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2006年3月

2006年3月25日 (土)

3.木曽義仲の洛日

3.木曽義仲の洛日

木曽義仲の関連年表

1154年(久寿元年)義仲(駒王丸)誕生(現埼玉県比企郡嵐山町)
1155年(久寿2年)義仲(駒王丸)木曽へ(父義賢戦死)
1156年(保元元年)保元の乱
1159年(平治元年)平治の乱
1160年(永歴元年)義朝殺され、頼朝伊豆へ
1166年(仁安元年)義仲元服
1168年(仁安3年)高倉天皇即位(8才)
1177年(治承元年)京都鹿ヶ谷事件(反平家の計画)
1179年(治承3年)清盛クーデター、院政停止。
1180年(治承4年)
    2月 安徳天皇即位(3才)
    4月 以仁王、平家追討の令旨を出す
    5月 以仁王死す
    8月 頼朝伊豆で挙兵
    9月 義仲木曽で挙兵
    10月 富士川の戦い
1181年(治承5年、養和元年)天下大飢饉。
    2月 清盛病死
    6月横田河原の戦い。
1182年(養和2年、寿永元年)
1183年(寿永2年)
    5月倶利伽藍峠の戦い
    7月平家都落ち、義仲入京
    11月法住寺合戦
1184年(寿永3年、元歴元年)
    1月義仲征畏大将軍
    1月義仲戦死(31才)
    2月一の谷合戦
1185年(元歴2年、文治元年)
    2月屋島の合戦
    3月壇ノ浦の合戦(平家滅亡)

そこで、

3.1 入京前
1180年(治承4年)から1183年(寿永2年)6月までの概要と

3.2 入京
1183年(寿永2年)7月から1184年(寿永3年)1月までの詳細

3.3 敗戦後
1184年(寿永3年)2月からの概要

を「玉葉」を中心に観て行きます。

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2006年3月24日 (金)

「木曽義仲朝日将軍の洛日」目次

(遅れました)

「木曽義仲朝日将軍の洛日」

目次

1.「平家物語」の木曽義仲軍の乱暴説は捏造
        真犯人は元平家軍将兵、僧兵、一般市民
1.1 「玉葉」「愚管抄」「吉記」「吾妻鏡」
1.2 各資料の説明

2. 「平家物語」に見る義仲軍・平家軍の乱暴狼藉の記述
2.1 「平家物語・高野本に見る義仲軍の乱暴狼藉の記述」
2.2「高野本に見る平家軍の乱暴狼藉の記述」

3.「平家物語」延慶本による追捕乱暴の場面
3.1.平家軍の追捕乱暴「北国下向」
3.2.義仲軍の追捕乱暴「入京後」
3.3.鎌倉軍の追捕乱暴「梶原摂津の国勝尾寺焼き払うこと」

4.「玉葉」に見る乱暴狼藉の記述
4.1 平家軍の乱暴狼藉
4.2 義仲軍の乱暴狼藉
4.3 頼朝軍の乱暴狼藉

5.「愚管抄」の記述(愚管抄巻第五より)
5.1 1183年 (壽永二年 癸卯)7月
5.2 「ものとりの略奪」と「たがいについぶく」
5.3 「火事場泥棒」と「落武者狩か」
5.4 ひしめきてありける
5.5 京都市内の兵粮調達と兵舎の確保
5.6 兼実・慈円は頼朝贔屓

6.「乱暴狼藉の真相・・・とんだ濡れ衣
        京中はたがいについぶく(愚管抄より)」
6.1 追捕(ついほ、ついぶく)
6.2 兵粮米不足
6.3 武士押妨停止の宣旨
6.4 公田庄園への兵粮米を徴集停止の宣旨
6.5 兵粮米(段別五升)を課す
6.6 船無く粮絶え、船を用意し兵粮米を送る
6.7 自由任官の非難(頼朝軍の追捕)
6.8 官軍の追捕

7.義仲軍の入京の状況
7.1 平家軍都落ち、六波羅炎上
7.2 義仲入京前の混乱
7.3 義仲・行家入京す
7.4 京中の狼藉及び兵糧用途如何すべきか
7.5 義仲以仁王の王子を推す
7.6 法住寺合戦の義仲への期待
7.7 義仲敗戦

8.頼朝の計略
8.1 源頼朝密かに法皇に奏すことあり
8.2 第一は頼朝、第二は義仲、第三は行家
8.3 頼朝忽ちに上洛すべからざる故を申す
8.4 頼朝三ケ条の事を院庁官に付す
8.5 壽永二年10月宣旨
8.6 頼朝朝務を計い申す

9.「風聞と実態の違い」
9.1 兼実は病弱で神経過敏で大袈裟
9.2 「有名無実の風聞かくの如し」
9.3 情報提供者の信頼度
9.4 義経が検非違使でも放火強盗事件が多発
9.5 兼実款状 款状(かんじょう、嘆願書)
9.6 風聞・伝聞は事実か

10.「食料の調達方法」
10.1 寄付・・・反乱軍の食料の調達
10.2 追捕・・・官軍の食料の調達
10.3 「腹が減ってはいくさは出来ぬ」

11.「平家物語」中の軍勢の数について

11.1 「ごまんとある」・・・多数ある
11.2 木曽義仲軍劣勢でも連勝

12.「猫おろし事件」
12.1 「平家物語」「高野本」「猫間中納言」
12.2 「平家物語」「延慶本」「猫間中納言」
12.3 「源平盛衰記」「猫間中納言」
12.4 「平家物語」の創作

13.「法住寺合戦」
13.1 「平家物語」「高野本」「法住寺合戦」
13.2 玉葉の記述1184年 (壽永2年)
13.2.1 法住寺合戦以前
13.2.2 法住寺合戦2日前
13.2.3 法住寺合戦前日
13.2.4 法住寺合戦当日
13.2.5 法住寺合戦後
13.3 愚管抄(巻第五)の記述
13.4 クーデター
13.5 承久の乱との比較
13.5.1 皷判官め打破て捨よ
13.5.2 「秀康・胤義等を討ち取れ」

14.その他
14.1「日義村(現在は木曽町日義)」の命名由来
14.2「木曽殿」と「木曽」
14.3 義仲の功績
14.4 義仲の限界
14.5 「源平合戦」から「治承・寿永の内乱」
14.6 「富士川の合戦」
14.7 駆り武者方式
14.8 領地安堵
14.9 先入観念・思いこみ・勘違い

15.参考文献

第2部 平成臨時仮想法廷

2.1 開廷検察官論告
2.2 平家物語作者等の証言
2.3 九条兼実等の証言
2.4 慈円等の証言
2.5 義仲軍残党等の証言
2.6 鎌倉軍武将の証言
2.7 市民と山寺僧の証言
2.8 平家軍残党の証言
2.9 ものとり等の証言
2.10 九条兼実等の証言
2.11 九条兼実慈円の証言
2.12 日記等の作者の証言
2.13 判決

第3部 木曽義仲の洛日

3.1 入京前
3.2 入京
3.3 敗戦後

(7.7 義仲敗戦が抜けていました。)

