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2006年4月

2006年4月30日 (日)

11月22日「関東より以仁王の令旨と称し清盛誅伐を令す」

11月22日 天陰雨下る
「関東より以仁王の令旨と称し清盛誅伐を令す」
伝聞、関東より、一院の第三親王(伐害された宮の以仁王である)と称して、清盛法師を誅伐すべしの命令あり。東海・東山・北陸道等の武士、味方すべきの由、彼の国々に付与したようだ。また三井寺(園城寺)衆徒(僧兵)にも与えたようだ。その書状は、前の伊豆の守源仲綱が献上したようだ。これ等の事はいつわり事と疑うか。

11月22日 [吉記]
「近江の国日吉社延暦寺領に賊徒防御を命ず」
検非違使の長官が伝言した、仰せ云う、帰都は猶一定である。兼ねて又日吉社並びに延暦寺の領地は近江の国に充満す。仰せの件を庄々は、早く反乱軍を相防ぐべし。又辺境の民の中で凶悪の心を抱き人道にそむく者に同ずるものは、それぞれ討伐すべしの由、命令すべしの旨、山(比叡山延暦寺)の座主(明雲)に命令すべし、
「美濃源氏近江の国に討ち入るとの風聞あり」
風聞の説では、美濃の国(岐阜県南部)に居住の源氏等が、近江の国(滋賀県)に討ち入ると、或るいは又近江の国住人(武士)等合戦の間、口やかましいさまの由と。

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2006年4月29日 (土)

11月19日「還都、来二十六日御出門」

11月19日 晴れ
「還都、来二十六日御出門」
伝聞、還都(福原から京都へ)は来る二十六日に御出門、来月の二日に御入京有るべきの由命令される。延暦寺の衆徒は大喜びし、種々の御祈り等を始めたようだ。
「東乱近江の国に及ぶ」
或る人云く、東国の反乱軍の影響はは近江の国(滋賀県)に到達したようだ。

11月20日 [吉記]
「還都一定なり」
蔵人弁の許より、出納(中原)国貞を以て書状を送りて云く、還都は決定である。来る二十三日に前の大納言の宇治河の亭(摂津の国)にお出かけする。二十四日には寺江(摂津の国)ににお出かけする。二十五日には木津殿(山城の国)ににお出かけする。二十六日には御入京される。皇居は五條内裏である。その旨を存じ申し指示すべきの由命令有りということだ。即ち官外記に命令し、細々と指示命令を致したようだ。

11月21日 天晴
「宗盛の郎従十余人近江賊徒に梟首される」
ちまたのうわさによると、近江の国(滋賀県)も反乱軍に従属した。前の幕下(平宗盛)の部下が伊勢の国(三重県)に派遣するの間、勢多(滋賀県大津市)及び野地等の辺に於いて、昨日今日の間に、十余人が討ち取られた。その中には前の飛騨の守の平景家(彼の家後見、有勢武勇の者なり)の姪の男が有り。これが伐たれたようだ。甲賀入道(柏木義兼、年来彼の国に住む。源氏の一族と)、並びに山下兵衛の尉(同源氏と)等が首謀者であるようだ。14時頃、福原より報告があり、還都の予定は短縮された。来る二十三日に出門し、二十四日に寺江に着き、二十五日に木津殿に着き、二十六日に御入京が、決定したようだ。これは愚案である、もし還都が有るならば、日来の間、早々有るべきである。官軍を以て近江(滋賀県)・伊勢(三重県)両国に於いて防御するべきである。
「敵軍隣国に充満す」
「追討使の沙汰一切無し」
而るに一切追討使の派遣などの指示は無し。反乱軍はすでに隣国に充満するの場合に、忽ち以て還都する。どうして人々の議論に叶うのか。言うこと無し、言うこと無し

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2006年4月28日 (金)

11月9日 「関東の事、逆徒すでに参河・遠江等」

11月9日 晴れ [吉記]
「関東の事、逆徒すでに参河・遠江等」
早朝、静賢法印がおいでになられた。もっぱらに世間の事を歎いた。関東の反乱の事、今や京都に帰るの沙汰有るの外、回復困難の由これを談る。反乱軍はすでに参河(愛知県東部)・遠江(静岡県西部)等に及び、神社・仏寺・権門領等、官に納めた物を失うべからざるの由を処置した。もっぱらに世間の非道を排除しこの処置をした。

11月12日 晴れ、
「関東の逆党美濃国に到る」
伝聞、関東の反乱軍は、すでに美乃の国(岐阜県南部)に到来したようだ。仍って先ず美乃の源氏軍を伐つ為、禅門(平清盛)がひそかに部下将兵等を派遣した。その後に追討使を派遣するべきであるらしい。

11月15日 晴[吉記]
「山の大衆使参上」
 山(比叡山延暦寺)の大衆(僧兵)の使いが参上した。山門(比叡山延暦寺)の訴えに依って、都帰りは一定の由を官庁の役人に命令し納得させた。これは行隆が担当である。

11月17日 晴れ
「美濃源氏等凶族等に与力す」
伝聞、美濃(岐阜県南部)の源氏等は、皆悉く反乱軍等に味方し、美濃・尾張(愛知県西部)両国併せて占領したようだ。また聞く、熊野の権の別当の湛増が、その息子の僧を差し出した。仍って罪をゆるすことが有るようだ。また鎮西の賊の菊池権の守を、さしたる理由無くなさけに依ってゆるしたようだ。関東の反乱軍がこれ等の詳細を聞くと、いよいよ武勇の柔弱を察するだろう。

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2006年4月27日 (木)

