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2006年6月

2006年6月30日 (金)

9月10日「平通盛軍敗退津留賀城」

9月10日 天晴
「平通盛軍敗退津留賀城」
平通盛朝臣の軍兵が、加賀の国の武士等の為追い降さる事は確かのようだ。仍って津留賀城に引き籠もり、軍兵を追加すべきの意見を申請した。仍って武士等を派遣しようとするようだ。
9月10日  [吉記]
「越前合戦の実説を聞く」
越前合戦の事は実説のようだ。去る6日兵衛の尉平清家を以て大将軍と為し、官軍を指し遣わし加賀境に於いて、合戦の最中、当国の武士の新介実澄、従前従儀師最明(検非違使、藤原友実弟)等、初め官軍と為し出発の処、忽ち反乱軍に同意し、後ろより攻め入りの由、通盛朝臣の郎従宗者(一族の集団)を為し八十余人打ち出された。戦すでに敗れ、この時、通盛朝臣は猶国府に在り、無勢に依り、重ねて攻め寄せる事は出来ず、敦賀(福井県南部)へ退退却したようだ。詳細は以て実説を猶注記すべし。官軍が敗戦の条、天変地異の符合か。朝廷の大事は何事この如しか。但し以て世間の意見はごうごうか。

9月11日 天晴
伝聞、(平)教経(敦盛卿の子)・(平)行盛等、副将軍として北陸道に下向すべし。また(平)重衡卿等、東国に赴くべしと。

9月12日 天晴
「経正若狭に在るも国境を越えず」
伝聞、通盛は津留賀城を逃れ、山林に迷い込んだようだ。但し実説は知り難し。経正朝臣は猶若狭(福井県西部)に在り。全く国境を越えず。通盛は件の朝臣を待ち、攻め寄せようと欲するの間、遅延した。かえって追い落された。経正の不覚の致す所の由と、世間は以て謳歌するようだ。

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2006年6月29日 (木)

9月6日「熊野湛増関東赴くという」

9月4日 「吾妻鏡」
「木曽の冠者平家追討の為北陸道を廻り上洛」
 木曽の冠者平家追討の為北陸道を廻り上洛した。而るに先陣根井の太郎は越前の国水津に至り、通盛朝臣の従軍とすでに合戦を始めたようだ。

9月6日 天晴
「熊野湛増関東赴くという」
伝聞、熊野の権別当湛増は坂東に赴任したようだ。
「菊池と原田同心し平貞能を妨たげんとす」
鎮西(九州)の反乱は殊に甚だしい。菊池と原田と元は仇敵と雖も、すでに和平し、同心し貞能を妨たげようとしている。貞能は備中(岡山県西部)の国に逗留し、兵粮米を願望しているようだ。

9月9日 天晴
伝聞、通盛朝臣、越前(福井県)・加賀(石川県)の国人(武士)等の為頗る敗られた。すでに上洛を企てるようだ。但し実説はこれを尋ねるべし。
「湛増法皇に書札を進すという」
また聞く(この事一昨日聞く所、忘却し今日これを記す)、熊野の別当湛増は、使いの人に申し付け、書状を法皇に進上した。これ関東に向かうと雖も、全く反乱の儀に非ず。公の為、間違った事有るべからずと。此の申し状は尤も多く不審かな。

9月9日 [吉記]
「越前合戦に於いて官軍敗れる」
越前の合戦は、すでに終わり。官軍破られ、中宮の亮(すけ、次官)(平通盛)は敦賀(福井県南部)に引退するの由、今日飛脚が到来したようだ。左右(そう、かれこれと言うこと)及ばずの事か。

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2006年6月28日 (水)

9月1日 [吉記]「北陸道合戦の風聞あり」

9月1日 陰晴不定 [吉記]
「北陸道合戦の風聞あり」
或る者云く、(平)通盛朝臣は越前(福井県東部)の国府に在り。而るに去る月二十三日、反乱軍が国中に乱入し、大野・坂北両郷を焼き払う。加賀(石川県南部)の国の住人(武士)等の仕業のようだ。勝負は今明に在り。猶官軍の増援すべきの由、飛脚を差し遣わし申し上げたようだ。近日引き続き絶え間ない風聞は此のような事である。

9月2日 天晴 
「平通盛北陸道賊徒征伐能わず」
伝聞、北陸道の反乱軍、意気盛んである。通盛朝臣は征伐することが出来ない。加賀以北、越前の国中に猶命に従わない連中が有るようだ。

9月3日 「吾妻鏡」
「越後の守資永頓滅」
 越後の守資永(城の四郎と号す)勅命に任せ、当国の武士等を駈り集め、木曽の冠者義仲を攻めようと擬すの処、今朝急死した。これは天罰を受けたか。
   従五位下行越後の守平朝臣資永
     城の九郎資国男、母将軍三郎清原の武衡(兵衛府)女
     養和元年八月十三日任叙

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2006年6月27日 (火)

8月16日 [吉記]「通盛北陸道追討使」

8月16日 [吉記]
「通盛北陸道追討使」
今朝、中宮の亮(ちゅうぐうのすけ、次官)(平)通盛朝臣が北陸道の追討使として出発した。駒牽(こまひき、宮中の御料馬天覧の儀式)無し。信乃の国(長野県)反乱軍の為横領された為である。

8月16日 「吾妻鏡」
 中宮の亮通盛朝臣、木曽の冠者を追討する為、また北陸道に赴任した。伊勢の守清綱・上総の介忠清・館の太郎貞保、東国に向け出発した。武衛(頼朝)を攻撃する為である。

8月20日天気はれ、
「法皇双六」
参院、法皇に呼び出しを欲すと雖も、御双六始めの間、暫し伺候(近くで待機)の由仰せ有りに依り、数刻伺候、猶御双六終わらず、よつて定能卿の計らいに依り退出した。

8月23日 天晴 [吉記]
「伊豫の国通清誅伐」
伝聞、伊豫(愛媛県)の国の在庁の役人の川名大夫(越智・河野)通清が誅伐されたようだ。

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2006年6月26日 (月)

8月15日「除目有り、陸奥の守藤原秀衡、越後の守平助職」

8月15日 朝雨、午後晴れ、
「除目有り、陸奥の守藤原秀衡、越後の守平助職」
去る夜、除目(人事異動)有り。隆職がこれを注進した。
    陸奥の守藤原秀衡
    越前の守平親房
    越後の守平助職
この事は先日評議した決定の事である。天下の恥とは、何事もこれに及ばない。悲しむべし悲しむべし。大略、大将(宗盛)等、計略を尽きたようだ。この中で、親房の事は納得出来ない。通盛が国司として下向した。忽ち他の人を任ぜられた。如何々々。尋ねるべし、

8月15日 [吉記]
 朝間、前の大将より示し送らるる事有り。秀衡・助職等の事である。相次いで院宣(法皇の命令書)が到来した。
詳細は同前。
   太政官謹奏、
    陸奥国   守従五位下藤原朝臣秀衡
    越前国      守従五位下平朝臣親房
    越後国   守従五位下平朝臣助職
       養和元年八月十五日
親房は、基親の息子で、前の近江(滋賀県)の守である。秀衡・助職の事は人以て歎いた。
今朝、北陸道追討使の但馬(兵庫県北部)の守(平)経正(つねまさ)朝臣が出発した。家来を五百騎ばかりを引率したようだ。

8月15日 「吾妻鏡」
 鶴岡若宮遷宮。武衛(頼朝)が参り給うようだ。今日平氏但馬の守経正朝臣、木曽の冠者を追討する為、北陸道に出発したようだ。

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2006年6月25日 (日)

8月8日「能登国反く」

8月8日 天晴 
「能登国反く」
伝聞、能登の国(石川県北部)、法に反くの如しである。国司の従者が首を切られた。

8月12日 天晴 
「足利の俊綱頼朝に背く」
伝聞、足利の俊綱が頼朝に背くの聞こえ有り。また秀平が官軍に味方する心有りと。これに因って、京中の武士、昨今の間、いささか雄々しさを称すの気力が有るようだ。頼朝が秀平の婿たるの説は誤りのようだ。また聞く。頼朝は甲斐の保田三郎義貞を征伐した。謀反の心の聞こえ有るが故のようだ。

8月13日 「吾妻鏡」
 藤原秀衡、武衛(頼朝)を追討せしむべきである。平資永、木曽義仲を追討すべきの由宣下あり。これは平氏の申し行うに依ってである。

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2006年6月24日 (土)

