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2006年4月24日 (月)

11月2日「東国追討使駿河の国手越より逃げ帰る」

11月2日 晴れ、
「入道相国帰り来る」
後聞、今日14時平清盛が京都へ帰り来たようだ。

11月2日 [吉記]
「東国追討使駿河の国手越より逃げ帰る」
追討使の事、世間のうわさは自由自在に飛び交う。但し或る者云く、権の亮(平惟盛)駿河の国(するが、静岡県中央部)に到着の時、一国の軍勢二千余騎(代官の橘遠茂が頭領である)を以て、甲州(こうしゅう、甲斐、山梨県)に押し寄せた処、全軍が進入の後、退路を塞ぎ、樹の下や岩の腹に歩兵を隠し置いて、皆悉くこれを射取らせた。異様の下人少々の外、敢えて帰る者無し。その後反乱軍の輩(源頼朝か、武田信義か)が訴状を送った。その訴状については詳しく聞かない。件の詳細をただし問うの後、首を切らせた(殺害のことは感心しない者ども等有り)。その後頼朝軍が襲来するの由が風聞した。彼等の軍勢は巨万であり、追討使の勢では敵対することは出来ない。仍って引き返そうとと欲するの間、手越(駿河の国)の宿舎に於いて失火が発生した(したがう従者の中の坂東の者ども等が放火したようだ)。上下あわてふためきの間、或いは甲冑を棄て、或いは乗馬を知らず逃げ帰った。これ則ち東国の軍勢は江州より皆悉く味方するべきの由、兼ねて準備の処、敢えて味方せず。或いは本人は参加すると雖も、同類一属は猶同道せず。或いは形勢により反乱軍等に従う。いよいよ官軍の弱きの由を見て、各々行方をくらまして逃げた。残る所はわずかにに京から下る者どもだけだ。世以て遂帰の由を称す。古今より追討使を遣わすの時、未だこの例を聞かない。尤も悲しむべき事なり。但し今度の事は、ただ事ではない。くわしいこと無しに依り記さず、又定説を尋ね知るべし。

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