11月8日 [吉記]「安徳天皇宣旨」

11月8日 [吉記]
追討の間の事の宣旨(天皇の命令書)。今日左大将に下すの処、空しくこれを返せらる。未だ理由は不明である。仍って師大納言に宣下した。今日復日(ふくにち)である。仍って昨日の日を書いた。
「安徳天皇宣旨」
   治承四年十一月七日 宣旨
伊豆の国の罪人たる流人の源の頼朝、早くも野心を持ち、朝庭の権威を軽々しくし、人民をおびやかし、くにや県をかすめ奪い取る。縡(こと)希夷に入るの間、罪ある者ょ攻め討とうするの処、甲斐の国(山梨県)の住人(武士)源の信義がみだりに賛同し、すでに月を経過した。各々魚鱗鶴翼の陣を結び、旁々(ぼうぼう)星のようにきらめく旗やいなずまのようなひかりを帯びたほこの威を輝かす。茲に因ってたくましく進むの者どもが、往々応募した。むほんを起こすはかりごとの甚だしきこと、古今未だ聞かず。ただに壮年の男子、血気盛んで働きざかりの年頃の軍旅に苦しむに非ず。兼ねて老弱の陸と海から兵糧を運ぶことを罷るに有り。下層の民の愚・身分が低い人民、鳳衙のあきらかないましめを顧みず、自ら非常に性質が悪く、人の道にそむくことの勧誘に従うか。此と云い彼と云い、責めて余り有り。仍ってその凶党を払わんが為、追討使を遣わす所なり。東海・東山・北陸等の道、強弱を論ぜず、老少を謂わず、表裏力をあわせ、逆賊を討たしめよ。就中美濃の国の勇武伝家の者、弓馬長芸の輩、多くその聞こえ有り。尤も採用に足る。殊に彼等に命令し、その辺境の要害を塞ぎ、通関の防御に備えしめよ。すなわち国を憂える貞節な心を励まし、忘身の接戦を致すべし。兼ねて又偏列の間、兵卒の隊伍の中、その風雅な心に非ず、凶悪に従い仲間になる。この旨を熟察し、反善の過ちを悔やむべし。地の続くかぎり皆天子の人民である。天下は悉く王者なり。天子のことばの旨誰かおとなしく従わないことはない。若しくは執鋭不撓の夫有り、臨時の功績を立てれば、その勤節を馬汗に量り、以てただにあらずの大きな賞を賜わるべし。宣を遠近に布告す。つまびらかに詳細を知らしめよ。
                    蔵人頭左中弁藤原朝臣経房奉る

馬充橘公今日入り来りて言う、追討使の平惟盛朝臣以下は五日に入京がおわるのは一定であるようだ。日来次第に詳細に以てこれを語る。
(藤原経房:「吉記著者」)

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2006年4月26日 (水)

11月6日「重ねて追討使を遣わすべし」

11月6日 晴れ
「重ねて追討使を遣わすべし」
福原より或る人が表示したものを送りて云く、重ねて追討使を遣わすようだ。平教盛・平経盛等の子息であるようだ。これでどうして事の解決の求めに叶うのか。世間のあざけりは、ただこの事に在るようだ。

11月6日 [吉記]
「関東の事、要害を守護、追討せしむ」
大理(平時忠)を以て命令されて云く、関東の事は美濃の国(岐阜県南部)に居住する源氏等に命令し、さらに要害を守護し、さらに追討せよとの由命令を遣わすべきである。私は申し上げた。連盟書を承り宣旨の書状に載せるべきか。
(注釈)
要害(ようがい)・・・地勢がけわしく、敵を防ぎ味方を守るのに便利な地。とりで。

11月8日 陰雨降り、
伝聞、還都は有るべきの由、山僧(比叡山延暦寺の僧)等に仰せらると雖も、忽ちに出来る事ではない。大略つくりごとを仰せらるるの様子である。ほとんど叶うべくもない事だ。また前の大将(宗盛)並びに教盛卿等が、自ら赴くようだ。
「遠江以東十五ヶ国頼朝に與力す」
凡そ遠江(静岡県西部)より東の十五ヶ国が味方し、草木に至るまでなびかざるは無しと。

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2006年4月25日 (火)

11月5日「富士川の戦い」

11月4日 晴れ
「追討使伊勢に向かわず」
伝聞、追討使は伊勢には向かわないようだ。ただ(藤原)忠清のみが伊勢に赴いたようだ。他の人は入京するようだ。

11月5日 晴れ、
「清盛・宗盛口論す」
伝聞、前の将軍(平)宗盛が、遷都有るべきの由、禅門(清盛)に示したようだ。禅門は承引しないの間、口論となった。周りの人はこれを聞いて驚いたようだ。
「敗残の追討使入京す」
また伝聞、追討使等は、今日の夕方になり入京した。平知度が先ず入京した。僅か二十余騎である。平維盛が次いで入京した。また十騎を過ぎないようだ。
「駿河国高橋宿」
先に去る月十六日、駿河の国高橋の宿に着いた。
「甲斐武田城」
これより先、彼の国目代(国守の代理)及び有勢武勇の輩三千余騎が、甲斐の武田城に押し寄せるの間、皆悉く伐ち取られた。目代以下八十余人の頸を切りみちばたに懸けたようだ。
「武田方より維盛の館に消息を送る」
同十七日朝、武田方より使者(手紙を所持した)を以て、維盛の館に送る。その状に云く、年来見参の志有りと雖も、今に未だその思いを遂げず。幸い宣旨の使として御下向有り。当然参上すべしと雖も、程遠く(一日を隔つと)路が峻しく、すなわち参り難し。またおいでいただくのも煩わしでしょう。仍って浮島原(甲斐と駿河の間の広野と)に於いて、相互に行き向かい、見参を遂げんと欲すと。忠清はこれを見て大いに怒り、使者二人の首を切ってしまった。
「富士川の戦い」
同十八日、富士川の辺に仮屋を構えた。明暁(十九日)寄せ攻むべきの準備である。而るの間、官軍の軍勢を計るの処、彼是相並び四千余騎である。陣作りの手定めの議定がすでに終わり、各々休息の間に、官兵の方から数百騎が、忽ち以て降り落ち、敵軍の城に向かってしまった。引き留める力無く、残る所の軍は勢、僅か一二千騎に及ばず。武田方は四万騎と。敵対に及ぶべからざるに依って、ひそかに以て引退した。
「官軍引退は忠清の謀略なり」
これ則ち忠清の謀略である。維盛に於いては、敢えて引退すべきの心無しと。而るに忠清は次第の理を立て再三教訓した。士卒の者どもの多くはこれに賛同した。仍って黙止する事は出来ない。京洛に赴くより以来、軍兵の気力は、併しながら以て衰損し、たまたま残る所の者どもは過半数は行方をくらました逃げた。凡そ事の次第は直事ではないようだ。今日は勢多に着き、先ず使者(馬允満孝)を以て詳細を禅門(清盛)に報告した。
「官軍引退に清盛大怒す」
禅門(清盛)大いに怒りて云く、追討使を承るの日に、命を君(天皇)に奉りたり。縦え骸を敵軍にさらすすと雖も、あに恥と為そうか。未だ追討使を承るの勇士が、いたずらに帰路につく事を聞いた事が無い。
「清盛追討使の入京を認めず」
もし京都に入らば、誰が眼を合すものか。不覚の耻を家にのこし、きたない名を世に留めるのか。早く路より趾を消すべきである。更に入京すべきでないと。然れどもひそかに入京し、検非違使の(藤原)忠綱の宅に寄宿したようだ。平知度に於いては、先ず以て入京し、禅門(清盛)の八條の家に在るようだ。大略は伝説を以てこれを記した。定めて情報の漏れが有るだろう。但しこの情報は軍陣に同道した者どもの説である。詳細多しと雖も、短かい筆では書きつくし難きものである。

