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2006年5月

2006年5月31日 (水)

閏2月4日「清盛没すと伝聞す」

閏2月4日 天陰雨降り
「清盛没すと伝聞す」
夜に入り伝聞、禅門薨去(こうきょ、薨逝)すと。但し実説か否か知り難し。尋ね聞くべし、

閏2月5日 天晴 
「清盛死去一定」
禅門(清盛)薨逝(こうせい、皇族または三位以上の人の死去)、一定のようだ。
「後白河法皇変異の心あるか」
「清盛後事を宗盛に託す事を後白河法皇に奏す」
昨日朝、禅門(清盛)円実法眼(国家を乱す起原、天下の賊なり)を以て、法皇に奏して云く、愚僧(清盛)早世の後、万事は宗盛に仰せ付けた。毎事仰せ合わせ、計り行わるべしと。法皇の答は詳しくはわからない。ここに禅門は怨みを含むの気色有り。行隆を召して云く、天下の事、偏に前幕下(宗盛)の最なり。異論有るべからずと。

「ただ東国の寇(こう、あだ)に非ず中夏(京都)の乱なり」
「清盛一族の事」
「過分の栄幸」
「衆庶の怨気に天答え四方の匈奴(きょうど)変を成す」
「天台法相の仏法を魔滅す」
「弓矢の難を免れ病席に死するは宿運の貴なり」

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2006年5月30日 (火)

閏2月1日「官軍の兵粮米尽きる」

閏2月1日 天晴 
「官軍の兵粮米尽きる」
夜に入り、有安(飛騨の守?)来たりて云く、禅門(清盛)の病気は、十の九は、その憑(たの)み無しのようだ。又云く、筑前の国司(平)貞能が申し上げて云く、兵粮米はすでに尽きた。今に於いては計略無しのようだ。仍って急ぎ攻めるため、前の幕下(宗盛)は俄に下向しようとするの間、禅門の病により後れたようだ。

閏2月3日 天陰 
「美濃の追討使粮料無く餓死に及ぶべし」
美乃に在る追討使等、一切の粮料無きの間、餓死に及ぶべしと。坂東の賊徒、其の勢は日を追って万倍するようだ。大略万事至極の時なり。

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2006年5月29日 (月)

2月29日「頼輔豊後国に下向せんとす」

2月29日 天晴れ
「頼輔豊後国に下向せんとす」
刑部卿(裁判・行刑の省の長官)の頼輔朝臣が来て話した。豊後の国(大分県)に下向すべし。
「豊後国住人謀叛を企つ」
これ彼の国の住人(武士)等が、謀叛を企て、目代(国守の代理)を追い出した。凡そ鎮西の謀叛に依って、追討使を遣わさるべしと。(但し其の儀停止したりと)もし然れば、当国は滅亡すべし。これ身に取り、任国の外、他の計略無し。賊徒と云い、追討使と云い、旁々以て国中損亡の基である。仍って国司が下向し、住人の梟悪(非常に性質が悪い)を鎮むべし。追討使を境内に入れらるべからざるの由、禅門(清盛)に申せしめ、すでに許可有り。仍って思い立つ所であるようだ。但し事すでに乱心に類している、万人が感心せず、其の実は又怖れ無しに非ずの故
(中略)
「尾張の賊徒美濃国に越来る」
伝聞、尾張の賊徒等が、少々美乃の国に越えて来た。阿波民部重良(田口成良)の徒党を射散らした。相互に負傷者の数有り。官兵の軍の方で、池田の太郎と云う者有り。件の者を捕らへ、生きながら持ち去りたりと。この事実事である。然るに彼の辺りでは秘蔵したているようだ。

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2006年5月28日 (日)

2月20日 「天下飢饉により富を割き貧に与うという」

2月20日 天晴 
「天下飢饉により富を割き貧に与うという」
京中の在家を計られる事は、大略、公家富有の者を知り、兵粮米を宛て命ずべき故と。但し、兵粮米に限るべからず、院宮・諸家併せ宛て奉られるべしは、是天下飢饉の間、富を割き、貧に与えるの義なりと。
「頼朝に乖くの者有り」
伝聞、関東の事、宮(以仁王)はおいでにならない由を聞き、頼朝に背くの者多く有り。甚だ物騒。またその勢は数万騎と云うと雖も、全く物の要に叶うべからず。尤も嗚呼(ああ、残念)なりと。是また実説を知らず、

2月21日 天晴
「坂東軍陣甚だ物騒」
伝聞、坂東の軍陣、太だ以て物騒である。泉の冠者(名を知らず)(源重満)が、十郎蔵人義俊(行家)を召し具し、降参を請い、官軍方に来たるの由が風聞した。但し義俊捕わるの條、果たして以てまちがった事か。信受せられず。

2月26日 天晴
「重衡の鎮西下向停止」
伝聞、関東の徒党は、その勢数万に及ぶ。官兵は少ない。仍って俄に前の将軍宗盛以下、一族の武士、大略下向すべし。来月六七日の頃のようだ。重衡の鎮西の下向は停止したようだ。

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2006年5月27日 (土)

