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2006年3月 3日 (金)

13.3 愚管抄(巻第五)の記述

13.3 愚管抄(巻第五)の記述Img_4432

その刹那(せつな)京中はたがいについぶくをして物もなく成(なり)ぬべかりければ、「残(のこり)なく平氏は落(おち)ぬ。をそれ候まじ」にて、廿六日のつとめて御下京(ごげきやう)ありければ、近江に入(い)りたる武田先(まづ)まいりぬ。つゞきて又義仲は廿六日に入りにけり。六条(ろくでう)堀川なる八条院のはゝき尼が家(いへ)を給(たまは)りて居(ゐ)にけり。かくてひしめきてありける程に、いかさまにも国王は神璽(しんじ)・宝剣(はうけん)・内侍所(ないしどころ)あいぐして西国(さいごく)の方(かた)へ落給(おちたま)ひぬ。この京に国主(こくしゆ)なくてはいかでかあらんと云(いふ)さたにてありけり。「父法皇をはしませば、西国王(に
(中略)
かやうにてすぐる程に、この義仲
は頼朝を敵(かたき)に思ひけり。平氏は西海(さいかい)にて京へかへりいらんと思ひたり。この平氏と義仲と云(いひ)かはして、一(ひとつ)になりて関東(くわんとう)の頼朝をせめんと云事出きて、つゝやきさゝやきなどしける程に、是も一定(いちぢやう)もなしなどにてありけるに、院(ゐん)に候北面下臈(ほくめんげらふ)友康(ともやす)・公友(きみとも)など云者、ひた立(たて)に武士を立て、頼朝こそ猶本体(ほんたい)とひしと思て、物(もの)がらもさこそきこへければ、それををもはへて頼朝が打(うち)のぼらんことをまちて、又義仲何ごとかはと思けるにて、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)院御所を城(しろ)にしまはしてひしとあふれ、源氏山々寺々(やまやまてらでら)の者(もの)をもよほして、山の座王(ざす)明雲(めいうん)参りて、山の悪僧ぐしてひしとかためて候けるに、義仲は又今は思ひきりて、山田・樋口(ひぐち)・楯(たて)・根(ね)の井(ゐ)と云四人の郎従(らうじゆう)ありけり、我勢(わがせい)をちなんず、落ぬさきにとや思ひけん、寿永二年十一月十九日に、法住寺殿へ千騎内(うち)五百余きなんとぞ云けるほどの勢にてはたとよせてけり。義仲が方に三郎先生(さぶらうせんじやう)と云源氏ありけるも、(以下略)

(現代文)
その短期間に京都市内ではたがいに略奪をして物も無くなりましたので、「残り無く平氏は落ち行きました。恐れは無いだろう」として、廿六日の早朝に京都にお帰りとなりましたので、近江に入りたる武田軍が先ず入京しました。続いて又義仲軍は廿六日に入京しました。六条の堀川にある八条院の母である尼の家を頂いて居所としました。このようにして混雑して押し合ううちに、いかにも天皇は神璽(しんじ)・宝剣・内侍所(ないしどころ)を相具して西国の方へ落ちて行きました。この京に国主(こくしゆ)なくてはどうしようもないと云う評定になりました。「父の法皇がおいでなので、西の天皇
(中略)
このようにして過ぎるうちに、この義仲は頼朝を敵(かたき)と思いました。平氏は西海から京へ帰り入ろうと思いました。この平氏と義仲と相談して、ひとつになって関東の頼朝を攻めようと云う案が出て、密かに相談していましたが、是も決定無しとなりました。そこで、法皇に仕える北面の武士の友康・公友(きみとも)などという者達が、ひたすらに武士を立て、頼朝こそ猶まことのかたちと固く思いこみ、者柄も良く聞こえましたので、それを予想して頼朝が京都へ上ることを期待して、又義仲ごときは何ごとならずと思い、法住寺殿の院御所を城のように構えて、ぎっしりとあふれるほどに、源氏の将兵や比叡山や三井寺の僧兵などを集め、比叡山の座王(ざす)の明雲(めいうん)が参りまして、山の僧兵を引き連れて、びっしりと固めて待機しましたので、義仲は又今やこれまでと思い切りました。山田・樋口(ひぐち)・楯(たて)・根(ね)の井(ゐ)と云四人の家来がいました。我らの軍勢は京都から落ち行こう。落ちる前にと思いました。寿永二年十一月十九日に、法住寺殿へ千騎の内の五百余騎などと云うほどの軍勢で突然に押し寄せました。義仲の味方に三郎先生(さぶらうせんじやう)と云う源氏の武将がいましたが、
(以下略)
(解説)
乱暴狼藉など関係無く、法皇に仕える北面の武士が、ひたすら頼朝に期待して、義仲を排除しようとしたので、今やこれまでと法住寺殿の院御所を攻撃したものである。

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