た。以ての外の誤り事の故、この事が出で来るか。昨日、法皇が御登山(比叡山)の間、山僧(僧兵)等が法皇を盗み取り奉るべきの由、今日その告げを得て、洛中の武士騒動した。忽ち多数の騎馬を率い、坂下に向かう。誤り事に依って空しく帰京した。

4月19日 
「十五日の浮言は全玄僧正か」
 伝聞、十五日の誤りの説は、全玄僧正が前の大将に告げるの由が風聞した。山僧等は大いに欝し、件の僧正を追い払おうと欲すようだ。大いに由無き事か。

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2006年7月10日 (月)

3月21日 [吉記]「北陸鎮西戦況の風聞あり」

3月21日 天霽 [吉記]
「北陸鎮西戦況の風聞あり」
風聞に云く、筑後の前吏(源)重貞が飛脚を上げた。謀反の源氏等はすでに越前の国に着いたようだ。肥後(熊本)の飛脚が到来した。菊池は未だ落とされない。(平)貞能の管国は公私物を調べて徴発するの外、他の営みは無しが如しのようだ。訴えるに所無きを謂うか。

3月25日 陰晴不定 [吉記]
「強盗・火事連日連夜」
今夜火有り。押小路高倉である。近日強盗・火事連日連夜の事である。天下の運すでに尽きるか。死骸道路に充満した。悲しむべし悲しむべし。

3月30日 天霽 [吉記]
「追討使貞能肥後の国目代を逐い出したり」
肥後の国の目代の久兼の飛脚が来た。追討使の貞能がすでに国務を押し取り、目代を逐い出したようだ。当世の法驚くべからざるか。

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2006年7月 9日 (日)

3月12日「頭の弁親宗院の御使として宗盛第に向かう」

3月12日 天晴 
「頭の弁親宗院の御使として宗盛第に向かう」
夜に入り人伝えに云く、今日12時ばかりに、頭の弁親宗朝臣、法皇の御使として前の幕下(平宗盛)の屋敷に向かう。(何事か知らず)
「宗盛親宗を責める」
大将人を以て親宗に示して云く、天下の乱、君の御政の不当等、偏に汝の所為である。故禅門(平清盛)は、遺恨有るの時、直にこれを報答した。宗盛に於いては、尋常を存じ、万事存ぜざるが如く、知らざるが如し。仍って事に於いて面目を損じた。頗る怨み申す所であると。
「親宗門を閉じる」
親宗は迷惑した。逐電し退出の後門戸を閉めたようだ。

3月17日    [吉記]
「兵粮米徴収を検非違使庁の遣いに託す」
近日諸国の庄々に「兵粮米」を重ねて苛責有り。検非違使庁の使を付けらるべき由、院宣を下さる。行隆朝臣沙汰である。上下色を失う事か。

3月19日 天晴 [吉記]
「道路に死骸充満」
道路に死骸充満するの外他事無し。悲しむべきの世なり。

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2006年7月 8日 (土)

1182年  2月22日 [吉記]「人人を食う事実無し」

1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)
2月22日 天晴 [吉記]
「人人を食う事実無し」
 伝聞、五條河原の辺に、三十歳ばかりの童が死人を食うたようだ。人が人を食う、飢饉の至極か。定説と知らずと雖も、珍事たるに依って、なまじいにこれを記録した。後聞の或る説に、その実事は無いようだ。

2月25日 雨降る [吉記]
「北陸道追討使下向すべし」
 平中納言が示した。菊池高直は落ち亡びた。城中□火焼死の由が風聞した。後聞、すでにこれ無実である。蔵人少輔示し送りて云く、新平中納言は北陸道へ下向すべし。追討使としてのようだ。

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2006年7月 7日 (金)

11月12日「関東の賊、入洛すべからず」

11月12日 天晴 
「関東の賊、入洛すべからず」
 伝聞、大将軍方を憚るに依り、年内は関東の反乱軍は入洛すべからず。節分以降、左右無く入洛すべしと。

11月20日 天霽 [吉記]
「北陸道追討使通盛帰京すと」
 北陸道追討使の中宮の亮(ちゅうぐうのすけ)通盛朝臣は以て帰京したようだ。

11月25日 雨下る 
「中宮職院号定めなり建礼門院」
 この日、中宮職の院号の定めがあった。左大臣・左大将以下公卿が十人ばかりの輩が参陣したようだ。女院の儀は、進表に依って、全く別事無し。建礼門院と号し奉るようだ。

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2006年7月 5日 (水)

10月11日「熊野行命法眼伐落とさる」

10月11日 陰晴不定 
「熊野行命法眼伐落とさる」
 伝聞、熊野の行命法眼(南法眼と称し、熊野の者どもの中、ただ一人官軍に志が有る者である)、上洛しようと欲するの間、散々に伐ち落された。僅かに身命を存すと雖も、子息や家来は一人残らず伐ち取られた。その身は山中に迷い入ると雖も、安否猶不定のようだ。これは志賀在庁の者の所為のようだ。今に於いては、熊野方面は一切異途無く統一されたようだ。また聞く、追討使等は今日の下向は延引した。来る十三日も猶未だ一定せずのようだ。越前の国は無人の由聞こえ有りは誤りの説のようだ。殆どその勢力は数万に及ぶの由、今日逃げ上る所の身分の低い者が、談説せしめたようだ。

10月13日 陰晴不定 
「追討使等下向延引」
 今日、追討使等は下向すべしのようだ。而るに延引した。来る十六日のようだ。伝聞、吉野の法師達が高野(庄論の由を称す)に向かうべきの旨、風聞を成した。その実、南都(奈良)に打ち入り、平家の家来等を誅伐し、その後入洛すべきの由を謳歌した。この條、実説か否かを知らずと雖も、衆徒(僧兵)蜂起に於いては一定のようだ。