8月6日「関東の賊徒、猶未だ追討に及ばず」

8月6日 早旦甚雨、終日陰 午後微雨
14時ごろ、頭弁(経房)が来た。法皇のお言葉を伝えて云うには、
「関東の賊徒、猶未だ追討に及ばず」
関東の反乱軍は猶未だ追討出来ない。余勢が強大の故である。京都の官兵を以て、ただちに攻め落とし難きか。
「秀衡の処遇」
仍って陸奥の住人秀平を以て、彼の国の官吏に任ぜらるべきの由、前の大将(宗盛)申し行う所である。件の国は、素より大略は横領されている。然れば、拝任は何事か有らんや。いかに、
「平助職の処遇」
また越後の国の住人平助職、宣旨に依って信濃の国に向かう。勢力が少なきに依っていくさに敗れしは、全く過ちに非ず、志の及ぶ所、すでに身命を惜しまず、忠節の至り、頗る恩賞有るべきか、且つは同様な者どもを励ますためである、しかし其の方法はいかに、忽ち越州(新潟)を賜はば、其の節を遂ぐる時如何、又只今の如くば、大略は敵軍の為追い帰されたり、其の賞にいずれの国を預けるか、頗る其の謂われ無し、もし然るべき京都の官吏に任ずべしか、進退の間、法皇の判断は決し難し、宜しく思案し申し上げるべしと、
 私は申し云う、追討の間の事、ひとえに大将軍が第一である。しかるに前大将(宗盛)が申し計られる趣旨は異議に及ぶべからず、然れば秀衡を奥州の官吏に任ずる、何事かこれ有らんや、助職の事或るいは官位を授け、(先例有り)或いは京都の官吏に任ず、各定めて其の望み無きか、越州を賜ふ条、秀衡に准ずれば同じ事たりと雖も、両国空しく失せたりの条、実に思慮有るべし、これらの外恩賞の趣、私の思慮は及び難し、凡そこれらの事、すべて以て道理の推す所に非ず、事すでにおさめ難し、よって後害を顧みず、謗(ぼう、そしり)難を知らず、当時の事を成さん為、行われるべき儀なり、然れば百千の事を行われると雖も、彼の雅意に叶わざれば、其の詮議は無かるべし、よって重ねて前幕下に仰せ合わせ、計らひ申さしむる趣に任せ、何事と雖も定め行われるべきなり、議定及ぶべからず、もし猶京官に任ずるならば、靱負尉はいかが、(略)
私は云う、秀衡は国司に任じ、助職は郡司に補す、
(注釈)
靱負尉(ゆぎへのじょう)・・・・御所を警護する衛門府の役人、三等官相当。

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2006年6月23日 (金)

8月1日「源頼朝密かに法皇に奏すことあり」

8月1日 天気陰、
伝聞、前幕下(宗盛)其の勢力は逐日に減少し、諸国の武士等は敢えて参洛(上洛)せず。近日貴賤の領土を奪い武士達に与え、先々に於いて万倍した。然れども其の家来等は怒りと恨みに随い、或いは違方の者有り。凡そ其の心を得ず、恐らく運報は傾くかと。
「源頼朝密かに法皇に奏すことあり」
又聞く、去る日(源)頼朝が内密に法皇に申し上げた。全く謀反の心無し。ひとえに君の御敵(平家)を伐つ為であります。
「頼朝源平両氏共に用うべき旨を申す」
もし猶平家が滅亡されなければ、古昔の如く、源氏・平氏相並び召し仕うべし、関東は源氏之の進止(進退)となし、海西は平氏の任意になし、共に国宰(大臣、国司)においては、上より任命されるべし。只東西の乱を鎮める為、両氏に仰せ付けられて、暫く御試み有るべきなり。且つ両氏の孰(いず)れかが王化を守り、誰か天皇の命令を恐れるや、尤も両氏の翔(ふるま)ひをご覧すべきなりと。此の状を以て、内々に前幕下(平宗盛)に仰せられる。
「平宗盛頼朝の密奏を退けるという」
幕下申し云う、此の儀は尤も然るべし。但し故禅門(清盛)が死亡の刻、遺言して云う、我が子孫、一人と雖も生き残らば、しかばねを頼朝の前に曝すべしと、然れば亡父の誡め、用いざるべからず、よって此の条に於いては、勅命を為すと雖も、請け申し難きものなりと。此の事最も秘事である。人以て知らずと、すでに以上の事等、兵部(兵部省、軍政・武官を担当)少輔、藤原尹(いん)明が内緒に語る所である。件の男は、前幕下(宗盛)の近くにお仕えする人である。平定能が鎮西(九州)に下向は必定、人以て奇を為すと。大略逃げ儲け(用意)の料(おしはかる)といえる。

8月2日  天晴 
 伝聞、駿河の国より上洛の下人(大膳大夫平信兼の家来、即ち件の人は知行の庄を指図する者と)の説に云く、頼朝朝臣の儲け(設け)と称し、仮屋数軒を造作した。凡そみちすがらの国、食糧の米の世話や準備の外、他事無しと。

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2006年6月22日 (木)

7月17日「越中・加賀等国人東国に同意すという」

7月17日 天気晴れ、
「越中・加賀等国人東国に同意すという」
或る人云う、越中(富山県)・加賀(石川県南部)等の在地の武士等、東国に同意し、暫し越前(福井県東部)に及ぶようだ。

7月18日 天気晴れ、
「平通盛北陸道に下向すという」
伝聞、(平)通盛朝臣が北陸道に下向すべし、他の追討使は、只今其の指図は無いようだ。

7月21日 雨下る、
「播磨の国司に背く者有り」
伝聞、播磨の国(兵庫県南西部)又国司に背くの者有り、凡そ畿外諸国皆以て此の如しと。

7月22日 雨下る、
「城助職の勢衰えず」
人伝え云う、越後助職未だ死なず、勢力は又強く減せず、信濃源氏等は横領に似たりと雖も、未だ入部しないようだ。

7月24日
「能登・加賀東国に与力」
人伝えて云う、能登(石川県北部)・加賀(石川県南部)等は皆東国に味方した。Img_6083能登の目代(国守の代理)逃げ上がったようだ。

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2006年6月21日 (水)

7月1日「城助職信濃の国を攻める」

7月1日
「城助職信濃の国を攻める」
右中弁の兼光朝臣(氏院別当)が相語り云う、越後の国の武士(城太郎助永弟助職、在地の武士は白川御館と号す)、信濃の国の追討を欲し、(故禅門(平清盛)前幕下(平宗盛)等の命令である)、6月13.4両日、信濃の国中に入ると雖も敢えて相防ぐの者無し、殆ど降参を請うの輩多し、僅に城等に引き籠もる者に於いて、攻め落とすに煩い無かるべし、
「信濃源氏反撃す」
よって各勝ちに乗るの思いを成し、猶散在の城等を襲ひ攻め欲すの間、信濃源氏等三手に分かれ、(キソ党一手、サコ党一手、甲斐国武田党一手)、俄に時を作り攻め襲うの間、けわしい路に疲れたる旅軍等、一矢を射るに及ばす、散々に乱れ敗れた。大将軍助職は二三カ所負傷し、甲冑を脱ぎ、弓矢を棄て、僅か三百人を相率いて(元の勢は万余騎と)、本国に逃げ脱した。残り九千余人は、或いは切り取られ、或いはけわしい路より落ち命を終へ、或いは山林に交わり跡を暗くし、凡そ再び戦うべしの力は無いようだ。然り間本国の国府庁の役人以下、宿意を遂げる為、助元をあなどりさげすむを欲すの間、
「会津城」
会津の城に引き籠もるを欲すの処、(藤原)秀衡は家来を派遣し、押領しようとした。よって佐渡の国に逃げ去りた。その時相伴う所、わずか45十人のようだ。是事は前の治部卿(藤原)「光隆」卿(越後国を知行の人なり)、今日たしかな説と称して院御所に於いて相語る所のようだ。 後に聞く、佐渡の国に逃げ脱するは謬説である。本城に引き籠もると。
(解説)
「横田河原の合戦」のようである。兼実の日記は漢文であるが、時々カタカナ、ひらがな(和歌)が使われる。Img_6033「平家物語」「猫間中納言」の項に出てくる猫間中納言光隆卿は何の用件で義仲を訪ねたのだろうか。

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2006年6月20日 (火)

6月14日「東国より牒状を山上に送る」

6月14日  
「東国より牒状を山上に送る」
 前源中納言(雅頼)が来た。伝聞、東国より牒状(うったえぶみ)を山上(比叡山延暦寺)に送った。その趣旨は我が方の祈りを勤修すれば、東国の末庄、所領等の用途併せて山上に沙汰し送るべしと。而るに座主(明雲)は件の牒状を以て前の幕下(宗盛)に見せた。また奏聞(法皇に申し上げる)を経た。大衆はこれを聞き、大いに怒りImg_6054て云く、先ず衆徒に知らせるべきである。しかるに引き籠め相触るのは尤も奇怪とする所である。仍って座主と不和のようだ。

6月27日 [吉記]
「越後城資職信乃の国に寄せ攻む」
風聞に云く、越後の国住人資職(城の太郎資永弟、資永去る春逝去)、信乃の国に寄せ攻め、すでに逃げ落ちたようだ。
(解説)
「横田河原の合戦」のようである。

