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2006年3月 6日 (月)

14.1「日義村(現在は木曽町日義)」の命名由来

14.その他

14.1「日義村(現在は木曽町日義)」の命名由来Img_4444_1
 明治初期の町村合併の時、現在の長野県木曽郡の原野村と宮ノ越村が合併して、「朝日将軍木曽義仲」の日と義から日義村と命名したようである。明治初期のお役人が木曽義仲はけしからん奴だとは考えていなかった証拠である。あるいは事務量が多いので、めくら判だったのか。その後明治政府以降の「皇民化教育」の影響で、天皇に逆らった者は逆賊でけしからんとなったようである。天皇に逆らった者はけしからんとなれば、頼朝以降の武家政権、第二次大戦時の軍部、戦後の民主政権も天皇の意向は無視しているのだが。

14.2「木曽殿」と「木曽」
 平家物語が複数の作者の合作であるというのは良く知られているが、義仲の登場する場面も京都以外では「木曽殿」と呼び、京都中の場面では「木曽」と呼び捨てである。これは明らかに作者が義仲より位階が異なることを示す。京中での義仲の行動をやや見下しているのは義仲より上位の公家が作者であり、京都以外での行動の記述は義仲に敬意を抱いている作者のようである。後の「延慶本」や「源平盛衰記」では「木曽」に統一されてい
る。

14.3 義仲の功績
 平家追討戦における義仲の功績を現代の人工衛星の打ち上げに例えると、義仲が第一段ロケット、義経が第二段ロケット、頼朝が人工衛星本体、その管制システムが北条を中心とする関東武士団ということになるか。さらに北条氏は他の政敵を排除し、ついには頼朝やその子孫までも排除した。最終の勝利者は北条氏である。いずれにしてもその後数百年続く武家政権の基礎を築いたことになる。

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