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2006年2月25日 (土)

13.「法住寺合戦」13.1 「平家物語」「高野本」

13.「法住寺合戦」

13.1 「平家物語」「高野本」「法住寺合戦」

『皷判官』
 およそ京中には源氏みちみちて、在々所々に入り捕り多し。賀茂・八幡の御領ともいはず、青田を苅てま草にす。人の倉をうちあけて物をとり、持ちて通る物を奪ひとり、衣裳をはぎとる。「平家の都におはせし時は、六波羅殿とて、ただ大方恐ろしかりしばかり也。衣裳をはぐまではなかりし物を、平家に源氏替へ劣りしたり」とぞ人申ける。木曾の左馬頭のもとへ、法皇より御使あり。狼籍しづめよと仰せ下さる。御使は壱岐守朝親が子に、壱岐判官知康といふ者也。天下にすぐれたる皷の上手でありければ、時の人皷判官とぞ申ける。木曾対面して、先御返事をば申さで、「抑(そもそも)わとのを皷判官といふは、よろづの人に打たれたうたか、はられたうたか」とぞ問うたりける。知康返事に及ばず、院御所に帰り参つて、「義仲おこの者で候。只今朝敵になり候なんず。いそぎ追討せさせ給へ」と申しければ、法皇さらば然るべき武士にも仰せ付けられずして、山の座主・寺の長吏に仰せられて、山・三井寺の悪僧どもをめされけり。公卿殿上人のめされける勢と申すは、向へ礫・印地、いふかひなき辻冠者原・乞食法師どもなりけり。木曾左馬頭、院の御気色悪しうなると聞えしかば、はじめは木曾にしたがうたりける五畿内の兵ども、皆そむいて院方へ参る。信濃源氏村上の三郎判官代、是も木曾をそむいて法皇へ参りけり。今井四郎申しけるは、「是こそもつてのほかの御大事で候へ。さればとて十善帝王に向ひ参らせて、いかでか御合戦候ふべき。甲をぬぎ弓をはづいて、降人に参らせ給へ」と申せば、木曾大きにいか(ッ)て、「われ信濃を出し時、麻績・会田の軍よりはじめて、北国には、砥浪山・黒坂・篠原、西国には福隆寺縄手・篠の迫り・板倉が城を責めしかども、いまだ敵にうしろを見せず、たとひたとひ十善帝王にてましますとも、甲をぬぎ、弓を外いて降人にはえこそ参るまじけれ。たとへば都の守護してあらむものが、馬一疋づつ飼うて乗らざるべきか。いくらもある田どもからせて、ま草にせんを、あながちに法皇のとがめ給ふべき様やある。兵粮米もなければ、冠者原共がかたほとりに付いて、時々入り捕りせんは何かあながち僻事ならむ。大臣家や宮々の御所へ参らばこそ僻事ならめ。是は皷判官が凶害とおぼゆるぞ。其皷め打破つて捨よ。今度は義仲が最後の軍にてあらむずるぞ。頼朝が帰きかむ処もあり、軍ようせよ。者ども」とて打つ立ちけり。
(現代文)
 都には源氏の軍勢が満ちあふれてあちこちで人家に侵入して略奪が多かった。賀茂・八幡の御領地でさえ、青田を苅てま草にする者もいた。人の倉をこじ開けて物をとり、通行人の持ち物を奪ひとり、衣裳をはぎとる者もいた。「平家が都においでの時は、六波羅殿といっても、ただ大方恐ろしかっただけで、衣裳をはぐまではなかったのに、平家を源氏に取り替へて、替え損したようなものだ」と人々は言いました。
 木曾の左馬頭のもとへ、法皇よりの御使が来ました。「狼籍をしづめよ」と仰せを下されました。御使は壱岐守朝親の子で、壱岐判官知康という者です。天下に聞こえた皷の名手でしたので、当時の人々は皷判官と呼んでいました。木曾は対面して、先ず御返事を申さずに、「いったい和殿(あなた)を皷判官というのは、よほど大勢の人に打たれなさったのか、はられなさったのか」と聞きました。知康は返事も出来ず、法皇の御所に帰りました。「義仲は大ばか者でございます。すぐそのうちに朝敵になりましょう。急いで追討なされませ」と申し上げましたので、法皇は、それならとそれらしき武士にも命令出来ないので、比叡山の座主や三井寺の長吏に命令して、叡山と三井寺の僧兵どもを集めました。公卿殿上人の集めた軍勢というのは、石投げを得意とする無頼の徒、徒党を組んだ無頼の徒、定職を持たずぶらぶらしている若者、寺院に所属しない乞食坊主どもでした。木曾左馬頭が法皇のご機嫌を損ねたと聞えましたので、はじめは木曾に従っていた五畿内の兵ども、皆そむいて法皇の味方へ参りました。信濃源氏の村上の三郎判官代までも、是も木曾にそむいて法皇方へ参りました。
 今井四郎が申しました。「是こそもつてのほかの重大な事件でございます。そうはいっても十善帝王たる法皇様に向ひなされせて、どのように御合戦なされましょうか。甲をぬいで弓をはづして、降参いたしましょう」と申しましたが、木曾は大変怒りました。「われ信濃を出し時、麻績・会田の軍よりはじめて、北国には、砥浪山・黒坂・篠原、西国には福隆寺縄手・篠の迫り・板倉が城を責めたが、いまだ敵にうしろを見せたことはない、たとえ十善帝王でありましょうとも、甲をぬぎ、弓を外して降参などできない。たとへば都の守護しているものが、馬一疋づつ飼うて乗らずにつとまるか。いくらでもある田をからせて、ま草にするのを、しいて法皇のとがめなさる事もあるまい。兵粮米もなければ、若者達がかたいなかに行って、時々徴発するのも何かしいて不都合な事でもあるまい。大臣家や宮々の御所へ参るならばこそ不都合な事である。是は皷判官が人を害していると思われる。其の皷判官めを打破りて捨よ。今度は義仲の最後の軍であるだろう。頼朝への聞こえもある。戦の準備をよく致せ。者ども」とて立ち上がりました。
(解説)
 平家物語のほとんどが、義仲軍の乱暴狼藉を理由に、乱暴狼藉を取り締まれとの法皇の使者が来た。法皇の使者に無礼な振る舞いをしたので、討ってしまえという筋書きである。しかし、「玉葉」「吉記」「愚管抄」の記述では、乱暴狼藉や使者に対する無礼な振る舞いなど何もなく、法皇側が一方的に義仲を追い出そうと兵を集めたので、反発した義仲が討たれる前に攻撃しようとなったようである。結果は義仲軍の一方的な勝利で、クーデター成功となる。しかし、すでに遅し、頼朝軍が迫ってくる。
 猫おろし事件といい、鼓判官事件といい、いずれも公家貴族を田舎者の義仲がからかう話しであるから、公家貴族から見れば無礼な話しである。聴衆たる庶民から見ると支配者たる公家貴族をからかう痛快な話し、愉快な話として好まれたようである。しかし、このような作り話しを挿入することで、平家物語としての美文調、高い格調を損なっているような気がする。

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