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2006年4月25日 (火)

11月5日「富士川の戦い」

11月4日 晴れ
「追討使伊勢に向かわず」
伝聞、追討使は伊勢には向かわないようだ。ただ(藤原)忠清のみが伊勢に赴いたようだ。他の人は入京するようだ。

11月5日 晴れ、
「清盛・宗盛口論す」
伝聞、前の将軍(平)宗盛が、遷都有るべきの由、禅門(清盛)に示したようだ。禅門は承引しないの間、口論となった。周りの人はこれを聞いて驚いたようだ。
「敗残の追討使入京す」
また伝聞、追討使等は、今日の夕方になり入京した。平知度が先ず入京した。僅か二十余騎である。平維盛が次いで入京した。また十騎を過ぎないようだ。
「駿河国高橋宿」
先に去る月十六日、駿河の国高橋の宿に着いた。
「甲斐武田城」
これより先、彼の国目代(国守の代理)及び有勢武勇の輩三千余騎が、甲斐の武田城に押し寄せるの間、皆悉く伐ち取られた。目代以下八十余人の頸を切りみちばたに懸けたようだ。
「武田方より維盛の館に消息を送る」
同十七日朝、武田方より使者(手紙を所持した)を以て、維盛の館に送る。その状に云く、年来見参の志有りと雖も、今に未だその思いを遂げず。幸い宣旨の使として御下向有り。当然参上すべしと雖も、程遠く(一日を隔つと)路が峻しく、すなわち参り難し。またおいでいただくのも煩わしでしょう。仍って浮島原(甲斐と駿河の間の広野と)に於いて、相互に行き向かい、見参を遂げんと欲すと。忠清はこれを見て大いに怒り、使者二人の首を切ってしまった。
「富士川の戦い」
同十八日、富士川の辺に仮屋を構えた。明暁(十九日)寄せ攻むべきの準備である。而るの間、官軍の軍勢を計るの処、彼是相並び四千余騎である。陣作りの手定めの議定がすでに終わり、各々休息の間に、官兵の方から数百騎が、忽ち以て降り落ち、敵軍の城に向かってしまった。引き留める力無く、残る所の軍は勢、僅か一二千騎に及ばず。武田方は四万騎と。敵対に及ぶべからざるに依って、ひそかに以て引退した。
「官軍引退は忠清の謀略なり」
これ則ち忠清の謀略である。維盛に於いては、敢えて引退すべきの心無しと。而るに忠清は次第の理を立て再三教訓した。士卒の者どもの多くはこれに賛同した。仍って黙止する事は出来ない。京洛に赴くより以来、軍兵の気力は、併しながら以て衰損し、たまたま残る所の者どもは過半数は行方をくらました逃げた。凡そ事の次第は直事ではないようだ。今日は勢多に着き、先ず使者(馬允満孝)を以て詳細を禅門(清盛)に報告した。
「官軍引退に清盛大怒す」
禅門(清盛)大いに怒りて云く、追討使を承るの日に、命を君(天皇)に奉りたり。縦え骸を敵軍にさらすすと雖も、あに恥と為そうか。未だ追討使を承るの勇士が、いたずらに帰路につく事を聞いた事が無い。
「清盛追討使の入京を認めず」
もし京都に入らば、誰が眼を合すものか。不覚の耻を家にのこし、きたない名を世に留めるのか。早く路より趾を消すべきである。更に入京すべきでないと。然れどもひそかに入京し、検非違使の(藤原)忠綱の宅に寄宿したようだ。平知度に於いては、先ず以て入京し、禅門(清盛)の八條の家に在るようだ。大略は伝説を以てこれを記した。定めて情報の漏れが有るだろう。但しこの情報は軍陣に同道した者どもの説である。詳細多しと雖も、短かい筆では書きつくし難きものである。

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