7.7 義仲敗戦

1184年(寿永3年、元歴元年)1月20日
 卯の刻(6時)人告げて云く、東軍すでに勢多に付く。未だ西地に渡らずと。相次いで人云く、田原の手すでに宇治に着くと。詞未だ訖(お)わらざるに、六條川原に武士等馳走すと。仍って人を遣わし見せしむるの処、事すでに実なり。
「義広敗績す」
義仲方軍兵、昨日より宇治に在り。大将軍美乃の守義廣と。而るに件の手敵軍の為打ち敗られたり。東西南北に散じたり。
「東軍入京」
即ち東軍等追い来たり、大和大路より入京す(九條川原辺に於いては、一切狼藉無し。最も冥加なり)。踵(きびす、かかと)を廻さず六條の末に到りたり。義仲の勢元幾ばくならず。而るに勢多・田原の二手に分かつ。その上行家を討たんが為また勢を分かつ。独身在京するの間この殃(おう、わざわい)に遭う。
「義仲院の御幸を促すも成らず」
先ず院中に参り御幸有るべきの由、すでに御輿を寄せんと欲するの間、敵軍すでに襲ひ来たる。仍って義仲院を棄て奉り、周章対戦するの間、相従う所の軍僅かに三十四十騎。敵対に及ばざるに依って、一矢も射ず落ちたり。
「義仲敗走し近江国粟津にて討たる」
長坂方に懸けんと欲す。更に帰り勢多の手に加わらんが為、東に赴くの間、阿波津野の辺に於いて打ち取られたりと。
「東軍一番手梶原景時」
東軍の一番手、九郎の軍兵加千波羅平三と。その後、多く以て院の御所の辺に群れ参ずと。法皇及び祇候の輩、虎口を免がる。実に三宝の冥助なり。凡そ日来、義仲の支度、京中を焼き払い、北陸道に落つべしと。而るにまた一家も焼かず、一人も損せず、独身梟(きょう、ふくろう)首せられたり。天の逆賊を罰す。宜(むべ)なるかな。宜(むべ)なるかな。
「義仲の天下六十日」
義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤(ぜんしょう、前例)に比べ、猶その晩(ばん、おそい)きを思う。今日卿相(けいしょう、公卿)等参院すと雖も、門中に入れられずと。
「師家参院すれど追い帰される」
入道関白(藤原基房)藤原顕家を以て使者と為し、両度上書(じょうしょ)す。共に答え無し、又甘摂政顕家の車に乗り参入す。追い帰されたりと。弾指すべし、弾指すべし。余風病に依り参入せず。大将又病悩。よつて参らず。恐ろしや恐ろしや。
(現代文)
 6時頃報告があり、東軍はすでに勢多に付いた。未だ西地に渡らないようだ。相次いで報告あり、田原の手勢はすでに宇治に着いたようだ。その報告が未だ終わらぬうちに、六條川原に武士等が馳け走るとの報告あり。仍って人を遣わし偵察させると事実であった。
「義広敗績す」
義仲方の軍兵は、昨日より宇治方面に在り。大将軍は美濃の守義廣である。而るに件の手勢は敵軍の為打ち敗られて、四方八方に逃げた。
「東軍入京」
たちまち東軍等は追い来たりて、大和大路より入京した。九條川原の辺に於いては、一切の狼藉は無し。最もなる神仏の加護のおかげである。そのまま六條の末に到達した。義仲の勢は元から幾らもいなかった。而るに勢多と田原の二手に分かれた。その上行家を討つ為にまた勢を分けた。義仲は独身で在京するの間にこのわざわいに遭う。
「義仲院の御幸を促すも成らず」
義仲は先ず法皇の御所にに参り御出かけ有るべきの由、すでに御輿を寄せようとしたが、敵軍すでに襲ひ来たる。仍って義仲は法皇を棄て奉り、あわてて対戦するの間、相従う所の軍兵は僅かに三十四十騎である。敵対するに及ばざるに依り、一矢も射ずに逃げた。
「義仲敗走し近江国粟津にて討たる」
長坂方面に懸けようした。更に帰りて勢多の手勢に加わる為、東に進むの間、阿波津野の辺に於いて打ち取られたようだ。
「東軍一番手梶原景時」
東軍の一番手は、源九郎義経の軍兵で梶原平三影時である。その後、多く以て法皇の御所の辺に群れ参りました。法皇と近くに仕える者は、虎口を免がれた。実に三宝の神仏の助けである。凡そ日頃から、義仲の準備によると、京中を焼き払い、北陸道に落ち行く予定であると。而るにまた一家も焼かず、一人も損せず、義仲のみ討たれた。天の逆賊を罰す。道理である。もっともである。
「義仲の天下六十日」
義仲は天下を執る後、六十日を経た。信頼の前例に比べ、猶その晩(おそ)きを思う。今日は公卿等が参院すと雖も、門中に入れられず。
「師家参院すれど追い帰される」
入道関白の藤原基房は藤原顕家を以て使者と為し、二度文書を差し上げた。共に答え無し、又甘摂政顕家の車に乗り参入したが、追い帰された。弾指すべし、弾指べし。私兼実は風病に依り参入せず。息子の大将も又病悩である。よつて参らず。恐ろしや恐ろしや。
(解説)
義仲の準備によると、京中を焼き払い、北陸道に落ち行く予定であった。而るに一家も焼かず、また一人も損傷せず、義仲のみ討たれた。

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2006年3月23日 (木)

2.13 判決

2.13 判決

裁判長 「判決を言い渡す。

    主文、義仲及び義仲軍無罪。

    判決理由、
    平家物語の木曽軍の乱暴狼藉の記述は事実ではなく捏造である。
    九条兼実の玉葉の木曽軍の乱暴狼藉の記述は正体不明の或人の風聞が多く信用出来ない。
    慈円の愚管抄は木曽軍の乱暴狼藉を記述せず、木曽軍以外の乱暴狼藉を記述しており信用出来る。
    市民からすると乱暴と思われる追捕(略奪)も当時は官軍としての食糧調達のための合法的軍事活動の一部の行為であり、平家軍、鎌倉軍も同様に追捕をしていた。

    以上。」

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2006年3月22日 (水)

2.12 日記等の作者の証言

2.12 日記等の作者の証言

弁護人 「証人 藤原経房「吉記」作者に質問します。寿永2年8月9月10月の記録はありませんか。」

証人    藤原経房「吉記」作者「残念ながら8月9月10月の記録は紛失しました。」

弁護人 「証人 藤原経房「吉記」作者に質問します。寿永2年8月9月10月を回顧した記録はありませんか。」

証人    藤原経房「吉記」作者「調べてみないとわかりません。」

弁護人 「証人 中山忠親「山槐記」作者に質問します。寿永2年8月9月10月の記録はありませんか。」

証人    中山忠親「山槐記」作者「残念ながら8月9月10月の記録は紛失しました。」

弁護人 「証人 中山忠親「山槐記」作者に質問します。寿永2年8月9月10月を回顧した記録はありませんか。」

証人    中山忠親「山槐記」作者「調べてみないとわかりません。」

弁護人 「証人 藤原定家「明月記」作者に質問します。寿永2年8月9月10月の記録はありませんか。」

証人    藤原定家「明月記」作者「残念ながら寿永2年から数年の記録は紛失しました。」

弁護人 「証人 藤原定家「明月記」作者に質問します。寿永2年8月9月10月を回顧した記録はありませんか。」

証人    藤原定家「明月記」作者「調べてみないとわかりません。」

弁護人 「証人 鎌倉「吾妻鏡」編集者 に質問します。寿永2年8月9月10月の記録はありませんか。」

証人    鎌倉「吾妻鏡」編集者 「残念ながら寿永2年の1年分は真偽の確認のとれない風聞が多過ぎるので編集を断念しました。」

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2006年3月21日 (火)

2.11 九条兼実慈円の証言

2.11 九条兼実慈円の証言

弁護人 「証人(九条兼実)の日記「玉葉」によると、寿永3年12月、義経が検非
    違使として、京都にいたころ、近所で強盗放火事件が多発しましたか。」

証人(九条兼実)「はい、その通りです。」

弁護人 「証人(九条兼実)の日記「玉葉」によると、寿永3年12月近所で強盗放
    火事件が多発しました。そこで、取り締まりを要請する上申書を出しましたか。」

証人(九条兼実)「はい、その通りです。」

弁護人 「証人(九条兼実)その上申書によると治安が悪いと嘆いていますが、その
    内容としては寿永2年の8月、9月に記述したものと類似していませんか。」

証人(九条兼実)「いいえ、そのようなことはありません。」

弁護人 「証人(九条兼実)は、平家軍、義仲軍には反感を抱いていたので、表現が
    厳しく、贔屓をしている頼朝、義経の関係者への上申書なので、表現が穏やか
    になっています。」

証人(九条兼実)「いいえ、そのようなことはありません。」

弁護人 「証人 慈円に質問します。貴方の兄の九条兼実は、頼朝贔屓ですか。」

証人 慈円「多分、頼朝贔屓だと思います。後に頼朝の推薦で、関白、大政大臣にな
    りました。」

弁護人 「証人 慈円に質問します。あなたは、頼朝贔屓ですか。」

証人 慈円「いいえ、頼朝贔屓ではないと思います。しかし、後に兄兼実の推薦で、
    天台座主になりました。」

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2006年3月20日 (月)

2.10 九条兼実等の証言

2.10 九条兼実等の証言Img_4642

弁護人 「証人(九条兼実)の日記によると、9月3日義仲軍等が全て刈り取った となつています。それでは、市内の餓死者が増加するはずですが、餓死者の風聞 はありましたか。」

証人(九条兼実)「そのような風聞はありません。」

弁護人 「証人(農民)に質問します。義仲軍は略奪をしましたか。」

証人    (農民)「いいえ、刈り取りの支援をしてくれました。義仲軍には農民兵が多いようです。」

弁護人 「証人(農民)に質問します。義仲軍は寄付を強要しましたか。」

証人(農民)「はい、寄付に応じないと、追捕ということで、殆ど没収されるらしいので、やむを得ず、少々寄付しました。」

弁護人 「証人(九条兼実)の日記によると、9月3日義仲軍等が全て「奪い捕った」となつています。それでは、市内の餓死者が増加するはずですが、餓死者の風聞はありましたか。」

証人(九条兼実)「そのような風聞はありません。」

弁護人 「証人(九条兼実)の日記によると、9月5日までは或人の云う義仲軍等の乱暴狼藉の風聞が時々あります。それ以後は見あたりませんが、どうしましたか。」

証人(九条兼実)「残念ながら、それ以後或人からの義仲軍の乱暴狼藉の風聞の報告が無くなりました。」

弁護人 「証人(九条兼実)の日記によると、「可悲」(悲しむべし)、天下・王法・仏法・我が朝「滅亡」・「滅尽」、「未曾有」、「不能左右」、「可弾指」が非常に多いが、何回あるかわかりますか。」

証人(九条兼実)「そのようなことはわかりません。」

弁護人 「「可悲(悲しむべし)」103回、「滅亡」68回、「滅尽」14回、「未曾有」172回、「不能左右」107回、「可弾指」59回、「天変地異」の記述672回・・・約40年間の回数です。」

証人(九条兼実)「そのようなことは数えたこともない。」

弁護人 「証人(九条兼実)の日記「玉葉」によると、「風聞」、「伝聞」、「或人云う」、「人伝」が多い。何回あるか、わかりますか。」

証人(九条兼実)「そのようなことはわかりません。」

弁護人 「「風聞」176回、「伝聞」383回、「或人云う」235回、「人伝」107回・・・約40年間の回数です。」

証人(九条兼実)「そのようなことは数えたこともない。」

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2006年3月19日 (日)