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2006年4月24日 (月)

11月2日「東国追討使駿河の国手越より逃げ帰る」

11月2日 晴れ、
「入道相国帰り来る」
後聞、今日14時平清盛が京都へ帰り来たようだ。

11月2日 [吉記]
「東国追討使駿河の国手越より逃げ帰る」
追討使の事、世間のうわさは自由自在に飛び交う。但し或る者云く、権の亮(平惟盛)駿河の国(するが、静岡県中央部)に到着の時、一国の軍勢二千余騎(代官の橘遠茂が頭領である)を以て、甲州(こうしゅう、甲斐、山梨県)に押し寄せた処、全軍が進入の後、退路を塞ぎ、樹の下や岩の腹に歩兵を隠し置いて、皆悉くこれを射取らせた。異様の下人少々の外、敢えて帰る者無し。その後反乱軍の輩(源頼朝か、武田信義か)が訴状を送った。その訴状については詳しく聞かない。件の詳細をただし問うの後、首を切らせた(殺害のことは感心しない者ども等有り)。その後頼朝軍が襲来するの由が風聞した。彼等の軍勢は巨万であり、追討使の勢では敵対することは出来ない。仍って引き返そうとと欲するの間、手越(駿河の国)の宿舎に於いて失火が発生した(したがう従者の中の坂東の者ども等が放火したようだ)。上下あわてふためきの間、或いは甲冑を棄て、或いは乗馬を知らず逃げ帰った。これ則ち東国の軍勢は江州より皆悉く味方するべきの由、兼ねて準備の処、敢えて味方せず。或いは本人は参加すると雖も、同類一属は猶同道せず。或いは形勢により反乱軍等に従う。いよいよ官軍の弱きの由を見て、各々行方をくらまして逃げた。残る所はわずかにに京から下る者どもだけだ。世以て遂帰の由を称す。古今より追討使を遣わすの時、未だこの例を聞かない。尤も悲しむべき事なり。但し今度の事は、ただ事ではない。くわしいこと無しに依り記さず、又定説を尋ね知るべし。

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2006年4月23日 (日)

11月1日「追討使追帰される」

1180年(治承四年、庚子)
11月1日 天晴
「追討使追帰される」
伝聞、追討使の平維盛朝臣以下、追い帰された。すでに近江(おうみ)の地に赴かんと欲するの間、比叡山延暦寺の僧兵が相禦ぐべきの由が風聞した。仍って更に伊勢(いせ)の地に向かったようだ。凡そ反乱軍の余勢は、幾万騎かわからないほどだ。東山・東海の諸国、併せて以て味方した。官軍の勢は本五千余騎だった、追い落とされるうちに、僅かに三四百騎に過ぎないようだ。凡そどうする事も出来ない。
「追討使追い返さる例、未曽有」
かなり昔より以来、追討使が空しく追い返された例、未だ曽って聞かざる事である。今に於いては、重ねて相防ぐに及ばないのか。
「清盛の悪逆に依りその余殃上皇に懸る」
清盛の悪逆に依って、上皇はそのわざわいを懸けられたのか。誠に悲しむべき事である。神仏の助けは有るのか。たのむ所ただこればかりか。比叡山延暦寺の僧兵がまた種々の準備をしているようだ。また聞く、熊野の湛増がいよいよ勝ちに乗るか。九州の反乱軍もまた以て征伐する事が出来ない。年来積った悪事の当然の結果を感じる時に到るか、其の悪に関与しない病士(兼実)は、只三宝(さんぼう)神明(しんめい)の護持を仰ぐ所である。
(注釈)
近江(おうみ)・・・滋賀県
伊勢(いせ)・・・三重県
東山(とうさん)・・・近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽
東海(とうかい)・・・伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸
熊野(くまの)・・・和歌山と三重にかかる山地。
三宝(さんぼう)・・・衆生が帰依すべき三つの宝
神明(しんめい)・・・神
護持(ごじ)・・・守り保つこと。

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2006年4月22日 (土)

10月28日富士川で合戦官軍は敗れ

10月28日 「山槐記」晴れ、
 頭弁(経房朝臣)曰く、頼朝の党は駿河の国に進出し、富士川辺りで合戦した。追討使の官軍は敗れて、伊勢(三重県)の国に向かうの由が風聞した。

10月29日 天晴
「坂東逆賊の党類、余勢数万に及ぶ。追討使?(オウ)弱極まり無しと」
 伝聞、坂東の反乱軍の党類の余勢は数万に及ぶようだ。追討使は弱いこと極まり無しと。誠に我が朝庭は滅尽の期となるか。悲しむべし。悲しむべし、14時頃に俄に天陰、大雨大風雷鳴、是天変か、恐るべし恐るべし。

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2006年4月21日 (金)

10月19日「以仁王現存の事」

10月19日 陰雨下、
「以仁王現存の事」
或る人云く、高倉宮が殺されたの伝聞は猶疑いが有る。その故は菅の冠者と云う男、年来高倉宮に参入し住吉の辺に居住した。高倉宮が三井寺においでの後、あからさまに参入した。武勇の者ではないので、即ち退出しようと欲するの間忽ち逃げ去った。思いがけなく同道し南都(奈良)に向かうの間、路に於いて伐たれた。件の男は年齢三十余歳で、容貌はみにくくなく、頗る以て優美である。和琴を弾き横笛を吹くようだ。殺されたの伝聞を称する宮はもしかするとこの人かと思われる。件の男は高倉宮に参入するの由、世間の人は偏にこれを知らなかった。殺害されたの由、また以て日来風聞しなかった。この間この詳細を知る者どもが声をそろえたようだ。但し高倉宮がもし現存するならば、どうして数月の間、その実説が風聞しなかったのか。猶信用することは出来ない事である。

