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2006年5月 7日 (日)

12月4日「奥州の戎狄(いてき)秀平」

12月4日 晴れ、
人伝えて云く、江州(近江)の武士等は併せて落ちた。三分の二は、官軍に味方した。その残りは城に引き籠もるようだ。
「奥州の戎狄(いてき)秀平」
また聞く、奥州の戎狄(いてき)秀平が、禅門(平清盛)の命令に依って、頼朝を伐ち奉るべきの由、答申書を進上したようだ。但し実説か否かは未だ聞いてない。

12月5日 天晴
「今日矢合し明日合戦すべし」
伝聞、江州の軍勢(美濃の源氏等を加える)四千余騎が、官兵の軍勢二千余と、今日矢合わせし、明日合戦するようだ。武士等が路次により雑人を往還(往来)せしめず、

12月6日 天晴れ
「雅頼邸狼藉の次第」
「勇士等女房の衣裳を剥ぎ取り追捕の如し」
「中原親能雅頼弟に候すとの聞こえあるにより探索せらる」
「親能幼少より相模の国住人に養育せられ頼朝と知音なりという」
「時忠の沙汰に懸かる人恥辱に及ばざるはなし」
「雅頼家の狼藉し宗盛の下知なり」
伝聞、近江の国の武士等三千余騎が、官兵(僅かに二千騎ばかり)の為に追い散らされたようだ。

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