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2006年2月

2006年2月28日 (火)

13.2.3 法住寺合戦前日

13.2.3 法住寺合戦前日

11月18日 天気晴れ、
「吉田祭」
此の日吉田祭なり、
「兼実良通共に院に参る」
早朝大将を伴い院に参らんとする間、泰経卿奉行となり、只今参るべき仰せあり。承りたる由を申す。即ち相共に院に参る。時に辰の刻(8時)なり。泰経卿を以て仰せ下されて云はく、世上の物騒、逐日倍増す。然り間浮言多く出で来たり、御所の警護法に過ぐ。義仲叉命に伏する意無きに似たり。事すでに大事に及べり。よって昨日主典代景宗を以て御使いと為し、仰せられて云わく、征伐の為西国に向かうべき由、度々仰せ下さる。しかるに今下向せず。又頼朝の代官を攻むべき由申さしむと。然からば早く行向かうべし。しかるに両方とも首途せず、すでに君に敵せんとす。其の意趣如何。もし謀反の儀無くば、早く西海に赴くべしといえり。義仲報奏して云う、先ず君に立ち会い奉るべき由、一切存知せず。これにより度々起請を書き進らせたり。今尋ね下さるる条、生涯の慶びなり。西国に下向に於いては、頼朝の代官数万の勢を引率して入京すべし。てへれば一矢射るべき由、素より申す所なり。彼入れらるべからずは、早く西国に下向すべしと。
「法皇条々の事を兼実に諮られる」
この上頼朝の代官の事何様に仰せられるべきや。兼ねて又此の騒動に依り、院に行幸有るべきか。将に忽ち然るべからざるか。此等の条々計らひ申さしむべしといえり。
「義仲に敵対するは王者の行いに非ず」
申し云う、先ず院中のご用心の条、頗る法に過ぎたり。是何故ぞや。ひとえに義仲に敵対せらるるなり。おおいに以て身苦し。王者の行いに非ず。もし犯過有らば、只其の軽重に任せ、刑罰を加えられるべし。又仰せくだされる如くば、申し状いまだ穏便か。然らば先ず然るべき御使いを遣わされ、且つ浮言の次第を尋問せられ、且つ所行の不当を勘発せられ、もし告げ言う輩を指し申さば、法に任せ刑罰に行われるべし。先ず当時敵対の儀を罷(やめる)らるる、尤も宜しきか。義仲もし理に伏し和顔有らば、何ぞ征討に赴かざらんや。たとい罪科有るべしと雖も、出境の後其の沙汰有らば、当時の怖畏有るべからざるか。洛中咫(し)尺の間、君に敵対せらるの条、当時後代、朝の恥辱、国の瑕瑾(かきん、きず)何事か之に過ぎんや。もし又猶勅命を受くるを背ぜずば、かの時法に任せ科断有るべきか。今の沙汰の如くば、王化無しが如し。甚だ以て身苦しきか。頼朝の代官の条に於いて、勢少なくば入るべき由、義仲申す旨、先日風聞有り。更に変じ申すべからずか。又巨多の士卒を率いば、停止すべき由、かの代官に仰せられるべきか。行幸の条、忽ち然るべからざるかといえり。泰経卿御前に参りたり。その後人々多く以て参集し、左大臣以下大略残る人無きか。定長卿を以て暫く候ふへき由仰せられる。よって祗候(しこう)す。
「密々に行幸あり」
未の刻(14時)に及び、定能卿密々に来たり告げて云う、只今御車を以て密々に行幸成りたり。院知し食さずと。頃之(しばらく)ありて定長来たり問いて云う、
「何処を皇居とすべきか」
図らざる外行幸有り。此の亭を以て皇居とすべきか。将に又猶閑院を以て皇居と為すべきか、計らひ申すべしといえり。申し云う、此の御所を以て皇居と為さば、行幸の条おおいに奇。よって只殿上巳下の事、閑院に在るべきかといえり。定長云う、左大臣が申さるる旨同前と。申の刻(16時)に及び伺候す。殊に尋問せらるる事無し。よって泰経に触れて退出したり。太夫吏隆職来たり、余之に謁す。隆職の所存余の案の如し。
「法皇の宮々院中に候す」
摂政今夜より院御所に参宿せらるると。仁和寺宮(守覚)・八条宮(円恵)・鳥羽法印等、皆日来より院中に候はると。

11月18日 [吉記]
 高倉宮(北陸宮と号す)、日来院におはす。女房一両之に具し奉る。去る夜逐電し給わりしむと。仁和寺宮(守覚)巳下宮々、並びに山座主、及他奏綱僧徒、各武士を相具し、辻々に候し、或いは防雑役車を引き、或いは逆毛木を引き、堰(せき)を堀、警護の体、言語の及ぶ所に非ず。但し偏えに是天魔の結構なり。昨日主典代景宗を以て義仲の許へ仰せ遣わし云う、偏えに公家を威し奉り、謀反を巧らむの由、其の聞こえ有り、本儀の如く追討の為西海に向かうべしは勿論、叉頼朝代官を防ぐため東国に向かうべし意有るべしか。京早く退出すべし、分明申し切らずと。今日西海に向かうべしの由両度申したり。解官有るべし否、叉追討されるべしの条、頼朝舎弟伊勢神郡に着くの由、脚力進めると。