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2006年6月19日 (月)

5月1日 「頼朝上洛せんとす」

Img_60505月1日 晴 
「頼朝上洛せんとす」
 伝聞、頼朝がすでに上洛しようとしているようだ。これは武蔵の有勢の者ども等、異心有り。凡そ各々統一せざるの間、その勢力が殊に滅らざる前に、かねてからの願いを遂げるためのようだ。

5月6日 晴 
「吉野の大衆等蜂起」
 伝聞、吉野の大衆(僧兵)等が蜂起し、高倉の宮(以仁王)の子と称する人がいるようだ。よって法皇より奈良大衆に件の小宮を訪ね出すべき由を仰せられたようだ。

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2006年6月18日 (日)

4月22日「武蔵の国有力の武士ら多く頼朝に乖くとの風聞あり」

4月22日 
「武蔵の国有力の武士ら多く頼朝に乖くとの風聞あり」
伝聞、坂東の武士等、その意思は各々別のようだ。武蔵の国の有勢の者どもは、多く頼朝に背くようだ。凡そ近日の風聞は朝暮に変化有り。遂に其の動静は如何に。

4月26日 天霽 [吉記]
 今日前の大将(宗盛)参院される。禅門(清盛)の事以後初参なり。また頭重衡朝臣始めて参内した。諒闇(服喪)の間、重服(軍服)の人の参内は不審の由、先日女房がこれを示す。

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2006年6月17日 (土)

4月21日「頼朝秀衡の娘を娶る約諾を成すという」

4月21日 天晴 
「頼朝秀衡の娘を娶る約諾を成すという」
或る人が云うには、昨日常陸の国(茨城)より上洛の下人有り。四十余日、北陸道を廻り前途を遂げ入洛したようだ。件の者相語りて云く、秀衡がすでに没するの由は無実である。頼朝は秀衡の娘を娶(めと)るべきの由、相互に約諾を成すと雖も、未だその事を遂げず。
「佐竹の一党の他は頼朝に乖く者無しという」
凡そ関東の諸国は、一人として頼朝の趣旨に背く者無し。佐竹の一党三千余騎、常陸の国に引き籠もる。その名を思うに依って、一矢を射るべきの由があるようだ。その外、一切異途無しと。禅門(平清盛)が逝く事、十八日に風聞した。また同心の城助永は、共に以て若死にした。爰に頼朝且つ雄称(おたけび)して云く、我君に於いて反逆の心無し。君の御敵を伐ち奉るを以て望みと為す。而るに天罰を蒙るを遮りたり。仏神の加被、偏に我が身に在り。士卒の心、いよいよ相励むべきのものなりと。
「清盛死後坂東諸国いよいよ一統すという」
茲に因って平清盛が死去の後、坂東諸国は、いよいよ以て統一した。上洛の件については、追討使が襲来の時、則ち追い帰し、その次ぎに伐ち入るべきの由、準備を成すということだ。様々の浮説の中、この説頗る指南に備うべきか。よって粗くこれを記す。

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2006年6月16日 (金)

4月14日 [吉記]「肥後国菊池高直追討宣旨」

4月14日 陰晴不定 [吉記]
「肥後国菊池高直追討宣旨」
16時頃、左大臣(藤原経宗)のもとへ参上した。肥後の国の住人(菊池)高直追討の事の宣下を申し上げた。早く下知すべきの由これを示された。
  治承五年四月十四日 宣旨
肥後の国(熊本県)の住人藤原高直、連年以来自由勝手に武威を振るい、忽ち天子の徳化に背き、ただ本来居住の州や県のみならず、既に隣国の郷土に及び、偏に非道理の心に任せ、旁(ぼう)々烏合の群を成す。しかのみならず海路に盗賊の賊党となり、陸地に盗賊の党類を結ぶ。庄園・公領を問わず年貢を奪い取り、蚕のような害を庶民に致す。次第に他人の領域の侵略を九国(九州)に企て、都府(みやこ)に及ぼそうと欲するに依り、国府(太宰府)の官吏並びに国々の軍兵等が防御せし処、度々戦闘するの由、太宰府から頻りに以て言上した。仍って追討使を遣わし征伐させるべきである。その間管内の殺傷力を禁圧させるべきの旨、先に法皇庁より使を差し下知した。而るに過度の悪行はいよいよ増し、侵略は未だ休まずと。叛逆の至り、責めて余り有り。宜しく前の右近衛大将平朝臣に仰せ、管内諸国の軍兵を招集し、彼の高直並びに同意し味方する者どもを追討すべし。
                    蔵人頭左中弁藤原経房(奉る)

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2006年6月15日 (木)

4月9日「坂東武者尾張国に来たる」

4月9日 天晴
「坂東武者尾張国に来たる」
或る人が云うには、坂東の武者は、すでに尾張の国(愛知県西部)に来たようだ。

4月11日 天陰、時々小雨 
「坂東武者三河国に来たる」
坂東の武者等は、すでに三河の国(愛知県東部)に越え来たようだ。

4月13日 [吉記]
「肥後国高直追討」
 殿下に参る。藤原信清に付け條々の事を申し上げた。肥後の国の住人菊池高直を追討の由、宣下されるべき事(法皇よりこれを仰せられた)。

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2006年6月14日 (水)

3月28日「官軍兵粮無し」

3月17日 朝陰 
「秀衡頼朝を攻める為白河の関を出る」
伝聞、秀平が頼朝を責める為、軍兵二万余騎が、白河の関の外に出た。茲に因って、武蔵(東京埼玉)・相模(神奈川)の武士達が、頼朝に背いた。仍って頼朝は安房の国(千葉南部)の城に帰住したようだ。また越後の城の太郎助永が病死したようだ。但しこれ等の事、信を取り難し。
「此の如くの風評は、先々皆以てでたらめである。然れども後日真偽を承知するため、聞き及ぶに随いこれを記録する。」

3月26日 天晴 
「去夜重衡入京」
去る夜半、重衡朝臣が入京したようだ。

3月28日 天晴
「官軍兵粮無し」
また聞く、坂東の武士等は、すでに参河の国に超えて来た。実説のようだ。併しながら官兵等は帰洛した。また兵粮無し。その隙を得て襲来すべきか。尤も用心有るべき事か。

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2006年6月13日 (火)

3月13日 [吉記]「美濃合戦の風聞」

3月13日 [吉記]
「美濃合戦の風聞」
美濃合戦の事の報告文書が風聞した。実説を知らずと雖もこれを書きしるす。三月十日、
墨俣河の合戦に於いて、討ち取りし謀反の輩の首目は六人。
頭の亮方(平惟盛)二百十三人(内生取八人)、越前の守(平通盛)方六十七人、権の亮方七十四人、
薩摩の守(平時忠)方二十一人、参河の守(平知度)方八人(内自分有り)、
讃岐の守(平惟時)方七人(同)、以上三百九十人、内大将軍四人、
和泉の太郎重満(頭の亮方盛久が自分で)、同弟高田の太郎(同方盛久郎等分)、
十郎蔵人息字二郎(薩摩の守分)、同蔵人弟悪禅師(頭の亮方盛綱手)
この外に負傷して河ニ逃げ入る者は三百余人。

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2006年6月12日 (月)

3月12日 [吉記]「官軍勝利」

3月12日 天晴れ
「秀衡の籌策」
大外記の頼業が来た。また語りて云く、藤原秀衡が宣旨への答申文書を進上した。その状に云く、はかりごとを魚麗の陣(陣形の一、全形群魚の進むように)に廻らし、賊徒を鳥塞の辺に払うと。然れども、専ら信用し難きものかと。

3月12日 [吉記]
「官軍勝利」
平(頼盛)中納言が文書を送り、またあちこちより報告して云く、去る十日尾張の賊徒等が、彼より洲俣を渡り、官軍に向き逢い合戦した。渡る者は三千余騎に及び千余人打ち取るようだ。事実ならば、一天下四海の慶びは何事もこれに及ばないだろう。

3月13日 天晴れ
「去る十日墨俣にて合戦あり源行家敗れる」
伝聞、去る十日、官兵等は墨俣を渡ろうと欲するの間、尾張を遮る賊徒等が越え来た。五千余騎なり。而るに重衡が舎人の男(金石丸。高名の者なりと)がこれを告げた。茲に因って相防ぎ、10時頃より16時頃まで合戦した。賊党等の千余人をさらし首にした。その後三百余人は河水に溺れ死亡した。大将軍等、多く以て伐ち取った。猶官兵等は墨俣河を渡り、残賊等を襲ったようだ。これは去る夜、飛脚が到来し、称賛し申したようだ。十郎蔵人行家(本名義俊と)は負傷し河に入りた。定めて若死にしたか。然れども、さらし首の中には入らないようだ。

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2006年6月11日 (日)