2月15日「鎮西謀叛の輩太宰府を焼く」

2月15日 天晴
「鎮西謀叛の輩太宰府を焼く」
伝聞、鎮西の反乱軍の者どもは日を追って興盛した。太宰府を焼き払ったようだ。

2月16日 天晴
「重衡鎮西に遣わさるという」 
伝聞、知盛卿は帰洛した。その替わり、重衡朝臣が向かうべきの由、その儀有り。然れどもその儀忽ち変り、鎮西に遣わさるべしと。伝聞、今日賊の首を渡さる(十人)。使庁が請け取ったようだ。

2月17日 天晴
「熊野法師阿波国を焼き払う」
伝聞、熊野の僧兵達が、阿波の国(徳島県)を焼き払い、在家の雑物・資材・米穀等の類を追捕(略奪)した。一物残らず捜し取った。また源義俊(行家、為義の子、世十郎蔵人と称す)は尾張の国に居住した。その勢は三万余騎。美乃の国に在る官兵等は僅かに七八千騎のようだ。
「頼朝未だ足柄関を越えず」
頼朝は未だ足柄関を越えず。先ず義利の勢を以て、四手に分け攻め寄せるようだ。
「鎮西謀叛の張本十六人同意す」
また聞く、鎮西の謀叛の者の張本は徒党十六人同意したようだ。

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2006年5月26日 (金)

2月11日「肥後国菊池隆直伐つべき宣旨下さる」

2月11日 天晴
「肥後国菊池隆直伐つべき宣旨下さる」
左少弁の行隆が、鎮西(九州)・伊勢(三重県)等の事を語る。肥後の国(熊本県)菊池郡の住人(武士)の、高直が、謀叛との聞こえ有り。仍って九国の味方に、伐ち奉るべきの由、宣旨を下された。
「熊野の悪徒等、伊勢の国に越え来伊装宮の近辺焼失す」
また熊野の悪徒等が、伊勢の国に越えて来た。伊装宮の近辺を焼失した。すでに内外宮に及ぼうとする時、和泉の守信兼が来たり逢ひ、まれなことであるが伐ち散らした。少々伐ち取ったが、その外は脱する者どもの多くは海に入り逃げたようだ。この外、関東の事に於いては、委しく聞けなかった。
「官軍尾張の国を攻めるため伊勢国船を墨俣渡に廻す」
この間、伊勢の国の船を廻し、須万多(墨俣)の渡に着くべし。その後、官軍は尾張の国に攻め寄せるべきの由、聞く所のようだ。

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2006年5月25日 (木)

2月9日「源義基頸及び弟二人を渡す」

2月9日 天晴れ
「源義基頸及び弟二人を渡す」
伝聞、今日源義基の首と、その弟二人等(生きながらこれを捕り得た。仍って首を刎ねざるの前に、渡されたようだ)を渡された。
「関東の反賊尾張の国に越え来り」
また聞く、関東の反乱軍等は半ばに及び、尾張の国に越えて来た、十郎蔵人義俊(行家)が大将軍であるようだ。その勢力は幾千か幾万かを知らない。
「官軍度々の合戦に疲れ弱気有り」
官軍は度々の合戦に疲れ、頗る弱気で有るようだ。
「平知盛所悩により帰洛」
また左兵衛の督知盛卿は、病気のため、俄に帰京を企て、来る十二日に入洛すべし。その替わり、頭の重衡朝臣が行き向かうようだ。
「大将軍の帰洛は不吉の徴なり」
大将軍の帰京は不吉の兆しの由、世間では謳歌すと。尤も然る事なり。

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2006年5月24日 (水)

2月8日「京中在家を計注せしむ」

2月8日 天晴 
「京中在家を計注せしむ」
夜に入り大夫吏隆職が参来した。(略)又云う、昨日京中の在家を計らひ記録されるべき由仰せ下された。左右京職の官人・官使・検非違使等がこれを記録した。但し国使は入らずと。
「官使等を遣わし渡船等を点検す」
又美濃の国へ官使・検非違使を派遣し渡船等を点検した。官軍に渡すべしの由。同じく以て宣下(以上の担当公卿は別当卿)した。又宣旨をくだされた。注出して持参した其の状は此の如し。
「宣旨」
治承五年二月七日 宣旨
近頃引き続いての年以来、諸候の国々は静ならず、天災地変がしきりに発り、戦争が旁々起り、其の表示の帰り指す思い、偏に是魔縁の致す所か。仏力を仮るに非ざるよりは、何を以て人民を安心させようか。よろしく神社・仏寺・諸司・諸家及び五畿七道諸国に下知す、不動明王の像を顕し、尊勝陀羅尼の摺尊を写し、尊躰数遍を図すべし。数只其の力の堪否に任せ、其の数の多少を定むる勿(なか)れ、供養を如説に遂げ、災難を未兆に攘(はら)へ。

件の宣旨の担当の公家は左大臣の経宗、職事は経房と、事すでに新儀の為、各使を差し触れ廻すべし、兼ねて又宣旨を成した。京中の諸家に分かつべき由は、経房の申す所であるようだ。