10月20日 陰雨下
「延暦寺の衆徒蜂起の事」
 伝聞、延暦寺の僧兵が火が燃え上がるように盛んに蜂起した。意見を申し上げる文書を以て雑事職に届けた。これは遷都を止めるべきの由である。もしお許しが無ければ、山城(京都南部)・近江両国を横領すべきの由、準備を成すの由であるようだ。

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2006年4月20日 (木)

10月8日「清盛遷都の事により人望を失う」

10月8日 晴れ
夜に入り伝聞。高倉宮(以仁王)が生存することは確かなようだ。去る七月に伊豆の国に到着したようだ。現在は甲斐の国にお住まいであり、仲綱以下が同道しお仕えしているようだ。但し信用する事は出来ない。
「清盛遷都の事により人望を失う」
凡そ権勢の人(平清盛)は、遷都(福原への)の事に依って、人望を失うの間、此のようなデマが流言した。多すぎて適当に処置する事も出来ない。誠に不便な事である。

10月13日 「吾妻鏡」
 木曽の冠者義仲は亡父義賢の古人の事跡を尋ね、信濃の国を出て上野(こうずけ、群馬県)の国に入る。仍って武士等は少しずつ和らぎ従うの間、俊綱(足利の太郎)の為世間を煩わすと雖も、恐怖の思いを成す事が無いようにとの由、命令指図を重ねたようだ。

10月17日 晴れ
伝聞、追討使は遠江(とおとうみ、静岡西部)の国に於いて、彼の国の武士の為射落されたようだ。後で聞いたところでは誤りのようだ。

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2006年4月19日 (水)

10月2日「武を以て天下を治むるは乱代の至りなり」

1180年(治承四年、庚子)
10月2日 雨下、
「熊野合戦」
伝聞、去る月末の頃、熊野の湛増の館にてその弟湛覺が攻戦した。相互に死者多し。未だ落ちないようだ。また近江の国(滋賀県)の住人(武士)の中、呼び出される者有り。相互に防ぐの間度々合戦したようだ。凡そ最近あちこちで、謀反しないと云うことが無い。
「武を以て天下を治むるは乱代の至りなり」
武を以て天下を治めるような世は、決して以て然るべきでない。誠に乱れたる代の至りで
ある。

10月3日 陰時々火雨
「熊野合戦は謬説という」
伝聞、熊野の合戦の事は誤りのようだ。また伝聞、関東の事はすでに大事に及ぶようだ。

10月7日 「山槐記」晴れ、
 検非違使長官が法皇御所に於いて示され曰く、頼朝はすでに安房(千葉県南部)の国(頭弁の知行国である)を横領したようだ。頭弁の経房朝臣により私は新院(高倉上皇)に言上した。事件を急いで報告する飛脚が言葉を申し言う、私は彼の状を見せられるように取り願った。駿河(静岡の中央部)の国の武士五百余騎が出発し、伊豆の国へ向かい頼朝を攻めた。頼朝党は箱根山に引き籠もった。八月末日に頼朝等は箱根山を出て船に乗った。夜半に安房の国に着いた。九月一日味方の者どもに於いて諸郡に分與した。人家を追捕(ついほ、ついぶく)し、道具武具を奪い取った。この旨を詳細に急いで報告する所である。

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2006年4月18日 (火)

9月29日「追討使発向」

9月28日 晴れ
「山の大衆蜂起」
伝聞、比叡山延暦寺の僧兵が蜂起したようだ。

9月29日 晴れ
「追討使発向」
今朝明け方、追討使等が出発したようだ。
9月29日 「山槐記」朝間陰
今朝明け方、東国追討使の右少将平惟盛朝臣が六波羅家(平家一門の居宅)を出発したようだ。去る22日に福原を出発し、23日京都に着いた。その後今の所に留まった。
伝聞、上総の守の藤原忠清はこの京都に於いて十死一生日を忌む(つつしむ)、少将は云う、今は進軍途中の儀、京都に於いて忌日(慎む日)は次にすべし、忠清は云う、六波羅は先祖の旧宅である、忌みは被らずと争う、このような間相論じたようだ。
(注釈)
十死一生日・・・万事に大凶の日

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2006年4月17日 (月)

9月23日「東国追討使入京す」

9月23日 晴れ、
「東国追討使入京す」
右少将の平惟盛朝臣以下の、関東の反乱軍の追討使等が入京した(一昨日に福原を出て、昨日小屋に宿伯し、今日京都に入る)。来二十七八日の間に出立するようだ。但し一昨日の出門は吉日の為の理由であるようだ。
「以仁王等駿河の国より奥方へ向かうとの告礼あり」
伝聞、高倉宮(以仁王)及び(源)頼政入道等、去る一日に駿河の国の更に奥地へ向かうの由、かの国の武士の報告があったようだ、件の報告の書状を世間に発表した。之は喩え取る物無いほどの奇異で奇怪なことである。かの宮の子と称する幼少の人は三宮が有るようだ。もし件の宮を以て父宮と称するか、将に又天狗の為す所か、でたらめは一旦と雖も此のような発表は、未曾有の事である。これ則ち平清盛が人望を失う間、事に於いて彼の為、凶のしるしを表そうと欲し天下の男と女が世間に、奇怪な風聞を流すものである。
「伯耆の国(鳥取西部)荘園停廃宣旨」
伯州の荘園、停廃の宣旨が到来したようだ。

9月23日 「山槐記」天陰
追討使は昨日、福原を出て、今日六波羅に着いたようだ。

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2006年4月16日 (日)

9月13日「平貞俊東国追討使の中に入る」

9月13日 朝間小雨、午後晴れ、
「平貞俊東国追討使の中に入る」
筑前の守の平貞俊が来て話した。東国の追討使の中に含め入り、来二十二日出発するべきようだ。信濃の国はすでに味方したようだ。夜に入り、伯耆の守の藤原基輔が福原から帰り、人々の様子等を知らせた。