3月6日「官兵の兵粮尽きたり」 

3月6日 天晴れ
「官兵の兵粮尽きたり」
伝聞、東国の勢力は甚だ以て強大で容易に敗り散す事が出来ないようだ。反乱軍等は協議して云く、官兵等、併せて尾張の国に入り立つの後、総動員して討伐すべき由のようだ。併しながら凡そ官兵の兵粮は尽きた。更に以て計略無し。事の成敗は、近日見るべしと。宮(以任王)と称する人が、伊豆の国に在りと決定した。真偽の間、知り難きと雖も、号する所は此の如しのようだ。これ等の説は、皆信じられ難きか。

3月11日 雨降る
「関東の神領等、併せて賊徒の為虜領せられたり」
経房云く、鴨神社の遷宮は今年に当たる。而るに神領等は、あちこちの領となり、横領される事等、度々訴え申すと雖も、裁許無きの上、関東の神領等は、併せて賊徒の為横領された。社家の財力は、造宮に堪えられない。
(中略)

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2006年6月10日 (土)

3月1日「藤原秀衡頼朝を討たんとす」

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

3月1日 陰、風吹く
「藤原秀衡頼朝を討たんとす」
伝聞、藤原秀平が頼朝を追討すべき由の飛脚を進上し、前の大将に申しあげた。法皇に申し上げず、直に報状を示したり。早々に攻め落すべき由である。但し秀平は全く動こうとせず。ただ詞を以て、此の如く申しあげる計略のようだ。官兵等は水が溢るに依り、未だ尾張河を渡らず。来たる五日合戦するようだ。

3月2日 陰晴不定
「十郎蔵人尾張の国に在り」
伝聞、尾張の武士等は遠江(静岡県西部)に退却する由が日来風聞した。極めて実説性は無し。義俊(十郎蔵人)以下数万、皆尾張(愛知県西部)の国に在り。敢えて動揺無し。官兵は明日(三日)攻め寄せるようだ。これは実説である。坂東の賊首はこれを以て先頭と為すようだ。

3月4日 天晴 
伝聞、三日の合戦は延引した。来る七日のようだ。

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2006年6月 9日 (金)

まとめ参考文献

まとめ

 木曽義仲軍と同時に入京した源氏軍の乱暴狼藉は、当時の食糧調達のための追捕という朝廷公認の軍事行動の一部であり、民間人から見れば乱暴な行為であるが、当時の平家軍も鎌倉軍も同様な追捕をしていた。その他に混乱に乗じて僧兵、一般市民も略奪に参加していた。琵琶法師の平家物語の語り物としては、「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代である。当時の権力者や聴衆に不都合な部分は削除された。そのため木曽義仲軍の乱暴のみが強調された。しかし、平家物語・延慶本や愚管抄には事実の記録が残っていた。「平家物語」の木曽義仲軍の乱暴説は捏造である。では真犯人はというと元平家軍(後に源氏軍)将兵、僧兵、一般市民である。彼らの前で彼らが乱暴狼藉を働いた場面は語れない。

参考文献
 一.訓読玉葉   高橋貞一著   高科書店
 二.全訳吾妻鏡  永原慶二監修  新人物往来社
 三.吾妻鏡・玉葉データペース 福田豊彦監修 吉川弘文館
 四.新訂吉記2  高橋秀樹    和泉書院
 五.愚管抄全註解 中島悦次     有精堂
 六.源平合戦の虚像を剥ぐ 川合康  講談社
 七.平家物語上下 山下宏明     明治書院
 八.延慶本平家物語6 9       汲古書院

参考史料(事件と史料の記述のあらまし)

一. 義仲軍入京前

治承五年二月八日  「玉葉」「京中在家を計注せしむ」
治承五年二月二十日 「玉葉」「天下飢饉により富を割き貧に与うという」
治承五年閏二月一日 「玉葉」「官軍の兵粮米尽きる」
治承五年閏二月三日 「玉葉」「美濃の追討使粮料無く餓死に及ぶべし」
治承五年閏二月六日 「玉葉」「兵粮すでに尽き、運上物を点定(徴収)し兵粮米に」
治承五年三月六日  「玉葉」「官兵の兵粮尽きたり」
治承五年三月二十八日「玉葉」「官軍兵粮無し」
養和二年二月二十二日[吉記]「人人を食う事実無し」
養和二年三月十七日 [吉記]「兵粮米徴収を検非違使庁の遣いに託す」
養和二年三月十九日 [吉記]「道路に死骸充満」
寿永二年四月十三日 「玉葉」「武士等狼藉」
寿永二年四月十四日 「玉葉」「武士等狼藉」「平宗盛に訴えるも止まず」
寿永二年四月、   「平家物語」平家軍は進軍途中で片道分を路次追捕。
寿永二年七月二十一日「玉葉」「其の勢僅か千騎」有名無実の風聞かくのごとし。
寿永二年七月二十五日「玉葉」「宗盛以下安徳天皇を奉じ淀に」「法皇御登山」平家軍退却。
「愚管抄」平家軍退却時「物とりと名付たる者、火の中へあらそい入りて物とりけり。」
寿永二年七月二十六日[吉記]「山僧等京に下る。路次の狼藉・・・放火、追捕・物取。」
「愚管抄」法皇退避し時、「そのせつな京中はたがいについぶくをして物もなくなりぬ」
寿永二年七月二十七日「玉葉」「義仲、行家等、士卒の狼藉を停止、早く入京すべしか」

二. 義仲軍入京後

寿永二年七月二十八日「玉葉」「義仲・行家入京す」「京中の狼藉の停止すべき」
寿永二年七月三十日 「吉記」「京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及ぶ」
寿永二年七月三十日 「玉葉」「京中の狼藉及び兵糧用途如何すべきか」
寿永二年八月六日、 「玉葉」「京中の物取り追捕逐日倍増」
寿永二年八月二十八日「玉葉」「武士十余人の頸を切る」
寿永二年九月三日  「玉葉」「人々の災難法皇の乱政と源氏の悪行より生ず」
寿永二年九月五日  「玉葉」「京中の万人存命不能」一切存命出来ない。
「愚管抄」義仲軍等の入京後は「かくてひしめきてありける程に」
寿永二年十月九日  「玉葉」「頼朝数万の勢を率い、入洛せば京中堪えるべからず」

三. 義仲軍敗北後

寿永三年一月二十七日「玉葉」「余の庵借り上げの指示」義経軍は兼実の庵を徴用。
寿永三年一月二十八日「玉葉」「隆職追捕さる」頼朝軍の乱暴狼藉の記述がある。
「元歴元年二月四日、「平家物語・延慶本」鎌倉軍追捕「梶原摂津の国勝尾寺焼き払う」
寿永三年二月二十三日「玉葉」「武士押妨停止」「公田庄園への兵粮米を徴集停止」
元暦二年一月六日  「吾妻鏡」「船無く粮絶え、」「乗馬を所望、馬は送らぬ」
元暦二年四月十五日 「吾妻鏡」「庄園の年貢を抑留し、国衙の官物を掠め取り」
文治元年十一月二十八日「吾妻鏡」「兵粮米(段別五升)を課す」
文治二年三月二十一日「吾妻鏡」「諸国の兵粮米催しを停む」

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2006年6月 8日 (木)

五.乱暴狼藉の真相・・・とんだ濡れ衣

五.乱暴狼藉の真相・・・とんだ濡れ衣

五.一 追捕(ついほ、ついぶく)

 当時の乱暴狼藉とは「追捕」による食料・兵糧米の調達のときのいざこざである。平家軍に始まった路次追捕の許可について玉葉に記述は無いが、法皇以下の朝廷の暗黙の了承は出ていたと思われる。その理由は「一ノ谷合戦」後に頼朝の申請により、この路次追捕を取り消す宣旨(せんじ)が寿永三年二月に記述されている。つまり平家軍、義仲軍、頼朝軍ともに路次追捕(という乱暴)をしていたことになる。
 この追捕(ついふく)が官軍となった義仲軍にも引き継がれた。平家軍に参加し、徴兵徴発された将兵の大部分は義仲軍に投降したり、はやばやと逃げ帰った京都近辺の将兵なども義仲軍と同時に源氏軍として入京した。また大部分は後に義仲軍不利となると頼朝軍に鞍替えした。当時の不安定な政治情勢ではそれぞれが家系の存続のため右往左往していた。それらの将兵の食糧の調達は平家軍と同様に官軍としての追捕(つまり略奪)によるものであった。義仲軍は源平盛衰記によれば、百斉寺から米五百石の寄付を受けたようである。しかし全軍に支給するには不足している。木曽軍五万騎、五万人とすると一人当たり一升つまり二日分しかない。仮に実数五千人としても一ヶ月分もない。とすると京都周辺で追補による食料調達をしたと思われる。この時期の武士達の食糧調達は「本人持参」や「寄付」以外には、この「路次追捕」と「諸国の荘園等からの兵粮米」などの追捕による。頼朝が後に発令させた宣旨から判断すると、義仲は「路次追捕」は取り締まったようだが、「諸国の荘園等からの兵粮米」は継続したようである。荘園を保有している法皇・宮家・公家・神社・仏寺からは追捕徴集したかもしれない。入京時の七月二十八日(旧暦、新歴八月二十四日)は米の収穫前で特に食料が不足していた。その後新米の収穫が始まり兼実の風聞でも一ヶ月ほど(旧暦九月五日、新暦十月一日)で追補は終了したようだ。食料の確保が出来れば治安の回復は容易である。その後上京した義経軍も京都市内では遠慮したが、平家側とみなした公家や京都以外では追捕・乱暴した。