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2006年5月23日 (火)

2月1日「源行家の勢尾張の国に超え来る」

2月1日 陰晴不定、時々雪降り
「源行家の勢尾張の国に超え来る」
伝聞、謀叛の賊の源義俊(行家、為義の子、十郎蔵人と号すと)が、数万の軍兵を率いて尾張の国に超えて来たようだ。
「官兵疲弊し寄せる事能わず」
官兵は両度の合戦に疲れ、暫く近江・美濃の辺で休息した。忽ち攻め寄せて戦うべからずと。

2月2日 天晴 
「常陸国勇士等頼朝に乖くという」
伝聞、常陸の国(茨城県)の勇士(武士)等が頼朝に背いたようだ。仍って伐とうと欲するの処、還って散々に射散らされた。この由、飛脚が到来した。今朝官兵を遣わさらば、彼より攻むべきの由申し上げるようだ。但し実説か否か知り難きか。

2月3日 天晴 
「源頼朝常陸を平定すという」
伝聞、頼朝が常陸の国に攻め寄せる間、始め一二度、追い帰さると雖も、遂に伐ち平げたようだ。これまた実否知り難し。一昨日彼の国より上洛するの者の説のようだ。縦横の説聞くに随い之を記録した。(但し事の外の浮説に於いては記録出来ない)遂に虚実を見るべきか。

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2006年5月19日 (金)

1月20日 「頼朝病有りと謬説」

1月20日 晴 
「頼朝病有りと謬説」
或る人云く、頼朝には病が有るようだ。此の如しの誤説は多く、端物か。
伝聞。禅門(清盛)の小女(世間では御子で姫君と称す。巫女の子供のようだ)が法皇宮に納るようだ。凡そ思慮の及ぶ所ではない。警告して余り有り。

1月21日 晴れ
「頼朝夭亡謬説」
伝聞、頼朝の若死には誤説のようだ。

1月25日 夜より雨下る
「美濃国蒲倉城の逆徒誅殺さる」
美濃の国の逆賊等を討伐した(蒲倉城に籠もる、罪ある者を悉く殺したようだ)。件の事は、去る二十日の事のようだ。官軍の負傷者は、数十人に達した。

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2006年5月18日 (木)

1月14日「高倉上皇崩御」

1月14日 晴
「高倉上皇崩御」
午前4時頃、人告げて云く、新院(高倉上皇)すでに崩御された。実説か否かを知らざるに依って相尋ねるの処、6時頃に使いが帰り来たりて云く、事すでに一定である。午前3時頃の事のようだ。

1月16日 晴
「五畿内近国の国司に武士を任じて遠国の凶徒を禦がしむと故院仰せ置く」
左少弁行隆が来たりて云く、諸国の勇士は、併せて反乱の心が有る。仍って先ず五畿内、及び近江・伊賀・伊勢・丹波等の国、武士を任じて以て遠国の凶徒を防がせるべきの由、故院(高倉上皇)は遺言された。
畿内:大和(奈良)、山城(京都南部)、河内(大阪東部)、和泉(大阪南部)、摂津(大阪兵庫の一部)
近江・伊賀・伊勢・丹波:滋賀県、三重西部、三重県、京都府

1月18日 陰晴れ不定
「官兵等美濃の国の源光長を攻む」
伝聞、官兵等は美乃の国に入り、光長の城を攻めた。相互に死者多し。遂に光長がさらし首となったようだ。彼の国の源氏等は、光長の外、仲間は幾ばくもないようだ。而るにすでに頭たる罪有る者を殺した。今に於いては、美乃・尾張両国、共に以て敵対すべきではないようだ。

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2006年5月17日 (水)

1月11日「熊野辺武勇の者伊勢官兵を射取る」

1月11日 雪降り
「熊野辺武勇の者伊勢官兵を射取る」
伝聞、熊野の辺では、武勇の者等が、五十艘ばかりで、伊勢の国に打ち入り、官兵三百余人を射取った。猶国内に居住した。(別島有り、かの島に住むと)この事、去る四日の事のようだ。仍って明日、宣旨を伊勢の国に下し、国内の軍勢を起こし、彼の悪徒を追い払うべきの由のようだ。
「筑紫謀叛の者いよいよ悪逆を事とす」
また筑紫の反乱の者、いよいよ悪逆を大事とする。仍って九国の味方、伐ち奉るべきの由、同じく宣旨を下された。
「官兵御油運上の比良野庄民を殺害す」
また延暦寺の衆徒(僧兵)が蜂起した。比良野庄より御油を運上する間、近江の国の官兵は、散々に打ち散らし、庄民を殺害した。
「延暦の衆徒南都塩滅される事等により蜂起するも熾盛に及ばず。」
此の上南都(奈良)を煙滅された、即ち是仏法を破滅する条、全く他の寺の事に非ず。円頓の遺教、滅尽遠からざる由、殊に以て欝を結び、件の両条の由緒により蜂起したと雖も、今のところあまり盛んには至らないようだ。

