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2006年3月 1日 (水)

13.2.4 法住寺合戦当日

13.2.4 法住寺合戦当日

11月19日 天気陰、時々小雨、

「義仲法住寺御所を攻む」
早朝人告げて云う、義仲すでに法皇宮を襲わんとすと。余信受せざるの間、暫く音無し。基輔を以て院に参らしめ、子細を尋ねしむ。午の刻(12時)帰り来たり云う、すでに参上の由、其の聞こえ有りと雖も、未だ其の実無し。凡そ院中の勢甚だ少しと為す。見る者興違の色有りと。光長又来たり、院に奏せん為退出したり。然れども義仲の軍兵、すでに三手に分かれ、必定寄せんの風聞、猶信用せざる処、事すでに実なり。余の亭大路の頭たるに依り、大将の居所に向かいたり。幾程を経ず黒煙天に見ゆ。是河原の在家を焼き払うと。又時作る両度、時に未の刻(14時)なり。或いは云う、吉時と為すと。

「官軍敗績す」
申の刻(16時)に及び、官軍悉く敗績し、法皇取り奉りたり。義仲の士卒等、歓喜限り無し。

「義仲法皇を取り奉り五条亭へ渡る」
即ち法皇を五条東洞院の摂政亭に渡し奉りたり。武士の外、公卿・侍臣の矢に中(あた)り死傷の者十余人と。夢か夢に非ざるか。魂魄(こんぱく、たましい)退散し、万事覚えず。

「天下乱逆のうち未だ今度の如きは無し」
凡そ漢家本朝天下の乱逆、其の数有りと雖も、未だ今度の如き乱有らず。義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使いなり。其の身の滅亡、又以て忽然か。憖(ぎん、ねがう)ひに生きて此の如しの事を見る。只宿業を恥ずべきものか。悲しむべし悲しむべし。

「基通宇治の方に逃げる」
摂政(基通)未だ合戦せざる前、宇治の方へ逃げられたりと。夜に入り、定能卿密かに母堂の許へ来たる。即日余の居所の北隣に来たるなり。

「兼房院に参るも合戦のため迷い出ず」
今日、二位中納言(藤原)兼房院に参り、合戦の間、雑人のため、僕従・乗り物等を隔てられ、歩行して、迷い出で、当時小屋に在り。乗物を送るべき由、雑色を以て示し送らる。依って牛車等を相具し送り遣わす処、尋ね失いたりと。後に聞く、歩行し法性寺の僧都(慈円)の許に来たると。深更に及び家に帰られたりと。日来却って籠居(ろうきょ)の人、何故今日参院せらるるや、尾籠(びろう)の甚だしき、鳴呼(ああ、あはあ)と謂うべきなり。定めて天下の沙汰となるか。
「天皇の御在所知れず」
主上(後鳥羽天皇)、実清卿相具し奉ると。未だ其の御在所を知らずと。今夜大将亭に宿す。

11月19日 [吉記]天晴れ。
 午の刻南方火有り。怪しみてこれを見る処、院の御所辺と。再三進入すと雖も、戦場たるに依って、敢えて以て通ぜず。馬を馳せんと雖も、参入すること能わず。南方の空を見るに夕陽に及び、縦横の説信じ、信ぜざるの処、日入るに及び、院の御方逃げ落としめ給うの由風聞有り。鳴咽(おえつ)の外更に他事を覚えず。後聞、御所の四面皆悉く放火す。その煙偏に御所中に充満し、万人迷惑す。義仲軍所々に破り入り、敵対に能わず。法皇御輿に駕(が)し、東を指して臨幸す。参会の公卿十余人、或いは鞍馬(あんば)、或いは匍匐(ほふく)、四方に逃走の雲客已下その数を知らず。女房等多く以て裸形。武士伯耆の守光長・同子廷尉光経已下合戦す。その外併しながら以て逃げ去る。義仲清隆卿堂の辺に於いて追参し、甲冑を脱ぎ参会す。申す旨有り。新御所の辺に於いて御車に駕す。時に公卿修理大夫親信卿・殿上人四五輩御供に有り。摂政の五條亭に渡御すと。
(中略)
夜に入り、所々に火有り。伯州(伯耆)光長宅、叉山(天台)座主三条房等なり。

(現代文)

