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2006年4月 2日 (日)

4月27日 「吾妻鏡」以仁王の令旨

4月27日 「吾妻鏡」壬申
 高倉宮(以仁王)の令旨が、今日前の武衛将軍(源頼朝)の伊豆の国の北條館に到着した。八條院の蔵人行家が持参した。
    (中略)
 東海・東山(中山道)・北陸三道諸国の源氏並びに群兵等の所に命令する。
  早く平清盛と従類の叛逆の者どもを追討せよ。
 前の伊豆守源仲綱が広く示す、最勝王(以仁王)の命令をうけたまわりていわく、平清盛と宗盛等は、威勢を以て帝王をないがしろにし、悪事を起こして国家を亡ぼす。百官万民を悩まし乱し、五幾(ごき、畿内。京都近県、大和、山城、河内、和泉、摂津)七道(しちどう、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海道)を横取りした。後白河法皇を閉じこめ、臣下の者を流罪にした。死罪とし流罪にした、水中に沈め牢屋に閉じ込めた。資財を盗み國を横取り、官職を奪い、官職を授けた。功労も無くしてみだりに恩賞を許し、罪無くしてみだりに処刑した。これに依って巫女は宮室に留まらず、忠臣は法皇の御所に仕えず。或いは諸寺の高僧を召し取り、修学の僧徒を牢屋に入れた。或いは比叡山延暦寺の絹米を給下し、謀叛の粮米に相具し、百皇の跡を断つ。そもそも一人の頭、帝皇を違逆し、佛法を破滅した。その振る舞いを見るに誠に古代を絶する者である。時に天地悉く悲しみ、臣民皆愁う。仍って吾は後白河法皇の第二の皇子である。天武天皇の旧儀を尋ね、王位推取の者どもを追討し、聖徳太子の前例により、仏法破滅の類を打ち亡ぼそうとする。ただ人力の構えを頼むだけでなく。偏に天道の神の扶けを仰ぐ所なり。これに因って、帝王の三宝(三種の神器)の神明の信心が通ずることが有るが如し。何ぞ忽ち四霊山の合力の志が無いことがあろうか。然れば則ち源家の人、籐原氏の人、兼ねて三道諸国の間で、勇士となれる者、同じく加勢せしめ、平清盛とその従類を追討すべし。もし加勢しない場合は、死罪流罪など追禁の罪過に処す。もし功労が有る場合は、先ず諸国の使に預かり、兼ねて御即位の後、必ず乞いに随い勧賞を授けるものである。諸国宜しく承知し、命令に従うべし。
     治承四年四月九日       前の伊豆守正五位下源の朝臣(仲綱)
(解説)
高倉宮(以仁王)が最勝王と称して、平家追討の令旨を源仲綱に書かせている。諸国の反清盛平家の反乱軍はこの令旨を旗印として挙兵し、われこそは官軍と称する。朝廷及び平家からすると謀反の輩(反乱軍)だが。

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