(現代文)
「吉田祭」
此の日吉田祭なり、
「兼実良通共に院に参る」
早朝、息子の大将の良通を伴い法皇の御所に参ろうとする時、泰経卿が奉行となり、只今参るべきの知らせがありました。承知したと返事を申した。即ち相共に法皇の御所に参りました。時に午前8時でした。泰経卿を介して法皇のお言葉が下されて云はく、世上の騒動は、日ごとに倍増している。そのような時にデマが多く出て来た。御所の警備体制は平時に比べ過剰である。義仲もまた法皇の命令に従う意思が無いように見える。事はすでに大事に及んでいる。よって昨日主典代の景宗を以て御使いと為し、申し付けられて云う、征伐の為西国に向かうべき由、度々命令下さる。しかるに今までも下向していない。又頼朝の代官を攻むべき由申しているようだ。それなら早く行向かうべきである。しかるに両方とも出立せず、すでに法皇に敵対しようとしているようだ。其の意趣はどうだろう。もし謀反の意思が無ければ、早く西海に赴くべしと言うことだ。義仲は申し上げて云う、先ず法皇に反抗し奉るべき由は一切存知せぬことである。これにより度々起請文を書き差し上げました。今お尋ね下さる処の事、生涯の慶びであります。西国への下向については、頼朝の代官が数万の軍勢を引率して入京するようです。それには相対して一矢でも射るべき由は、前から申す所である。頼朝の代官が入れらるべからずならば、早く西国に下向すべきであるようだ。
「法皇条々の事を兼実に諮られる」
この上は頼朝の代官の事は何様に命令下すべきか。兼ねて又此の騒動に依り、法皇には行幸有るべきか。将に忽ち然るべからざるか。此等の事項について協議し申し上げるべしといえり。
「義仲に敵対するは王者の行いに非ず」
申し上げた、先ず法皇御所の中のご警備体制の件、通常より頗る過剰である。是はいかなる理由か。ひとえに義仲に敵対しているものである。おおいに以て身苦しい。王者の行いに非ず。もし罪が有るならば、只其の軽重に随い、刑罰を加えられるべきである。又申し付け下すようならば、申し状はいまだに穏便である。それならば先ず然るべき御使いを遣わされ、且つデマの次第を尋問し、且つ所行の不当を指摘し、もし告げ口を言う者を指名するなら、法に随い刑罰を行なうべきである。先ず現在の敵対の処置を停止するのが、最も宜しい。義仲がもし道理に伏し、穏便で有るならば、何ぞ征討に赴く事があろうか。たとい罪科有るべしと雖も、京都を出てから後其の沙汰をすれば、現在の恐怖は無くなるだろう。市内の近くで、法皇に敵対するような事は、現在や未来において、朝庭の恥辱であり、国家のきずである。何事か之に過ぎるものがあろうか。もし又猶天皇の命令に違反するならば、その時は法に随い処断するべきである。今の処理の仕方では、王者としての徳で世の中を良くすることは無いようである。甚だ以て身苦しいものである。頼朝の代官の件についても、軍勢が少なければ入るべき由、義仲は申す旨、先日風聞が有りました。更に変更を申すべからずか。又数多くの士卒を率いてくれば、停止すべき由を、かの代官に申し付けるべきである。行幸の件は、忽ちそうあるべきでは無いといえる。泰経卿が法皇の御前に参りました。その後人々が多く以て参集し、左大臣以下大略残る人無きか。定長卿を以て暫く待機するよう申し付けられました。よって待機しました。
「密々に行幸あり」
14時になり、定能卿がひそかに来て告げて云いました。只今御車を以て密かに天皇がおいでになりました。法皇は知らないようである。しばらくして定長が来て質問しました。
「何処を皇居とすべきか」
予想外なことに天皇がおいでになりました。此の御殿を以て皇居とすべきか。将に又猶閑院を以て皇居と為すべきか、協議し申すべしといえり。申し上げた。此の御所を以て皇居とするならば、行幸の件はおおいに奇異である。よって只殿上以下の事、閑院に在るべきであるといえり。定長が云う、左大臣が申さるる旨は同前である。16時まで待機した。殊に尋問される事は無し。よって泰経に告げて退出した。太夫吏の隆職が来たので之に会った。隆職の考えは余の案と同じであった。
「法皇の宮々院中に候す」
摂政が今夜より法皇の御所に参宿するようだ。仁和寺宮(守覚)・八条宮(円恵)・鳥羽法印等、皆、従来より法皇御所の中においでであるようだ。

11月18日 [吉記]
 高倉宮(北陸宮と号す)は従来、法皇の御所においでになりました。女官が一人か二人之にお仕えしていました。去る夜行方をくらまし逃げたようである。仁和寺宮(守覚)以下の宮々、並びに比叡山の座主、及他奏綱僧徒が、各々に武士を相伴い、路の辻々に待機し、或いは防雑役車を引き据え、或いは逆毛木を引き置き、堰(せき)を堀、警護の様子は、言語の及ぶ所に非ず。但し偏えに是天魔のたくらみである。昨日主典代の景宗を以て義仲の許へ法皇の申し付けを遣わして伝えた、偏えに法皇貴族を威し奉り、謀反を巧らむの由、其の聞こえが有るが、本来の命令のように追討の為西海に向かうべしは勿論、叉頼朝の代官を防ぐため東国に向かうべきの意思は有るのか。京を早く退出すべしと。明らかなこと申し切らずと。今日西海に向かうべしの由再度申したようだ。解官有るべしか否か、叉追討されるべしの条、頼朝の舎弟が伊勢神郡に着くの由、飛脚が来たようだ。
(解説)
兼実は「天狗の所為」、吉記では「天魔の結構」(天魔のたくらみ)と表現し、公家貴族から見ても法皇側の警備体制、軍事行動はかなり異常と映ったようである。

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2006年2月27日 (月)

