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2006年6月 8日 (木)

五.乱暴狼藉の真相・・・とんだ濡れ衣

五.乱暴狼藉の真相・・・とんだ濡れ衣

五.一 追捕(ついほ、ついぶく)

 当時の乱暴狼藉とは「追捕」による食料・兵糧米の調達のときのいざこざである。平家軍に始まった路次追捕の許可について玉葉に記述は無いが、法皇以下の朝廷の暗黙の了承は出ていたと思われる。その理由は「一ノ谷合戦」後に頼朝の申請により、この路次追捕を取り消す宣旨(せんじ)が寿永三年二月に記述されている。つまり平家軍、義仲軍、頼朝軍ともに路次追捕(という乱暴)をしていたことになる。
 この追捕(ついふく)が官軍となった義仲軍にも引き継がれた。平家軍に参加し、徴兵徴発された将兵の大部分は義仲軍に投降したり、はやばやと逃げ帰った京都近辺の将兵なども義仲軍と同時に源氏軍として入京した。また大部分は後に義仲軍不利となると頼朝軍に鞍替えした。当時の不安定な政治情勢ではそれぞれが家系の存続のため右往左往していた。それらの将兵の食糧の調達は平家軍と同様に官軍としての追捕(つまり略奪)によるものであった。義仲軍は源平盛衰記によれば、百斉寺から米五百石の寄付を受けたようである。しかし全軍に支給するには不足している。木曽軍五万騎、五万人とすると一人当たり一升つまり二日分しかない。仮に実数五千人としても一ヶ月分もない。とすると京都周辺で追補による食料調達をしたと思われる。この時期の武士達の食糧調達は「本人持参」や「寄付」以外には、この「路次追捕」と「諸国の荘園等からの兵粮米」などの追捕による。頼朝が後に発令させた宣旨から判断すると、義仲は「路次追捕」は取り締まったようだが、「諸国の荘園等からの兵粮米」は継続したようである。荘園を保有している法皇・宮家・公家・神社・仏寺からは追捕徴集したかもしれない。入京時の七月二十八日(旧暦、新歴八月二十四日)は米の収穫前で特に食料が不足していた。その後新米の収穫が始まり兼実の風聞でも一ヶ月ほど(旧暦九月五日、新暦十月一日)で追補は終了したようだ。食料の確保が出来れば治安の回復は容易である。その後上京した義経軍も京都市内では遠慮したが、平家側とみなした公家や京都以外では追捕・乱暴した。

五.二 「平家物語」の木曽義仲軍の乱暴説は捏造である
        では真犯人は元平家軍将兵、僧兵、一般市民である

 「愚管抄」によれば、義仲軍等の乱暴狼藉の記述は無く、義仲軍等の入京後は「かくてひしめきてありける程に」である。「押し合ってごたごたしているうちに」である。何も無く無風であったわけではない。大混乱の中へ進駐したのである。当時、京都市内の民家は公卿の家も含め、官軍平氏の兵舎として徴用されていた。なお兼実は右大臣であるから、平家や義仲は遠慮したが、義経軍は兼実の庵を徴用したようである。
 頼朝、義仲の反乱を始め各地で反乱が起き、平家は追討軍を発するが、その軍の集結地として、京都市内の徴用された民家などが使用された。出発する前の平家軍による追捕などの混乱があった。さらに僧兵、市民による略奪の混乱中であった。それを一応制圧したようである。しかし、六波羅の放火略奪、市内の市民等の略奪、落武者狩の惨状に比べれば、平家軍、義仲軍の追捕によるごたごたなどは慈円から見れば問題ではないようだ。
 とにかくこの時代は全国的な内乱状態で、市内は強盗、群盗、放火など平家軍、源氏軍、僧兵、公卿の従者、庶民の乱暴が横行した時代である。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代である。当時の権力者、鎌倉の頼朝や京都の朝廷に逆らう事は困難である。それらをまとめて義仲軍のせいにしたようである。「平家物語」の「創作・誇張」である。「玉葉」による風聞の「大袈裟」な表現によるものである。「平家物語」の木曽義仲軍の乱暴説は捏造である。では真犯人はというと元平家軍(後に源氏軍)将兵、僧兵、一般市民である。彼らの前で彼らが乱暴狼藉を働いた場面は語れない。