9月19日 雨降り、
「筑紫に反逆の者あり」
伝聞、九州でまた反乱の者が有る。平清盛はひそかに追討使を遣わしたようだ。また熊野の反乱は、日を追って増大した。然れども、未だその政務の処理に及ばないようだ。

9月20日 雨下、
「良通平惟盛に馬を送る」
右大将である長男の良通が、馬を福原にいる少将の平惟盛朝臣のもとへ送った(使は内舎人弐房)。関東へ下向する追討使の為である。今日大風。

9月22日 晴れ
「東国勢数万に及ぶ」
伝聞、東国の反乱は日を追ってその勢力は数万に及び、現在七八ヶ国を横領したようだ。
9月22日 「山槐記」天晴れ
今日、東国の追討使の少将平惟盛朝臣が命令書を頂いて福原を出発した。

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2006年4月15日 (土)

9月11日「頼朝追討の宣旨」

9月11日 夜より雨降り
「頼朝追討の宣旨」
大夫史の隆職が、記録し送達したところの宣旨(天皇の命令書)は次のようである。
     治承四年九月五日   宣旨  左大将、左中弁
伊豆の国の流人の源の頼朝が、忽ち凶徒凶党を合議し、当国や隣国を横領しようとしている。反乱の経過は、すでに通常ではない。宜しく右近衛権の少将の平の維盛朝臣・薩摩の守同忠度朝臣・参(三)河の守同知度等を以て、彼の頼朝、及び味方する者どもを追討させるべし。兼ねてまた東海・東山両道の武勇に堪える者に、追討に備えさせるべし。その中で特に功有る者を抜き出して、破格の賞を与えるべし。

 伝聞、近頃、源仲綱の息子は素より関東に住む。彼を追討の為、武士の大庭の三郎景親を平清盛がひそかに派遣した。而るに件の仲綱の息子は奥州方面に逃げ脱した。
「頼朝箱根山に籠もる」
然るの間、忽ち頼朝の反乱が発生した。仍って合戦の間、頼朝等を筥根山に追い籠めた。茲に因って追い落としたとの由の風聞か。
「平廣常等頼朝に与力し事大事に及ぶ」
而るにその後上総の国の住人、上総の国守の平八郎廣常、並びに足利の太郎(故俊綱の子と)等も味方した。その他に隣国有勢の者等、多く以て味方した。逆に大庭の三郎景親等を殺そうとするの由、去る夜飛脚が到来した。事は大事に及ぶようだ。但し実否は知り難い。此のようなデマが甚だ多い。
 平清盛は来十二日に芸州(安芸、広島の西部)に参るべし、又新院(高倉上皇)は来十二日の間、同じく参詣されるべしというようだ。
 また熊野の湛増がさらに反乱を事実とした。別当の範智も味方したようだ。

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2006年4月14日 (金)

9月9日「関東反逆の聞こえ有り」

9月9日 晴れ
「関東反逆の聞こえ有り」
関東で反乱との知らせが有りました。去る五日太政官の大外記・大夫史等の役人が、招集の命により法皇の御所に集まり会議が有りました。
「評議有りて頼朝追討すべく宣下せられる」
追討すべきの由、頭弁の源経房が宣下し、左大将の藤原実定が官符を下した。平維盛・平忠度・平知度等は来二十二日に下向すべしと。但し賊軍はわずかに五百騎ばかりで、官兵は二千余騎である。すでに合戦となり、
「凶族山中に逃げ入る」
反乱軍等は山中に逃げ入りたりの由、昨日(六日なり)飛脚が到来したようだ。然れば大将軍等の出発は、若くは事に後れ有るかというようだ。
(注釈)
官符・・・太政官符、太政官から発する公文書
太政官・・・現在の内閣
弁・・・太政官の中級の官吏の名、左右、大中少がある。
頭弁・・・中弁のうち蔵人(くろうど)を兼ねる者、頭の弁
飛脚・・・急用を遠くへ知らせる使い

9月9日 「山槐記」晴れ、
 頭弁経房が話した、関東の大乱に、追討使を三人派遣する、右少将の平惟盛朝臣、薩摩の守平忠度朝臣、武蔵(参河の誤り?)守平知度等である。

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2006年4月13日 (木)

9月7日 「吾妻鏡」

9月7日 「吾妻鏡」
 源氏の木曽の冠者(かんじゃ)義仲は、帯刀(たてわき)先生(せんじょう)義賢の二男である。義賢は去る久壽二年(1155年)八月、武蔵の国大倉館に於いて、鎌倉の悪源太義平(義朝の長男)の為討ち亡ぼされた。時に義仲三歳の嬰児である。乳母の夫の中三権の守の中原兼遠がこれを懐き、信濃の国木曽に遁れ下り、これを養育せしめた。成人の今、武略の素質、平氏を征伐し家を興すべきの由存念が有る。而るに前の武衛(頼朝)が石橋山に於いてすでに合戦を始めらるの由を遠聞に達し、忽ち相加わり素意を顕わそうと欲した。爰に平家の味方の小笠原の平五頼直と云う者がいた。今日軍士を同道して木曽を襲おうとした。木曽の味方の村山の七郎義直並びに栗田寺別当(長官)大法師範覺等はこの事を聞き、当国市原に相逢い、勝負を決した。両方合戦半ばにして日すでに暮れた。然るに義直は矢が尽きかろうじて堪えていた。飛脚を木曽の陣に遣わし事の由を告げた。仍って木曽は大軍を率い競い到る処、頼直はその威勢に怖れ逃亡した。越後の城の四郎長茂に加わる為、越後の国に赴いたようだ。
(注釈)
冠者(かんじゃ)・・・わかもの
帯刀(たてわき)・・・たちはき、皇太子の護衛
先生(せんじょう)・・・隊長
権の守・・・(正員以外の守(国の長官))
中三・・・(中原家の三男)
稟性(ひんせい)・・・、うまれつきの性質
悪源太・・・(この時代の悪は強いの意味)