13.2.2 法住寺合戦2日前

13.2.2  法住寺合戦2日前

11月17日 雨下る、
「京中騒動」
平旦(午前4時頃)人告げて云う、院中武士群集す、京中騒動と。何事かを知らず。
「義仲院御所を襲う由院中に風聞あり」
しばらくありて又人云う、義仲院の御所を襲うべき由、院中に風聞す。
「法皇が義仲を討たるか」
又院より義仲討たれるべき由彼の家に伝え聞く。両方偽詐を以て告げ言う者有るか。此の如しの浮説に依って、彼是鼓騒す。敢えて云うべからずと。もし勅命に背くば、罪の軽重に随い、罪科行わるるは例なり。又たとい王化に服せざる者有りと雖も、一州を慮領し、外土に引き籠もる、粗く先蹤(しょう、あと)有り。未だ洛中咫(し)尺の間此の如しの乱有るを聞かず。此の事計りなり。義仲忽ち国家を危うくし奉るべき理なし。
「君が兵を集むるは志愚の政なり」
只君城を構え兵を集め、衆の心を驚かさるるの条、専ら至愚の政なり。是少人の計より出づるか。果たして以て此の乱有り。王事の軽き、是非の論ずるに足らず。悲しむべし、悲しむべし。午後に及び、聊(いささ)か落居すと。
「法皇御愛物たるにより基通宿候す」
摂政(基通)召しに依り参入し、今夜宿し候はるべしと。是御愛物たるに依り、殊に召しに応ずるなり。他の公卿近習、両三輩の外、参入の人無しと。弾指すべし弾指すべし。藤原長方卿一人参入し、悲泣して退出すと。
「義仲の許に法皇使者を遣わす」
主典代(大江)景宗を以て御使いと為し、義仲に遣わされる。其の状に云う、謀反の条、諍(しょう、あらそう)ひ申すと雖も告げ言ふ人其の実を称す。今に於いてのがれ申すに及ばざるか。

「義仲洛中に逗留するを勧めず」
もし事無実たらば、速やかに勅命に任せ、西国に赴き平氏討つべし。たとい又院宣に背き、頼朝の使いを防ぐべしと雖も、宣旨を申さず、一身早く向かうべきなり。洛中に在りながら、動もすれば聖聴を驚し奉り、諸人を騒がしむ、おおいに不当なり。猶西方に向かわず、中夏に逗留せば、風聞の説、実に処せられるべきなり。能(よく)思量し進退すべしと。其の報奏の趣未だ聞き及ばず。

「兼実使者を以て物騒の子細を院中に尋ねる」
余使者(国行)を以て院に進らしめ、定能卿に示し送りて云う、所労に依り早く参らず、物騒の子細、委しく告げ示されるべしという。返事の趣、大途風聞の如し。晩に及び、左少弁光長来たり語る旨、又以て前と同じなり。此の夜八条院(暲子内親王)八条殿に還御すと。疑うらくは明暁義仲を攻められるべきかと。左右能わず、左右能わず

「義仲勢僅かと雖も勇なり」
義仲其の勢幾ばくならずと雖も、其の衆おおいに勇となすと。京中の征伐、古来聞かず、もし不慮の恐れ在らば、後悔如何。

「近習小人により此の如き大事に至る」
小人等近習の間、遂に此の大事に至る。君の士を見ざるの致す所なり。日本国の有無、一時に決すべきか。犯過無き身、只仏神に奉仕するのみ。

(現代文)
「京中騒動」
 午前4時頃、ある人が報告に来た。法皇の御所内に武士が大勢集まっています。京都市内は大騒ぎのようです。何事かはわかりません。
「義仲院御所を襲う由院中に風聞あり」
しばらくして、又報告がありました。義仲が法皇の御所を襲うようだという噂が、法皇の御所内に広まっています。
「法皇が義仲を討たるか」
又法皇が義仲を征伐するという噂が義仲の家に伝聞しているようである。両方ともいつわりを込めて告げ口する者があるようだ。此のようなデマに依って、彼是大騒ぎしている。敢えて云うべきではない。もし天皇の命令に背くならば、罪の軽重により、刑罰を行なうのが通例である。又たとい王者の徳で世の中をよくすることに服従出来ない者が有りと雖も、一国を不法に横領し、都から遠く離れた土地に引き籠もることは、ほぼ先例は有る。未だ京都市内の短い間で此のような争乱が有る事は聞いたことがない。此の事件は誰かの計り事である。義仲が忽ちに国家を危うくし奉るべき理由はなし。
「君が兵を集むるは志愚の政なり」
只法皇が城のように備えを構え武士軍兵を集め、大勢の人の心を驚かされる事は、専ら極めて愚な政策である。是は思慮の足りない人の計り事より出たもののようだ。果たして以て此の争乱は有りか。帝王の事業の軽き事は、よしあしを論ずるまでもない。悲しむべし、悲しむべし。午後に及び、いささか落ちついたようだ。
「義仲の許に法皇使者を遣わす」
主典代の大江景宗が御使いとなり、義仲のもとへ遣わされた。其の書状に云う、謀反の事、あらそい申すと雖も告げ口を言う人は其の事実を主張している。今に於いてのがれ申すに及ばないようである。

「義仲洛中に逗留するを勧めず」
もしこの事が無実ならば、速やかに天皇の命令に従い、西国に赴いて平氏を討つべきである。たとい又法皇の命令に背き、頼朝の使いを防ぐべしと雖も、天皇の命令書を請求せず、一身早く向かうべきである。京都市内に在りながら、動きをすれば法皇の耳を驚しなさり、諸人を騒がせることは、おおいに不当である。猶西方に向かわず、京都に留まるならば、風聞の説が、実説として取り扱うべきである。よく思量し進退すべきである。其の報奏の趣は未だ聞き及んでいない。

「兼実使者を以て物騒の子細を院中に尋ねる」
(兼実は)使者の国行を以て法皇に進め、定能卿に示し送りて云う、所労に依り早く参らず、騒動の子細を、委しく報告されるべしと言う。返事の趣は、大むね風聞のようである。晩に及び、左少弁の光長が来た。語る要旨は、又以て前と同じである。此の夜八条院(暲子内親王)が八条殿にお帰りであるようだ。もしかすると明暁に義仲を攻めるようである。どうしようもない、左右能わず

「義仲勢僅かと雖も勇なり」
義仲の軍勢は多くはないと雖も、其の部下将兵はおおいに勇敢なものであるようだ。京中での征伐は、古来より聞いた事が無い。もし不慮の恐れが在れば、後悔するだろう

