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2006年6月 7日 (水)

三.「玉葉」「吉記」に見る乱暴狼藉の記述

三.「玉葉」「吉記」に見る乱暴狼藉の記述

 平家軍の乱暴狼藉は「玉葉」寿永二年四月十三日に「武士等狼藉」と十四日に「武士等狼藉」「平宗盛に訴えるも止まず」の記述がある。義仲軍追討のため北陸方面に向かう平家軍は先ず京都近辺で「追捕」を始めたようである。この後、平家物語の「北国下向」の状況が続くことになる。著者の兼実は右大臣であるが「追捕」について法皇以下の暗黙の了解がなされたことを知らなかったようである。また「他所の事に於いては知るべからず、近辺の濫吹太だ畏怖有り」とあり、兼実には京都近辺の情報しか届いていない。
 義仲軍の入京前、[吉記]七月二十六日には「山僧等京に下る。」となっており、山僧(比叡山延暦寺の僧兵)も加わり物取追捕したようである。「玉葉」七月二十七日には「今においては、義仲(木曽)、行家(十郎)等、士卒の狼藉を停止、早く入京すべしか、」とあり、この混乱の停止を義仲軍に期待した。
 もちろん義仲入京後も混乱は続いた。「吉記」七月三十日にも「京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及ぶ。」と記述されている。これらの乱暴が義仲軍とは限らない。義仲追討の平家軍に参加し、逃げ帰り今度は義仲軍に合流した将兵が平家軍と同様の追捕を行った。どさくさに紛れ込んだ強盗、夜盗、平家の残党かもしれない。なにしろ現代のように警察官や軍隊のような制服を着ているわけではない。田舎を出たときの粗末な服装か途中で平家の落ち武者から略奪した服装かもしれない。義仲軍か平家軍か野盗か判別も出来ないだろう。
 義仲軍の乱暴狼藉は「玉葉」寿永二年八月六日、九月三日、九月五日に記述がある。田は全て刈り取られた。運上物は全て奪い取られた。一切存命出来ない。殺されそうだ。餓死しそうだと記述する。とすれば北朝鮮のように市内には餓死者があふれかえりそうであるが、そのような報告、伝聞、風聞は無い。追捕に逆らった一般人が殺されたという風聞すら無い。八月二十八日には「武士十余人の頸を切る」と取り締まりの伝聞がある。なお九月六日以後は乱暴狼藉の記述が無い。善意に解釈すると、ほぼ一か月で混乱を制圧したようである。頼朝軍の乱暴狼藉は寿永三年一月二十八日に「隆職追捕さる」の記述があり、頼朝軍は京都市内および近辺では追捕を遠慮したが、平家関係者は追捕した。

四.「愚管抄」の記述(愚管抄巻第五より)