9月7日 「山槐記」晴れ、
 権律師源実曰く、義朝の子(頼朝)が伊豆を横領した。関東の国の者どもがこれを追討し男を伐り取った。義朝子(頼朝)においては箱根山に入りたりの由申し上げるの由、・・・
 義朝子(頼朝)は伊豆国を横領した、武田太郎は甲斐国を横領した。
伊豆国の流人兵衛佐(頼朝)は謀反を企て合戦の事。8月23日寄り合いの者ども。
    ・・・
兵衛佐残り少なく討たれたり、箱根山に逃れ籠もりたり。
8月28日飛脚が出国し、今日7日に到来した。

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2006年4月12日 (水)

9月3日「源頼朝伊豆・駿河を押領す」

1180年(治承四年)
9月3日 陰晴れ不定、
「熊野権別当謀叛」
 伝聞、熊野権の別当(長官)湛増が謀叛を起こした。その弟の湛覺の城、及び所領の人家数千軒を焼き払った。鹿瀬以南も併せて横領した。行朝が同意したようだ。この事は去る月の中旬頃の事のようだ。
「源頼朝伊豆・駿河を押領す」
 また伝聞、謀叛の賊で源義朝の子の頼朝は年来配所の伊豆の国に在った。而るに近日凶悪の事件を起し、去る比、新任の国司の平時兼の先使を押し伏せふみつけた(平時忠卿の知行の国である)。凡そ伊豆・駿河の両国を横領した。
「源行家頼朝に與力」
また源為義の息子の行家は、ここ一二年来熊野の辺に居住して、去る五月の乱逆の時には、関東方面に赴いた。彼の義朝の子の頼朝に味方し、大略謀叛を企てるか。あたかも平将門のようである。凡そ去年11月以後天下は静かでなく、是即ちひとえに天下をみだりに刑罰を加えることにより鎮めようとするの間、敵方の類は其の威勢を怖れず、さらに荒々しい心を起す、将来又鎮める事が出来ない事か。

9月4日 「山槐記」晴れ、
今日或者云う、故源義朝の息子で兵衛佐の源頼朝が正義の兵を起こしたようだ。伊豆の国を横領した。関東は大騒ぎとなった。

9月5日 「山槐記」晴れ、
 後聞、今日東国の追討使の宣旨(天皇の命令)が下されたようだ。
東海道諸国へ告ぐ  伊豆国の流人の源頼朝並びに味方する者どもの追討の事

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2006年4月11日 (火)

5月27日「以仁王討ち漏らすとの疑いあり」

5月27日 朝間雨下る。辰の刻(8時)以後天晴れ。
「以仁王討ち漏らすとの疑いあり」
 源の以光(以仁王)は謀叛を計画し、園城寺(三井寺)に逃げ籠もる。彼の寺の凶徒(僧兵)が同意するの間、その所を避け南都(奈良)に向かう。興福寺の悪徒(僧兵)また以て味方した。未だ前途を遂げざるの路次に於いて、源頼政以下の軍兵等を誅殺した。彼の以光(以仁王)はその内に漏れたか。世間の疑う所では、もし南都に移住するか。但しこの噂はあきらかでないといえる。

(中略)
「南都より以仁王誅殺せらるとの告げあり」

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2006年4月10日 (月)

5月26日 「宇治川橋の合戦」

5月26日 天晴れ
「奈良大衆上洛」
朝5時30分頃に報告があり、奈良の僧兵がすでに上京したようだ。さらにまた、他の僧兵群は不都合な事であるようだ。
「以仁王等南都に逃げ去る」
三井寺においでの以仁王・源頼政は相共に、去る夜半ばかりに逃げ去り南都(奈良)に向かった。その報告を得るに依って、武士等が追い攻めるようだ。
(中略)
「頼政等誅殺さる」
12時頃、検非違使の季貞が前の大将の使いとして参院した。時忠卿に相対して、申して云く、頼政が党類を併せて誅殺した。彼の入道源頼政・兼綱並びに郎従十余人の首を切った。以仁王については、たしかにその首を確認しないと雖も、同じく伐ち得た。その次第、4時頃、逃げる者の報告を得た。
「宇治川橋の合戦」
 即ち検非違使景高(飛弾の守景家の嫡男)・同忠綱(上総の守忠清の一男)等以下、士卒三百余騎これを遂いて責めた。時に敵軍等宇治平等院に於いて食をすすめるの間であった。宇治川の橋を引くに依って、忠清以下十七騎が、先ず打ち入る。河水敢えて深み無く、遂に渡り得る。暫く合戦するの間、官軍進み得ず。その隙を得て引いて降ち去る。官軍猶これを追い、河原に於いて頼政入道・兼綱等を討ち取った。その間彼是死者太だ多し。疵を被るの者どもは数える事も出来ない。敵軍は僅かに五十余騎、皆以て死を顧みず、敢えて生を乞うの様子無し。甚だ以て堅固なり。その中で兼綱の矢前を廻るの者は無し。恰も八幡太郎の如しと。
「以仁王自害するか」

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2006年4月 9日 (日)

5月24日「南都の衆徒宗盛邸を攻むべき由風聞す」

5月24日 陰晴れ不定
「南都の衆徒宗盛邸を攻むべき由風聞す」
人伝えに云く、奈良の僧兵が、前の将軍家平宗盛邸に責め寄せるべしと。仍って彼の宗盛家中は大騒ぎであると。

[愚管抄]
 源頼政は、宇治へ落ちゆきて、一夜おいでになりました。

5月25日 [愚管抄]
 平家軍は、おしかけて攻め寄せて戦いました。以仁王の味方はただ頼政の勢のみで誠に少なかった。平家軍は大勢で馬やいかだにて宇治川を渡りましたので、対抗手段がありません。やがて源仲綱は平等院の殿上の廊に入って自害しました。にえ野の池を過ぎたあたりで、追い付いて以仁王を打ちとりました。源頼政も討たれました。

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2006年4月 8日 (土)

5月22日「頼政入道子息等を引率し三井寺に籠る」

5月22日 雨下る、時々天晴 
「頼政入道子息等を引率し三井寺に籠る」
去る夜半、源頼政は子息等(正綱・宗頼を同道しない)を引率し三井寺にこもって祈願するようだ。すでに天下の大事となるか。
(中略)
「山大衆三百余人与力す」
邦綱卿の門下の者が手紙一通を見せた。比叡山延暦寺の僧兵三百人が味方したとの、延暦寺の僧兵からの手紙である。
「奈良の大衆蜂起に京中の武士等恐怖す」
夜に入り奈良より人が来て伝えた、奈良の僧兵が蜂起した。すでに上京しようとしているようだ。また前の将軍以下、京中の武士等、偏に以て恐怖している。家中の雑物を運び、女人等を逃げさせている。大略は逃げ降るべきの準備か。