「近習小人により此の如き大事に至る」
思慮の足りない者達が法皇の近くに仕えているので、遂に此のような大事件に至ったのだ。法皇の人を見る目が無い処の結果である。日本国朝廷の有無は、一時に決すべきか。過ち無き我が身は、只仏神に奉仕し頼るのみである。

(解説)
思慮の足りない法皇とその側近が悪い。義仲は悪くは無いが、早く西か東か京都を出よ。と思っている。

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2006年2月26日 (日)

13.2 玉葉の記述11月

13.2 玉葉の記述1184年 (壽永2年)

13.2.1 法住寺合戦以前

11月7日 天気陰、晩に及び雨下る、
「義仲を院中警護の人数に入る」
伝聞、義仲征伐せらるべき由により、殊に用心し欝念の余り、此の如く承り及ぶ由、院に申さしむと。よって院中警護の武士中に入れられ申したりと。行家以下、皆悉く其の宿直を勤仕す。しかるに義仲一人其の人数に漏るる由、殊に奇を成すの上、又中言の者有るか。行家明夕必定下向と。頼朝代官今日江州に着くと。其の勢僅か56百騎と。忽ち合戦の儀を存せず。只物を院に供せんための使いと。次官中原親能(広季の子)並びに頼朝弟(九郎)、等上洛すと。

11月16日 (法住寺合戦3日前)陰晴れ不定、今暁地震、
「地震」
「定能室平産す」
「法皇法住寺南殿に臨幸あり」
今日院南殿に臨幸すべし。御用心の体、日来において万倍す。今日の出仕指しあうか。よって不参。
「所々にこうを堀、釘抜きを構う」
今夕所々に?(こう、からぼり)を堀り、釘抜きを構え、別段の沙汰と。此の事天狗の所為か。偏に禍を招かるるなり。左右能わず、左右する能わずと。

(現代文)
13.2.1 11月7日 天気陰、晩に及び雨下る、
「義仲を院中警護の人数に入る」
伝聞、義仲を征伐されるべき理由により、特に用心して欝念の余り、此のように承り及ぶ理由を、法皇に申しあげたようだ。よって院中の警護の武士の中に入れるように申し上げたようだ。行家以下、皆悉く其の宿直を勤仕する。しかるに義仲一人其の人数から漏れる理由は、特に奇異を成すの上、又告げ口する者が有るのか。行家は明夕に必ず下向と決定したようだ。頼朝の代官義経が今日近江に着いたようだ。其の軍勢は僅か56百騎のようだ。忽ち合戦する意思は無いようだ。只進物を法皇に差し上げるための使いであるようだ。法皇の役所の次官で中原親能(広季の子)と頼朝弟(九郎)、等が上洛したようだ。

11月16日 (法住寺合戦3日前)陰晴れ不定、今暁地震、
「地震」
「定能室平産す」
「法皇法住寺南殿に臨幸あり」
今日、法皇は南殿においでになるべし。御用心の様子は、日来において万倍している。今日の出仕は非難しあうかもしれない。よって参らず。
「所々にこうを堀、釘抜きを構う」
今夕所々にからぼりを堀り、釘抜きを構え、特別の処置であるようだ。此の事は天狗のなせる事のようだ。ひたすらに禍を招かれる事である。とやかく言うことは出来ない、左右する能わずと。
(解説)
義仲を排除しようとして、この時期はかなり露骨に画策しているのがわかる。

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2006年2月25日 (土)