五.二 「平家物語」の木曽義仲軍の乱暴説は捏造である
        では真犯人は元平家軍将兵、僧兵、一般市民である

 「愚管抄」によれば、義仲軍等の乱暴狼藉の記述は無く、義仲軍等の入京後は「かくてひしめきてありける程に」である。「押し合ってごたごたしているうちに」である。何も無く無風であったわけではない。大混乱の中へ進駐したのである。当時、京都市内の民家は公卿の家も含め、官軍平氏の兵舎として徴用されていた。なお兼実は右大臣であるから、平家や義仲は遠慮したが、義経軍は兼実の庵を徴用したようである。
 頼朝、義仲の反乱を始め各地で反乱が起き、平家は追討軍を発するが、その軍の集結地として、京都市内の徴用された民家などが使用された。出発する前の平家軍による追捕などの混乱があった。さらに僧兵、市民による略奪の混乱中であった。それを一応制圧したようである。しかし、六波羅の放火略奪、市内の市民等の略奪、落武者狩の惨状に比べれば、平家軍、義仲軍の追捕によるごたごたなどは慈円から見れば問題ではないようだ。
 とにかくこの時代は全国的な内乱状態で、市内は強盗、群盗、放火など平家軍、源氏軍、僧兵、公卿の従者、庶民の乱暴が横行した時代である。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代である。当時の権力者、鎌倉の頼朝や京都の朝廷に逆らう事は困難である。それらをまとめて義仲軍のせいにしたようである。「平家物語」の「創作・誇張」である。「玉葉」による風聞の「大袈裟」な表現によるものである。「平家物語」の木曽義仲軍の乱暴説は捏造である。では真犯人はというと元平家軍(後に源氏軍)将兵、僧兵、一般市民である。彼らの前で彼らが乱暴狼藉を働いた場面は語れない。

六.「風聞と実態の違い」

六.一 兼実は病弱で神経過敏で大袈裟

 兼実は法皇や平家の権力中枢から遠ざけられているが、いつか返り咲きを期待し、宮中や市内外から各種情報を集め記録している。親類縁者をはじめ、平家関係者からも情報を集める。但し病弱のせいか伝聞・風聞・或人云うが多い。伝聞・風聞であるから、真偽明らかではない事も、後日真偽の確認のため記録するとしている。風聞は大袈裟だから注意すべしと云いながら、風聞等を実によく記録している。風聞を後日訂正している場合もあるが、修正してない場合も多い。特に義仲軍、頼朝軍の入京の風聞は各所に出てくるが殆ど修正していない。記述した事が真実とは限らない。
 その風聞の程度は約十分の一に割り引いて受け取る必要がある。その理由は本人も自覚しているように軍勢の数の風聞と実数の違いである。(寿永二年七月二十一日参照)かなり神経過敏で、地震、雷鳴、大雨、大風などの天変地異にも驚き、官軍(平家軍)が大敗したとか、南都(奈良)の七大寺が焼き討ちされた、熊野の那智が荒れた、自分の意見が採用されない、除目(人事異動)が気に入らないときなど、得意の「可悲」(悲しむべし)、天下・王法・仏法・我が朝「滅亡」・「滅尽」、「未曾有」(みぞう)、「不能左右」(左右する能わず)、「可弾指」(弾指すべし)を連発し大袈裟である。又記録漏れもある

六.二 「有名無実の風聞かくの如し」「其の勢僅か千騎」

「玉葉」の寿永二年七月二十一日の日記によると、「追討使兼実家の傍を経て発向す」、「其の勢僅か千騎」「午の刻(十二時)追討使が発向する。・・・その勢千八十騎と、多分確かである、日来、世の推しはかる所七、八千騎及び万騎と、その勢在るを見るに、わずか千騎、有名無実の風聞、これをもつて察すべし」と記述され、平家の追討軍の軍勢が家の近くを通ったので数えさせたら千八十騎だった。これを普通世間では七・八千騎または一万騎と称している。兼実自身も「風聞の大袈裟ぶり」を確認している。「風聞」の程度は十分の一に割り引いて受け取るべし。
 もっとも当時の遠征軍の編成方式は天皇の命令書である「宣旨」を旗印として、大将軍とその中心部隊が京都を出発し、進軍途中で、あちこちの将兵などが参加する「駆り武者方式」だったので、京都を出発したときの人数の数倍以上になるようである。初期の平家軍が順調な時期は十倍くらいになったかもしれない。「吉記」の同日の記事では三千騎と記録している。平家物語中の合戦の人数と玉葉の記事を比較するとほぼ十分の1となっている事が多い。平家物語で軍勢五万とある場合、実数は五千と見るのが良いようである。騎馬武者一騎とは、予備の馬一・二頭、従者一・二人が付くのが普通である。

六.三 情報提供者の信頼度

 「玉葉」では「風聞」、「伝聞」、「或人云う」、「人伝」が多い。(「風聞」約百七十回、「伝聞」約三百八十回、「或人云う」約に百三十回、「人伝」約百回・・・約四十年間の回数)この「或人」は誰なのか、信用に足るのか。後日検証すると誤りも多い。義仲軍等乱暴の記述についても「或人云う」であり、兼実は病弱のため自分の眼では見ていない。多分、下級の役人か京都の庶民の何人かが市内外の情報を集め報告していたようである。自分の仲間の不正は報告するはずがなく、信憑性に欠ける。風聞・伝聞・その他を報告する者も大袈裟にしないと意味が無い。「昨今売買の便を失う」と言わせているから商売人か。確実な情報は必ず情報提供者の名前を書いている。前述の如く兼実自身も「有名無実の風聞かくの如し」と「風聞の大袈裟ぶり」を確認している。「風聞」の程度は十分の一に割り引いて受け取るべしと。事件の数は十分の一に、被害の程度はやはり十分の一に割り引いて処理すべきである。兼実は平家など武家には反感を持っているが、何故か頼朝には期待している。兼実が義仲に反感を持っているとわかれば、義仲軍の悪評が集まる。一寸した事件も過大に報告され、記録される。その記事も九月五日を最後に止まる。

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2006年6月 7日 (水)

三.「玉葉」「吉記」に見る乱暴狼藉の記述

三.「玉葉」「吉記」に見る乱暴狼藉の記述

 平家軍の乱暴狼藉は「玉葉」寿永二年四月十三日に「武士等狼藉」と十四日に「武士等狼藉」「平宗盛に訴えるも止まず」の記述がある。義仲軍追討のため北陸方面に向かう平家軍は先ず京都近辺で「追捕」を始めたようである。この後、平家物語の「北国下向」の状況が続くことになる。著者の兼実は右大臣であるが「追捕」について法皇以下の暗黙の了解がなされたことを知らなかったようである。また「他所の事に於いては知るべからず、近辺の濫吹太だ畏怖有り」とあり、兼実には京都近辺の情報しか届いていない。
 義仲軍の入京前、[吉記]七月二十六日には「山僧等京に下る。」となっており、山僧(比叡山延暦寺の僧兵)も加わり物取追捕したようである。「玉葉」七月二十七日には「今においては、義仲(木曽)、行家(十郎)等、士卒の狼藉を停止、早く入京すべしか、」とあり、この混乱の停止を義仲軍に期待した。
 もちろん義仲入京後も混乱は続いた。「吉記」七月三十日にも「京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及ぶ。」と記述されている。これらの乱暴が義仲軍とは限らない。義仲追討の平家軍に参加し、逃げ帰り今度は義仲軍に合流した将兵が平家軍と同様の追捕を行った。どさくさに紛れ込んだ強盗、夜盗、平家の残党かもしれない。なにしろ現代のように警察官や軍隊のような制服を着ているわけではない。田舎を出たときの粗末な服装か途中で平家の落ち武者から略奪した服装かもしれない。義仲軍か平家軍か野盗か判別も出来ないだろう。
 義仲軍の乱暴狼藉は「玉葉」寿永二年八月六日、九月三日、九月五日に記述がある。田は全て刈り取られた。運上物は全て奪い取られた。一切存命出来ない。殺されそうだ。餓死しそうだと記述する。とすれば北朝鮮のように市内には餓死者があふれかえりそうであるが、そのような報告、伝聞、風聞は無い。追捕に逆らった一般人が殺されたという風聞すら無い。八月二十八日には「武士十余人の頸を切る」と取り締まりの伝聞がある。なお九月六日以後は乱暴狼藉の記述が無い。善意に解釈すると、ほぼ一か月で混乱を制圧したようである。頼朝軍の乱暴狼藉は寿永三年一月二十八日に「隆職追捕さる」の記述があり、頼朝軍は京都市内および近辺では追捕を遠慮したが、平家関係者は追捕した。

