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2006年3月 4日 (土)

13.4 クーデター

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 「平家物語」によると義仲軍の乱暴狼藉を取り締まれとの使者に義仲が無礼な対応をしたので討ってしまえということになっているが、「玉葉」「愚管抄」によると乱暴狼藉に関係無く、法皇側が頼朝に期待して、とにかく義仲が邪魔なので、兵を集めて追い出そうとしたのが事実のようである。法皇が兵を集めて、その兵力の比が逆転しそうなので、討たれる前に攻めようとなつたようである。であるから、合戦後の処理も計画的とは言えない。入京後、兵粮不足を理由に兵力を減らせとの指示により、京都近郊の将兵は京都からかなり撤退しており、義仲の信濃北陸の将兵以外は少なかった。さらに水島合戦の敗北で半数は失われていたようである。
 鼓判官の悪口を言わせているが、これは作者が鼓判官壱岐知康が法皇の近臣として重用されているのをねたんで義仲の口を介して言わせているようである。物語や小説では作者や読者の意図を登場人物に言わせるのは手法の一つである。
 また四方から火矢により放火したとの記述があるが、「玉葉」「吉記」に煙が上がるの記述があるのみである。「愚管抄」では詳しい記述の割には、火とか煙の記述は無い。有名な倶利伽藍峠の「火牛の計」作戦も後世の創作であるとされている。
 「愚管抄」の特徴のある記事としては、法皇の弟で天台座主の「明雲」が討たれ、その首を執った者が報告したのに義仲は「なんだそんなもの」と云ったので、首は道ばたに棄てられた。というのがある。
 法住寺合戦はクーデターであり、武力による急激な政権奪取である。理由はどうあれ正否を論ずるのは困難である。クーデターそのものが悪であると決めつけることは出来ない。フランス革命を始め各国の政権交代が武力革命によることが多いが一慨に不当とは言えない。まさに「勝てば官軍、負ければ賊軍」なのである。要はその後善政が持続すれば良いのである。義仲政権は見通しの甘さにより、周囲の情勢利あらずで、60日しか持たなかったので、判断のしようがない。
 義仲軍は頼朝軍に負けたので、朝廷に対する反乱と決めつけられたが、「承久の乱」、「南北朝」の例など実は反乱軍が勝利した場合でも朝廷側の誰かを朝廷をそそのかした逆臣とみなして処罰するという方法でつじつま合わせをしている事が多い。
 頼朝も実はじわじわと武力による威嚇で、政権を奪ったことになる。序々にやるか、一気にやるかの違いに過ぎない。

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