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2006年2月 2日 (木)

7.5「義仲以仁王の王子を推す」

7.5「義仲以仁王の王子を推す」

玉葉の1183年(壽永二年)8月14日
「践祚の事につき法皇より諮問せらる」
大蔵卿泰経云う、践祚の事、高倉院の宮2人、(一人は平義範の女の腹5歳、(惟明親王)、一人は藤原信隆卿の女腹4歳(守貞親王))之間、思し食し煩ふ処、以っての外の大事が出で来たり。
「義仲以仁王の王子を推す」
義仲今日申し云う、故三条の宮ご子息の宮北陸に在り。義兵の勲功かの宮のお力に在り。依って立王の事に於いて、異議有るべからざる由所存なりと。依って重ねて俊尭(ぎょう)僧正を以て(義仲と親昵(しんじつ)のたる故)、子細を仰せられて云はく、我が朝の習い、継躰守文(しゅぶん)を以て先と為す。高倉院の宮両人おはしまし、其の王胤(王者の子孫)を置きながら、強ちに孫王を求めらるる条、神慮測り難し。この条猶しかるべからざるかと。義仲重ねて申し云う、此の如き大事においては、源氏等執し申すに及ばずと雖も、粗事の理を案ずるに、法皇御隠居の刻、高倉院権臣(けんしん)を恐れて、成敗(せいばい)無きが如し。三条宮至孝に依り其身を亡す。争でか其の孝を思し食し忘れざらんや。猶この事其の欝を散じ難し。但し此の上の事は勅定に在りといえり。此の事いかん計らひ奏すべしといえり。申し云う、他の朝議に於いては、事の許否を顧みず、諮詢(しじゅん、相談)ある毎に愚款(かん、まこと)を述べたり。
「王者の沙汰に至りては人臣の最にあらず」
王者の沙汰に至りては、人臣(けらい)の最に非ず。(中略)

(現代文)
玉葉の1183年(壽永二年)8月14日
「践祚の事につき法皇より諮問せらる」
大蔵卿の泰経が云う、天皇の位の件について、高倉上皇の御子息の宮様が2人おいでになります。一人は平義範の娘の子で5歳、(惟明親王)、一人は藤原信隆卿の娘の子で4歳(守貞親王)の間で思案する処、もっての外の大事が発生しました。
「義仲以仁王の王子を推す」
義仲が今日申し出てきました。故三条の宮(以仁王)のご子息の宮が北陸においでになります。義兵の手柄はかの三条の宮(以仁王)のお力であります。依って立王の事に於いて、異議有る事も無いとの思いでありますと。よって重ねて俊尭(ぎょう)僧正を通じて(義仲と親しい故)、詳細を申されて云うのには、我が朝庭の慣習によれば、君主の位を受け継ぐことは武力を使わず文を以て先と為すと。高倉上皇の子の宮様が両人おいでになります。其の王者の子孫を置きながら、強引に法皇の孫の王を求めるのは、法皇の心は測り難いものであります。この条猶そのようには出来ないかと。義仲は重ねて申し云う、此のような大事においては、源氏等がこだわり申すに及ばずと雖も、大略の道理を思案するに、法皇が御隠居のとき、高倉上皇は清盛の権力を恐れて、政治を行うことは無いも同様でございました。三条宮(以仁王)は親孝行のため其の身を亡ぼしました。どうして其の孝を思い忘れることが出来ましょうか。猶この事其の気のふさぐことをなくすことは難しい。但し此の上の事は法皇の決定に在りといえよう。此の事いかに処理し申し上げようか。申し云う、他の朝庭の議案については、事の許すか許さないかを顧みず、相談ある毎に私の愚かな意見を述べました。
「王者の沙汰に至りては人臣の最にあらず」
王者(法皇)の指図すべきことなので、臣下の最もすべきものではありません。(中略)
(解説)
現代でも家の後継ぎは主人が決めるように、次の王は現王(法皇)が決めるべきである。他人特に臣下(家来)が口出しすべきでない。と兼実は考えている。しかし、この立王への口出しが法皇側の義仲への警戒心を大きくしたようである。

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