« 11月30日「近江武士船を点取るため西岸に着す」 | トップページ | 12月4日「奥州の戎狄(いてき)秀平」 »

2006年5月 6日 (土)

12月1日「伊賀の国反乱」

12月1日 晴れ
「伊賀の国反乱」
夜に入り人伝えて曰く、伊賀の国(三重県西部)に平田入道と云う者(俗名は平家継、故平家定法師の男、定能の兄のようだ)有り。件の法師は近州(近江)に攻め寄せ、手嶋の冠者を伐り(仲間や従者、合計で十六人の首を斬る、二人を捕縛したようだ)、また甲賀入道(義重法師なり)の城を追い落したようだ。

12月2日 晴れ
「追討使下向」
 8時頃、追討使が出発した。近江道の方面は平知盛卿が大将軍である。その外一族のものどもが数人同道した。たしかな名を連ね尋ね記禄すると、平信兼・平盛澄等同じく以て出発した。伊賀道は、少将の平資盛が大将軍である。前の筑前の守貞能が同道したようだ。伊勢道は、即ち国司の藤原清綱が向かい出発したようだ。

12月3日 天晴
「官軍勢多野地の在家数千宇に放火し近州逆賊追攻む」
伝聞、今朝近州(近江)の反乱軍は楯を引き逐電した。美濃との境辺りに到る。仍って官軍は勢多・野地等の在家数千軒を放火し追撃したようだ。終日の間余煙は猶尽きないようだ。美濃の源氏等五千余騎が、柏原(近江の国)の辺に出撃したようだ。官兵は近江道・伊賀道に相並び、京から下る軍勢は三千余騎のようだ。また人云く、奈良の僧兵が旺盛に蜂起した。人は何事かを知らず。境節尤も奇怪の事か。比叡山延暦寺の大衆(僧兵)は三方に分割したようだ。一分の座主大衆(僧兵)は官兵に味方した。一分の七宮方(覚快法親王)大衆(僧兵)は両方に味方しない。一分の堂衆(僧兵)の輩は近州の反乱軍に味方したようだ。越後の城の太郎助永は、甲斐・信濃両国に於いては、他人を連れず、一身にて攻め落とすべきの由、申請したようだ。また上野(群馬県)・常陸(茨城県)等の辺は、頼朝にそむくの者どもが出で来たようだ。

|

« 11月30日「近江武士船を点取るため西岸に着す」 | トップページ | 12月4日「奥州の戎狄(いてき)秀平」 »