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2006年6月21日 (水)

7月1日「城助職信濃の国を攻める」

7月1日
「城助職信濃の国を攻める」
右中弁の兼光朝臣(氏院別当)が相語り云う、越後の国の武士(城太郎助永弟助職、在地の武士は白川御館と号す)、信濃の国の追討を欲し、(故禅門(平清盛)前幕下(平宗盛)等の命令である)、6月13.4両日、信濃の国中に入ると雖も敢えて相防ぐの者無し、殆ど降参を請うの輩多し、僅に城等に引き籠もる者に於いて、攻め落とすに煩い無かるべし、
「信濃源氏反撃す」
よって各勝ちに乗るの思いを成し、猶散在の城等を襲ひ攻め欲すの間、信濃源氏等三手に分かれ、(キソ党一手、サコ党一手、甲斐国武田党一手)、俄に時を作り攻め襲うの間、けわしい路に疲れたる旅軍等、一矢を射るに及ばす、散々に乱れ敗れた。大将軍助職は二三カ所負傷し、甲冑を脱ぎ、弓矢を棄て、僅か三百人を相率いて(元の勢は万余騎と)、本国に逃げ脱した。残り九千余人は、或いは切り取られ、或いはけわしい路より落ち命を終へ、或いは山林に交わり跡を暗くし、凡そ再び戦うべしの力は無いようだ。然り間本国の国府庁の役人以下、宿意を遂げる為、助元をあなどりさげすむを欲すの間、
「会津城」
会津の城に引き籠もるを欲すの処、(藤原)秀衡は家来を派遣し、押領しようとした。よって佐渡の国に逃げ去りた。その時相伴う所、わずか45十人のようだ。是事は前の治部卿(藤原)「光隆」卿(越後国を知行の人なり)、今日たしかな説と称して院御所に於いて相語る所のようだ。 後に聞く、佐渡の国に逃げ脱するは謬説である。本城に引き籠もると。
(解説)
「横田河原の合戦」のようである。兼実の日記は漢文であるが、時々カタカナ、ひらがな(和歌)が使われる。Img_6033「平家物語」「猫間中納言」の項に出てくる猫間中納言光隆卿は何の用件で義仲を訪ねたのだろうか。

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