[愚管抄]
 頼政は、三井寺に参りて、寺より平家の六はらへ夜打ち出し立ててある程に、遅くなって松阪で夜明けになったので、この事は出来なかった。

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2006年4月 7日 (金)

5月21日「園城寺を攻むべき事」

5月21日 朝間天晴、午後雨下る 
「園城寺を攻むべき事」
 今日園城寺を攻めるべきの理由を、武士等に仰せがありました。明後日に出発すべしと。前の大将平宗盛卿以下十一人、所謂大将・頼盛(よりもり)・教盛(のりもり)・経盛(つねもり)・知盛(とももり)等の卿、維盛(これもり)・資盛(すけもり)・清経等の朝臣、重衡(しげひら)朝臣、頼政入道等であるようだ。人語って云く、僧兵は一同出で奉りべからざるの由、議定申した。宮(以仁王)は、僧兵がたとえ我を此の地に放ち、命終わるべしと雖も、更に人手に渡るべからずと。意気消沈は無し。おおいに以て強気であると。見る者は全員が感歎したようだ。此の間にかの宮に親密な者ども、及び一度参入の人や知人等と雖も、併せ尋ね捜され、多くの人が損亡すべしと。但し私(兼実)に於いては、少しもこの恐れ無き者である。仏天は知見あるべきか。園城寺の仏法は滅尽の時に至るのか。悲しむべし悲しむべし。

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2006年4月 6日 (木)

5月19日20日

5月19日 雨降る
「律上房・尊上房が凶徒の張本たり」
 伝聞、昨日園城寺に遣わさるる所の僧の中、房覺僧正一人は去る夜帰京した(他の僧等は出京しない)。彼の宮が猶出でなさるべからざるの由、僧兵は申し切った。凶徒は七十人ばかりである、その中の律上房・尊上房、この両人が張本である。この由今日後白河法皇に申し上げた。比叡山延暦寺は味方すべきでないとの由、しきりに抑せられた。

5月20日 雨下 
「園城寺以仁王出し奉る事を承諾するも八條宮の使追い帰さる」
 人伝えに云く、留守する所の僧が、詳細を僧兵達に示した。僧兵は各々宮を出しなさるべきの由を承諾した。仍って昨日八條宮は御迎えの為人をつかわした(僧二人並びに家来等を同道させる)。彼の宮の在所に就いて、出しなさろうと欲するの処、宮は怒りて云く、
お前達は我を捕らえようとんと欲すが、更に手に懸けるべからずと。ここで甲冑(かっちゅう)を着けた僧兵が七八人出て来て、彼の僧以下を追い散らした。殆どあなどりさげすみに及んだ。仍って空しく以て帰京した。事は猶僧等の制止が叶うべきではない。又云う、在京の武士等は恐れること極まり無しと。

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2006年4月 5日 (水)

5月17日「以仁王三井寺にあり」

5月17日 天晴
「以仁王三井寺にあり」
 伝聞、昨日10時ごろ、八條宮(圓恵法親王これなり、高倉宮の弟)が、使者を以て宗盛(むねもり)・時忠(ときただ)等の卿に知らせたようだ。高倉宮がおいでの所は、三井寺(園城寺)、平等院である。京を出らるべきの由を沙汰する所なりということだ。これにより時忠卿は彼の御迎えのため人を遣わした。また宗盛卿は武士五十騎ばかりを彼の使に着け加えこれを遣わした。即ち八條宮の従者達三人がこれに同道した。夕刻に出立した。24時頃に彼の寺に到着した。但し寺中に入らず、小関外に群集していた。先ず以て従者達が御迎えに参るの書状を示し証明した。即ち帰り来たりて云く、今日日没以前に、僧兵三十人ばかりを同道し、京の御所においでになりました。早く帰らるべしと。仍って長官使い並びに武士等、八條宮に参り、先ずこの由を申しました。
(中略)
この状を聞き、事の次第を宗盛・時忠等の卿に示した。その後重ねて沙汰の趣を聞かない。大略武士の下品なこと、言い足らざる事か。凡そ昨日の朝、彼の宮が行方をくらましたの由を聞く、福原の清盛に伝わった。その使い今日帰京すべし。その後毎事沙汰有るべしと。
(中略)
武者云く、諸国に散在するの源氏の血筋等は、殆ど高倉宮の味方となる。また近江の国(滋賀県)の武士達は、同じく以てこれに味方するようだ。凡そこの間、世間の噂話しは色々で真偽は知り難い。

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2006年4月 4日 (火)

5月16日以仁王配流

5月16日 陰晴れ不定、晩に及び小雨
 大夫史(太政官の五位の下級官吏)の小槻隆職宿祢が、三條宮(高倉宮、以仁王)が流罪との事を記録し送り届けた。その書状は次のようである。
   源以光(本の御名は以仁、忽ち姓を賜り名を改むと)
    宜しく遠流に処し、早く京都付近の地より外に追い出さしむべし。
   高倉宮配流の事、仰せ下さるるの状件の如し。
(解説)
以仁王を皇族から外し(臣籍降下)、源以光として遠流の刑にする文書。
太政官の下級官吏の隆職が右大臣の兼実に報告している。

「三井寺衆徒以仁王を守護す」
 伝聞によると、高倉宮(以仁王)は、去る夜検非違使が未だその家に向かわない前に、ひそかに逃げ去り三井寺に向かった。三井寺の僧兵が守護し、比叡山に登りなさるべしと。両寺の僧兵が謀叛を計画しているようだ。
「以仁王若宮逐電(逃亡)の聞こえ有り」
 また高倉宮(以仁王)の子の若宮(八條院に仕える女房の子供なり。出生の時より女院が養育される。即ちその宮中にお仕えす)がゆくえをくらまして逃げたようだ。仍って武士等が彼の女院の御所を打ち囲み、その中を捜し求めた。これより先女院御一身に於いては、頼盛卿の家(即ち件の卿の妻が参上し同道した)に出でなされたという事である。即ち件の若宮は、女院を求め出でなされお帰りしたようだ。(略)後聞、八條院が他所にお出かけすることは誤りである。女院においでながら頼盛卿父子が参入したようである。一所残らず捜し求めしむと。
(解説)
以仁王と以仁王の子を平家軍は捜しているようである。

