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2006年6月 9日 (金)

まとめ参考文献

まとめ

 木曽義仲軍と同時に入京した源氏軍の乱暴狼藉は、当時の食糧調達のための追捕という朝廷公認の軍事行動の一部であり、民間人から見れば乱暴な行為であるが、当時の平家軍も鎌倉軍も同様な追捕をしていた。その他に混乱に乗じて僧兵、一般市民も略奪に参加していた。琵琶法師の平家物語の語り物としては、「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代である。当時の権力者や聴衆に不都合な部分は削除された。そのため木曽義仲軍の乱暴のみが強調された。しかし、平家物語・延慶本や愚管抄には事実の記録が残っていた。「平家物語」の木曽義仲軍の乱暴説は捏造である。では真犯人はというと元平家軍(後に源氏軍)将兵、僧兵、一般市民である。彼らの前で彼らが乱暴狼藉を働いた場面は語れない。

参考文献
 一.訓読玉葉   高橋貞一著   高科書店
 二.全訳吾妻鏡  永原慶二監修  新人物往来社
 三.吾妻鏡・玉葉データペース 福田豊彦監修 吉川弘文館
 四.新訂吉記2  高橋秀樹    和泉書院
 五.愚管抄全註解 中島悦次     有精堂
 六.源平合戦の虚像を剥ぐ 川合康  講談社
 七.平家物語上下 山下宏明     明治書院
 八.延慶本平家物語6 9       汲古書院

参考史料(事件と史料の記述のあらまし)

一. 義仲軍入京前

治承五年二月八日  「玉葉」「京中在家を計注せしむ」
治承五年二月二十日 「玉葉」「天下飢饉により富を割き貧に与うという」
治承五年閏二月一日 「玉葉」「官軍の兵粮米尽きる」
治承五年閏二月三日 「玉葉」「美濃の追討使粮料無く餓死に及ぶべし」
治承五年閏二月六日 「玉葉」「兵粮すでに尽き、運上物を点定(徴収)し兵粮米に」
治承五年三月六日  「玉葉」「官兵の兵粮尽きたり」
治承五年三月二十八日「玉葉」「官軍兵粮無し」
養和二年二月二十二日[吉記]「人人を食う事実無し」
養和二年三月十七日 [吉記]「兵粮米徴収を検非違使庁の遣いに託す」
養和二年三月十九日 [吉記]「道路に死骸充満」
寿永二年四月十三日 「玉葉」「武士等狼藉」
寿永二年四月十四日 「玉葉」「武士等狼藉」「平宗盛に訴えるも止まず」
寿永二年四月、   「平家物語」平家軍は進軍途中で片道分を路次追捕。
寿永二年七月二十一日「玉葉」「其の勢僅か千騎」有名無実の風聞かくのごとし。
寿永二年七月二十五日「玉葉」「宗盛以下安徳天皇を奉じ淀に」「法皇御登山」平家軍退却。
「愚管抄」平家軍退却時「物とりと名付たる者、火の中へあらそい入りて物とりけり。」
寿永二年七月二十六日[吉記]「山僧等京に下る。路次の狼藉・・・放火、追捕・物取。」
「愚管抄」法皇退避し時、「そのせつな京中はたがいについぶくをして物もなくなりぬ」
寿永二年七月二十七日「玉葉」「義仲、行家等、士卒の狼藉を停止、早く入京すべしか」

二. 義仲軍入京後

寿永二年七月二十八日「玉葉」「義仲・行家入京す」「京中の狼藉の停止すべき」
寿永二年七月三十日 「吉記」「京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及ぶ」
寿永二年七月三十日 「玉葉」「京中の狼藉及び兵糧用途如何すべきか」
寿永二年八月六日、 「玉葉」「京中の物取り追捕逐日倍増」
寿永二年八月二十八日「玉葉」「武士十余人の頸を切る」
寿永二年九月三日  「玉葉」「人々の災難法皇の乱政と源氏の悪行より生ず」
寿永二年九月五日  「玉葉」「京中の万人存命不能」一切存命出来ない。
「愚管抄」義仲軍等の入京後は「かくてひしめきてありける程に」
寿永二年十月九日  「玉葉」「頼朝数万の勢を率い、入洛せば京中堪えるべからず」

三. 義仲軍敗北後

寿永三年一月二十七日「玉葉」「余の庵借り上げの指示」義経軍は兼実の庵を徴用。
寿永三年一月二十八日「玉葉」「隆職追捕さる」頼朝軍の乱暴狼藉の記述がある。
「元歴元年二月四日、「平家物語・延慶本」鎌倉軍追捕「梶原摂津の国勝尾寺焼き払う」
寿永三年二月二十三日「玉葉」「武士押妨停止」「公田庄園への兵粮米を徴集停止」
元暦二年一月六日  「吾妻鏡」「船無く粮絶え、」「乗馬を所望、馬は送らぬ」
元暦二年四月十五日 「吾妻鏡」「庄園の年貢を抑留し、国衙の官物を掠め取り」
文治元年十一月二十八日「吾妻鏡」「兵粮米(段別五升)を課す」
文治二年三月二十一日「吾妻鏡」「諸国の兵粮米催しを停む」

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