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2006年2月18日 (土)

10.3 「腹が減ってはいくさは出来ぬ」

10.3 「腹が減ってはいくさは出来ぬ」Img_5333_2

 頼朝は「一の谷合戦」以後、この「路次追捕」のような兵粮米調達と全国への「兵粮米」徴収の禁止の宣旨を出させ通達した(寿永三年二月二十三日、参照6.3,6.4)が、そのため源氏の現地軍は兵粮の調達に苦労し、「一の谷合戦」以後平家追討は遅れた。まさに「腹が減ってはいくさは出来ぬ」のであり、度々の現地軍からの兵粮米不足の要請に頼朝が応じ、後方からの補給や義経の参戦もあり、ようやく平家追討が終わる。
 また平家滅亡後、義経以下が頼朝に無断で法皇より官位を受けたことを非難する文書にもかれら将兵が略奪などをしたとついでに非難している。(参照6.7)
元暦2年4月15日 「吾妻鏡」・・・右任官の習い、或いは上日の労を以て御給を賜い、或いは私物を以て朝家の御大事を償い、各々朝恩に浴す事なり。而るに東国の輩、「徒に庄園の年貢を抑留し、国衙(こくが)の官物を掠め取り」、成功に・・・
 しかし頼朝は約1年半後文治元年11月、新たに全国一律の5パーセントの兵粮米を割り当てた。(参照6.5)
 旧日本軍が各地で略奪暴行した例が報告されるが、やはり食料の補給が不充分なため、現地軍としては現地調達と称して略奪せざるを得ない。
 「平家物語」にも各種あり、平家軍・木曽義仲軍の追捕乱暴は共通に記述されているが鎌倉軍の追捕乱暴の記述は「平家物語・延慶本」のみである。梶原景時の軍勢が勝尾寺を追捕し放火する場面である。当時鎌倉の悪口は書きにくいはずだが、延慶本が記述されたころは、梶原景時は追放された時期でもあり、勝尾寺の記録では戦後、頼朝の命により再建された。その再建に梶原景時が尽力したとされている。
  なお、「平家物語・延慶本」には義経軍は宇治川の合戦のとき、川端の家300軒に放火して焼き払ったので、逃げ遅れて隠れていた女子供、老人、病人などが焼け死んだと記述されている。

 当時の遠征軍の武士の食糧調達はこの「路次追捕」と「諸国の荘園等からの兵粮米の徴収」による。頼朝が発令させた宣旨の文面から推理し判断すると、義仲軍は「路次追捕」は取り締まったようだが、「諸国の荘園等からの兵粮米の徴収」は継続したようである。つまり、義仲軍は「武士達の自由横領」つまり路次追捕の禁止のみはつとめたが、「公田庄園への兵粮米の徴収」は継続したようである。つまり弱者であり貧者たる庶民に被害の及ぶ路次追捕(略奪)は禁止し、強者であり富者たる法皇、宮家、公家、寺社、諸国のみから兵粮米の徴収をしていたことになる。義仲は弱者・貧者の味方である。
 頼朝は「諸国の荘園等からの兵粮米徴収」は悪法なので禁止と言いながらも、後日、再びより強固な兵粮米の徴収を始めている。(1185年 ( 文治元年)11月28日 6.5参照。)
 ここで注目すべきは、頼朝は路次追捕が悪いとは言っていない。法皇の院宣が無いのがいけない。路次追捕についても現場指揮官の判断でやるな、必要な場合は頼朝に申請し、頼朝が法皇に申請して院宣(法皇の命令書)を頂いてから実施せよと命令している。
 いずれにしても広く普及している語り物系の「平家物語」における義仲軍の庶民に対する乱暴狼藉は捏造である。「平家物語・延慶本」に記述する平家軍や鎌倉軍の路次追捕による庶民への乱暴狼藉を義仲軍のみに書き換えている。平家軍の乱暴狼藉の場面は短縮し、鎌倉軍の乱暴狼藉は削除している。さらに義仲軍入京前の京都市民(や僧兵)の略奪の場面も削除している。

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