2.9 ものとり等の証言

2.9 ものとり等の証言Img_4639

弁護人 「証人(ものとり)は、六波羅の略奪には参加しましたか。何を捕り ましたか。」

証人(ものとり)「はい、参加しました。食料の燃え残りが少し捕れました。」

弁護人 「証人(ものとり)は、義仲軍が入る前に略奪はしましたか。」

証人(ものとり)「はい、しました。」

弁護人 「証人(ものとり)は、義仲軍が入って後、略奪はしましたか。」

証人(ものとり)「はい、しました。」

弁護人 「証人(ものとり)は、義仲軍の取り締まりは厳しかったですか。」

証人(ものとり)「はい、最初は向こうは地理不案内で、うまく逃げていましたが、 段々厳しくなりました。」

弁護人 「証人(ものとり)は、義仲軍の取り締まりは厳しくても、略奪はしましたか。」

証人(ものとり)「はい、勿論です。食わねば死んでしまいます。 運悪く捕まって伐られた者もいるようです。」

弁護人 「被告人(義仲軍残党)木曽義仲軍は乱暴狼藉の犯人を捕獲しましたか。」

被告(義仲軍残党)「はい。強盗、夜盗、平家軍残党はもちろん、源氏軍の兵で も特にひどいのは、見せしめのためにも、何人か、処分しました。」

弁護人 「証人(九条兼実)は処分の伝聞はありますか。」

証人(九条兼実)「8月末に武士を伐ったという話しを聞きました。 多分それだと思います。」

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2006年3月18日 (土)

2.8 平家軍残党の証言

2.8 平家軍残党の証言Img_4637

弁護人 「証人(平家軍残党)に質問します。平家軍は追捕はしましたか。」

証人(平家軍残党)「はい、食料の調達ということで、民家とか、神社など
    から、兵粮の追捕と称して、没収しました。」

弁護人 「証人(平家軍残党)は、追捕は簡単でしたか。」

証人(平家軍残党)「はい、最初は簡単でしたが、次第に皆隠しているので、
    それを探し出すのに時間がかかるようになりました。」

弁護人 「証人(平家軍残党)は、義仲軍が入る前に略奪はしましたか。」

証人(平家軍残党)「いいえ。我々がしたのは追捕です。我々が官軍ですから」

弁護人 「証人(平家軍残党)は、京都から退却する時、なぜ六波羅に放火した
    のですか。」

証人(平家軍残党)「敵軍に食料や宿舎を利用させないためです。退却する時の
    常識です。」

弁護人 「証人(平家軍残党)は、義仲軍が入って後、略奪はしましたか。」

証人(平家軍残党)「いいえ。我々がしたのは追捕です。我々がまだ官軍ですから。
    ただし、賊軍扱いされているので、義仲軍に追いかけられました。」

弁護人 「証人(平家軍残党)は、義仲軍の取り締まりは厳しかったですか。」

証人(平家軍残党)「はい、最初は向こうは地理不案内で、うまく逃げていましたが、
    段々厳しくなりました。」

弁護人 「証人(平家軍残党)は、義仲軍の取り締まりは厳しくても、略奪は
    しましたか。」

証人(平家軍残党)「はい、勿論です。食わねば死んでしまいます。運悪く捕まって
    伐られた者もいるようです。しかし、我々のように平家や義仲に忠誠を尽くし
    た者は悲惨です。途中で鎌倉軍に乗り換えた者は運が良いほうです。悪事は
    全て平家軍や義仲軍の仕業とされています。」

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2006年3月17日 (金)

2.7 市民と山(比叡山延暦寺)寺(三井寺)僧の証言

2.7 市民と山(比叡山延暦寺)寺(三井寺)僧の証言Img_4634

弁護人 「証人(市民)に質問します。平家軍が六波羅を放火して、退却する時は、
    どうしましたか。」

証人(市民)「平家軍が焼き払って、退却するという噂を聞いてかけつけましたが、か
    なりの人数が入り乱れていて、既に殆ど略奪されたり、燃え尽きて、手に入れた
    ものは殆どありません。」

弁護人 「証人(市民)は何故、駆けつけたのですか。」

証人(市民)「以前から、家を平家軍の兵舎として徴用され、さらに兵粮の追捕という
    ことで、食料や資材を没収されていましたので、少しでも取り返したかったのて
    す。」

弁護人 「証人(市民)は、義仲軍が入る前に略奪はありましたか。」

証人(市民)「全く同じ理由で、退却した平家の関係者の家を狙って略奪していました。
    ついでに警備の手薄な家もやられたようです。」

弁護人 「証人(市民)は、義仲軍が入って後、略奪はありましたか。」

証人(市民)「はい、直後はありましたが、取り締まりが始まり、段々少なくなりまし
    た。」

弁護人 「証人(市民)は、義仲軍の、乱暴狼藉略はありましたか。」

証人(市民)「はい、宿舎としての徴用と、最初は食料の追補は平家軍と全く同じでした。
    ただ、取り締まりが厳しくなり、強盗・夜盗が少なくなり、平家軍より、ましかも
    しれません。」

弁護人 「証人(山寺僧)は平家軍が六波羅を放火した時は、どうしましたか。」

証人(山寺僧)「我々が駆けつけた時は、殆ど燃え尽きて、何も捕れませんでした。」

弁護人 「証人(山寺僧)は、義仲軍が入る前に略奪はありましたか。」

証人(山寺僧)「以前から、奈良の寺が焼き討ちされたり、追補ということで、
    食料の没収がありましたので、少しでも取り返そうと、出かけました。」

弁護人 「証人(山寺僧)は、義仲軍が入って後、略奪はありましたか。」

証人(山寺僧)「我が寺は僧兵が数百人もいるので、大丈夫でしたが、神社とか
    小さな寺は略奪されたようです。」

弁護人 「証人(山寺僧)は、義仲軍の、乱暴狼藉はありましたか。」

証人(山寺僧)「我が寺にも寄付ということで、義仲軍が来ましたが断固追い払いま
    した。しかし、小さな寺とか、神社はやむを得ず、寄付に応じたようです。」

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2006年3月16日 (木)

2.6 鎌倉軍武将の証言

2.6 鎌倉軍武将の証言Img_4624

弁護人 「証人(鎌倉軍武将 渋谷助重)に質問します。頼朝が旗挙げしたときから従軍していますか。」

証人(鎌倉軍武将渋谷助重)「いいえ、そのころは京都の勤務でしたので、やむを得ず、
    平家軍に従いました。父重国は相模に在国でしたので、鎌倉方に付きました。」

弁護人 「証人(鎌倉軍武将 渋谷助重)に質問します。義仲軍が入京したときはどうしましたか。」

証人(鎌倉軍武将渋谷助重)「義仲軍に従いました。」

弁護人 「証人(鎌倉軍武将 渋谷助重)に質問します。鎌倉軍が入京したときはどうしましたか。」

証人(鎌倉軍武将渋谷助重)「鎌倉軍に従いました。」

弁護人 「証人(鎌倉軍武将 渋谷助重)に質問します。かなり節操が無いように思いますが。」

証人(鎌倉軍武将渋谷助重)「いいえ、そのころの武士の殆どは家系の存続のため、よほどの恩顧
    がないかぎり、有利そうな勢力に追従するのが当然です。」

弁護人 「証人(鎌倉軍武将 渋谷助重)に質問します。平家軍は追捕をしましたか。」

証人(鎌倉軍武将渋谷助重)「はい、諸国荘園からの兵粮米徴収はもちろんです。さらに、
    義仲追討軍からは、路次追補も始めました。」

弁護人 「証人(鎌倉軍武将 渋谷助重)に質問します。義仲軍は追捕をしましたか。」

証人(鎌倉軍武将渋谷助重)「はい、諸国荘園からの兵粮米徴収はもちろんです。ただし、
    路次追補は禁止しました。」

弁護人 「証人(鎌倉軍武将 渋谷助重)に質問します。鎌倉軍は追捕をしましたか。」

証人(鎌倉軍武将渋谷助重)「はい、もちろんです。ただし、京都市内では一応遠慮しました。」

弁護人 「証人(鎌倉軍武将 渋谷助重)に質問します。鎌倉軍は京都市内では追捕をしました
    か。」

証人(鎌倉軍武将渋谷助重)「はい、京都市内では、平家関係者の追捕をしました。」

弁護人 「証人(鎌倉軍武将渋谷助重)に質問します。寿永3年1月28日大夫吏隆職を追捕
    をしましたか。大夫吏隆職は平家関係者ではありません。」

証人(鎌倉軍武将渋谷助重)「これは、官職名の勘違いです。吏大夫の者を追補すべしの命による
    ものです。」

弁護人 「証人(梶原景時)に質問します。寿永3年1月摂津の国で勝尾寺を追捕を
    しましたか。」

証人(梶原景時)「はい、周辺住民のうわさで、勝尾寺が食料や平家の残党を隠している
    らしいので追捕をしました。」

弁護人 「証人(梶原景時)に質問します。勝尾寺の追捕のとき放火しましたか。」

証人(梶原景時)「はい、焼失は事実ですが、わが軍の将兵か、平家の残党が逃げる時、
    放火したのか    は不明です。

弁護人 「証人(梶原景時)に質問します。一の谷合戦後、追捕禁止の命令が出まし
    たか。」

証人(梶原景時)「はい、そのため、以後の食料調達に苦労し、平家追討は遅れました。
    「諸国荘園等からの兵粮米徴収」は禁止、「路次追捕」は申請してから許可が出
    るまでに何週間もかかるのですから間に合いません。」

