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2006年2月17日 (金)

10.2 追捕・・・官軍の食料の調達

10.2 追捕・・・官軍の食料の調達Img_5328_1
 現代の軍隊の遠征軍は補給部隊が本国から武器・弾薬・食料を補給するのが原則であり、アメリカ軍は補給を重視し戦闘員と非戦闘員(補給担当)の比率が5対5といわれている。日本の自衛隊は旧日本軍と同じく補給を重視せず9対1のようである。
 当時は遠征軍に補給部隊など無く、食料は本人持参が原則である。不足したら現地調達(追捕、強制取立、略奪)が当たり前になっていた。平家の追討軍の遠征から、状況が変化する。
 治承5年2月8日には京中の諸家を左右京職官人・官吏・検非違使等が計る。これは大略、公家・富有の者の兵粮米負担であるが、それに限らず、院・宮併せ富を分かち貧に与えるものであると。飢饉の対策でもあると。備蓄米とか家の広さを調べ、兵士の食料、宿舎に徴用したようである。(6.2参照)さらに、頼朝が悪法と非難した院宣「諸国からの兵粮米の徴収」が発令される。

1182年 (養和2年)3月17日 天晴 [吉記]
「兵粮米徴収を検非違使庁の遣いに託す」
近日諸国の庄々「兵粮米」重ねて苛責有り。使庁の使を付けらるべき由、院宣を下さる。行隆朝臣沙汰なり。上下色を失う事か。
(現代文)
近日より、諸国の私有地への「軍用米」を重ねて厳しい取り立てが実施される。軍用米の徴収を検非違使庁(警察兼裁判官)から派遣する役人に託す旨、法皇の命令を下された。行隆朝臣の指図である。公家官吏上下ともに驚き恐れて顔色が青ざめる事である。
(解説)
 この「諸国からの兵粮米の徴収」が頼朝が悪法と非難した院宣のようである。

 兵粮米不足であるから征伐を休むよう議論もしている。しかし、無理矢理兵粮米をかき集め路次追捕をしながら追討軍は進軍した。兼実はこの追捕を認める会議に参加出来ず、その宣旨の記述が無いが、この追捕を取り消す宣旨が出ている事(寿永三年二月二十三日)から、追捕、路次追捕は当時としては、合法だったようである。追捕される側からすれば、酷い命令ではある。京都から撤退した平家軍は、相変わらず官軍と称し、同様の追捕による兵粮調達をした。新たに官軍となった義仲軍も鎌倉軍も同様である。兼実は平家軍・義仲軍が京内外で追捕を行ない、どのような結果になるか知っていたようである。そらみろという口調で或人に云わせて記述している。責任は法皇にあるとも言っている。
 路次追捕(現地略奪)は平家軍が始めた。それに参加した進軍途中の将兵は平家軍が負けたので、義仲軍に投降し、従軍した。当然平家軍と同様な調達方法だった。さらに彼らは後に義仲軍が敗色濃厚となると頼朝軍に鞍替えした。当時の武士の一般的傾向である。家系の継続のため、どちらに付くのが有利か不明の場合は、親子、兄弟で敵味方に分かれた。当然、追捕を続けた。
 義仲直轄軍は略奪はしなかったかもしれない。しかし、元平家軍に従い、後に投降し義仲軍に参加した将兵は追捕(略奪方式)が当然と考えていた。これは頼朝軍も同様で、頼朝軍に参加した将兵は元は平家軍、義仲軍に参加したものも多く、やはり追捕(略奪方式)が当然と考えていた。頼朝が略奪方式を禁止する命令を出してもなかなか止まなかった。(1185年 (元暦2年、文治元年)4月15日「吾妻鏡」参照6.7)
 略奪(路次追捕)の実行者は平家軍に従軍し、義仲軍に投降し、頼朝軍に鞍替えした将兵である。おそらく他の将兵もそれを真似したようである。
 愚管抄(巻第五)より左大臣範季(のりすゑ)の「東国武士は夫(〈ふ〉)までも弓箭(ゆみや)にたづさいて候へば・・・」から推定すると、平家軍、源氏軍ともに本来は非戦闘員たる人夫がいたことを示す。人夫は多分、武器・兵粮の輸送任務のために徴発された農民などである。その他工兵担当の木こり、大工職なども徴発されたと思われる。これらの人夫なども食糧の追捕(略奪)を担当したかもしれない。

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