13.「法住寺合戦」13.1 「平家物語」「高野本」

13.「法住寺合戦」

13.1 「平家物語」「高野本」「法住寺合戦」

『皷判官』
 およそ京中には源氏みちみちて、在々所々に入り捕り多し。賀茂・八幡の御領ともいはず、青田を苅てま草にす。人の倉をうちあけて物をとり、持ちて通る物を奪ひとり、衣裳をはぎとる。「平家の都におはせし時は、六波羅殿とて、ただ大方恐ろしかりしばかり也。衣裳をはぐまではなかりし物を、平家に源氏替へ劣りしたり」とぞ人申ける。木曾の左馬頭のもとへ、法皇より御使あり。狼籍しづめよと仰せ下さる。御使は壱岐守朝親が子に、壱岐判官知康といふ者也。天下にすぐれたる皷の上手でありければ、時の人皷判官とぞ申ける。木曾対面して、先御返事をば申さで、「抑(そもそも)わとのを皷判官といふは、よろづの人に打たれたうたか、はられたうたか」とぞ問うたりける。知康返事に及ばず、院御所に帰り参つて、「義仲おこの者で候。只今朝敵になり候なんず。いそぎ追討せさせ給へ」と申しければ、法皇さらば然るべき武士にも仰せ付けられずして、山の座主・寺の長吏に仰せられて、山・三井寺の悪僧どもをめされけり。公卿殿上人のめされける勢と申すは、向へ礫・印地、いふかひなき辻冠者原・乞食法師どもなりけり。木曾左馬頭、院の御気色悪しうなると聞えしかば、はじめは木曾にしたがうたりける五畿内の兵ども、皆そむいて院方へ参る。信濃源氏村上の三郎判官代、是も木曾をそむいて法皇へ参りけり。今井四郎申しけるは、「是こそもつてのほかの御大事で候へ。さればとて十善帝王に向ひ参らせて、いかでか御合戦候ふべき。甲をぬぎ弓をはづいて、降人に参らせ給へ」と申せば、木曾大きにいか(ッ)て、「われ信濃を出し時、麻績・会田の軍よりはじめて、北国には、砥浪山・黒坂・篠原、西国には福隆寺縄手・篠の迫り・板倉が城を責めしかども、いまだ敵にうしろを見せず、たとひたとひ十善帝王にてましますとも、甲をぬぎ、弓を外いて降人にはえこそ参るまじけれ。たとへば都の守護してあらむものが、馬一疋づつ飼うて乗らざるべきか。いくらもある田どもからせて、ま草にせんを、あながちに法皇のとがめ給ふべき様やある。兵粮米もなければ、冠者原共がかたほとりに付いて、時々入り捕りせんは何かあながち僻事ならむ。大臣家や宮々の御所へ参らばこそ僻事ならめ。是は皷判官が凶害とおぼゆるぞ。其皷め打破つて捨よ。今度は義仲が最後の軍にてあらむずるぞ。頼朝が帰きかむ処もあり、軍ようせよ。者ども」とて打つ立ちけり。
(現代文)
 都には源氏の軍勢が満ちあふれてあちこちで人家に侵入して略奪が多かった。賀茂・八幡の御領地でさえ、青田を苅てま草にする者もいた。人の倉をこじ開けて物をとり、通行人の持ち物を奪ひとり、衣裳をはぎとる者もいた。「平家が都においでの時は、六波羅殿といっても、ただ大方恐ろしかっただけで、衣裳をはぐまではなかったのに、平家を源氏に取り替へて、替え損したようなものだ」と人々は言いました。
 木曾の左馬頭のもとへ、法皇よりの御使が来ました。「狼籍をしづめよ」と仰せを下されました。御使は壱岐守朝親の子で、壱岐判官知康という者です。天下に聞こえた皷の名手でしたので、当時の人々は皷判官と呼んでいました。木曾は対面して、先ず御返事を申さずに、「いったい和殿(あなた)を皷判官というのは、よほど大勢の人に打たれなさったのか、はられなさったのか」と聞きました。知康は返事も出来ず、法皇の御所に帰りました。「義仲は大ばか者でございます。すぐそのうちに朝敵になりましょう。急いで追討なされませ」と申し上げましたので、法皇は、それならとそれらしき武士にも命令出来ないので、比叡山の座主や三井寺の長吏に命令して、叡山と三井寺の僧兵どもを集めました。公卿殿上人の集めた軍勢というのは、石投げを得意とする無頼の徒、徒党を組んだ無頼の徒、定職を持たずぶらぶらしている若者、寺院に所属しない乞食坊主どもでした。木曾左馬頭が法皇のご機嫌を損ねたと聞えましたので、はじめは木曾に従っていた五畿内の兵ども、皆そむいて法皇の味方へ参りました。信濃源氏の村上の三郎判官代までも、是も木曾にそむいて法皇方へ参りました。
 今井四郎が申しました。「是こそもつてのほかの重大な事件でございます。そうはいっても十善帝王たる法皇様に向ひなされせて、どのように御合戦なされましょうか。甲をぬいで弓をはづして、降参いたしましょう」と申しましたが、木曾は大変怒りました。「われ信濃を出し時、麻績・会田の軍よりはじめて、北国には、砥浪山・黒坂・篠原、西国には福隆寺縄手・篠の迫り・板倉が城を責めたが、いまだ敵にうしろを見せたことはない、たとえ十善帝王でありましょうとも、甲をぬぎ、弓を外して降参などできない。たとへば都の守護しているものが、馬一疋づつ飼うて乗らずにつとまるか。いくらでもある田をからせて、ま草にするのを、しいて法皇のとがめなさる事もあるまい。兵粮米もなければ、若者達がかたいなかに行って、時々徴発するのも何かしいて不都合な事でもあるまい。大臣家や宮々の御所へ参るならばこそ不都合な事である。是は皷判官が人を害していると思われる。其の皷判官めを打破りて捨よ。今度は義仲の最後の軍であるだろう。頼朝への聞こえもある。戦の準備をよく致せ。者ども」とて立ち上がりました。
(解説)
 平家物語のほとんどが、義仲軍の乱暴狼藉を理由に、乱暴狼藉を取り締まれとの法皇の使者が来た。法皇の使者に無礼な振る舞いをしたので、討ってしまえという筋書きである。しかし、「玉葉」「吉記」「愚管抄」の記述では、乱暴狼藉や使者に対する無礼な振る舞いなど何もなく、法皇側が一方的に義仲を追い出そうと兵を集めたので、反発した義仲が討たれる前に攻撃しようとなったようである。結果は義仲軍の一方的な勝利で、クーデター成功となる。しかし、すでに遅し、頼朝軍が迫ってくる。
 猫おろし事件といい、鼓判官事件といい、いずれも公家貴族を田舎者の義仲がからかう話しであるから、公家貴族から見れば無礼な話しである。聴衆たる庶民から見ると支配者たる公家貴族をからかう痛快な話し、愉快な話として好まれたようである。しかし、このような作り話しを挿入することで、平家物語としての美文調、高い格調を損なっているような気がする。

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2006年2月24日 (金)