1月12日 晴れ
「菊池隆直の余勢数万に及ぶ」
伝聞、筑紫の謀反の者(菊池)隆直の余勢は数万に及ぶ、よって九国の仁(ひと)に伐つべしの由の宣旨を下された。其の状に多いに傾く者ども有るようだ。尋ね聞くべし。

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2006年5月16日 (火)

1181年 (治承5年)1月1日「南京諸寺焼失」

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

1月1日 晴、時々雪降り
「南京諸寺焼失」
そもそも南京(奈良)の諸寺が焼失した事は悲嘆の至りであり、喩え取る物が無い。御寺はすでに灰燼と化した。氏人は在るも益無し。俗世のわずらわしさを棄てるべきは此の時である。猶世事を巻き付け未だ山林に交わらず。東大寺は我が朝の第一の伽藍(仏道修行の場所)であり、異域にも無類の寺院である。今乱逆の世に当り、忽ち魔道のために滅びるの期が顕れたのか。天然の理であり、人力では何ぞその通りとは出来ない。しかれども当時の哀悼(人の死を悲しみいたむ)、黙止すべからず、私の意見のおよぶ所では、すべからず廃朝の儀が有るのか。朝廷の人、敢えて此の儀在らずか。将に又時勢を恐れ、専らただ言葉に出来ないのか。ことはすでに世にまれな事である。大声をあげてなくの礼。又通常を超過すべきか。遂に其の儀は無し。

1月7日 晴
「平知康・大江公友捕えられる」
伝聞、左衛門の尉(平)知康(法皇、近日第一の近習の者である)並びに兵衛の尉(大江)公友等、禅門(平清盛)の許に捕えられた。知康に於いては、重ねて禁固されているようだ。
「大和の国荘園停廃される」
今日、武士(今度は大将軍を派遣せず、ただひそかに郎従が宣下を持ち行き向かう所のようだ)を派遣し、大和の国の荘園を停廃した。並びに無罪の僧綱以下を安堵せしめ、有罪の凶暴の徒党の類を征伐すべしのようだ。
(注釈)
衛門(えもん、右衛門府、皇居諸門の護衛など、職員に督(かみ)、佐(すけ)、尉(じょう)、志(さかん)など)
兵衛(ひょうえ、兵衛府、兵衛の管理など、唐名、武衛)
僧綱(そうごう)僧尼を統領し、法務を統括する僧官。

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2006年5月15日 (月)

12月28日「重衡狛川原辺の在家を焼払う」

12月28日 晴れ
「重衡狛川原辺の在家を焼払う」
伝聞、去る夜平重衡朝臣が南都に攻め寄せた。その軍勢は莫大に依って、忽ち合戦することが出来ないようだ。狛川原の辺の在家を併せて焼き払った。或いは又光明山を焼こうとするようだ。

12月29日 天晴
「重衡南都征伐より帰洛す」
10時頃人告げて云く、平重衡朝臣が南都(奈良)を征伐し、只今帰京したようだ。また人云く、興福寺・東大寺以下、殿堂・家屋、地を払い焼失した。御社に於いては免がれたようだ。また悪徒三百余人これをさらし首にした。その残りは春日山に逃げ籠もったようだ。凶徒の殺されるに至れば、還って御寺の要事である。
「七大寺已下悉く灰燼に変じ仏法王法減尽す」
七大寺以下、悉く灰燼に変わるの條、世の為民の為、仏法・王法減し尽きたるか。凡そ言語の及ぶ所に非ず。筆の先の記すべきに非ず。
(略)
「天台の両寺は度々の災に遭うも南都(奈良)の諸寺に至りては未だ此の如き事なし」
(略)
悲しむべし悲しむべし

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2006年5月14日 (日)

12月25日「平重盛南都追討のため発向す」

12月25日 晴れ
「平重盛南都追討のため発向す」
今日、蔵人の頭で平重衡朝臣が、大将軍として南都(奈良)の悪徒を追討する為出発した。来る二十八日攻め戦すべし。今一両日宇治方面に巡り歩きすべしようだ。伝聞、美濃・尾張の武士等、早く征伐せらるべきの由、官軍にまわしぶみを送る。而るにその勢は敵対出来ない。故に勇士を副え下さることを請願した。仍って追って維盛朝臣(一昨日下向)を遣わしたようだ。又聞く、熊野別当以下すこぶる反禅門(平清盛)の聞こえが有るようだ。(後聞によると無実である)

12月27日 天晴
伝聞、河内地方より、官兵を攻め寄せるの間、大衆(僧兵)の為射危ぶめられ、三十余人が射取られた。その後追い帰されたようだ。宇治地方面への官軍が、今日出発した。明日合戦するようだ。奈良の軍勢は六万騎ばかりのようだ。但し一定の説を知らず。

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2006年5月13日 (土)

12月23日 「維盛朝臣副将軍として、近江の国に下向」

12月23日 天晴 
「維盛朝臣副将軍として、近江の国に下向」
今日、平維盛朝臣が副将軍として、近江の国に出発するようだ。

12月24日 晴れ
伝聞、甲賀入道・山下兵衛の尉等、未だ伐たれず、山下城に籠もる。また尾張・美濃等の武士が、彼に加勢しようとするようだ。或いはそうではないようだ。此の如きの説々、皆以て相違する。信用し難き事か。明日南都(奈良)を攻めること必定のようだ。