四.「愚管抄」の記述(愚管抄巻第五より)

四.一 「ものとりの略奪」と「たがいについぶく」

 慈円の著書「愚管抄」によれば、義仲軍の乱暴狼藉の記述は無く、義仲軍入京前の平家軍の京都からの退却の時、「物とりと名付たる者、火の中へあらそい入りて物とりけり。」の記述とか、法皇・貴族が比叡山に退避し、京都の権力・警備が空白になった時、「そのせつな京中はたがいについぶくをして物もなくなりぬ」と記述する。平家物語、玉葉、吉記にも平家軍が京都を撤退するとき、六波羅の屋敷を焼き払った記述はある。しかし「ものとりが争い入る」とか「たがいについぶくした」などの混乱の記述は見あたらない。「火の中へあらそい入(いり)て物とりけり」は、すなわち「火事場泥棒」である。「京中はたがいについぶく」この場合のたがいは誰と誰の組み合わせか、単純には市民同士だが、落ち行く平家軍に市民が襲いかかり略奪した、平家軍が民家などから略奪しながら退却したというように、平家軍と市民ではないだろうか。いわゆる「落武者狩」と追捕か。いずれにしても美しい話しではない。最近ではイラクの首都に米軍が進攻し、フセイン軍が撤退した時や、被災地の治安が悪い時など、一般市民が略奪に走るのを見て、人間の心理行動は万国共通だと思う。
 さらに、慈円の「愚管抄」では「法住寺合戦」も詳細に記述している。「愚管抄」では天変地異とか、火事、放火、強盗、群盗のような事件の記述は非常に少なく政変とか合戦の記述がメインである。その慈円が義仲入京前の京都市内の混乱「ものとりの略奪」や市民の「たがいについぶく」を記述しているのは、よほど印象に残っているのだろう。このような人物が、「玉葉」に記述するような「義仲軍等の乱暴狼藉」を見逃すだろうか。兼実は弟の慈円の面倒をよくみており、当時慈円は法性寺座主であり、七月二十五日には行動を共にしている(玉葉の寿永二年七月二十五日参照)。武士団の追捕は当然の軍事活動とみなした。多分、九条兼実の風聞では混乱が約一カ月続いたようである。しかし、慈円から見れば、義仲入京前の平家その他僧兵や一般民衆の略奪の混乱、法住寺合戦の混乱に比べれば、記述するほどの事件でも無かった。従前の平家軍と同様の食料調達のための当然の追捕とみなした。

四.二 「火事場泥棒」と「落武者狩か」

 「平家物語」は琵琶法師による語り物として広まった。そこで慈円の記述するような平家が都落ちするとき、京中の物とりが集まって物とりした(火事場泥棒)とか、京中の一般民衆が互いについぶく(略奪)をした、平家軍から略奪した(落武者狩)などの混乱の真実を語れるはずが無い。最初の原作者は真実を忠実に記述したかもしれないが、次第に琵琶法師や編集者が、聴衆に受けるように、さらに権力者たる朝廷や頼朝から迫害を受けないように変形編集した。しかし後日記録された「愚管抄」や「延慶本」には記述された。平家物語の作者は僧も加わっているからやはり仲間の悪口は書けない。死人に口無し。義仲のせいにしておこう。とんだ濡れ衣を着せられたものである。庶民に媚び、権威に逆らえず、真実を語れない「平家物語」の限界である。いつの時代でも同じだが、事実のそのままの記述では受けない、売れない、没収される、処罰されるかもしれない。

四.三 兼実・慈円は頼朝贔屓

 慈円は「愚管抄」を記述するにあたり、史料を集め、「平家物語」を耳にし、兄の日記「玉葉」も眼にしたはずである。しかし、真実を記録しておこうと記述したに違いない。養和の大飢饉のとき、鴨長明の方丈記によれば餓死者が四万人も出たほどの大都市に五万の軍勢が入れば、かなりのひしめきあいでかなりの摩擦ごたごたは有るだろう。義仲軍入京前の混乱に比べれば、それほどの混乱では無いようだ。
 平家物語、源平盛衰記、玉葉には義仲軍等の乱暴について非常に詳しく記述するが、義仲入京前に「ものとりが集まる」とか「たがいについぶく」などの記述は無い。「火事場泥棒」とか「落ち武者狩り」など聴衆は聞きたくない。
 入京後「愚管抄」では「かくてひしめきてありける程に」のみである。入京前の「ものとりが略奪」とか「たがいについぶく」などの混乱ぶりに比べれば随分あっさりしている。更に、平家軍、鎌倉軍も追捕による略奪や放火をしたはずだが、その記述が無い。各軍の追捕があえて記述するほどの事でもないのか。軍事行動の一部としての追捕なら、民間人から見ればひどい話しだが、戦とはそのようなものである。平時において民間人の殺人や放火は重大な犯罪だが、戦時において焼き討ち(放火)や征伐(殺人)は当たり前で、将兵や軍人の大量殺人者は英雄になる。
 慈円は義仲贔屓では無い、どちらかといえば頼朝贔屓である。後に頼朝贔屓の兄兼実の推薦により、天台(比叡山延暦寺)座主にも就任した。

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2006年6月 6日 (火)

二. 「平家物語」に見る乱暴狼藉の記述

一.二 義仲軍入京直前

 寿永二年七月二十五日に平家軍は六波羅の屋敷などに火を付け、京都から退却した。この時法皇は比叡山に逃げた。「愚管抄」によれば平家軍の京都からの退却の時、「物とりと名付たる者、火の中へあらそい入りて物とりけり。」の記述がある。火事場泥棒が発生したようだ。七月二十六日[吉記]には、「山僧等京に下る。路次の狼藉勝げて計ふべからず。或いは降将の縁辺と称し放火し、或いは追捕・物取と号す。人家一宇全うする所無し。眼前に天下の滅亡を見る。・・・」となっており、山僧(比叡山延暦寺の僧兵)も加わり追捕、略奪が横行したようである。平家関係者は特に狙われたようである。
 「愚管抄」によれば、法皇・貴族が比叡山に退避した時、「そのせつな京中はたがいについぶくをして物もなくなりぬ」の記述があり、平家軍が退却し、京都市内の警備が空白になったので、市内は一般市民などが互いに略奪する大混乱になったようである。寿永二年七月二十七日「玉葉」には「平宗盛以下追討の事につき法皇より諮られる」「・・・今においては、義仲(木曽)、行家(十郎)等、士卒の狼藉を停止、早く入京すべしか、・・・」とあり、この混乱の停止を義仲軍に期待した。

一.三 義仲軍入京後

寿永二年七月二十八日「玉葉」には「義仲・行家入京す」「今日義仲・行家等、南北より(義仲は北、行家は南)入京すと。・・・京中の狼藉の停止すべき由」。[吉記]には「義仲行家御前に召し、前内大臣追討すべし由仰せ下さる」とあり、義仲軍が入京した。京中の狼藉の停止を命令される。七月三十日「吉記」には「京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及ぶ。・・・京中守護義仲院宣を奉りこれを支配す。」と、源氏軍その他が追捕したようだ。義仲に京中守護を命じている。さらに、七月三十日「玉葉」には「京中の狼藉及び兵糧用途如何すべきか」と、法皇からは軍勢が多過ぎるから減らせ、京都市内の治安を回復せよ、平氏の追討もせよ、食糧の支給はしないと無理難題を命令される。八月六日、「玉葉」に「京中の物取り追捕逐日倍増」と乱暴狼藉の記述がある。八月二十八日「玉葉」に「武士十余人の頸を切る」と取り締まりの伝聞がある。九月三日「玉葉」には、「四方の通路皆塞がる」「人々の災難法皇の乱政と源氏の悪行より生ず」と、全て刈り取られた。全て奪い取られたと記述がある。九月五日「玉葉」に「京中の万人存命不能」と、一切存命出来ない。殺されそうだ。餓死しそうだと記述する。十月九日「玉葉」には、「頼朝忽ちに上洛すべからざる故を申す」と、頼朝に上京を促がしたが鎌倉軍も兵粮米の調達のために追捕をすると京都市内は堪えられないとし、その他の理由もあり断った。しかし、「愚管抄」によれば義仲軍等の入京後は「かくてひしめきてありける程に」である。「押し合ってごたごたしているうちに」である。

