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2006年4月15日 (土)

9月11日「頼朝追討の宣旨」

9月11日 夜より雨降り
「頼朝追討の宣旨」
大夫史の隆職が、記録し送達したところの宣旨(天皇の命令書)は次のようである。
     治承四年九月五日   宣旨  左大将、左中弁
伊豆の国の流人の源の頼朝が、忽ち凶徒凶党を合議し、当国や隣国を横領しようとしている。反乱の経過は、すでに通常ではない。宜しく右近衛権の少将の平の維盛朝臣・薩摩の守同忠度朝臣・参(三)河の守同知度等を以て、彼の頼朝、及び味方する者どもを追討させるべし。兼ねてまた東海・東山両道の武勇に堪える者に、追討に備えさせるべし。その中で特に功有る者を抜き出して、破格の賞を与えるべし。

 伝聞、近頃、源仲綱の息子は素より関東に住む。彼を追討の為、武士の大庭の三郎景親を平清盛がひそかに派遣した。而るに件の仲綱の息子は奥州方面に逃げ脱した。
「頼朝箱根山に籠もる」
然るの間、忽ち頼朝の反乱が発生した。仍って合戦の間、頼朝等を筥根山に追い籠めた。茲に因って追い落としたとの由の風聞か。
「平廣常等頼朝に与力し事大事に及ぶ」
而るにその後上総の国の住人、上総の国守の平八郎廣常、並びに足利の太郎(故俊綱の子と)等も味方した。その他に隣国有勢の者等、多く以て味方した。逆に大庭の三郎景親等を殺そうとするの由、去る夜飛脚が到来した。事は大事に及ぶようだ。但し実否は知り難い。此のようなデマが甚だ多い。
 平清盛は来十二日に芸州(安芸、広島の西部)に参るべし、又新院(高倉上皇)は来十二日の間、同じく参詣されるべしというようだ。
 また熊野の湛増がさらに反乱を事実とした。別当の範智も味方したようだ。

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