12月24日 「吾妻鏡」
「義仲上野より信濃に向かう」
 木曽の冠者義仲は、上野の国(群馬県)をさりて信濃の国に向かう。これ自立の志有るの上、彼の国多胡庄は、亡父の遺跡たるの間、入部したと雖も、武衛(頼朝)の権威すでに東関に輝くの間、帰往の思いを成し此のようにしたようだ。

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2006年5月12日 (金)

12月19日「南都の衆徒和平す」

12月19日 晴れ
「南都の衆徒和平す」
また聞く、南都の衆徒(僧兵)始終無く、大略が源氏の徒党の少々凶悪の者どもに味方したようだ。然りと雖も、惣て大衆(僧兵)が制止を加えるの間、和平したようだ。無礼第一の事か。また頼朝の勢力は十万騎のようだ。三條宮(以仁王)は坂東に在るの由、極めて誤りの説のようだ。また仲綱が伐たれたのは確定である。平等院に於いて自害の者どもの、三人の中の一人である。

12月22日 天晴れ
「官軍南都発向のため大和河内国人道々を守護す」
伝聞、来る二十五日、官軍を南都(奈良)に遣わし、悪徒を捕り搦め、家屋を焼き払い、一宗派を摩滅するようだ。先ず今明の間、大和・河内等の国人(武士)を以て、道々を守護する。その後官兵を攻め寄せるようだ。我が氏滅亡の時に当たり、生を受けるの条、只前世の善悪の行為を恥じる者である。
12月22日 「山槐記」陰晴不定
「右少将惟盛朝臣越前国に下向」
 右少将惟盛朝臣が越前国に出発した。かの国の反逆の者ども有りの間、鎮めるための件の事のようだ。軍兵三十騎ばかりを同道したようだ。

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2006年5月11日 (木)

12月15日「官軍勝利す」

12月15日 天晴
「官軍勝利す」
一昨日、平知盛・平資盛等が敵城を攻めた。甲賀入道並びに山下兵衛の尉義経等の徒党千余騎は即時に追い落とされた。二百余人をさらし首とし、四十余人を捕縛した。残る所併しながら追い散らした。さらし首の中に甲賀入道有ったようだ(後聞無実)。
「上洛の南都衆徒僅かにより大衆与力を表すも一致せず」
南都衆徒(僧兵)は上京の決議したと雖も、凶徒は僅か500人ばかり、惣じて大衆(僧兵)等は当罰の恐れに依り、味方表すの由と雖も其の実一致せず、まして末寺荘園等から招集する事が出来ない。又聞く江州落とされるの由、かたわら忽ちの上京は出来ないようだ。大略事の形勢に随い反乱を企むか。太いに以てあれども亡きがごとし。言語に及ばずの次第である。但し此の如しの事多く虚聞有り。実説は知り難しか。
「皇嘉門院御領地等武士に召し上げらる」
左少弁行隆が奉行となり、女院(皇嘉門院、崇徳天皇の中宮)の御庄々並びに余の領地等から、皆悉く武士を進め召すべしの由仰せ下さる。天慶の例のようだ。是また人を費やし民の煩うことである。
「近日行われる事一として国家をなさざる事なし」
凡そ近日行われる事は、全てが国家を損亡させる事のみである。悲しむべし悲しむべし 。

12月16日 晴れ、大風、
「近江山本城を攻む」
南都の大衆(僧兵)、すでに入洛の由風聞した。然れどもその実無し。今日重ねて官兵等、近江の山下城を攻めるようだ。
「清盛天下の事を宗盛に委ねるという」
伝聞、禅門(清盛)は天下の事を前幕下(宗盛)に委ねたようだ。

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2006年5月10日 (水)

12月13日「南都衆徒上洛決定すという」

12月13日 天晴
「南都衆徒上洛決定すという」
南都(奈良)衆徒(僧兵)上洛決定したの由、去る夜半並びに今朝両度告げ申す事有りと、但し実説か否かは知り難い。夜に入り刑部卿の頼輔朝臣が来た。数刻の談話で、伝聞、前の右中弁親宗朝臣、頼朝と音信の由が風聞した。その事に依って呼び出し詰問されたようだ。
「諸卿に武士を進すべき事催せらる」
また諸卿左右大臣を除くの外、左大将以下、併せて部下の武士を進上すべきの由催促したようだ。これ等は奇異の政治である。平時忠が強行する所のようだ。
(略)
「親宗従者頼朝との内通を認める」
伝聞、前の右中弁親宗、内密の事を頼朝に通報したとの風聞が有り。従者(字六郎、消息の筆を執る者である)を呼び出し詰問した処、承知して従ったようだ。