12.4 「平家物語」の創作

12.4 「平家物語」の創作Img_4423

 「平家物語の猫間中納言」の項で、近所の公家「猫間中納言」が訪ねてきたとき、食事を出したが、「ねこま殿」を「ねこ殿」と間違えたとか、粗末な食器で山盛りご飯を強要した。食べ残しを「ねこおろし」したとからかったという話しである。義仲は無礼な奴であるという評価のようである。しかし、当時の公家社会では少々のだじゃれは許容されていたようである。それが平家政権では「へいしが倒れた」というようなしゃれも通用しない時代だった。禿髪(かぶろ)などという密告部隊もいた。少しでも悪口言うとひどい目に遭った。恐ろしかった。義仲はそんなことはない。本人がだじゃれが通用する。というように話しを面白くしたようである。実際は不明。
 叉、発音が不明瞭なのをからかっているようでもある。木曽軍には北陸地方の武士も加わっているので、なかには「ま」の発音が不明瞭な者がいたかもしれない。現在でも新潟の知人の「印鑑」の発音は「えんかん」と聞こえる。「えちご」は「いちご」となる。また宮城県の知人は「中山」を「なかま」とやぬきで発音した。「ま」がぬける「まぬけ」な話しとしてからかっているのだろうか。あるいは単に省略しているのか。「わたなべ」さんは「なべ」さん、「やまだ」さんは「やま」さんとなるように。
 また食事の習慣や作法が武士と公家、田舎と京都で異なることも原因である。当時、公家社会では朝夕の2食であったが、武士は腹が減っては戦が出来ぬということで、3食、さらには5食であったようである。また公家はすでに白米であったが、武士農民は玄米食であった。田舎では食事時に来客があると一緒に食事をするのが常識である。ということは食事時に訪問は遠慮するのが常識である。また食料事情が悪い時は出された食事や菓子も遠慮するのが常識であり、逆に出した側は何回か勧めるのが常識である。その他当時大飢饉の頃で、山盛りご飯をかき込んで食ってみたいという庶民の願望があったかもしれない。また「速飯、速便、速駆け」はかっての旧日本軍では常識であった。粗末な食器で粗食であった。公家化した平家の武士とのあまりの違いにとまどう貴族の様子が見える。
 京都では「おぶ(お茶)でもどうぞ」は完全な挨拶言葉だから、お茶は出てこないし、早く帰れの合図でもある。地方では「お茶でも飲んでけや」と本当にお茶を出してくれる。まさに「日本の常識」は「世界の非常識」、「世界の常識」は「日本の非常識」、「田舎の常識」は「都の非常識」、「都の常識」は「田舎の非常識」である。郷に入らば郷に従えともいう。
 この話しには「語りもの系」と「読み本系」と2系統あり、もう一つは「ねこ殿」と間違えたのは家来の「ねのいのこやた」であるとか、残した食事を「お持ち帰り」として公家の従者に持たせたのに「こんなものが食えるか」と放り投げて帰った。それを見た義仲の家来が京都の人は上も下も贅沢だと嘆く話しである。(平家物語延慶本、源平盛衰記など)当時京都は大飢饉で死者が何万人も出たそうである。それでも公家連中は贅沢していたかもしれない。やや落ち目とはいえ公家貴族の悪口は言えない。Img_4425
 義仲をけなしている文章の前に頼朝を誉めそやしている文章がある。このように平家物語では2つを対比させる方法で強調する文章技法が多用されているので、頼朝を優美であると強調し、義仲を田舎者と強調している。しかし両者とも20数年を田舎で過ごした田舎者にさしたる違いは無い。
 いずれにしても、当時勢力を拡大し、公家貴族、神社、仏寺の既得権益を浸食する頼朝など関東武士への反感を義仲に代表させたものである。

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2006年2月23日 (木)

12.3 「源平盛衰記」「猫間中納言」

12.3 「源平盛衰記」「猫間中納言」Img_4344

猫間中納言光隆卿宣ふべき事あて木曾が許へおはして、先雑色して角と云入られたり。木曾が郎等に根井と云者、聞継て主に語ければ、木曾意えずとて、なまり音にて、何猫のきた、猫とは何ぞ、鼠とる猫歟、旅なればとらすべき鼠もなし、猫は何の料に義仲が許へは来るべき、但し人を猫と云事もや有と云ければ、根井もげに心得ずと思て、立帰て雑色に問様は、そもそも猫殿とは鼠取る猫か、人を猫殿と申かと、御料に意得ずと嗔給也といへば、雑色あな頑やをしへんと思て、七条坊城壬生辺をば、北猫間、南猫間と申。是は北猫間に御座(おはしま)す程に、在所に付て猫間殿と申也。譬へば信濃国(しなののくに)木曾と云所におはすれば木曾殿(きそどの)と申様に、是も猫間に御座(おはしませ)ば猫間殿と申也と細々に教ければ、根井意得て此様を申。木曾も其時意得て奉(レ)入(有見参しけり。暫く物語(ものがたり)し給(たまひ)て、木曾根井を招て、や給へなんてまれ饗申せと云。中納言浅猿(あさまし)と思ひて、只今(ただいま)有るべからず宣(のたまふことあるべからざり)けれ共、いかが食時におはしたるに物めさでは有べき、食べき折に不(レ)食は、粮なき者と成也、とく急げ/\と云。何も生しき物をば無塩と云ぞと心得(こころえ)て、無塩の平茸もありつな、帰給はぬさきに早めよ/\と云ければ、中納言は懸由なき所へ来て恥がましや、今更帰らんも流石(さすが)也と思て、宣べき事もはか/゛\しく不(レ)被(レ)仰、興醒て竪唾を呑て御座(おはしまし)けるに、いつしか田舎合子の、大に尻高く底深に生塗なるが所々剥たるに、毛立したる飯の、黒く籾交なりけるを堆盛上て、御菜三種に平茸の汁一つ、折敷に居て根井持来て中納言の前にさし居たり。大方とかく云計なし。木曾が前にも同く備たり。木曾は箸とり食けれ共、中納言は青興醒てめさず。木曾是を見て、如何に猫殿は不(レ)饗ぞ、合子を簡給歟、あれは義仲(よしなか)が随分の精進合子、あだにも人にたばず、無塩の平茸は京都にはきと無物也、猫殿只掻給へ/\と勧めたり。いとゞ穢く思ひ給けれ共、物も覚えぬ田舎人、不(レ)食してあしき事もぞ在と被(レ)思ければ、めす体に翫て中底に突散し給へり。木曾は散飯の外には何も残さず食畢。戯呼猫殿は少食にておはしけり、去にても適座したるに、今少掻給へかし/\と申。其後根井、猫間殿の下を取て中納言の雑色に給。雑色因幡志腹を立て、我君昔より懸る浅猿(あさまし)き物進ずとて、厩の角へ合子ながら抛捨たり。木曾が舎人是を見て、穴浅増(あさまし)や、京の者は、などや上﨟も下﨟も物は覚えぬ、あれは殿の大事の合子精進をやとて取てけり。
(現代文)Img_4347
猫間中納言光隆卿言うべき事ありて木曾の許へおいでになり、先ず家来をしてかようにと言い入りました。木曾の家来に根井と言う者が聞き継ぎて主人に語りましたが、木曾は意をえずとして、なまりのある声音にて、「何猫が来た、猫とは何ぞ、鼠をとる猫か、旅なれば与えるべき鼠もなし、猫は何の思惑で義仲の許へ来たのか、但し人を猫と云事も有るか」と云ければ、根井もげに心得ずと思いて、立ち帰りて家来に問うには、そもそも猫殿とは鼠を取る猫か、人を猫殿と申すかと、御主人に意を得ないと叱られました」と言うと、家来はいやいや融通ががきかない。教えようと思い、七条の坊城の壬生辺を、北猫間、南猫間と申します。こちらは北猫間にお住まいなので、在所に付て猫間殿と申します。例えば信濃国の木曾と云う所にお住まいならば木曾殿と申す様に、こちらも猫間にお住まいなので猫間殿と申しますと細々と教えたので、根井は心得てこのように申しました。木曾も其時心得ましたので、対面に入りました。暫くものがたりして、木曾は根井を招いて、「やや差し上げよう、たまにはおもてなし申せ」と云う。中納言は意外に思い、「ただいまは食事は有るべきではありません。」と言いましたが、「どうして、食事時においでなのに何も食べないのは良くありません、食るべき時に食べないのは、活力のない者となります。早く急げ早く急げ」と云いました。何でも新鮮な物を無塩と云うと心得えて、「無塩の平茸もあり、お帰りにならぬ先に早くしなさい、早くせよ」と云いましたので、中納言はこのようなてだてのない所へ来てはずかしい、今更帰るのもそうはいってもやはりと思い、言うべき事もなかなか言えず、興が醒めて固唾を飲んでおいででした。いつしか田舎風の蓋付きのお椀の、大きく尻が高く底が深く生塗が所々剥たるものに、毛立したる飯の、黒く籾が交るものを山盛りに上げて、おかず三種に平茸の汁一つ、折敷に据えて根井が持ち来たりて中納言の前にさし据えました。大方とやかく云う考えはなし。木曾が前にも同じく準備しました。木曾は箸をとり食べましたが、中納言は青ざめて食べません。木曾は是を見て、「どうして猫殿は食べないのですか、蓋付きのお椀を嫌われましたか、あれは義仲が大切にしている仏事用の蓋付きのお椀です。滅多に他人に与えません、無塩の平茸は京都には多分無い物です。猫殿何も無くかき込みなさい」と勧めました。ますますけがらわしく思いましたが、物知らずの田舎人だ、食べないでは悪い事もあるかと思いまして、食べる様に真似て中くらいに突きさしました。木曾は散飯(お供え用)の他には何も残さず食べ終わりました。「やあ猫殿は少食で御座います。それにしてもたまたまおいでなのに、もう少しかき込みなさい」と申しました。其の後根井が、猫間殿の残り物を取て中納言の家来に与えました。家来の因幡志は腹を立て、我君は昔よりこのようなあさましい物は召し上がらずというて、馬小屋の角へお椀と共に放り捨てました。木曾の従者は是を見て、いやあきれたものだ、京の者は、どうしてか身分が上も下も物事をわきまえ知らぬ、あれは殿の大切な仏事用のお椀をとて取上げました。
(解説)Img_4351
義仲の家来が京都の人は上も下も贅沢だと嘆く話しである。当時京都は大飢饉で死者が何万人も出たそうである

