« 10.3 「腹が減ってはいくさは出来ぬ」 | トップページ | 11.2 木曽義仲軍劣勢でも連勝 »

2006年2月19日 (日)

11.「平家物語」中の軍勢の数について11.1 「ごまんとある」・・・多数ある

11.「平家物語」中の軍勢の数について

11.1 「ごまんとある」・・・多数あるImg_5371

 木曽軍5万騎というが、実数は多分半分以下ないし十分の一の五千人、多くとも一万ではないだろうか。「ごまんとある」これは現在でも多数ある場合の表現である。又その根拠として「玉葉」の寿永2年7月21日の日記によると、「追討使兼実家の傍を経て発向す」の記述で、「午の刻(12時)追討使が発向する。三位中将平資盛が大将軍と為し、肥後守貞能を相具し、余の家東小路、富小路を経て、多原方へ向かう、家僕等密々に見物し人数を数えた、「其の勢僅か千騎」その勢1080騎と、多分確かである、日来、世の推しはかる所7、8千騎及び万騎と、その勢在るを見るに、わずか千騎、有名無実の風聞、これをもつて察すべし、」と、たまたま平家の追討軍の軍勢が家の近くを通ったので数えさせたら1080騎だった。これを普通世間では7.8千騎または一万騎と称している。兼実自身も「風聞の大袈裟ぶり」を確認している。「風聞」の程度は十分の一に割り引いて受け取るべし。(9.2参照)
 大本営発表ではないが、自軍の軍勢を多めに吹聴するだろうし、別ルートで合流したり、途中で志願兵が参加し、徴兵・徴発もあり、人数は増加する。二千ないし三千になるかもしれない。同日の「吉記」の記録では3千余騎としている。
 [吉記]7月21日 「今日新三位中将資盛卿・舎弟備中の守師盛、並びに筑前の守定俊等、家子を相従えたり。資盛卿雑色宣旨を頸に懸く。肥後の守貞能を相伴い、午の刻ばかりに発向す。都廬三千余騎。法皇密々御見物有り。宇治路を経て江州に赴く。」と。当時の軍記物語の軍勢の数は十分の一ないし三分の一に割り引くと実際に近いようである。
 当時の官軍の編成は天皇の宣旨を旗印として、京都を出発し、進軍途中で志願兵を募り、徴兵徴発を行う「かり武者方式」が普通だったから、京都を出発する時の軍勢の十倍位にはなったかもしれない。ただこの時期は官軍平氏の敗色が濃厚になってきたので、2倍か3倍にしかならないだろうと予想したようである。

|

« 10.3 「腹が減ってはいくさは出来ぬ」 | トップページ | 11.2 木曽義仲軍劣勢でも連勝 »