弁護人 「証人(梶原景時)に質問します。追捕禁止の時、食料調達はどうしましたか。」

証人(梶原景時)「それまでの備蓄と、寄付に頼りました。それにこっそり追捕(略奪)
    もしました。」

弁護人 「証人(梶原景時)に質問します。それで十分でしたか。」

証人(梶原景時)「とんでもない。まだ食料不足で、将兵はふらふらです。戦意も上が
    りません。まさに腹が減っては戦は出来ぬです。しかし、ようやく平家追討が終
    了してから、庄園の年貢を抑留し、国衙の官物を掠め取りと非難されました。
    (元暦二年四月十五日)」

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2006年3月15日 (水)

2.5 義仲軍残党等の証言

2.5 義仲軍残党等の証言Img_4621

検察官 「被告人(義仲軍残党)木曽義仲軍の宿舎はどうしましたか。」

被告(義仲軍残党)「平家軍が民家等を徴用していたので、其れを引き続き、使用しまし た。」

弁護人 「証人(九条兼実)の家等は、平家軍、木曽義仲軍に徴用されましたか。」

証人(九条兼実)「いいえ、徴用されていません。」

弁護人 「証人(九条兼実)の家等は、鎌倉軍に徴用されましたか。」

証人(九条兼実)「はい、庵の一つを借り上げるとの指示が有りました。」

検察官 「被告人(義仲軍残党)木曽義仲軍の食料調達はどうしましたか。」

被告(義仲軍残党)「寄付と追捕(ついほ)によりました。」

検察官 「被告人(義仲軍残党)寄付で食料は集まりましたか。」

被告(義仲軍残党)「しぶしぶながら寄付に応じました。多分逆らえないと思ったので
    しょう。どうしても応じない処は追捕により強制取り立てしました。」

検察官 「追捕とは何ですか。」

弁護人 「追補とは、ついぶくとも云い、兵粮米の取り立てを行うものです。法皇の
    命令によるものなので一応、合法な行為です。これには「路次追補」と「諸国
    荘園等からの兵粮米徴収」があります。

検察官 「路次追捕とは何ですか。」

弁護人 「これは既に平家軍が官軍となり
    北陸征伐と称して出発するとき、法皇から許可を得た命令なので、官軍となっ
    た義仲軍にも有効なの    です。義仲軍は信濃・北陸地方では食料は寄付で間に合
    っていました。比叡山にいる    ときも、隣の百斉寺から米の寄付を受けました。
    この京都では寄付は期待出来ないの    で、最小限の追捕は必要です。路次追補の
    様なやり方は手当たり次第に取り立てる略奪に等しいものなので、弱者たる庶民にも
    被害があるので、禁止して取り締まり    ました。しかし、鎌倉軍は武士達の自由横領
    は禁止しましたが、法皇の命令書を受けて路次追捕を続けたようです。」

検察官 「「諸国荘園等からの兵粮米徴収」とは何ですか。」

弁護人 「諸国への兵粮米の徴収は諸国に荘園という私有地を保有する法皇、宮家、
    公家、神社、仏寺など強者からの取り立てなので一部実行しました。」

検察官 「証人(藤原経房)と証人(九条兼実)に質問です。追捕は合法行為ですか。」

証人(藤原経房)「はい。法皇の命令により、兵粮米の追捕は、数年前から始まり、それ
    でも不足なので、北陸遠征の時は進軍途中での追捕つまり「路次追捕」も認められ
    ることになりました。新たに官軍となった義仲軍にも追捕は合法行為として認めら
    れます。」

証人(九条兼実)「合法行為かもしれないが、実際には略奪に等しく酷い命令です。その
    点、頼朝殿は偉い。このような追捕を止めるように命令を出しました。」

弁護人 「しかし、路次追補を全面的に禁止していない。必要な場合は申請すると認める
    としています。しかも、諸国荘園等からの兵粮米徴収の禁止は無視しているようです。
    さらにその後新たに全国一律の5パーセントの兵粮米を割り当てましたね。」

証人(九条兼実)「その通りです。約1年半後文治元年11月です。」

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2006年3月14日 (火)

2.4 慈円等の証言

2.4 慈円等の証言Img_4619

検察官 「証人 慈円(「愚管抄」作者)に質問します。木曽義仲軍の乱暴狼藉は事実ですか。」

証人(慈円)「木曽義仲軍の乱暴狼藉は事実ではない。愚管抄にも記述したように、多分、
    平家軍が京都から退却する時、六波羅の屋敷に放火したが、その時、京都中のもの
    とりが集まって乱入し、ものとりした事とか、法皇と公家の大部分が比叡山に退避
    して、京都の権力、警備が手薄になった時、お互いについぶく(略奪)をしたこと
    が、木曽義仲軍のしわざにされたようです。かっての養和の大飢饉の時、四万人の
    餓死者が出たとされる大都市です。この大都市に五万の軍勢が入いれば、多少のひ
    しめき合いはあります。何も事件が無いというのがおかしい。木曽義仲軍の入京前
    の混乱や法住寺合戦の混乱に比べれば    木曽義仲軍の入京後の若干のごたごたなど
    記述するほどの事件でもない。」

検察官 「証人 藤原経房(「吉記」作者)に質問します。木曽義仲軍の乱暴狼藉は事実
    ですか。」

証人(藤原経房)「木曽義仲軍の乱暴狼藉は事実ではないと思います。木曽義仲軍が入京
    する前々日、山僧等による追捕物取りがありました。眼前に天下の滅亡を見る思い
    がしました。慈円の証言とほぼ一致します。」

弁護人 「証人(藤原経房)の家は無事でしたか。」

証人(藤原経房)「我が家は幸運にも無事でした。平家関係者や手薄の家が特に狙われた
    ようです。」

検察官 「木曽義仲軍が入京後、乱暴狼藉はありましたか。」

証人(藤原経房)「はい、寺社、公卿の家にまで、追捕物取りがあったようです。直ちに
    、法皇の命令で木曽義仲軍に乱暴狼藉を鎮めるように伝えました。」

検察官 「被告人(義仲軍残党)木曽義仲は配下の軍に市内の乱暴狼藉を取り締まる
    ように命令しましたか。」

被告(義仲軍残党)「もちろんです。全軍に対し、それぞれ持ち場を分担し、取り締まり
    を実施したが、各軍の大将は軍事貴族ですから、各自の名誉をかけて努力したはず
    です。平家軍の残党、僧兵、野盗、市民が入り乱れてものとり、放火を行い、事件
    は多発し、我が軍兵は地理不案内で追いかけても逃げられることが多かった。制圧
    には時間を要したことは事実です。」

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2006年3月13日 (月)

2.3 九条兼実等の証言

2.3 九条兼実等の証言Img_4618

検察官 「証人、九条兼実に質問する。木曽義仲軍の乱暴狼藉は事実か。」

証人(九条兼実)「多分、事実だと思います。」

検察官 「多分ということは、実際には見ていないのですか。」

証人(九条兼実)「はい、私は病弱でしたので、いろいろな人から聞いた事を日記に
    記述していました。」

検察官 「いろいろな人の情報は信用できますか。」

証人(九条兼実)「はい、信用出来ると思いますので、乱暴狼藉は事実だと思います。」

弁護人 「それでは、あなたの日記「玉葉」の寿永2年7月21日の平家軍の人数を
    数えた時、何人でしたか」

証人(九条兼実)「私の使用人が数えました。1080騎でした。間違いありません。」

弁護人 「これを世間の風聞では7.8千騎、または万騎と称している。
    有名無実の風聞かくの如しではありませんか。」

証人(九条兼実)「全くその通りです。軍勢の数は大袈裟な風聞となっています。」

弁護人 「その他の風聞自体も大袈裟ではありませんか。」

証人(九条兼実)「そんな事はありません。」

弁護人 「それでは「頼朝上洛」の風聞は、実際の上洛までに何回書きましたか。」

証人(九条兼実)「多分10回以上です。」

弁護人 「木曽軍等の悪評の風聞も実際には十分の一ではありませんか。」

証人(九条兼実)「いいえ、間違いないと思います。」

弁護人 「木曽軍等の乱暴の程度も風聞の十分の一ではありませんか。」

証人(九条兼実)「いいえ、間違いないと思います。」

弁護人 「証人 藤原経房({吉記」作者)に質問します。寿永2年7月21日
    の軍勢の数は何人と聞いていますか。」

証人(藤原経房)「3千人と聞いて記録しました。」

弁護人 「実際に数えましたか。」

証人(藤原経房)「そんなこと出来るわけがない」

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2006年3月12日 (日)

