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2006年2月11日 (土)

9.2 「有名無実の風聞かくの如し」

9.2 「有名無実の風聞かくの如し」
「其の勢僅か千騎」

「玉葉」の寿永2年7月21日の日記によると、
「追討使兼実家の傍を経て発向す」
「午の刻(12時)追討使が発向する。三位中将平資盛が大将軍と為し、肥後守貞能を相具し、余の家東小路、富小路を経て、多原方へ向かう、家僕等密々に見物し人数を数えた、「其の勢僅か千騎」その勢1080騎と、多分確かである、日来、世の推しはかる所7、8千騎及び万騎と、その勢在るを見るに、わずか千騎、有名無実の風聞、これをもつて察すべし、」
(現代文)
12時に追討使が出発した。三位中将の平資盛が大将軍と為り、肥後守貞能を相伴い、余(兼実)の家の東小路、富小路を経て、多原方面へ向かう、家の従者達がひそかに見物し人数を数えたところ、
「其の勢僅か千騎」
その勢は1080騎である。かなり確かである。常日頃、世間の推定では7、8千騎から1万騎であるとしている。その勢を実際に見ると、わずか千騎あまりである。、有名無実の風聞、これをもつて察すべしである。
(解説)
たまたま平家の追討軍の軍勢が家の近くを通ったので数えさせたら1080騎だった。これを普通世間では7.8千騎または一万騎と称している。兼実自身も「風聞の大袈裟ぶり」を確認している。「風聞」の程度は十分の一に割り引いて受け取るべし。
 もっとも当時の遠征軍の編成方式は天皇の命令書である「宣旨」を旗印として、大将軍とその中心部隊が京都を出発し、進軍途中で、あちこちの将兵などが参加する駆り武者方式だったので、京都を出発したときの人数の数倍以上になるようである。初期の平家軍が順調な時期は10倍くらいになったかもしれない。「吉記」の同日の記事では3千騎と記録している。平家物語中の合戦の人数と玉葉の記事を比較するとほぼ10分の1となっている事が多い。平家物語で軍勢5万とある場合、実数は5千と見るのが良いようである。

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