「義仲法住寺御所を攻む」
早朝、ある人が報告に来た。義仲がすでに法皇の御所を攻撃しようとしているらしい。私は信用出来ないまま、暫く音沙汰無し。基輔を以て法皇御所に参らせ、詳細を尋ねさせた。12時頃に帰り来て報告した。すでに攻撃のため参上のうわさは有るが、未だ其の事実は無い。凡そ法皇の御所の中の軍勢は甚だ少い。見える者達は興違の気色が有りと思われる。光長が又来た、法皇に申し上げようとする為退出した。然れども義仲の軍兵はすでに三手に分かれ、必らず押しせるとの風聞があり。猶信用出来ない処、すでに事実であった。私の家は大路の頭であるので、息子の大将の居所に向かった。幾程を経ず黒煙が天に見えた。是は河原の在家を焼き払う黒煙のようだ。又時の声をあげることが二度あった。時に14時頃である。或いは云う、吉とする為の時であると。

「官軍敗績す」
16時頃に及び、官軍は悉く敗退し、義仲軍は法皇を取り囲んだ。義仲軍の将兵等の歓喜は限り無きものであった。

「義仲法皇を取り奉り五条亭へ渡る」
即ち法皇を五条東洞院の摂政亭に移動した。武士の外、公卿・侍臣のうちで矢にあたり死傷した者は十余人のようだ。夢か現実か。たましいが抜けたようで何事も覚えが無い。

「天下乱逆のうち未だ今度の如きは無し」
凡そ中国の漢家や日本の朝庭で天下の乱逆は、其の数有りと雖も、未だ今度のような争乱は無かった。義仲はこれ天の不徳の法皇を誡むる使いである。其の身の滅亡、又以て忽然か。ねがひに生きて此の如しの事を見る。只前世の行為を恥ずべきものか。悲しむべし悲しむべし。

「基通宇治の方に逃げる」
摂政の基通は、未だ合戦の始まる前に、宇治の方面へ逃げたようだ。夜に入り、定能卿が密かに母の許へ来た。即日私の居所の北隣に来た。

「兼房院に参るも合戦のため迷い出ず」
今日、二位中納言の藤原兼房が法皇御所に参り、合戦のため、軍兵により、従者や乗り物等を隔てられ、歩行して、迷い出でて、当時は小屋に居た。乗物を送るべき由、従者を以て使いを送らる。依って牛車等を相伴い送り遣わした処、尋ね失ったようだ。後に聞くところでは、歩行して法性寺の僧都(慈円)の許に来たようだ。深夜に及び家に帰られたようだ。日頃、かえって家の中にとじこもって居る人が、何故今日参院したのか、無作法な事は甚だしいものだ。ああと謂うべきか。定めて天下の沙汰となるか。
「天皇の御在所知れず」
後鳥羽天皇は実清卿がお供しているようだ。未だ其の御在所はわからない。今夜は息子の大将の家に宿伯した。

11月19日 [吉記]天晴れ。
 12時頃に南方に火が見えた。怪しんでこれを見る処では、法皇の御所の辺である。再三進入しようと雖も、戦場であるので、敢えて通行出来ない。馬で馳けようと雖も、参入することは出来ない。南方の空を見ているうちに夕陽となり、とりどりの風説を信じたり、信じないでいたりするうちに、日が入るに及び、法皇の御方は逃げ落ちたとの風聞が届いた。おえつの外更に他事を覚えなし。後で聞いた、御所の四面は皆悉く放火す。その煙は偏に御所中に充満し、万人が迷惑した。義仲軍は所々から破り入り、敵対出来なかった。法皇を御輿に乗せ、東を指して退避した。付き従う公卿は十余人のみ、或いは鞍をおいた馬、或いはほふくで、四方に逃走した殿上人以下その数はわからない。女官等は多く裸形である。武士の伯耆の守光長・同子廷尉光経以下は合戦した。その外は戦いながら逃げ去った。義仲軍は清隆卿堂の辺に於いて追い付き参り、甲冑を脱ぎ参会した。申す旨が有り。新御所の辺に於いて御車に乗せた。その時に公卿の修理大夫親信卿・殿上人の四五人が御供に有りました。摂政の五條亭においでになりました。
(中略)
夜に入り、所々に火の手が上がりました。伯州(伯耆)光長の家、叉山(天台)座主の三条房等である。

(解説)
平家物語では法皇側が2万人、義仲軍が7千騎となっているが、多分その10分の1の2千対700程度の戦いだろう。歴戦の勇士揃いの義仲軍と寄せ集めの烏合の衆との戦いでは勝敗は明らかである。兼実も警告していた。

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