12月14日 晴れ
「山門凶徒一旦追い散らされるも猶結党」
又聞く、比叡山延暦寺の僧兵は一旦追い散らされると雖も、猶党を結び、学徒(僧兵)多く味方した。座主方の大衆(僧兵)は日を追って減少、反乱軍等は南都衆徒(僧兵)が入京の日を聞き、西坂下より降り、南北より六波羅を寄せ攻めるべきようだ。
「平家の郎従等多く逃散す」
禅門(清盛)・前将軍(宗盛)等の気力は衰えた。従者等の多くは以て逃げ散り、残る所の者も又鋒(ほこ、矛)を争うの心も無いようだ。世間のうわさでは、近江の官兵等、昨日矢合わせ(戦闘開始の合図)。また伊勢の武士等、美濃の国に攻め寄せようとしているようだ。

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2006年5月 9日 (火)

12月11日「山僧と官兵と合戦す」

12月11日 雪白風寒
「山僧と官兵と合戦す」
伝聞、昨日比叡山延暦寺の僧兵と官兵が合戦した。両方の勢力は各々二三十人ばかり、堂衆(僧兵)方の四人がさらし首となった。官兵十人ばかりは手傷を負うたようだ。堂衆等は比叡山中に引き籠もった。或る説に、三井寺に籠もるべしと。また聞く、南都の衆徒(僧兵)、僧綱等の制止に依り、一旦和平すと雖も、全ては知らないようだ。

12月12日 天晴、
「官兵等園城寺周辺を焼く」
伝聞、昨日官兵等は三井寺に押し寄せ(比叡山延暦寺の堂衆が一昨日より引き籠もるなり)、夜の時刻になり合戦した。延暦寺の堂衆(僧兵)の勢力は少なく、引退して江州方面に向かった。官兵等は三井寺の近辺並びに寺中の房舎少々を焼き払った。堂舎に及ばないようだ。官兵方の七十余人が傷を負ったようだ。また聞く、江州の反乱軍等の勢は甚だ強し。忽ち落ち得るべからずと。
「武田の党遠江に来たり参州を伐取る」
武田の党が、遠江(静岡県西部)に来住し、参州(三河、愛知県東部)を伐ち取りたり。美濃(岐阜県南部)・尾張(愛知県西部)、また素より味方したようだ。城の太郎助永がすでに信濃に越えるの由風聞した。誤りの説と。雪が深くて人馬の往来が出来ないようだ。また秀平攻め落とすべきの由、答申書を進上すの旨、その聞こえ有り。而るに行程の推す所、その使い帰参の期に及ばず。疑うには、士卒の心を励ます為の、頗る虚聞であるようだ。
「南都衆徒昨日より興盛」
 16時頃、人伝え云う、南都(奈良)衆徒(僧兵)、此の2.3日蜂起せずの処、俄に昨日より以ての外の興盛で、末寺荘園の武士を招集し、十五大寺一等(統)、今2.3日の間に上京を企てるべしの由、議定既にしたようだ、左右能わずの事か、

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2006年5月 8日 (月)

12月9日 「延暦寺衆徒の一部が山本義経と語らう」

12月9日 天晴
「延暦寺衆徒の一部が山本義経と語らう」
伝聞、延暦寺衆徒(僧兵)の中、凶悪の堂衆(僧兵)三四百人ばかりが、山下兵衛の尉義経(近江の国の反乱軍の張本人、甲斐入道は件の義経に味方するようだ)の語を得て、園城寺を以て城と為し、六波羅に夜打ちに入るようだ。また近江の国に進向する所の官軍等、その後を塞ぎ、東西より攻め落とすべきの由、計画を成すようだ。茲に因って平経雅朝臣・平清房(禅門の息子で、淡路の守である)等、追加して派遣されるようだ。
「興福寺の衆徒宮大衆と称して蜂起す」
また興福寺の衆徒(僧兵)が、逐日蜂起し、宮大衆と称するようだ。四郎房と云う者がいる。武勇の任に堪える徒党は四百余人に及ぶ。これは禅門(平清盛)の味方であるようだ。而るに悪僧等数百人出で来て、件の四郎房を追い払った。関東の反乱軍は江州に攻め来たるの時、南京(奈良)よりまた京都市内に伐ち入るの由、準備を成すようだ。この事信用できるのか。凡そ近日の事、併せ以て言語の及ぶ所に非ず、此の如くの混乱は古今に比類無しか。

12月10日 朝間晴れ、午後天陰風吹く
早朝邦綱卿の許に使いを送る。則帰り来たり云う、
「大衆と官兵山科東の辺に合戦す」
また只今南都(奈良)より飛脚が到来した。衆徒(僧兵)すでに入京を欲し、終夜走り来たる所である。大衆(僧兵)の勢以ての外と。今日延暦寺の悪僧(僧兵)等を追討する為、官兵が行き向かうの間、山科東の辺に於いて衆徒(僧兵)と降り合い、すでに以て合戦した。未だ事切れずと。16時頃に及び、大衆(僧兵)等は引退し、籠城したようだ。夜に入り、南都より告げ送りて云く、大衆(僧兵)が蜂起すと雖も、僧綱以下制止を加えるに依って、和平したようだ。

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2006年5月 7日 (日)