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2006年2月22日 (水)

12.2 「平家物語」「延慶本」「猫間中納言」

12.2 「平家物語」「延慶本」「猫間中納言」Img_4335

さて兵衛佐いであはれたり。法衣に葛袴にて候き。容顔悪しからず、顔大きにて、少しひき太に見へ候。かほばせいうびに、げんぎよふんみやうにして、子細を一時のべたり

十八
 木曽義仲は都の守護にて有けるが、みめ形きよげにて、よき男にて有けれども、立ち居のふるまひの無骨ささ、ものなむど云たる言葉つきのかたくなさ、けんごの田舎人にて、あさましくをかしかりけり。理や、信濃の国木曽のやましたと云所に、二歳より二十七年のあひだかくれゐたりければ、しかるべきひとになれちかづくこともなし。今はじめて都びととなれそめむに、なじかはをかしからざるべき。
 のたまふべき事あつて、猫間の中納言光隆の郷、木曽がもとへおわして、雑色を以て、「参たるよし言え」とものたまひたりければ、雑色、「猫間の中納言殿のこれまでまゐるにこそ候へ。見参んにいれと申せと候」と言い入れたりければ、木曽がかたに、今井、樋口、高梨、根井といふ四人の切れ者有けり、そのなかに根井と云者、木曽に、「猫殿のまゐりてこそ候へと、おほせられさうらふ」と云たりければ、木曽こころえずげにて、「とはなむぞ。猫のきたとは何といふことぞ。猫は人に見参する事か」と云て、腹立ちける時に、根井又立ち出でて、使いの雑色に、「猫殿の参りたとは何事ぞ」と言い、「ごれうに叱らせたまふ」と云ければ、雑色をかしと思て、「七条ば右条壬生の辺りをば北猫間、南猫間と申し候ふ。是は北猫間に渡らせ賜い候じやうらふ、猫間の中納言殿と申しまひらせ候人にてわたらせ給候。鼠取り候猫にては候わぬなり」と、細々と云たりければ、そのときより心得たりげにて、根井木曽に詳しく語りたりければ、木曽、「さては人ごさむなれ。いでさらば見参せむ」とて、中納言を入れたてまつりていで会いけり。木曽「とりあへず、猫殿のまれまれわひたるに、根井物参らせよ」と云ければ、中納言あさましくおぼえて、「ただいまあるべくもなし」とのたまひければ、木曽、「いかが、けどきにわいたに、物まひらせではあるべき。不塩の平茸も有りつ。とくとく」と云ければ、「よしなき処へ来たりて、いまさらに帰乱事もさすがなり。かばかりの事こそなけれ」とおぼしめして、のたまふべき事もはかばかしくのたまわず。よろづ興冷めて、かたづを飲みておわしけるに、いつしかくぼく大ききなるごうしの、おびひきつけて渋塗りなるに、黒々としてけだちたる飯を高く大きに盛りあげて、ご菜三種、平茸の汁一つを敷きにすへて、根井持て来たりて、中納言の前にすえたり。おほかたとかくいふはかりなし。木曽が前にも同じ様にしてすへたり。すへはつれば、木曽箸を取てをびたたしき様に食いけれども、中納言は青ざめておわしければ、「いかに召さぬぞ。がふしを嫌い給ふか。あれは義仲が観音講に一月に一度すうる精進ごうしにて候ぞ。ただよそへ。不塩のひらたけの汁もあり。猫殿あひ給ふや」と云ければ、「食わでも悪しき事もぞある」とて、食うまねをせられたりければ、木曽はつるりと食いて、手づからがふしも皿も取り重ねて、中納言をうちみて、「ああ猫殿はてんぜい小食にてわしけるや。猫殿今少しかい給へ」とぞ申たる。根井よつて猫間殿の膳をあげて、「猫殿の御殿びとや候」と申たりければ、「いなばのさくわんといふ雑色候」とて参たりければ、「是は猫殿の御わけぞ。賜れ」とて取らせたりければ、とかく申すに及ばず、ひさげの下へ投げ入れたりけるとかや。

