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2006年3月 5日 (日)

13.5 承久の乱との比較

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約40年後に起きた「承久の乱」というのがある。寿永の頃即位した天皇が上皇となり、勢力を拡大した武家政権から公家政権を復活しようと計画した、鎌倉幕府打倒計画である。失敗して、その後鳥羽上皇は「島流し」となる。清盛や義仲が法皇を幽閉したと非難したがその比ではない。

13.5.1 皷判官め打破て捨よ
 「平家物語」によると義仲が法住寺事件の前に放った言葉は、
「われ信濃を出し時、をみ(麻績)・あひだ(会田)のいくさ(軍)よりはじめて、北国には、砥浪山・黒坂・塩坂・篠原、西国には福隆寺縄手・ささ(篠)のせまり(迫り)・板倉が城を責しかども、いまだ敵にうしろを見せず、たとひたとひ十善帝王(天皇)にてましますとも、甲をぬぎ、弓をはづいて降人にはえこそ参るまじけれ。たとへば都の守護してあらんものが、馬一疋づつ飼うて乗らざるべきか。いくらもある田どもからせて、ま草にせんを、あながちに法皇のとがめ給ふべき様やある。兵粮米もなければ、冠者原共がかたほとりに付いて、時々いりどりせんは何かあながちひが事(僻事)ならむ。大臣家や宮々の御所へも参らばこそ僻事ならめ。是は皷判官が凶害とおぼゆるぞ。其皷め打破て捨よ。今度は義仲が最後の軍にてあらむずるぞ。頼朝が帰きかむ処もあり、軍(いくさ)ようせよ。者ども」
と言ったとされている。(現代文)2.1参照

13.5.2 「秀康・胤義等を討ち取れ」
 「吾妻鏡」によると約40年後に起きた「承久の乱」の時の北条政子の言葉は
「皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云い俸禄と云い、その恩既に山岳より高く、溟渤(めいぼつ)より深し。報謝の志これ浅からんか。而るに今逆臣の讒(さん、ざん、そし・る)に依って、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべしてえり。」
(現代文)
「皆心を一にして奉公するべし。これは最期のことばである。なき右大将軍の頼朝候が朝敵を征罰し、関東の鎌倉幕府政権を創設してから以降、官位を受けたり俸禄を頂くなど、その恩は既に山岳より高く、暗い海より深い。御に報い徳を謝する志は、これは浅くないものである。而るに今や逆臣の告げ口に依って、非正義の天皇の命令書を下された。名を惜しむところの武士族は、早く藤原秀康・三浦胤義等を討ち取り、三代将軍の残した官職や領地を全うするべきである。但し上皇側に参ろうと欲する者は、只今申し出るべきである。」(藤原秀康・三浦義村の弟胤義は首謀者とされる)

(解説)
ともに皇族に仕える者の告げ口が原因であるので、それらを討とうとしている。これらに類似性を感じるが、いかがでしょう。これは平家物語の編集者が吾妻鏡の文章を参考にしたか。偶然か。

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