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2006年4月 4日 (火)

5月16日以仁王配流

5月16日 陰晴れ不定、晩に及び小雨
 大夫史(太政官の五位の下級官吏)の小槻隆職宿祢が、三條宮(高倉宮、以仁王)が流罪との事を記録し送り届けた。その書状は次のようである。
   源以光(本の御名は以仁、忽ち姓を賜り名を改むと)
    宜しく遠流に処し、早く京都付近の地より外に追い出さしむべし。
   高倉宮配流の事、仰せ下さるるの状件の如し。
(解説)
以仁王を皇族から外し(臣籍降下)、源以光として遠流の刑にする文書。
太政官の下級官吏の隆職が右大臣の兼実に報告している。

「三井寺衆徒以仁王を守護す」
 伝聞によると、高倉宮(以仁王)は、去る夜検非違使が未だその家に向かわない前に、ひそかに逃げ去り三井寺に向かった。三井寺の僧兵が守護し、比叡山に登りなさるべしと。両寺の僧兵が謀叛を計画しているようだ。
「以仁王若宮逐電(逃亡)の聞こえ有り」
 また高倉宮(以仁王)の子の若宮(八條院に仕える女房の子供なり。出生の時より女院が養育される。即ちその宮中にお仕えす)がゆくえをくらまして逃げたようだ。仍って武士等が彼の女院の御所を打ち囲み、その中を捜し求めた。これより先女院御一身に於いては、頼盛卿の家(即ち件の卿の妻が参上し同道した)に出でなされたという事である。即ち件の若宮は、女院を求め出でなされお帰りしたようだ。(略)後聞、八條院が他所にお出かけすることは誤りである。女院においでながら頼盛卿父子が参入したようである。一所残らず捜し求めしむと。
(解説)
以仁王と以仁王の子を平家軍は捜しているようである。

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