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2006年6月 6日 (火)

二. 「平家物語」に見る乱暴狼藉の記述

一.二 義仲軍入京直前

 寿永二年七月二十五日に平家軍は六波羅の屋敷などに火を付け、京都から退却した。この時法皇は比叡山に逃げた。「愚管抄」によれば平家軍の京都からの退却の時、「物とりと名付たる者、火の中へあらそい入りて物とりけり。」の記述がある。火事場泥棒が発生したようだ。七月二十六日[吉記]には、「山僧等京に下る。路次の狼藉勝げて計ふべからず。或いは降将の縁辺と称し放火し、或いは追捕・物取と号す。人家一宇全うする所無し。眼前に天下の滅亡を見る。・・・」となっており、山僧(比叡山延暦寺の僧兵)も加わり追捕、略奪が横行したようである。平家関係者は特に狙われたようである。
 「愚管抄」によれば、法皇・貴族が比叡山に退避した時、「そのせつな京中はたがいについぶくをして物もなくなりぬ」の記述があり、平家軍が退却し、京都市内の警備が空白になったので、市内は一般市民などが互いに略奪する大混乱になったようである。寿永二年七月二十七日「玉葉」には「平宗盛以下追討の事につき法皇より諮られる」「・・・今においては、義仲(木曽)、行家(十郎)等、士卒の狼藉を停止、早く入京すべしか、・・・」とあり、この混乱の停止を義仲軍に期待した。

一.三 義仲軍入京後

寿永二年七月二十八日「玉葉」には「義仲・行家入京す」「今日義仲・行家等、南北より(義仲は北、行家は南)入京すと。・・・京中の狼藉の停止すべき由」。[吉記]には「義仲行家御前に召し、前内大臣追討すべし由仰せ下さる」とあり、義仲軍が入京した。京中の狼藉の停止を命令される。七月三十日「吉記」には「京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及ぶ。・・・京中守護義仲院宣を奉りこれを支配す。」と、源氏軍その他が追捕したようだ。義仲に京中守護を命じている。さらに、七月三十日「玉葉」には「京中の狼藉及び兵糧用途如何すべきか」と、法皇からは軍勢が多過ぎるから減らせ、京都市内の治安を回復せよ、平氏の追討もせよ、食糧の支給はしないと無理難題を命令される。八月六日、「玉葉」に「京中の物取り追捕逐日倍増」と乱暴狼藉の記述がある。八月二十八日「玉葉」に「武士十余人の頸を切る」と取り締まりの伝聞がある。九月三日「玉葉」には、「四方の通路皆塞がる」「人々の災難法皇の乱政と源氏の悪行より生ず」と、全て刈り取られた。全て奪い取られたと記述がある。九月五日「玉葉」に「京中の万人存命不能」と、一切存命出来ない。殺されそうだ。餓死しそうだと記述する。十月九日「玉葉」には、「頼朝忽ちに上洛すべからざる故を申す」と、頼朝に上京を促がしたが鎌倉軍も兵粮米の調達のために追捕をすると京都市内は堪えられないとし、その他の理由もあり断った。しかし、「愚管抄」によれば義仲軍等の入京後は「かくてひしめきてありける程に」である。「押し合ってごたごたしているうちに」である。

一.四 義仲軍敗北後

 寿永三年一月二十日義仲軍は義経軍に敗北した。一月二十七日「玉葉」に「余の庵借り上げの指示」とあり、義経軍は兼実の庵(別宅)を徴用したようである。さらに、一月二十八日「玉葉」には「隆職追捕さる」と、頼朝軍の武士が兼実の部下の隆職を平家関係者と誤認して、追捕し乱暴した。二月四日、「平家物語・延慶本」に「梶原摂津の国勝尾寺焼き払うこと」の場面に鎌倉梶原軍の追捕乱暴の記述がある。二月二十三日「玉葉」には「宗盛追討宣旨」「源義仲党類追討宣旨」「武士押妨停止の宣旨」「公田庄園への兵粮米を徴集停止の宣旨」と、平家軍、義仲軍の残党の追討に続き「路次追捕」と「諸国の荘園等からの兵粮米」取り消す宣旨(せんじ)が記述される。ただし、「武士押妨停止の宣旨」については、「・・・但し由緒有るに於いては、彼の頼朝子細を相訪らひ、官に言上し、・・・」とあり、院宣(法皇の命令書)があれば許可された。また、「公田庄園への兵粮米を徴集停止の宣旨」についても、「・・・況や源義仲その跡を改めず、益々この悪を行う。・・・」となっているので、義仲は路次追捕は取り締まったようだが、公田庄園への兵粮米の徴集は続けたようである。元暦二年一月六日「吾妻鏡」には「船無く粮絶え、船を用意し兵粮米を送る」「乗馬を所望、馬は送らぬ」と、頼朝軍はそれ以後路次追捕を完全に停止したかというと、そうはいかず兵粮米不足に悩み追捕を続けたようである。四月十五日「吾妻鏡」には、「東国侍の内任官の輩本国に下向することを停止」と、平家滅亡後、義経以下の武士の自由任官を非難する頼朝の有名な文書にも追捕を非難する「庄園の年貢を抑留し、国衙(こくが)の官物を掠め取り」の文章がある。さらに「渋谷馬の允(じょう)、父は在国なり。而るに平家に付き経廻せしむの間、木曽大勢を以て攻め入るの時、木曽に付いて留まる。また判官殿御入京の時、また落ち参る。度々の合戦に、心は甲にて有れば、・・・」と、平家、義仲、義経と主君を変更する渋谷馬の允の例がある。文治元年十一月二十八日「吾妻鏡」「兵粮米(段別五升)を課す」。再び全国一律の兵粮米(段別五升)の徴収を始める。