一.四 義仲軍敗北後

 寿永三年一月二十日義仲軍は義経軍に敗北した。一月二十七日「玉葉」に「余の庵借り上げの指示」とあり、義経軍は兼実の庵(別宅)を徴用したようである。さらに、一月二十八日「玉葉」には「隆職追捕さる」と、頼朝軍の武士が兼実の部下の隆職を平家関係者と誤認して、追捕し乱暴した。二月四日、「平家物語・延慶本」に「梶原摂津の国勝尾寺焼き払うこと」の場面に鎌倉梶原軍の追捕乱暴の記述がある。二月二十三日「玉葉」には「宗盛追討宣旨」「源義仲党類追討宣旨」「武士押妨停止の宣旨」「公田庄園への兵粮米を徴集停止の宣旨」と、平家軍、義仲軍の残党の追討に続き「路次追捕」と「諸国の荘園等からの兵粮米」取り消す宣旨(せんじ)が記述される。ただし、「武士押妨停止の宣旨」については、「・・・但し由緒有るに於いては、彼の頼朝子細を相訪らひ、官に言上し、・・・」とあり、院宣(法皇の命令書)があれば許可された。また、「公田庄園への兵粮米を徴集停止の宣旨」についても、「・・・況や源義仲その跡を改めず、益々この悪を行う。・・・」となっているので、義仲は路次追捕は取り締まったようだが、公田庄園への兵粮米の徴集は続けたようである。元暦二年一月六日「吾妻鏡」には「船無く粮絶え、船を用意し兵粮米を送る」「乗馬を所望、馬は送らぬ」と、頼朝軍はそれ以後路次追捕を完全に停止したかというと、そうはいかず兵粮米不足に悩み追捕を続けたようである。四月十五日「吾妻鏡」には、「東国侍の内任官の輩本国に下向することを停止」と、平家滅亡後、義経以下の武士の自由任官を非難する頼朝の有名な文書にも追捕を非難する「庄園の年貢を抑留し、国衙(こくが)の官物を掠め取り」の文章がある。さらに「渋谷馬の允(じょう)、父は在国なり。而るに平家に付き経廻せしむの間、木曽大勢を以て攻め入るの時、木曽に付いて留まる。また判官殿御入京の時、また落ち参る。度々の合戦に、心は甲にて有れば、・・・」と、平家、義仲、義経と主君を変更する渋谷馬の允の例がある。文治元年十一月二十八日「吾妻鏡」「兵粮米(段別五升)を課す」。再び全国一律の兵粮米(段別五升)の徴収を始める。

二. 「平家物語」に見る乱暴狼藉の記述

 殆どの平家物語には義仲軍入京後「およそ京中には源氏みちみちて、在々所々に入り捕り多し。・・・」とあり、後世の小説家や歴史研究者の多くがここだけ取り上げて、いかにも義仲軍のみが乱暴狼藉したように説明している。しかし、義仲軍入京の前に義仲軍追討のため派遣した平家軍が北陸への北国下向の場面において「かた道を給はッてげれば、・・・の道のほとりを次第に追捕(ついふく)して通りければ、人民こらへずして、山野にみな逃散す。」となっている。延慶本には、さらに「・・・、人民を費やし国土を損ずる事なし。」と詳細に記述する。兵粮米不足であるが、反乱軍の鎮圧はしなければならない。やむをえない選択である。正式な天皇の命令、宣旨が出たか、暗黙の了解かは不明である。当初院宣は出なかったようであるが、後に頼朝は院宣を受けるように変更した。食糧だけでなく、色々な資材や、人夫をも徴発したようである。多分、食糧や資材の調達や輸送その他の雑用に使用された。つまり、保元・平治の乱以後、約二十年間権勢を誇った清盛平家軍も頼朝や義仲などの各地で起こる反乱軍の鎮圧に官軍として追討軍を派遣している内に飢饉も重なり兵粮米が不足し、とうとう寿永二年四月の義仲追討軍の場合は進軍途中で片道分を路次追捕(ろじついふく)という名目の現地調達・強制取り立てを認めさせたのである。進軍途中の官庁、神社仏寺、民家からの強制取り立てを行った。追捕の名目とはいえ実態は略奪に等しいとされ、普通の民間人の略奪をも追捕(ついほ、ついぶく)というようになった。そして、鎌倉軍の場合は高野本などでは乱暴狼藉の記述が無い。しかし「平家物語・延慶本」や兼実の日記「玉葉」には平家軍、義仲軍、頼朝軍ともに追捕による乱暴狼藉の記述がある。また兼実の「玉葉」、経房の「吉記」などの貴族の日記、慈円の「愚管抄」によれば、京都市内の混乱は平家軍退却前後から、つまり義仲軍入京前から始まっており、その混乱の鎮圧を義仲軍に期待したのである。
 「平家物語」延慶本には、平家軍、義仲軍、鎌倉軍の追捕の記述がある。義仲軍入京前の混乱の記述は無い。義仲軍の追捕乱暴は、同様な状態が平家軍・頼朝軍にも繰り広げられたと想像するのが普通である。実際の現場で追捕の行為を行うのは「かり武者方式」により各地からかり集められた下級の武士や農民などである。平家軍が始めた追捕の方式がそのまま義仲軍・頼朝軍にも引き継がれた。義仲軍も京都に入る前までは寄付に頼っていたようであるが、入京後は寄付のみでは食糧が不足するので追捕やむなしとして、追捕禁止の命令は直ぐには出せなかったようである。
 鎌倉軍の追捕乱暴は「梶原摂津の国勝尾寺焼き払うこと」の場面に「元歴元年二月四日、梶原一ノ谷へ向かいけるに、民ども勝尾寺に物を隠す由をほの聞きて、兵襲いせめしかば、老いたるも若きも逃げ隠れき。三衣一鉢を奪うのみにあらず、たちまちに火を放ちにければ、・・・」とあり、義経の目付役として有名な梶原景時が食料調達のための追捕の軍勢の指揮官として登場している。一の谷の合戦場へ向かう途中である。食糧や衣類を追捕(略奪)している。勝尾寺は焼失したが、戦後、頼朝は再建し、梶原景時が尽力したと記録されている。

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2006年6月 5日 (月)

「木曽義仲軍乱暴狼藉の真相」

(小論文を作成しました)

「木曽義仲軍乱暴狼藉の真相」

目次

あらすじ
一.当時の食糧事情と事件の概要
二.「平家物語」に見る乱暴狼藉の記述
三.「玉葉」「吉記」に見る乱暴狼藉の記述
四.「愚管抄」の記述
五.乱暴狼藉の真相・・・とんだ濡れ衣
六.風聞と実態の違い
まとめ
参考文献
参考史料(事件と史料の記述のあらまし)

本論文のあらすじ

 「平家物語」には、木曽義仲軍の京都での乱暴狼藉の記述がある。後世の歴史研究者や小説家がこの一部の記述のみを取り上げて、さも義仲軍のみが乱暴狼藉を働いたように大袈裟に記述している。しかしどの平家物語にも平家軍の乱暴狼藉の記述があり、平家物語・延慶本には鎌倉軍の乱暴狼藉の記述もある。さらに公家の日記「玉葉」「吉記」などにも平家軍、義仲軍、鎌倉軍、僧兵、一般市民などの乱暴狼藉の記述がある。
 その乱暴狼藉は近代の軍隊が都市部などへ進攻したとき、規律を乱した一部の兵士の略奪や婦女子への乱暴とは明らかに異なる。当時のそれは食糧の調達のための軍としての組織的な「追捕(ついほ、ついぶく)」である。追捕とは従来の年貢以上に兵粮米(軍用米)の取り立てと称する現地調達である。しかし実態は略奪に等しく、民間人の略奪をもついぶくと言うようになった。これが当時の庶民や貴族から乱暴な行為と見なされ記録された。当時は飢饉も重なり、武士団の遠征軍には追捕が許可されていた。つまり当時の軍隊(武士団)としては兵粮の調達、追捕は朝廷公認の軍事活動の一つである。軍隊(武士団)とは平時の民間人からすれば、異常な行動が正当化されるものである。例えば敵を討つということは殺人であり、平時に民間人が殺人をすれば殺人罪で罰せられる。また戦闘行動のとき放火や破壊は正当な軍事活動だが、平時に民間人が実行すれば放火罪、器物損壊罪となる。平家物語も原作者は事実を正確に記述したかもしれない。しかし琵琶法師の伝承の過程で聴衆や権力者に不都合な部分は削除された。その後再度文章化したとき、義仲軍の乱暴狼藉の場面のみが残った。平家物語における義仲軍の乱暴狼藉は捏造であり、真犯人は元平家軍将兵、僧兵、一般市民である。何故平家物語は捏造されたか、玉葉の記述の信憑性について考察する。