六.「風聞と実態の違い」

六.一 兼実は病弱で神経過敏で大袈裟

 兼実は法皇や平家の権力中枢から遠ざけられているが、いつか返り咲きを期待し、宮中や市内外から各種情報を集め記録している。親類縁者をはじめ、平家関係者からも情報を集める。但し病弱のせいか伝聞・風聞・或人云うが多い。伝聞・風聞であるから、真偽明らかではない事も、後日真偽の確認のため記録するとしている。風聞は大袈裟だから注意すべしと云いながら、風聞等を実によく記録している。風聞を後日訂正している場合もあるが、修正してない場合も多い。特に義仲軍、頼朝軍の入京の風聞は各所に出てくるが殆ど修正していない。記述した事が真実とは限らない。
 その風聞の程度は約十分の一に割り引いて受け取る必要がある。その理由は本人も自覚しているように軍勢の数の風聞と実数の違いである。(寿永二年七月二十一日参照)かなり神経過敏で、地震、雷鳴、大雨、大風などの天変地異にも驚き、官軍(平家軍)が大敗したとか、南都(奈良)の七大寺が焼き討ちされた、熊野の那智が荒れた、自分の意見が採用されない、除目(人事異動)が気に入らないときなど、得意の「可悲」(悲しむべし)、天下・王法・仏法・我が朝「滅亡」・「滅尽」、「未曾有」(みぞう)、「不能左右」(左右する能わず)、「可弾指」(弾指すべし)を連発し大袈裟である。又記録漏れもある

六.二 「有名無実の風聞かくの如し」「其の勢僅か千騎」

「玉葉」の寿永二年七月二十一日の日記によると、「追討使兼実家の傍を経て発向す」、「其の勢僅か千騎」「午の刻(十二時)追討使が発向する。・・・その勢千八十騎と、多分確かである、日来、世の推しはかる所七、八千騎及び万騎と、その勢在るを見るに、わずか千騎、有名無実の風聞、これをもつて察すべし」と記述され、平家の追討軍の軍勢が家の近くを通ったので数えさせたら千八十騎だった。これを普通世間では七・八千騎または一万騎と称している。兼実自身も「風聞の大袈裟ぶり」を確認している。「風聞」の程度は十分の一に割り引いて受け取るべし。
 もっとも当時の遠征軍の編成方式は天皇の命令書である「宣旨」を旗印として、大将軍とその中心部隊が京都を出発し、進軍途中で、あちこちの将兵などが参加する「駆り武者方式」だったので、京都を出発したときの人数の数倍以上になるようである。初期の平家軍が順調な時期は十倍くらいになったかもしれない。「吉記」の同日の記事では三千騎と記録している。平家物語中の合戦の人数と玉葉の記事を比較するとほぼ十分の1となっている事が多い。平家物語で軍勢五万とある場合、実数は五千と見るのが良いようである。騎馬武者一騎とは、予備の馬一・二頭、従者一・二人が付くのが普通である。

六.三 情報提供者の信頼度

 「玉葉」では「風聞」、「伝聞」、「或人云う」、「人伝」が多い。(「風聞」約百七十回、「伝聞」約三百八十回、「或人云う」約に百三十回、「人伝」約百回・・・約四十年間の回数)この「或人」は誰なのか、信用に足るのか。後日検証すると誤りも多い。義仲軍等乱暴の記述についても「或人云う」であり、兼実は病弱のため自分の眼では見ていない。多分、下級の役人か京都の庶民の何人かが市内外の情報を集め報告していたようである。自分の仲間の不正は報告するはずがなく、信憑性に欠ける。風聞・伝聞・その他を報告する者も大袈裟にしないと意味が無い。「昨今売買の便を失う」と言わせているから商売人か。確実な情報は必ず情報提供者の名前を書いている。前述の如く兼実自身も「有名無実の風聞かくの如し」と「風聞の大袈裟ぶり」を確認している。「風聞」の程度は十分の一に割り引いて受け取るべしと。事件の数は十分の一に、被害の程度はやはり十分の一に割り引いて処理すべきである。兼実は平家など武家には反感を持っているが、何故か頼朝には期待している。兼実が義仲に反感を持っているとわかれば、義仲軍の悪評が集まる。一寸した事件も過大に報告され、記録される。その記事も九月五日を最後に止まる。

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