四.一 「ものとりの略奪」と「たがいについぶく」

 慈円の著書「愚管抄」によれば、義仲軍の乱暴狼藉の記述は無く、義仲軍入京前の平家軍の京都からの退却の時、「物とりと名付たる者、火の中へあらそい入りて物とりけり。」の記述とか、法皇・貴族が比叡山に退避し、京都の権力・警備が空白になった時、「そのせつな京中はたがいについぶくをして物もなくなりぬ」と記述する。平家物語、玉葉、吉記にも平家軍が京都を撤退するとき、六波羅の屋敷を焼き払った記述はある。しかし「ものとりが争い入る」とか「たがいについぶくした」などの混乱の記述は見あたらない。「火の中へあらそい入(いり)て物とりけり」は、すなわち「火事場泥棒」である。「京中はたがいについぶく」この場合のたがいは誰と誰の組み合わせか、単純には市民同士だが、落ち行く平家軍に市民が襲いかかり略奪した、平家軍が民家などから略奪しながら退却したというように、平家軍と市民ではないだろうか。いわゆる「落武者狩」と追捕か。いずれにしても美しい話しではない。最近ではイラクの首都に米軍が進攻し、フセイン軍が撤退した時や、被災地の治安が悪い時など、一般市民が略奪に走るのを見て、人間の心理行動は万国共通だと思う。
 さらに、慈円の「愚管抄」では「法住寺合戦」も詳細に記述している。「愚管抄」では天変地異とか、火事、放火、強盗、群盗のような事件の記述は非常に少なく政変とか合戦の記述がメインである。その慈円が義仲入京前の京都市内の混乱「ものとりの略奪」や市民の「たがいについぶく」を記述しているのは、よほど印象に残っているのだろう。このような人物が、「玉葉」に記述するような「義仲軍等の乱暴狼藉」を見逃すだろうか。兼実は弟の慈円の面倒をよくみており、当時慈円は法性寺座主であり、七月二十五日には行動を共にしている(玉葉の寿永二年七月二十五日参照)。武士団の追捕は当然の軍事活動とみなした。多分、九条兼実の風聞では混乱が約一カ月続いたようである。しかし、慈円から見れば、義仲入京前の平家その他僧兵や一般民衆の略奪の混乱、法住寺合戦の混乱に比べれば、記述するほどの事件でも無かった。従前の平家軍と同様の食料調達のための当然の追捕とみなした。

四.二 「火事場泥棒」と「落武者狩か」

 「平家物語」は琵琶法師による語り物として広まった。そこで慈円の記述するような平家が都落ちするとき、京中の物とりが集まって物とりした(火事場泥棒)とか、京中の一般民衆が互いについぶく(略奪)をした、平家軍から略奪した(落武者狩)などの混乱の真実を語れるはずが無い。最初の原作者は真実を忠実に記述したかもしれないが、次第に琵琶法師や編集者が、聴衆に受けるように、さらに権力者たる朝廷や頼朝から迫害を受けないように変形編集した。しかし後日記録された「愚管抄」や「延慶本」には記述された。平家物語の作者は僧も加わっているからやはり仲間の悪口は書けない。死人に口無し。義仲のせいにしておこう。とんだ濡れ衣を着せられたものである。庶民に媚び、権威に逆らえず、真実を語れない「平家物語」の限界である。いつの時代でも同じだが、事実のそのままの記述では受けない、売れない、没収される、処罰されるかもしれない。

四.三 兼実・慈円は頼朝贔屓

 慈円は「愚管抄」を記述するにあたり、史料を集め、「平家物語」を耳にし、兄の日記「玉葉」も眼にしたはずである。しかし、真実を記録しておこうと記述したに違いない。養和の大飢饉のとき、鴨長明の方丈記によれば餓死者が四万人も出たほどの大都市に五万の軍勢が入れば、かなりのひしめきあいでかなりの摩擦ごたごたは有るだろう。義仲軍入京前の混乱に比べれば、それほどの混乱では無いようだ。
 平家物語、源平盛衰記、玉葉には義仲軍等の乱暴について非常に詳しく記述するが、義仲入京前に「ものとりが集まる」とか「たがいについぶく」などの記述は無い。「火事場泥棒」とか「落ち武者狩り」など聴衆は聞きたくない。
 入京後「愚管抄」では「かくてひしめきてありける程に」のみである。入京前の「ものとりが略奪」とか「たがいについぶく」などの混乱ぶりに比べれば随分あっさりしている。更に、平家軍、鎌倉軍も追捕による略奪や放火をしたはずだが、その記述が無い。各軍の追捕があえて記述するほどの事でもないのか。軍事行動の一部としての追捕なら、民間人から見ればひどい話しだが、戦とはそのようなものである。平時において民間人の殺人や放火は重大な犯罪だが、戦時において焼き討ち(放火)や征伐(殺人)は当たり前で、将兵や軍人の大量殺人者は英雄になる。
 慈円は義仲贔屓では無い、どちらかといえば頼朝贔屓である。後に頼朝贔屓の兄兼実の推薦により、天台(比叡山延暦寺)座主にも就任した。

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