一.当時の食糧事情と事件の概要

一.一 義仲軍入京前

 当時京都以西の西国は大飢饉だった。平家軍も兵粮米の調達に苦心し全国の荘園からも、かき集めた。治承五年二月八日「玉葉」に「京中在家を計注せしむ」とあり、京都市内の民家は公卿の家も含め、点検され、食糧の徴収、官軍平氏の兵舎として徴用された。二月二十日「玉葉」には「天下飢饉により富を割き貧に与うという」とあり、京中在家より徴集した食糧などは軍用米(兵粮米)としてのみでなく、飢饉の為、貧者に分け与えるものでもあると説明された。治承五年閏二月六日「玉葉」に「清盛没後は宗盛万事院宣に従うべき旨を奏す」「反逆を宥行せられるべきか、なお追討せられるべきか」と、清盛の死後、宗盛は「兵粮すでに尽き、征伐の力無し、清盛の沙汰の如く西海・北陸道の運上物を点定(徴収)し、兵粮米にあてるべきかと」と提案し、了承を求めている。さらに各地で発生する反乱に対し、官軍として派遣する毎に兵粮米が不足し、治承五年三月六日「玉葉」には「官兵の兵粮尽きたり」と官兵(平家軍)の兵粮が尽きた、三月二十八日「玉葉」には「官軍兵粮無し」の記述が見られる。養和二年二年二十二日[吉記]には「人人を食う事実無し」と人が人を食うの珍事の記述がある。勿論たんなる風説(デマ)である。記述したが誤りと後日訂正している。また養和二年三月十七日[吉記]によれば「兵粮米徴収を検非違使庁の遣いに託す」と、諸国の庄々に兵粮米徴収の院宣(法皇の命令)を下した。三月十九日[吉記]には「道路に死骸充満」の記述もある。
 しかし未だ不足し、とうとう寿永二年四月の義仲追討軍の場合は「平家物語・北国下向」に「かた道を給はッてげれば、・・・の道のほとりを次第に追捕(ついふく)して通りければ、人民こらへずして、山野にみな逃散す。」と表現されるように、兵粮米の片道分は進軍途中で現地調達(強制取り立て・略奪)を認められた。これを「路次追捕(ろじついぶく)」という。現地調達との名目とはいえ実態は略奪に等しく進軍途中の官庁・神社仏寺・民家は大迷惑である。抵抗すると殺されたり焼き討ちされた。平家軍は京都を出発する時は京都市内外でも追捕をした。寿永二年四月十三日「玉葉」には「武士等狼藉」「武者の郎従等、近畠を刈り取るの間狼藉と」、さらに四月十四日「玉葉」には「武士等狼藉」「武士等狼藉昨の如しと、凡そ近日の天下この事に依りて上下騒動す、人馬雑物、眼路に懸かるにより横に奪ひ取る」、「平宗盛に訴えるも止まず」と、平家軍の追捕、乱暴狼藉があり、平宗盛に訴えるも止まずの記述がある。

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閏2月24日 「平氏一族集会し内議あり」

閏2月24日 朝間雨下、午後天晴れ
「平氏一族集会し内議あり」
伝聞、六波羅辺りの平氏一族の輩、昨日より集会した。密議を致す事等が有り、家来等は遠くに離し、其の趣は他人に聞かせないようだ。世間の人々は恐怖を懐くようだ。

閏2月29日 天晴 
「熊野に強盗乱入す」
伝聞、熊野の那智御山に強盗が乱入した。常住の客僧一人のみも跡を留めず、既に荒廃の地と成したようだ。近日、滝下の霊像の石(飛滝権現と称す是なり)が砕失したようだ。是本山魔滅の徴候である。悲しむべし悲しむべし。
「宗盛の病秘蔵さる」
前の右大将宗盛は病気のようだ。然れども、頗る秘蔵するようだ。

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2006年6月 4日 (日)

閏2月17日「貞能郎従上洛し尾張の情勢を告ぐ」

閏2月17日 天晴れ
伝聞、越後の国の城の太郎助永が、宣旨に依ってすでに甲斐・信乃の国に襲来するの由が風聞した。無実であるようだ。
「貞能郎従上洛し尾張の情勢を告ぐ」
晩に及び、隆職来たり語りて云く、筑前の前司の貞能の家来が、一昨日上洛した。ひそかに相触れる事が有り来向した。語りて云く、官兵その勢万余騎、尾張の賊徒僅かに三千騎ばかりである。短期間で、攻め落とすだろう。日来船が遅延するの間今まで戦わなかった。五百余艘の船がすでに付いた。今に於いては、賊徒の敗績は、程を経ることもないようだ。

閏2月20日 陰晴不定
「南都の僧等、謀反に与力」
行隆また云く、近日、猶南都(奈良)の僧等、謀反に味方するの由、ほぼその聞こえ有り。この状況は如何。余云く、猶この儀有るに於いては、また忽ち何ぞ寛宥の沙汰に及ぼうか。勿論の事か。但し真偽を尋ね捜し、事実ならば、法に任せ沙汰有るべきかといえり。
寛宥:寛大な心で罪過をゆるすこと。

閏2月22日 陰晴定まらず
「熊野の法師尾張に越えたり」
伝聞、熊野の僧兵達が二千余人、尾張に越えた。味方しようとする為のようだ。

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2006年6月 3日 (土)

閏2月12日「関東勢伐入らんとすとの飛脚頻りに到来」

閏2月10日 天晴れ
伝聞、重衡朝臣は来る十三日下向するらしい。今朝先ず検非違使の(藤原)景高が、院宣を相具し(召継を以て御使いとなす)、出発したようだ。

閏2月12日 陰晴不定
「関東勢伐入らんとすとの飛脚頻りに到来」
伝聞、関東の勢力はすでに伐ち入りを欲し、官軍の陣中は物騒しい。飛脚が頻りに到来した。この状況を申し、重衡は明朝に馳せ向かうようだ。

閏2月15日 天陰
「追討使重衡院廰下文を相具し発向す」
今日、追討使の蔵人の頭正四位下平重衡朝臣は、院庁の御下文を相具し、発向する所である。今日は宇治に宿し、来たる十九日、美乃・尾張の境に着くべしと。兵は一万三千余騎が随うようだ。
「重喪中陰の内たりと雖も、宗盛の命により発向す」
重喪中陰(四十九日)の内たりと雖も、前の幕下(宗盛)の命に依って、先父の追慕を顧みずか。重衡は武勇の器量に堪ふるの故、殊にこの撰考に応じたようだ。
「重衛南都を滅亡す」

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2006年6月 2日 (金)

閏2月7日「天下飢饉により関東逆乱の祈り合期せず

閏2月7日 天陰、雨降り
「昨日群議大略一同す」
「天下飢饉により関東逆乱の祈り合期せず大略征伐を休み宥(ゆう)行の儀あるか」
法皇の言葉に云く、関東逆乱の間、天下飢饉に依って、御祈り合期せず。また兵粮すでに尽きた。賊首は尾張の国に群集した。猶追討するべきか。もしまた宥(なだ)め行わるの儀は如何。一同申して云く、先ず院宣を下され、その様子の跡に随い、沙汰有るべし。御祈りと云い、兵粮米と云い、堪えるに随い沙汰あるべきの趣があります。重ねて仰せていわく、院庁の御下し文をなさる。

(中略)
西海(九州)謀反の聞こえ有り。また如何。人々申して云く、西海の事、同じく院庁の下文を下さるべし。使者の事は、両様、或いは主典代、若しくは庁官、或いは四位院司と。
主典代:院庁の記録文書係の院司(いんのつかさ)
院庁下文:いんのちょうくだしぶみ、院庁から発給された公文書。
  (略)
「諸国に院宣を下しその状況の跡に随い沙汰あるべし」

「重衛下向に際し東国勇士等随うべき旨院宣に載すべしと宗盛奏請す」
伝聞、幕下(宗盛)申し上げて云く、重衡に於いては、来十日下し遣わすべき一定である。然れば、東国の勇士等が、頼朝に背き、重衡に従うべきの由、院宣に載すべきである。

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2006年6月 1日 (木)

閏2月6日「清盛没後は宗盛万事院宣に従うべき旨を奏す」

閏2月6日 天晴 
「関東乱逆の事を詮議せらる」
「清盛没後は宗盛万事院宣に従うべき旨を奏す」
前大将の宗盛卿が法皇に申し上げて言うには、・・・今に於いては万事ひとえに院宣の趣を以て存知行います。
「関東の事」
先ず関東の事、兵粮すでに尽き、征伐に力無し、
「反逆を宥行せられるべきか、なお追討せられるべきか」
故入道(清盛)沙汰の如くば、西海・北陸道等の運上物を併せて点定(点検し、定める、徴収)し、かの兵粮米に宛てるべしと。此の条又どの様に致すべきか。もし宥(ゆるす、なだめる)行されるべしの儀有れば、計らひ仰せ下さるべきか、又猶追討されるべしならば、其の旨を存ずべし。
「宥行の儀は朝家の恥なり」
「宗盛権を君に返し暫く隠遁の由を表さざれば宥行の条首尾相応せず」

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