2.2 平家物語作者等の証言

2.2 平家物語作者等の証言Img_4611

検察官 「証人、平家物語原作者に尋ねる。木曽義仲軍の乱暴狼藉は事実か。」

証人(平家物語原作者)「なるべく史実に忠実に書いたつもりです。木曽義仲軍の市民に対
    する乱暴狼藉の事実は無い。書いた覚えも無い。」

弁護人 「証人、平家物語原作者に尋ねる。平家軍は京都から退却する時、六波羅を焼
    き払いましたか。」

証人(平家物語原作者)「はい、その通りです。」

弁護人 「証人、平家物語原作者に尋ねる。慈円の「愚管抄」によると、六波羅を焼き
    払った時、京都中のものとりが集まり、乱れ入り、物とりけりとなっている。
    事実ですか。」

証人(平家物語原作者)「はい、その通りです。」

弁護人 「証人、平家物語原作者に尋ねる。法皇以下公卿の多くが比叡山に退避してい
    た時、慈円の「愚管抄」によると、京中はたがいについぶくをしたようですが
    、事実ですか。」

証人(平家物語原作者)「はい、その通りです。」

弁護人 「証人、平家物語原作者に尋ねる。この場合のたがいとは誰と誰のことか。」

証人(平家物語原作者)「京都市民どうし、あるいは平家軍と市民です。」

弁護人 「証人、平家物語原作者に尋ねる。平家軍と市民がたがいについぶくとはどういうことか。」

証人(平家物語原作者)「平家軍が市民からついぶくし、また逆に市民が落ち行く平家軍
    から略奪しました。」

検察官 「証人、平家物語編集者に尋ねる。木曽義仲軍の乱暴狼藉は事実か。」

証人(平家物語編集者)「木曽義仲軍の乱暴狼藉の事実は無いかもしれない。
   事実を書いた原作物語では、琵琶法師の語りの時、聴衆の庶民が不愉快な表情を
    するので、さらに、作者編集者の中には僧侶も加わっているので、木曽義仲軍が
    乱暴狼藉したように変更しました。特にものとりが集まったとか、互いについぶ
    くしたなどは、絶対に語れません。しかし、市内の乱暴狼藉の事実はありました
    。それが平家軍なのか、源氏軍なのか、野盗なのか、昼間でも服装外見だけでは
    見分けが付きません。    ちょうど、先に滅んだのが、義仲軍なので、死人に口
    無し    、義仲軍のせいにしました。」

検察官 「証人 琵琶法師に質問する。原作を改編しましたか。」

証人(琵琶法師)「勿論です。原作どおりでは、面白くないし、聴衆の庶民に不都合で不
    愉快な語りなど、特にものとりが集まったとか、互いについぶくしたなどは、絶対
    に語れません。また権力者の朝廷や鎌倉の批判、悪口なども語れません。悪事は全
    て義仲軍のせいにしました。」

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2006年3月11日 (土)

第2部 「平成臨時仮想法廷」2-1 開廷

第2部 「平成臨時仮想法廷」Img_4608

    (注:このなかの証人及び証言は筆者の推定(独断と偏見)です。)
「木曽義仲軍乱暴狼藉事件」

2-1 開廷

被告     義仲軍残党(木曽次郎義仲以下将兵代理)
証人    平家物語原作者
証人    平家物語編集者
証人    琵琶法師
証人     九条兼実「玉葉」著者
証人    慈円「愚管抄」著者
証人    藤原経房「吉記」著者 
証人    中山忠親「山槐記」著者 
証人    藤原定家「明月記」著者 
証人    鎌倉「吾妻鏡」編集者 
証人    京都市民
証人    山寺僧
証人    平家軍残党
証人    鎌倉軍武将(梶原景時)
証人    鎌倉軍武将(渋谷助重)
証人    ものとり
証人    農民

裁判長 「ただいまより、寿永2年7月京都進攻後における8月9月中の木曽義仲軍の乱
    暴狼藉事件について審議を開始する。検察官は、罪名と罰状を述べて下さい。」

検察官「罪名、京都市内において公卿及び寺社、市民に対する乱暴狼藉および乱暴狼藉の
    取り締まりの命令違反及び職務怠慢。」

    「罰状、位階剥奪、官職停止、京都追放」

裁判長 「被告人は、罪名を認めますか。」

被告(義仲軍残党)「認めない。木曽軍は信濃の木曽及び信濃・甲斐の農民を主体とする
    軍であり、今までほぼ連戦連勝であるが、敵地を占領しても乱暴狼藉をしたことは
    無い。今回の入京軍には北陸の兵、美濃、尾張、近江の将兵が加わっているが、市
    民等に対し乱暴狼藉をしたことは無い。叉市内のものとり、夜盗、平家の残党、山
    僧等による乱暴狼藉の取り締まりも命令に従い、各軍が分担して忠実に実行した。」

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2006年3月10日 (金)

14.9 先入観念・思いこみ・勘違い

(注3月9日を修正)

14.9 先入観念・思いこみ・勘違い

 宮尾登美子氏は第二次大戦の被害者で、旧満州でソ連軍の侵攻により、略奪等の被害にあったようである。また司馬遼太郎氏も第二次大戦に招集され、また戦友などから軍隊の横暴を見聞し、軍隊というものは乱暴するものであるという先入観念があるようである。ということで、平家物語、玉葉の記述は間違い無いと信じているようである。木曽軍は木曽の山男の荒くれ者であると表現している。
 逆に木曽育ちの筆者は疑問を抱いた。筆者の数十年の社会生活から、長野県人は総じておとなしい。さらに木曽の人は中でもおとなしい。このような人々が軍隊に兵として入ったとき民間人に乱暴するだろうか。近所の第二次大戦のとき招集されて中国から帰還した人の話でも「長野の衆はおとなしいよ。他の県の人はすごいよ」と。何がすごいのか想像出来るので聞かないが。兵も何千何万人もいれば一人や二人悪事を働く者はいるだろう。一般人でも何十人か何百人に一人は犯罪を犯すわけだから。
 木曽町福島の水無神社の祭りの神輿は数百万円かけて作製したものを転げ廻してほぼ完全に壊してしまうのである。「みこしまくり」という。筆者は全国の祭りの神輿は同様に壊すものだと勘違いしていた。また長野県には「信濃の国」という県歌がある。小中高校の行事で国歌「君が代」に続いて歌うので、全国の県でも同様に県歌があるものと勘違いしていた。同程度に普及しているのは島根県らしい。他はあまり普及していないようだ。

 

15.参考文献
 1.九条家本玉葉 宮内庁書陵部編 明治書院
 2.訓読玉葉   高橋貞一著   高科書店
 3.吾妻鏡・玉葉データペース 福田豊彦監修 吉川弘文館
 4.玉葉索引   多賀宗隼編著  吉川弘文館
 5.新訂吉記2  高橋秀樹    和泉書院
 6.吉記2    増補史料大成刊行会 臨川書店
 7.山槐記    増補史料大成刊行会 臨川書店
 8.中世初期政治史研究 北爪真佐夫 吉川弘文館
 9.鎌倉幕府成立史の研究 川合康  校倉書房
 10.源平合戦の虚像を剥ぐ 川合康  講談社
 11.愚管抄   丸山次郎校注    岩波書店
 12.愚管抄全註解 中島悦次     有精堂
 13.愚管抄の研究 石田一良     ペリカン社
 14.愚管抄の創成と方法 尾崎勇   汲古書院
 15.明月記1  辻彦三郎校訂    続群書類従完成会
 16.平家物語上下 松本章男      集英社
 17.平家物語上下 山下宏明     明治書院
 18.平家物語6789 杉本圭三郎    講談社
 19.延慶本平家物語6 9       汲古書院
 20.平家物語の虚構と真実上 上横手雅敬 塙新書
 21.逆説の日本史 井沢元彦     小学館
 22.源平合戦・戦場の教訓 柘植久慶 PHP
 23.源義経111の謎 楠木誠一郎  成美堂出版
 24.源義経の謎 人物往来社
 25.義経の謎  加来耕三      講談社
 26.源頼朝鎌倉殿誕生 関幸彦    PHP
 27.説話の語る日本の中世 関幸彦  人物往来社
 28.木曽義仲  田屋久男      アルファゼネレーション
 29.木曽義仲  下出積與      人物往来社
 30.木曽義仲  小川由秋      PHP
 31.木曽義仲  長島喜平      国書刊行会
 32.木曽義仲  松本利昭      光文社
 33.木曽義仲  畠山次郎      銀河書房
 34.木曽義仲の生涯 塩川治子    河出書房新社
 35.木曽義仲の隠れ城 島田安太郎  龍門堂
 36.源氏対平氏  人物往来社
 37.源平争乱  関幸彦       青春出版
 38.ガイドテキスト 今井弘幸    日義村
 39.治承・寿永の内乱論序説 浅香年木 法政大学出版局

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2006年3月 9日 (木)

14.7 駆り武者方式14.8 領地安堵

14.7 駆り武者方式

 平家物語やその他の解説書で、平家軍は寄せ集めの駆り武者方式であり、源氏軍は忠誠を誓った武士団であったので平家が滅亡が当然とする説明が多いが、当時の武士たちは家系の存続のため、有利そうな勢力に従うため右往左往していたのであり、駆り武者方式が通例であった。当然源氏軍の大部分も駆り武者であった。どちらが有利か判断しかねる場合は親子兄弟で敵味方に別れた。当初は平家に従い、義仲が有利と見ると義仲に従い、次は鎌倉有利と見ると義仲に離反した者が大部分である。