二. 「平家物語」に見る乱暴狼藉の記述

 殆どの平家物語には義仲軍入京後「およそ京中には源氏みちみちて、在々所々に入り捕り多し。・・・」とあり、後世の小説家や歴史研究者の多くがここだけ取り上げて、いかにも義仲軍のみが乱暴狼藉したように説明している。しかし、義仲軍入京の前に義仲軍追討のため派遣した平家軍が北陸への北国下向の場面において「かた道を給はッてげれば、・・・の道のほとりを次第に追捕(ついふく)して通りければ、人民こらへずして、山野にみな逃散す。」となっている。延慶本には、さらに「・・・、人民を費やし国土を損ずる事なし。」と詳細に記述する。兵粮米不足であるが、反乱軍の鎮圧はしなければならない。やむをえない選択である。正式な天皇の命令、宣旨が出たか、暗黙の了解かは不明である。当初院宣は出なかったようであるが、後に頼朝は院宣を受けるように変更した。食糧だけでなく、色々な資材や、人夫をも徴発したようである。多分、食糧や資材の調達や輸送その他の雑用に使用された。つまり、保元・平治の乱以後、約二十年間権勢を誇った清盛平家軍も頼朝や義仲などの各地で起こる反乱軍の鎮圧に官軍として追討軍を派遣している内に飢饉も重なり兵粮米が不足し、とうとう寿永二年四月の義仲追討軍の場合は進軍途中で片道分を路次追捕(ろじついふく)という名目の現地調達・強制取り立てを認めさせたのである。進軍途中の官庁、神社仏寺、民家からの強制取り立てを行った。追捕の名目とはいえ実態は略奪に等しいとされ、普通の民間人の略奪をも追捕(ついほ、ついぶく)というようになった。そして、鎌倉軍の場合は高野本などでは乱暴狼藉の記述が無い。しかし「平家物語・延慶本」や兼実の日記「玉葉」には平家軍、義仲軍、頼朝軍ともに追捕による乱暴狼藉の記述がある。また兼実の「玉葉」、経房の「吉記」などの貴族の日記、慈円の「愚管抄」によれば、京都市内の混乱は平家軍退却前後から、つまり義仲軍入京前から始まっており、その混乱の鎮圧を義仲軍に期待したのである。
 「平家物語」延慶本には、平家軍、義仲軍、鎌倉軍の追捕の記述がある。義仲軍入京前の混乱の記述は無い。義仲軍の追捕乱暴は、同様な状態が平家軍・頼朝軍にも繰り広げられたと想像するのが普通である。実際の現場で追捕の行為を行うのは「かり武者方式」により各地からかり集められた下級の武士や農民などである。平家軍が始めた追捕の方式がそのまま義仲軍・頼朝軍にも引き継がれた。義仲軍も京都に入る前までは寄付に頼っていたようであるが、入京後は寄付のみでは食糧が不足するので追捕やむなしとして、追捕禁止の命令は直ぐには出せなかったようである。
 鎌倉軍の追捕乱暴は「梶原摂津の国勝尾寺焼き払うこと」の場面に「元歴元年二月四日、梶原一ノ谷へ向かいけるに、民ども勝尾寺に物を隠す由をほの聞きて、兵襲いせめしかば、老いたるも若きも逃げ隠れき。三衣一鉢を奪うのみにあらず、たちまちに火を放ちにければ、・・・」とあり、義経の目付役として有名な梶原景時が食料調達のための追捕の軍勢の指揮官として登場している。一の谷の合戦場へ向かう途中である。食糧や衣類を追捕(略奪)している。勝尾寺は焼失したが、戦後、頼朝は再建し、梶原景時が尽力したと記録されている。

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