12月4日「奥州の戎狄(いてき)秀平」

12月4日 晴れ、
人伝えて云く、江州(近江)の武士等は併せて落ちた。三分の二は、官軍に味方した。その残りは城に引き籠もるようだ。
「奥州の戎狄(いてき)秀平」
また聞く、奥州の戎狄(いてき)秀平が、禅門(平清盛)の命令に依って、頼朝を伐ち奉るべきの由、答申書を進上したようだ。但し実説か否かは未だ聞いてない。

12月5日 天晴
「今日矢合し明日合戦すべし」
伝聞、江州の軍勢(美濃の源氏等を加える)四千余騎が、官兵の軍勢二千余と、今日矢合わせし、明日合戦するようだ。武士等が路次により雑人を往還(往来)せしめず、

12月6日 天晴れ
「雅頼邸狼藉の次第」
「勇士等女房の衣裳を剥ぎ取り追捕の如し」
「中原親能雅頼弟に候すとの聞こえあるにより探索せらる」
「親能幼少より相模の国住人に養育せられ頼朝と知音なりという」
「時忠の沙汰に懸かる人恥辱に及ばざるはなし」
「雅頼家の狼藉し宗盛の下知なり」
伝聞、近江の国の武士等三千余騎が、官兵(僅かに二千騎ばかり)の為に追い散らされたようだ。

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2006年5月 6日 (土)

12月1日「伊賀の国反乱」

12月1日 晴れ
「伊賀の国反乱」
夜に入り人伝えて曰く、伊賀の国(三重県西部)に平田入道と云う者(俗名は平家継、故平家定法師の男、定能の兄のようだ)有り。件の法師は近州(近江)に攻め寄せ、手嶋の冠者を伐り(仲間や従者、合計で十六人の首を斬る、二人を捕縛したようだ)、また甲賀入道(義重法師なり)の城を追い落したようだ。

12月2日 晴れ
「追討使下向」
 8時頃、追討使が出発した。近江道の方面は平知盛卿が大将軍である。その外一族のものどもが数人同道した。たしかな名を連ね尋ね記禄すると、平信兼・平盛澄等同じく以て出発した。伊賀道は、少将の平資盛が大将軍である。前の筑前の守貞能が同道したようだ。伊勢道は、即ち国司の藤原清綱が向かい出発したようだ。

12月3日 天晴
「官軍勢多野地の在家数千宇に放火し近州逆賊追攻む」
伝聞、今朝近州(近江)の反乱軍は楯を引き逐電した。美濃との境辺りに到る。仍って官軍は勢多・野地等の在家数千軒を放火し追撃したようだ。終日の間余煙は猶尽きないようだ。美濃の源氏等五千余騎が、柏原(近江の国)の辺に出撃したようだ。官兵は近江道・伊賀道に相並び、京から下る軍勢は三千余騎のようだ。また人云く、奈良の僧兵が旺盛に蜂起した。人は何事かを知らず。境節尤も奇怪の事か。比叡山延暦寺の大衆(僧兵)は三方に分割したようだ。一分の座主大衆(僧兵)は官兵に味方した。一分の七宮方(覚快法親王)大衆(僧兵)は両方に味方しない。一分の堂衆(僧兵)の輩は近州の反乱軍に味方したようだ。越後の城の太郎助永は、甲斐・信濃両国に於いては、他人を連れず、一身にて攻め落とすべきの由、申請したようだ。また上野(群馬県)・常陸(茨城県)等の辺は、頼朝にそむくの者どもが出で来たようだ。

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2006年5月 5日 (金)

11月30日「近江武士船を点取るため西岸に着す」

11月30日 陰晴不定、午後小雨
「近江武士船を点取るため西岸に着す」
伝聞。昨日の近州(近江)の武士等は数萬には及ばないようだ。ただ船六艘を西岸に着け、少々の者が寺中に打ち入る。僧徒等が詳細を問うと、船を調べて没収する為に来たの由を返答した。其の軍勢の総数は百騎ばかりで、その中の半分の者が船等を点検し奪取し東岸に帰着した。残り五十騎ばかりは前岸に着船し、猶西岸に居留しているようだ。且つ船等を調べて没収する為、且つ事態を尋ねる為来たようだ。今日京中は頗る静かなようだ。18時頃定能卿が来た。旬・五節等の行事の間の事を話す。又天下をおそれるの事、誠に万人逃れ難い怖れだ。
「柏木義兼打ち入らんとるも武田を待ち暫く遅々す」
人伝えに云く、甲賀(滋賀県の郡)の入道とやかく言うこと無く打ち入らんと欲するの処に、甲斐(山梨県)の武田が人を送りて云く、暫く攻め寄せるべからず。我行き向かうべし、侍ちてつれそうて寄せるべきである。無勢にて追い帰されると、後悔すると。仍って彼を相連れ添う為に遅延するようだ。甲賀の入道と謂うは義兼法師である。刑部省の判官(源)義光の子孫のようだ。