14.8 領地安堵

 頼朝は武士の領地安堵の希望を聞き入れ、領地安堵の下文を発行したが、義仲は無関心だったので、人望を失ったとの解説を見ることがあるが、そうでもなく、時々義仲の下文が見つかったり、「吾妻鏡」にも、義仲滅亡後、頼朝に領地安堵の願いを出し、証拠の書類として、義仲の下文を提出している者がいるの(寿永3年2月21日)で、義仲も領地安堵の下文は出していたようである。しかし、義仲滅亡後は無効と思う人は大多数で多分捨ててしまうだろう。

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2006年3月 8日 (水)

14.6 「富士川の合戦」

14.6 「富士川の合戦」

  「平家物語」に平家軍が水鳥の羽音を敵軍の襲来と勘違いし、退却する。吾妻鏡によれば事実のようである。しかし。
 「山槐記」に平家軍が水鳥の羽音を敵軍の襲来と勘違いし、退却する話しが出てくるが虚言甚だ多しと記述している。そのようなデマが流布したのは事実のようである。

「吾妻鏡」1180年(治承四年)10月20日 
 武衛(頼朝)駿河の国賀島に到らしめ給う。また左少将(平)惟盛・薩摩の守忠度・参河の守知度等、富士河の西岸に陣す。而るに半更に及び、武田の太郎信義兵略を廻らし、潛かに件の陣の後面を襲うの処、富士沼に集う所の水鳥等群立ち、その羽音偏に軍勢の粧いを成す。これに依って平氏等驚騒す。爰に次将上総の介忠清等相談して云く、東国の士卒、悉く前の武衛に属く。吾等なまじいに洛陽を出て、中途に於いてはすでに圍みを遁れ難し。速やかに帰洛せしめ、謀りを外に構うべしと。羽林已下その詞に任せ、天曙を待たず、俄に以て帰洛したり。
(現代文)
 頼朝は静岡県の賀島に到達した。また官軍平家の左少将の平惟盛・薩摩の守忠度・参河の守知度等は富士河の西岸に陣を構えた。而るに半更(夜更けか)に及び、武田の太郎信義が兵略を廻らし、潛かに件の陣の後面より攻撃した処、富士沼に集う所の水鳥等が群立ち、その羽音が偏に軍勢の攻撃の様子を成した。これに依って平氏等は驚き騒いだ。ここで次将の上総の介忠清等は相談して云く、東国の軍兵は、悉く前の武衛(兵衛府)の頼朝に従う。吾等が無理矢理に京都を出て、中途に於いてはすでに囲みを遁れるのは困難である。速やかに帰京し、計略を他に構えるべきであると。近衛府の左少将の平惟盛以下その言葉に任せ、夜明けを待たずに、俄に以て帰京しました。
(解説)
このように「吾妻鏡」の記述にも疑問を抱く人もある。寿永2年の記述が無いのも、よほど鎌倉方に都合の悪い事件があったか。風聞(デマ)が多く、真偽判定不能なので、編集を断念したか。

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2006年3月 7日 (火)

14.4 義仲の限界

14.4 義仲の限界Img_4447

 義仲はまだ若かったから無理もないが、戦わずして勝のが最上などといえば、怒るかもしれない。個々の戦闘能力は高いから、小規模の合戦には勝てるかもしれないが、大規模な軍団となった時の戦略とか、政治的かけひきとなると、参謀策士がいない。
 これは現代の企業における技術者だけの集団のようなものである。技術者が何か発明をする。新製品を開発する。しかしそれだけでは会社は続かない。伸びない。商品が売れなければならない。そのためには製品化の工場が必要だ。広告もいる。販売の営業もいる。経理も要る。総務課もいる。個人事業主は一人でやらねばならない。やはり得意な分野を分担したほうが効率的だ。技術者だけで会社を作ると、製品開発だけは熱中するが他はおざなりとなり、特に経理は無視して赤字続きとなり、破綻する。即ち全般を特に経理を担当する経営者が必要だ。本人にその能力が無ければ補佐する者が必要だ。
 義仲の直属の部下はほぼ全員が戦闘員、戦闘参謀で、戦略参謀、政治参謀はいなかったようだ。尤もそのころそのような人材がいなかったことも事実で、そのような発想すら無かったろう。暗中模索の連続だったと思う。技術者同士で会社を興したが、諸問題山積で、参考書もなく、助言者もいない、右往左往しているようなものである。
 義仲が入京した時、各地から反平家の源氏軍が合流したが、それらは義仲の指揮下に入ったわけではない。義仲の直属軍と比較しても同程度の兵力を持っているので、思いどおりには動かない。もたもたしているうちに法皇が反義仲連合を画策し始めた。やむを得ずクーデターとなった。
 頼朝は戦争には戦闘技術以外の戦略や計略が必要で有効な事に気づいたか、北条家が補佐したか、うまく策略を廻らしている。朝廷の下級官吏を採用したり、その提案をうまく利用している。年齢が10才上というのも、義仲の30前後の血気盛んなのに比べ、40前後の体力がやや落ち目なので、頭で勝負しようとするのもかえって有利か。

14.5 「源平合戦」から「治承・寿永の内乱」

 軍記物語の影響から、「源平合戦」と源氏と平家の対抗戦のような気がするが、実は頼朝に従がった関東武士団の7割から8割は平家の系統だった。厳密には関東の平氏と西国の平氏の争い「平平合戦」である。たまたま頼朝はその頭として担ぎ出されたに過ぎない。その他、頼朝や義仲以外にも各地で反乱か゜起きて、全国的な内乱状態であった。ということで、源平合戦はふさわしくないので現在は「治承・寿永の内乱」と呼称されている。

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2006年3月 6日 (月)

14.1「日義村(現在は木曽町日義)」の命名由来

14.その他

14.1「日義村(現在は木曽町日義)」の命名由来Img_4444_1
 明治初期の町村合併の時、現在の長野県木曽郡の原野村と宮ノ越村が合併して、「朝日将軍木曽義仲」の日と義から日義村と命名したようである。明治初期のお役人が木曽義仲はけしからん奴だとは考えていなかった証拠である。あるいは事務量が多いので、めくら判だったのか。その後明治政府以降の「皇民化教育」の影響で、天皇に逆らった者は逆賊でけしからんとなったようである。天皇に逆らった者はけしからんとなれば、頼朝以降の武家政権、第二次大戦時の軍部、戦後の民主政権も天皇の意向は無視しているのだが。

14.2「木曽殿」と「木曽」
 平家物語が複数の作者の合作であるというのは良く知られているが、義仲の登場する場面も京都以外では「木曽殿」と呼び、京都中の場面では「木曽」と呼び捨てである。これは明らかに作者が義仲より位階が異なることを示す。京中での義仲の行動をやや見下しているのは義仲より上位の公家が作者であり、京都以外での行動の記述は義仲に敬意を抱いている作者のようである。後の「延慶本」や「源平盛衰記」では「木曽」に統一されてい
る。

14.3 義仲の功績
 平家追討戦における義仲の功績を現代の人工衛星の打ち上げに例えると、義仲が第一段ロケット、義経が第二段ロケット、頼朝が人工衛星本体、その管制システムが北条を中心とする関東武士団ということになるか。さらに北条氏は他の政敵を排除し、ついには頼朝やその子孫までも排除した。最終の勝利者は北条氏である。いずれにしてもその後数百年続く武家政権の基礎を築いたことになる。

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2006年3月 5日 (日)

13.5 承久の乱との比較

13.5 承久の乱との比較Img_4436

約40年後に起きた「承久の乱」というのがある。寿永の頃即位した天皇が上皇となり、勢力を拡大した武家政権から公家政権を復活しようと計画した、鎌倉幕府打倒計画である。失敗して、その後鳥羽上皇は「島流し」となる。清盛や義仲が法皇を幽閉したと非難したがその比ではない。

13.5.1 皷判官め打破て捨よ
 「平家物語」によると義仲が法住寺事件の前に放った言葉は、
「われ信濃を出し時、をみ(麻績)・あひだ(会田)のいくさ(軍)よりはじめて、北国には、砥浪山・黒坂・塩坂・篠原、西国には福隆寺縄手・ささ(篠)のせまり(迫り)・板倉が城を責しかども、いまだ敵にうしろを見せず、たとひたとひ十善帝王(天皇)にてましますとも、甲をぬぎ、弓をはづいて降人にはえこそ参るまじけれ。たとへば都の守護してあらんものが、馬一疋づつ飼うて乗らざるべきか。いくらもある田どもからせて、ま草にせんを、あながちに法皇のとがめ給ふべき様やある。兵粮米もなければ、冠者原共がかたほとりに付いて、時々いりどりせんは何かあながちひが事(僻事)ならむ。大臣家や宮々の御所へも参らばこそ僻事ならめ。是は皷判官が凶害とおぼゆるぞ。其皷め打破て捨よ。今度は義仲が最後の軍にてあらむずるぞ。頼朝が帰きかむ処もあり、軍(いくさ)ようせよ。者ども」
と言ったとされている。(現代文)2.1参照

