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2006年3月 7日 (火)

14.4 義仲の限界

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 義仲はまだ若かったから無理もないが、戦わずして勝のが最上などといえば、怒るかもしれない。個々の戦闘能力は高いから、小規模の合戦には勝てるかもしれないが、大規模な軍団となった時の戦略とか、政治的かけひきとなると、参謀策士がいない。
 これは現代の企業における技術者だけの集団のようなものである。技術者が何か発明をする。新製品を開発する。しかしそれだけでは会社は続かない。伸びない。商品が売れなければならない。そのためには製品化の工場が必要だ。広告もいる。販売の営業もいる。経理も要る。総務課もいる。個人事業主は一人でやらねばならない。やはり得意な分野を分担したほうが効率的だ。技術者だけで会社を作ると、製品開発だけは熱中するが他はおざなりとなり、特に経理は無視して赤字続きとなり、破綻する。即ち全般を特に経理を担当する経営者が必要だ。本人にその能力が無ければ補佐する者が必要だ。
 義仲の直属の部下はほぼ全員が戦闘員、戦闘参謀で、戦略参謀、政治参謀はいなかったようだ。尤もそのころそのような人材がいなかったことも事実で、そのような発想すら無かったろう。暗中模索の連続だったと思う。技術者同士で会社を興したが、諸問題山積で、参考書もなく、助言者もいない、右往左往しているようなものである。
 義仲が入京した時、各地から反平家の源氏軍が合流したが、それらは義仲の指揮下に入ったわけではない。義仲の直属軍と比較しても同程度の兵力を持っているので、思いどおりには動かない。もたもたしているうちに法皇が反義仲連合を画策し始めた。やむを得ずクーデターとなった。
 頼朝は戦争には戦闘技術以外の戦略や計略が必要で有効な事に気づいたか、北条家が補佐したか、うまく策略を廻らしている。朝廷の下級官吏を採用したり、その提案をうまく利用している。年齢が10才上というのも、義仲の30前後の血気盛んなのに比べ、40前後の体力がやや落ち目なので、頭で勝負しようとするのもかえって有利か。

14.5 「源平合戦」から「治承・寿永の内乱」

 軍記物語の影響から、「源平合戦」と源氏と平家の対抗戦のような気がするが、実は頼朝に従がった関東武士団の7割から8割は平家の系統だった。厳密には関東の平氏と西国の平氏の争い「平平合戦」である。たまたま頼朝はその頭として担ぎ出されたに過ぎない。その他、頼朝や義仲以外にも各地で反乱か゜起きて、全国的な内乱状態であった。ということで、源平合戦はふさわしくないので現在は「治承・寿永の内乱」と呼称されている。

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