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2006年2月 6日 (月)

8.3  「頼朝忽ちに上洛すべからざる故を申す」

8.3  「頼朝忽ちに上洛すべからざる故を申す」

玉葉1183年(壽永二年)10月9日
静賢法印来たり、世間の事談ず。頼朝使者を進らせ、忽ち上洛すべからずと。
「藤原秀衡頼朝上洛の跡入る事を恐る」
1は(藤原)秀衡・(佐竹)隆義等上洛の跡に入れ替わるべし。
2は数万の勢を率い、入洛せば京中堪えるべからず。
この2の故に依り、上洛延引すと。
(中略)
「頼朝本位に復す」
叉頼朝本位(ほんい)に復する由仰せ下さると。

(現代文)
静賢法印が来て、世間の事について話しをした。頼朝が使者を送ってきたようだ。すぐ京都へ上るべきではないと。
1は京都へ上る跡に陸奥の藤原秀衡や関東の佐竹隆義等が鎌倉へ攻め込む恐れがある。
2は数万の軍勢を率いて、京都へ上ると京都市内の兵粮が不足し堪えることが出来ない。
この二つの理由に依り、京都へ上るのは延引するようだ。
「頼朝本位に復す」
叉頼朝が罪人扱いから元の兵衛の佐(ひょうえのすけ)に復帰するように命令下さると。

(解説)
現在、京都に進駐している義仲軍は食糧調達は追捕(略奪)もしくは諸国への兵粮米徴収によっている。そこへ鎌倉軍が入り重ねて食糧調達のための追捕(略奪)もしくは諸国への兵粮米徴収をしたら、京都市内の食糧が不足し堪えることが出来ない。もし鎌倉軍が持参する食糧のみで間に合い、追捕(略奪)しないならこのような事は言わないはずである。義仲軍と同様の追捕(略奪)方式で進軍しようとする証拠である。つまり、当時の大軍の遠征に食糧調達のための追捕は当然の軍事活動であった。
 また頼朝は約20年前兵衛の佐だったが、平治の乱の結果、死罪になるところを運良く流罪となっていたがそれが解除されたようである。

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