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2006年4月 3日 (月)

5月10日、15日 「以仁王配流」

5月10日 天晴
「武士洛中に満ち世間物騒」
今夜明け、平清盛が入京した。武士が京都市内に満ちあふれるほどだ。世間又物騒であるようだ。

5月15日 天晴
「以仁王配流せらる」
 日暮れにかかる時、京都市内は大騒ぎとなった。比叡山延暦寺の僧兵等が京都へ下るとのデマあり。但しその事実は無し。今夜三條高倉宮(後白河法皇の第二子)が配流(流罪)となるようだ。件の宮は八條女院(後白河院の妹)の御養子である。此の外いろいろのの風説が多いが、真偽不明である。

[愚管抄]
 高倉の宮(以仁王)という、院(後白河法皇)の宮に高倉の三位(成子)という愛されし女房が産み参らせたる御子がおいでした。諸事の指図があり、王位に御心(おこころ)かけたいと思いたちました。この宮をとやかく言う事なく流罪にしようとして、三位源頼政の子で兼綱と云う検非違使(けびいし、警察官兼裁判官)を追つかいまいらせて、三條高倉の御所へ参られましたが、速く逃がさせまして、三井寺に入らせました。寺の僧兵どもはもてなして道々切りふさぎました。頼政はもとより出家していましたが、近衛河原の家を焼いて仲綱伊豆の守・兼綱など同道して参りました。

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2006年4月 2日 (日)

4月27日 「吾妻鏡」以仁王の令旨

4月27日 「吾妻鏡」壬申
 高倉宮(以仁王)の令旨が、今日前の武衛将軍(源頼朝)の伊豆の国の北條館に到着した。八條院の蔵人行家が持参した。
    (中略)
 東海・東山(中山道)・北陸三道諸国の源氏並びに群兵等の所に命令する。
  早く平清盛と従類の叛逆の者どもを追討せよ。
 前の伊豆守源仲綱が広く示す、最勝王(以仁王)の命令をうけたまわりていわく、平清盛と宗盛等は、威勢を以て帝王をないがしろにし、悪事を起こして国家を亡ぼす。百官万民を悩まし乱し、五幾(ごき、畿内。京都近県、大和、山城、河内、和泉、摂津)七道(しちどう、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海道)を横取りした。後白河法皇を閉じこめ、臣下の者を流罪にした。死罪とし流罪にした、水中に沈め牢屋に閉じ込めた。資財を盗み國を横取り、官職を奪い、官職を授けた。功労も無くしてみだりに恩賞を許し、罪無くしてみだりに処刑した。これに依って巫女は宮室に留まらず、忠臣は法皇の御所に仕えず。或いは諸寺の高僧を召し取り、修学の僧徒を牢屋に入れた。或いは比叡山延暦寺の絹米を給下し、謀叛の粮米に相具し、百皇の跡を断つ。そもそも一人の頭、帝皇を違逆し、佛法を破滅した。その振る舞いを見るに誠に古代を絶する者である。時に天地悉く悲しみ、臣民皆愁う。仍って吾は後白河法皇の第二の皇子である。天武天皇の旧儀を尋ね、王位推取の者どもを追討し、聖徳太子の前例により、仏法破滅の類を打ち亡ぼそうとする。ただ人力の構えを頼むだけでなく。偏に天道の神の扶けを仰ぐ所なり。これに因って、帝王の三宝(三種の神器)の神明の信心が通ずることが有るが如し。何ぞ忽ち四霊山の合力の志が無いことがあろうか。然れば則ち源家の人、籐原氏の人、兼ねて三道諸国の間で、勇士となれる者、同じく加勢せしめ、平清盛とその従類を追討すべし。もし加勢しない場合は、死罪流罪など追禁の罪過に処す。もし功労が有る場合は、先ず諸国の使に預かり、兼ねて御即位の後、必ず乞いに随い勧賞を授けるものである。諸国宜しく承知し、命令に従うべし。
     治承四年四月九日       前の伊豆守正五位下源の朝臣(仲綱)
(解説)
高倉宮(以仁王)が最勝王と称して、平家追討の令旨を源仲綱に書かせている。諸国の反清盛平家の反乱軍はこの令旨を旗印として挙兵し、われこそは官軍と称する。朝廷及び平家からすると謀反の輩(反乱軍)だが。

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2006年4月 1日 (土)

3.1 入京前1180年(治承四年)4月9日 「吾妻鏡」

3.1 入京前
1180年(治承四年、庚子)

4月9日 「吾妻鏡」辛卯
 源頼政卿は、平清盛を討滅しようと、かねてより計画していました。しかし密かな計略では、はなはだ念願を遂げ難いと思い、今日の夜に入り、子息の伊豆の守仲綱等を同道し、密かに後白河法皇の第二宮の三條高倉の御所に参りました。前の右兵衛の佐源頼朝以下の源氏等を集め、彼の平氏族を討ち、天下を執らしめなさるように申し込みました。よって無官職の宗信に言いつけて、令旨(命令文書)を下されました。そこで陸奥の十郎義盛(源為義の末子)がたまたま在京していたので、この令旨を所持して関東方面に向かい、先ず前の兵衛の佐の源頼朝に接触した後、その外の源氏等に伝えるべきの意向を、固く申しつけた。義盛は八條院(後白河院の妹)の蔵人(下級役人)に任命し、名字を行家と改めた。

(解説)
源頼政が高倉宮(以仁王)を促して、平家追討の令旨を発行させ、源十郎行家(源為義の末子)に諸国の源氏へ配布させた。吾妻鏡では頼朝の権威付けのため、頼朝を優先するように記述しているが、実際には京都から順々に伝達したに違いない。源頼政は当時在家僧侶風となり、官位が三位であったので、源三位頼政(げんざんみよりまさ)と通称された。

(原文、訓読文は2005.9.26参照)http://geocities.yahoo.co.jp/gl/qyf04331/

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