13.5.2 「秀康・胤義等を討ち取れ」
 「吾妻鏡」によると約40年後に起きた「承久の乱」の時の北条政子の言葉は
「皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云い俸禄と云い、その恩既に山岳より高く、溟渤(めいぼつ)より深し。報謝の志これ浅からんか。而るに今逆臣の讒(さん、ざん、そし・る)に依って、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべしてえり。」
(現代文)
「皆心を一にして奉公するべし。これは最期のことばである。なき右大将軍の頼朝候が朝敵を征罰し、関東の鎌倉幕府政権を創設してから以降、官位を受けたり俸禄を頂くなど、その恩は既に山岳より高く、暗い海より深い。御に報い徳を謝する志は、これは浅くないものである。而るに今や逆臣の告げ口に依って、非正義の天皇の命令書を下された。名を惜しむところの武士族は、早く藤原秀康・三浦胤義等を討ち取り、三代将軍の残した官職や領地を全うするべきである。但し上皇側に参ろうと欲する者は、只今申し出るべきである。」(藤原秀康・三浦義村の弟胤義は首謀者とされる)

(解説)
ともに皇族に仕える者の告げ口が原因であるので、それらを討とうとしている。これらに類似性を感じるが、いかがでしょう。これは平家物語の編集者が吾妻鏡の文章を参考にしたか。偶然か。

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2006年3月 4日 (土)

13.4 クーデター

13.4 クーデターImg_4434

 「平家物語」によると義仲軍の乱暴狼藉を取り締まれとの使者に義仲が無礼な対応をしたので討ってしまえということになっているが、「玉葉」「愚管抄」によると乱暴狼藉に関係無く、法皇側が頼朝に期待して、とにかく義仲が邪魔なので、兵を集めて追い出そうとしたのが事実のようである。法皇が兵を集めて、その兵力の比が逆転しそうなので、討たれる前に攻めようとなつたようである。であるから、合戦後の処理も計画的とは言えない。入京後、兵粮不足を理由に兵力を減らせとの指示により、京都近郊の将兵は京都からかなり撤退しており、義仲の信濃北陸の将兵以外は少なかった。さらに水島合戦の敗北で半数は失われていたようである。
 鼓判官の悪口を言わせているが、これは作者が鼓判官壱岐知康が法皇の近臣として重用されているのをねたんで義仲の口を介して言わせているようである。物語や小説では作者や読者の意図を登場人物に言わせるのは手法の一つである。
 また四方から火矢により放火したとの記述があるが、「玉葉」「吉記」に煙が上がるの記述があるのみである。「愚管抄」では詳しい記述の割には、火とか煙の記述は無い。有名な倶利伽藍峠の「火牛の計」作戦も後世の創作であるとされている。
 「愚管抄」の特徴のある記事としては、法皇の弟で天台座主の「明雲」が討たれ、その首を執った者が報告したのに義仲は「なんだそんなもの」と云ったので、首は道ばたに棄てられた。というのがある。
 法住寺合戦はクーデターであり、武力による急激な政権奪取である。理由はどうあれ正否を論ずるのは困難である。クーデターそのものが悪であると決めつけることは出来ない。フランス革命を始め各国の政権交代が武力革命によることが多いが一慨に不当とは言えない。まさに「勝てば官軍、負ければ賊軍」なのである。要はその後善政が持続すれば良いのである。義仲政権は見通しの甘さにより、周囲の情勢利あらずで、60日しか持たなかったので、判断のしようがない。
 義仲軍は頼朝軍に負けたので、朝廷に対する反乱と決めつけられたが、「承久の乱」、「南北朝」の例など実は反乱軍が勝利した場合でも朝廷側の誰かを朝廷をそそのかした逆臣とみなして処罰するという方法でつじつま合わせをしている事が多い。
 頼朝も実はじわじわと武力による威嚇で、政権を奪ったことになる。序々にやるか、一気にやるかの違いに過ぎない。

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2006年3月 3日 (金)

13.3 愚管抄(巻第五)の記述

13.3 愚管抄(巻第五)の記述Img_4432

その刹那(せつな)京中はたがいについぶくをして物もなく成(なり)ぬべかりければ、「残(のこり)なく平氏は落(おち)ぬ。をそれ候まじ」にて、廿六日のつとめて御下京(ごげきやう)ありければ、近江に入(い)りたる武田先(まづ)まいりぬ。つゞきて又義仲は廿六日に入りにけり。六条(ろくでう)堀川なる八条院のはゝき尼が家(いへ)を給(たまは)りて居(ゐ)にけり。かくてひしめきてありける程に、いかさまにも国王は神璽(しんじ)・宝剣(はうけん)・内侍所(ないしどころ)あいぐして西国(さいごく)の方(かた)へ落給(おちたま)ひぬ。この京に国主(こくしゆ)なくてはいかでかあらんと云(いふ)さたにてありけり。「父法皇をはしませば、西国王(に
(中略)
かやうにてすぐる程に、この義仲
は頼朝を敵(かたき)に思ひけり。平氏は西海(さいかい)にて京へかへりいらんと思ひたり。この平氏と義仲と云(いひ)かはして、一(ひとつ)になりて関東(くわんとう)の頼朝をせめんと云事出きて、つゝやきさゝやきなどしける程に、是も一定(いちぢやう)もなしなどにてありけるに、院(ゐん)に候北面下臈(ほくめんげらふ)友康(ともやす)・公友(きみとも)など云者、ひた立(たて)に武士を立て、頼朝こそ猶本体(ほんたい)とひしと思て、物(もの)がらもさこそきこへければ、それををもはへて頼朝が打(うち)のぼらんことをまちて、又義仲何ごとかはと思けるにて、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)院御所を城(しろ)にしまはしてひしとあふれ、源氏山々寺々(やまやまてらでら)の者(もの)をもよほして、山の座王(ざす)明雲(めいうん)参りて、山の悪僧ぐしてひしとかためて候けるに、義仲は又今は思ひきりて、山田・樋口(ひぐち)・楯(たて)・根(ね)の井(ゐ)と云四人の郎従(らうじゆう)ありけり、我勢(わがせい)をちなんず、落ぬさきにとや思ひけん、寿永二年十一月十九日に、法住寺殿へ千騎内(うち)五百余きなんとぞ云けるほどの勢にてはたとよせてけり。義仲が方に三郎先生(さぶらうせんじやう)と云源氏ありけるも、(以下略)

(現代文)
その短期間に京都市内ではたがいに略奪をして物も無くなりましたので、「残り無く平氏は落ち行きました。恐れは無いだろう」として、廿六日の早朝に京都にお帰りとなりましたので、近江に入りたる武田軍が先ず入京しました。続いて又義仲軍は廿六日に入京しました。六条の堀川にある八条院の母である尼の家を頂いて居所としました。このようにして混雑して押し合ううちに、いかにも天皇は神璽(しんじ)・宝剣・内侍所(ないしどころ)を相具して西国の方へ落ちて行きました。この京に国主(こくしゆ)なくてはどうしようもないと云う評定になりました。「父の法皇がおいでなので、西の天皇
(中略)
このようにして過ぎるうちに、この義仲は頼朝を敵(かたき)と思いました。平氏は西海から京へ帰り入ろうと思いました。この平氏と義仲と相談して、ひとつになって関東の頼朝を攻めようと云う案が出て、密かに相談していましたが、是も決定無しとなりました。そこで、法皇に仕える北面の武士の友康・公友(きみとも)などという者達が、ひたすらに武士を立て、頼朝こそ猶まことのかたちと固く思いこみ、者柄も良く聞こえましたので、それを予想して頼朝が京都へ上ることを期待して、又義仲ごときは何ごとならずと思い、法住寺殿の院御所を城のように構えて、ぎっしりとあふれるほどに、源氏の将兵や比叡山や三井寺の僧兵などを集め、比叡山の座王(ざす)の明雲(めいうん)が参りまして、山の僧兵を引き連れて、びっしりと固めて待機しましたので、義仲は又今やこれまでと思い切りました。山田・樋口(ひぐち)・楯(たて)・根(ね)の井(ゐ)と云四人の家来がいました。我らの軍勢は京都から落ち行こう。落ちる前にと思いました。寿永二年十一月十九日に、法住寺殿へ千騎の内の五百余騎などと云うほどの軍勢で突然に押し寄せました。義仲の味方に三郎先生(さぶらうせんじやう)と云う源氏の武将がいましたが、
(以下略)
(解説)
乱暴狼藉など関係無く、法皇に仕える北面の武士が、ひたすら頼朝に期待して、義仲を排除しようとしたので、今やこれまでと法住寺殿の院御所を攻撃したものである。

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2006年3月 2日 (木)

13.2.5 法住寺合戦後

13.2.5 法住寺合戦後

1184年 (壽永2年)11月19日 
「義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使い」
「天下乱逆のうち未だ今度の如きは無し」
凡そ漢家本朝天下の乱逆、其の数有りと雖も、未だ今度の如き乱有らず。義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使いなり。
11月21日 
「義仲もし善政を行はば、余其の仁に当たる」。
「義仲の政に預からざる旨を仏神に祈謝す」
余密々に祈請(きせい、願かけ)して云う、今度「義仲もし善政を行はば、余其の仁に当たる」。此の事極まり無き不詳(不吉、不運)なり。よって今度の事、其の中に入るべからず。義仲に順ふべからざる由、聊(いささ)か仏神に謝したり。言ふ莫れ言ふ莫れ。