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2006年7月 4日 (火)

10月4日「平氏諸国追討に赴く」

10月4日 天晴 
「平氏諸国追討に赴く」
 伝聞、来る十一日、平知盛・清経等は越前の国に向かうべし。重衡は東国(東海道・東山道)に赴くべし。維盛は昨日近江の国に下向した。これ猶北陸道を襲うべきの手段のようだ。頼盛卿は、紀伊の国に下向すべしと。

10月6日 
「東海道・東山道武士等出来す」
 伝聞、海道道・東山道、共に奥地より、武士等出で来たるの由風聞したようだ。

10月10日 天晴 
「越前等の武士路を開くは謀によるか」
 或る人云く、越前・加賀等の武士、切り塞ぐ所の路を開いた。国内無人のようだ。若くは官兵を引き入るべきの謀略かもしれない。還って怖れ有りの由を、人々云いせしむか。明日の官軍の下向は延引した。来る十三日のようだ。先日定められる所の手段は相違し、知盛卿(左兵衛督)以下は下向しないようだ。北陸道は、知度・清房(以上故禅門子息等なり)。この外、重衡卿(左近衛権中将)・資盛朝臣(右近衛権少将)等、は野宇美(ぬくみ峠、温見峠)越に同じく北陸に向かうべしと。平維盛・清経等の朝臣は、東海道・東山道を兼ねるべし。頼盛卿の子息二人は、熊野方面を襲うべし。前の幕下(宗盛)・教盛・頼盛・経盛等は、洛中(京都)を護るべし。以上の軍勢は、相並び五六千騎に過ぎず。而るに各方面に相分ち、各々行き向かうならば、京中の武士は僅かに四五百人か。頗る恐る所無きにしも非ずと。

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2006年7月 3日 (月)

9月28日「熊野法師謀反鹿背山を切り塞ぐ」

9月28日 雨降り
「熊野法師謀反鹿背山を切り塞ぐ」
伝聞、熊野の法師達が、一同し反乱した。鹿背山を切り塞いだ。これに因って、(平)頼盛卿は追討使として下向すべきの命令が仰せ下された(紀伊の国は彼の卿の知行国である)。
「高野山騒動す」
又高野の御山で、いささか騒動有り、源氏の武士が少々くだんの山に籠もるようだ。
「東国の輩、上洛近く」
また聞く、東国の者どもの上洛は近いようだ。すでに参河・尾張等に到達したようだ。仍って前の幕下(宗盛)の家来等は、且つは伊勢・美濃等の方面へ派遣するようだ。

9月29日 陰晴不定 
「平宗盛関東攻め来る時西行すべしという」
源(雅頼)中納言が来た。世間の事等を談じた。伝聞、前幕下(平宗盛)西行の事忽ち然るべからず、関東攻め来るの時其の儀在るべしと。又前大将(平宗盛)天下の政治の事を関知せずの由、法皇に願い出たようだ。

9月30日 陰晴不定 
「宗盛善政の方策を頼業に尋ねる」
大外記頼業云く、一昨日前の幕下(平宗盛)の許より、使者を送られ謁見した処、示されて云く、天下の事、今に於いては、武力では叶うべからず。武力以外の計略を廻すべきか。

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2006年7月 2日 (日)

9月20日 晴
「東国・北陸共に以て強大」
伝聞、東国・北陸の反乱軍は共に以て強大である。官軍はひ弱であるようだ。

9月21日 霽 [吉記]
「宗盛故頼政郎等を捕えんとし郎等自殺す」
後聞、故頼政法師の家来で彌太郎(埴生)盛兼は嫌疑の事有り(故三條宮、以仁王の間の事と)。前の按察侍家(源資賢)に於いて、前の幕下(平宗盛)は武士を派遣し、逮捕しようとするの間、件の盛兼は自殺した(喉笛を掻き切る)。また前の少納言(藤原)宗綱入道は前の按察(あんさつ、しらべること)の許より逮捕されたようだ。未曾有の事である。

9月24日 雨降る
「大和国大福庄源氏の為焼かれたり」
伝聞、大和の国(奈良県)の前の大将(宗盛)の庄(大福庄なり)が、源氏(二川三郎と称すと)の為焼かれた。奈良の僧兵が少々混成したようだ。

9月27日 天晴れ
「平行盛進発す」
今夜光り物(流星)ありと。行盛朝臣が、今日門出した。北陸に赴くようだ。

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2006年7月 1日 (土)

9月13日「北陸道追討使の下向未定」

9月13日 雨降り
「北陸道追討使の下向未定」
伝聞、北陸道の追討使の出発は未定のようだ。理由は不明である。片時と雖も、至急出発すべき事か。

9月16日 天晴れ
大外記の頼業が来て語り云う、
「賊勢強大にして官軍力なし天皇・院以下を奉じ西行するか」
此の次ぎ密かに語り云う、四方の反乱軍の勢力は甚だ強大であり、官軍は敵対すべからず、もし然らば天皇を具し奉り・法皇や時忠以下の本家たる臣下等、西行は定まりたるか、万人は只彼の時期を以て限りと為すべきか。悲しむべし悲しむべし

9月19日 晴 
「君臣を引卒し、海西に赴くべきの」
伝聞、天皇とその臣下を引卒し、西国に赴くべきの由、すでに決定された。然れども、ことさらに他聞に及ばず。にわかにその儀は有るべきようだ。天下はついにこの時に在るか。悲しむべし、悲しむべし

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