11月30日 「吉記」
「東国逆乱・謀反逐日倍増」
今日院に於いて評議決定有りとの事、東国の反乱軍の事である。公卿は左大臣・左大将は直衣(平常服)・師大納言・新大納言・堀河中納言左代弁等が控えた。上達部座、予仰せ奉ると。東国の反乱・謀反は逐日倍増し・すでに近江の国に及び、就中昨日は反乱軍等が圓城寺(三井寺)に討ち入り、指す所無しの為と雖も、帝都は遠からず、驚き思し召す所なり。何様に行い計られるべしや、宣申し定べしといえり、修行の年数が少ない人々が申し定め、定めの趣を御前に参り奉聞しました。

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2006年5月 4日 (木)

11月28日「若狭国有勢の在庁近州に与力す」

11月28日 天晴
「若狭国有勢の在庁近州に与力す」
伝聞、来月の二日に追討使を江州(ごうしゅう、近江、滋賀県)に遣わすべしと。また若狭の国(福井県の西部)(経盛卿が役人としての職務を担当する)の有勢の国司の庁の下役人は、近州(近江)に味方したようだ。

11月29日 天晴
「近江武士三井寺に打ち入る」
夜に入り人伝えによると、近江の国(滋賀県)の武士数千騎が、今日16時頃より三井寺(圓城寺)に打ち入るようだ。この事に依って、六波羅・八條等辺の武士が騒動し、京中は物騒極まり無いようだ。

11月29日 [吉記]
「近江の国の賊徒すでに勢多を越えたり」
日暮れに臨み風聞に云く、近江の国の反乱軍はすでに勢多を越えたらしい。或いは三井寺に籠もるとも。京中は騒動すと雖も、官軍は未だ発向しない。不思議なことだ。悲しいことだ。入道相国(平清盛)が今日入京するようだ。

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2006年5月 2日 (火)

11月24日「還都必定すという」

11月24日 天晴
「還都必定すという」
伝聞、還都は決定した。昨日御出門した。今日は寺江に到着した。明日木津殿に到着し、明後日の早朝に御入京のようだ。近江の騒動に依って、還都はためらい有るべきの由、その議論が出来たりと雖も猶一定した。法皇・禅門(平清盛)同じく上京有るべし。一人も福原に残るべきではないようだ。

11月24日 [吉記]
「出御有り。上皇・法皇同じく」
 8時頃に天皇が御出発された。上皇も同じく御出発(行幸以前なり)された。御車にお乗せした。法皇は早朝に御出発(御輿で)された。天皇並びに上皇の御出かけは、17時頃に前の大納言(邦綱)の寺江亭(天皇・上皇の御所は各別、法皇は御舟を以て御宿所とされた)に到着された。

11月25日 天晴風吹く
今夕天皇並びに上皇の御出かけは、共に木津殿に到着されたようだ。伝聞、近江の軍勢はなにほども無いと。また北陸道の諸国ははなはだ反乱の気配が有るようだ。

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2006年5月 1日 (月)

11月23日 「近江の国一統」

11月23日 晴、夜に入り雨下る
16時頃人伝えに云く、去る夜、手嶋蔵人某(元三條宮に奉公した。近年は平清盛並びに幕下(平宗盛)の辺に朝早くから夜おそくまで仕える)が福原の人家に放火した。ゆくえをくらまし逃げて東国に向かったようだ。
「近江の国一統」
また聞く、近江の国は統一した。琵琶湖の東西の船等は、悉く東岸に付いた。また雑船や筏等を以て、勢多に浮橋を渡した。
「北陸道の運上物、悉く取られる」
凡そ北陸道の運上物は、悉く以て点検し奪取した。大津の辺の人家は騒ぎ逃げた。凡そふるえ動くことはなはだしいようだ。三宮(以仁王)は遠江(静岡県西部)の橋下の宿においでである。
「頼朝等美濃・尾張の境に在り」
頼朝等の軍は美濃(岐阜県南部)・尾張(愛知県西部)の境に在り。先ず美濃・近江等の国人(武士)の勢力を以て、大津及び山科の辺に推し入るべし。三井寺(園城寺)を以て先陣とすべし。形勢に随い法勝寺、及び大内等に寄宿すべしと。今に於いては、勿論猶以て追討使の指図は無い。福原の辺の人の様子は落ち着いている、敢えて驚きの気配は無し。偏に以て別天地のようだ。
「適々所在の武士は暇を賜り本国に下向す」
たまたま所在の武士は、この2.3日の間に追討使の役目に出立する為、各々身の暇を賜り本国に下向した。福原の軍勢は僅かに二千騎のようだ。おおむね幸運の報せは尽きたる最期か。新院(高倉上皇)の御病気は危急であるようだ。夜に入り下人云う、帰都は停止したようだ、明朝に人を遣わしてその理由と真偽を聞こう。
「延暦寺と園城寺に闘諍有り」
伝聞、山(比叡山延暦寺)と三井寺(園城寺)と闘争が有るようだ。その事に依って延暦寺園城寺を焼くべしと。後聞、宮(以仁王)・頼朝等駿河の国に在りと。宮は不審の物である。

11月23日 [吉記]
「今夕還都有るべきに」
 今夕に還都有るべきに依って御出門した。前の大納言邦綱卿の宇治の新亭(この都においでの後新造する華亭である。土木工事は未だ終了せず。近日まもなく指図すると)においでになられた。

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