(現代文)
11月19日 
「義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使い」
「天下乱逆のうち未だ今度の如きは無し」
およそ中国や日本国で天下の乱逆は、沢山あるが、このような乱は無かった。義仲は不徳の法皇をいましめるための神の使いである。
11月21日 
「義仲もし善政を行はば、余其の仁に当たる」。
「義仲の政に預からざる旨を仏神に祈謝す」
私は密かに願かけしていた。今度義仲が善政を行うなら私も一役買うと。この事極めて不吉であった。よって今度義仲の仲間に入らず、義仲に従う必要が無いことを神様仏様に感謝した。言うべからず。言うべからず。
(解説)
法住寺合戦の後、義仲は法皇の不徳を誡める使いとか義仲が善政をしようとすれば、助力しようと思ったがすぐ撤回している。次兄の基房がしゃしゃり出てきたからである。

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2006年3月 1日 (水)

13.2.4 法住寺合戦当日

13.2.4 法住寺合戦当日

11月19日 天気陰、時々小雨、

「義仲法住寺御所を攻む」
早朝人告げて云う、義仲すでに法皇宮を襲わんとすと。余信受せざるの間、暫く音無し。基輔を以て院に参らしめ、子細を尋ねしむ。午の刻(12時)帰り来たり云う、すでに参上の由、其の聞こえ有りと雖も、未だ其の実無し。凡そ院中の勢甚だ少しと為す。見る者興違の色有りと。光長又来たり、院に奏せん為退出したり。然れども義仲の軍兵、すでに三手に分かれ、必定寄せんの風聞、猶信用せざる処、事すでに実なり。余の亭大路の頭たるに依り、大将の居所に向かいたり。幾程を経ず黒煙天に見ゆ。是河原の在家を焼き払うと。又時作る両度、時に未の刻(14時)なり。或いは云う、吉時と為すと。

「官軍敗績す」
申の刻(16時)に及び、官軍悉く敗績し、法皇取り奉りたり。義仲の士卒等、歓喜限り無し。

「義仲法皇を取り奉り五条亭へ渡る」
即ち法皇を五条東洞院の摂政亭に渡し奉りたり。武士の外、公卿・侍臣の矢に中(あた)り死傷の者十余人と。夢か夢に非ざるか。魂魄(こんぱく、たましい)退散し、万事覚えず。

「天下乱逆のうち未だ今度の如きは無し」
凡そ漢家本朝天下の乱逆、其の数有りと雖も、未だ今度の如き乱有らず。義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使いなり。其の身の滅亡、又以て忽然か。憖(ぎん、ねがう)ひに生きて此の如しの事を見る。只宿業を恥ずべきものか。悲しむべし悲しむべし。

「基通宇治の方に逃げる」
摂政(基通)未だ合戦せざる前、宇治の方へ逃げられたりと。夜に入り、定能卿密かに母堂の許へ来たる。即日余の居所の北隣に来たるなり。

「兼房院に参るも合戦のため迷い出ず」
今日、二位中納言(藤原)兼房院に参り、合戦の間、雑人のため、僕従・乗り物等を隔てられ、歩行して、迷い出で、当時小屋に在り。乗物を送るべき由、雑色を以て示し送らる。依って牛車等を相具し送り遣わす処、尋ね失いたりと。後に聞く、歩行し法性寺の僧都(慈円)の許に来たると。深更に及び家に帰られたりと。日来却って籠居(ろうきょ)の人、何故今日参院せらるるや、尾籠(びろう)の甚だしき、鳴呼(ああ、あはあ)と謂うべきなり。定めて天下の沙汰となるか。
「天皇の御在所知れず」
主上(後鳥羽天皇)、実清卿相具し奉ると。未だ其の御在所を知らずと。今夜大将亭に宿す。

11月19日 [吉記]天晴れ。
 午の刻南方火有り。怪しみてこれを見る処、院の御所辺と。再三進入すと雖も、戦場たるに依って、敢えて以て通ぜず。馬を馳せんと雖も、参入すること能わず。南方の空を見るに夕陽に及び、縦横の説信じ、信ぜざるの処、日入るに及び、院の御方逃げ落としめ給うの由風聞有り。鳴咽(おえつ)の外更に他事を覚えず。後聞、御所の四面皆悉く放火す。その煙偏に御所中に充満し、万人迷惑す。義仲軍所々に破り入り、敵対に能わず。法皇御輿に駕(が)し、東を指して臨幸す。参会の公卿十余人、或いは鞍馬(あんば)、或いは匍匐(ほふく)、四方に逃走の雲客已下その数を知らず。女房等多く以て裸形。武士伯耆の守光長・同子廷尉光経已下合戦す。その外併しながら以て逃げ去る。義仲清隆卿堂の辺に於いて追参し、甲冑を脱ぎ参会す。申す旨有り。新御所の辺に於いて御車に駕す。時に公卿修理大夫親信卿・殿上人四五輩御供に有り。摂政の五條亭に渡御すと。
(中略)
夜に入り、所々に火有り。伯州(伯耆)光長宅、叉山(天台)座主三条房等なり。

(現代文)

「義仲法住寺御所を攻む」
早朝、ある人が報告に来た。義仲がすでに法皇の御所を攻撃しようとしているらしい。私は信用出来ないまま、暫く音沙汰無し。基輔を以て法皇御所に参らせ、詳細を尋ねさせた。12時頃に帰り来て報告した。すでに攻撃のため参上のうわさは有るが、未だ其の事実は無い。凡そ法皇の御所の中の軍勢は甚だ少い。見える者達は興違の気色が有りと思われる。光長が又来た、法皇に申し上げようとする為退出した。然れども義仲の軍兵はすでに三手に分かれ、必らず押しせるとの風聞があり。猶信用出来ない処、すでに事実であった。私の家は大路の頭であるので、息子の大将の居所に向かった。幾程を経ず黒煙が天に見えた。是は河原の在家を焼き払う黒煙のようだ。又時の声をあげることが二度あった。時に14時頃である。或いは云う、吉とする為の時であると。

「官軍敗績す」
16時頃に及び、官軍は悉く敗退し、義仲軍は法皇を取り囲んだ。義仲軍の将兵等の歓喜は限り無きものであった。

「義仲法皇を取り奉り五条亭へ渡る」
即ち法皇を五条東洞院の摂政亭に移動した。武士の外、公卿・侍臣のうちで矢にあたり死傷した者は十余人のようだ。夢か現実か。たましいが抜けたようで何事も覚えが無い。

「天下乱逆のうち未だ今度の如きは無し」
凡そ中国の漢家や日本の朝庭で天下の乱逆は、其の数有りと雖も、未だ今度のような争乱は無かった。義仲はこれ天の不徳の法皇を誡むる使いである。其の身の滅亡、又以て忽然か。ねがひに生きて此の如しの事を見る。只前世の行為を恥ずべきものか。悲しむべし悲しむべし。

「基通宇治の方に逃げる」
摂政の基通は、未だ合戦の始まる前に、宇治の方面へ逃げたようだ。夜に入り、定能卿が密かに母の許へ来た。即日私の居所の北隣に来た。

「兼房院に参るも合戦のため迷い出ず」
今日、二位中納言の藤原兼房が法皇御所に参り、合戦のため、軍兵により、従者や乗り物等を隔てられ、歩行して、迷い出でて、当時は小屋に居た。乗物を送るべき由、従者を以て使いを送らる。依って牛車等を相伴い送り遣わした処、尋ね失ったようだ。後に聞くところでは、歩行して法性寺の僧都(慈円)の許に来たようだ。深夜に及び家に帰られたようだ。日頃、かえって家の中にとじこもって居る人が、何故今日参院したのか、無作法な事は甚だしいものだ。ああと謂うべきか。定めて天下の沙汰となるか。
「天皇の御在所知れず」
後鳥羽天皇は実清卿がお供しているようだ。未だ其の御在所はわからない。今夜は息子の大将の家に宿伯した。

11月19日 [吉記]天晴れ。
 12時頃に南方に火が見えた。怪しんでこれを見る処では、法皇の御所の辺である。再三進入しようと雖も、戦場であるので、敢えて通行出来ない。馬で馳けようと雖も、参入することは出来ない。南方の空を見ているうちに夕陽となり、とりどりの風説を信じたり、信じないでいたりするうちに、日が入るに及び、法皇の御方は逃げ落ちたとの風聞が届いた。おえつの外更に他事を覚えなし。後で聞いた、御所の四面は皆悉く放火す。その煙は偏に御所中に充満し、万人が迷惑した。義仲軍は所々から破り入り、敵対出来なかった。法皇を御輿に乗せ、東を指して退避した。付き従う公卿は十余人のみ、或いは鞍をおいた馬、或いはほふくで、四方に逃走した殿上人以下その数はわからない。女官等は多く裸形である。武士の伯耆の守光長・同子廷尉光経以下は合戦した。その外は戦いながら逃げ去った。義仲軍は清隆卿堂の辺に於いて追い付き参り、甲冑を脱ぎ参会した。申す旨が有り。新御所の辺に於いて御車に乗せた。その時に公卿の修理大夫親信卿・殿上人の四五人が御供に有りました。摂政の五條亭においでになりました。
(中略)
夜に入り、所々に火の手が上がりました。伯州(伯耆)光長の家、叉山(天台)座主の三条房等である。

(解説)
平家物語では法皇側が2万人、義仲軍が7千騎となっているが、多分その10分の1の2千対700程度の戦いだろう。歴戦の勇士揃いの義仲軍と寄せ集めの烏合の衆との戦いでは勝敗は明らかである。兼実も警告していた。

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