(現代文)Img_4336
頼朝がお出でになりました。法衣に葛袴(くずばかま)の衣裳でした。容顔は良く、顔は大きく、背は低く太めに見えました。顔つきは優美に、言語は、はっきりと区別がつき、詳細を一時話しました。

 木曽義仲は都の守護職を勤めていましたが、かおだちと姿は整っていて、良い男ではありましたが、日常の動作や人目につくような行動の無作法さや、ものなど云うときの言葉使いの聞き苦しさは、全くの田舎者で、はなはだしくおかしいものでした。道理である。信濃の国木曽の山下という所に、二歳より二十七年の間隠れ居たのであるから、しかるべき人に慣れ近づく事も無く、今初めて都の人と慣れ染まるのに、どうしておかしく無いことがあろうか。
 申すべき事がありまして、猫間の中納言光隆の郷が木曽の許へおいでになり、家来に、「参りましたと伝えよ」と申しましたので、家来が、「猫間の中納言殿がここまで参りました。お目にかかりたいと申しあげています」と言いながら入りました。木曽の方には、今井、樋口、高梨、根井という四人の側近がいました。そのなかの根井と云う者が、木曽に、「猫殿がまいりましたと、仰せです」と云いましたので、木曽は合点がいかないようすで、「とは何事か。猫の来たとは何という事か。猫が人に対面する事か」と云うて、腹を立てましたので、根井は又立ち出でて、使いの家来に、「猫殿の参りましたとは何事か」と言い、「ご主人に叱られました」と云いましたので、家来は可笑しく思いながら、「七条の右条の壬生の辺りを北猫間、南猫間と申します。こちらは北猫間においでになる公卿の猫間の中納言殿と申されるお方でございます。鼠を取る猫ではございません」と、細々と云いましたので、そのときより心得た様子で、根井が木曽に詳しく語りましたので、木曽は「それでは、人でありましたか。いやそれならば対面しよう」とて、中納言を入れて対面しました。木曽は「とりあへず、猫殿が珍しくおいでなのだ。根井、食事を差し上げよ」と言いました。中納言は意外に思い、「今時に食事とはとんでもない」と申しましたが、木曽は、「どうして、食事時においでなのに、食事を差し上げないわけにはいかない。不塩の平茸も有ります。早く早く」と云いましたので、「悪い処へ来た。といって、いまさらに帰るわけにもいかない。それほどの事もないだろう」と思い、言うべき事もなかなか言えず。万事興冷めて、かたづを飲んでおいでになりました。そのうちに深く大きな蓋付きのお椀の、おびひきつけて渋塗りのお椀に、黒々としてけだちたる飯を高く大きく盛りあげて、おかず三種、平茸の汁一つを食器敷きに据えて、根井が持て来まして、中納言の前に据えました。大方とやかく言う事も出来ない。木曽の前にも同じ様にして据えました。据え終ると、木曽は箸を取り、ものすごい勢いで食べましたが、中納言は青ざめておいでなので、「どうして食べないのか。お椀がお気に召さないのか。あれは義仲の観音講に一月に一度使用する仏事用のお椀ですよ。ただ盛りつけて食べなさい。不塩のひらたけの汁もあります。猫殿、食べなさい」と云いましたので、「食わないのも悪い事もあるかもしれない」と思い、食うまねをしましたので、木曽はつるりと食べ終えて、手づからお椀も皿も取り重ねて、中納言を見て、「ああ猫殿はまるきり小食でございますな。猫殿もう少し食べなさい」と申しました。根井はそこで猫間殿の膳を取りあげて、「猫殿の御家来はいますか」と申しましたら、「稲葉の左官という者がいます」と言うて参りましたので、「是は猫殿の御分けものであるぞ。もらいなされ」と言うて取らせましたが、とやかく言うまでもなく、縁の下へ投げ入れてしまったということです。

(解説)Img_4340
 貴族が粗末な食べ物を残し、従者すら残り物を捨てて帰った。この状況から京都付近は飢饉では無かったという説もある。しかし、貴族というのは特権階級である。当時の日本の全人口が数百万人ないし一千万人に対して京都の公家貴族はわずか数百人である。殆どの人民は農奴のような生活で生産物の殆どは税として徴集された。殆どの貴族は広い屋敷と蔵を持ち、飢饉に備えた。飢饉のときは蔵の備蓄が若干減るのみである。飢えた京都市民などがどさくさに紛れて蔵を開けて略奪したかもしれない。Img_4342Img_4341

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2006年2月21日 (火)

12.「猫おろし事件」12.1 「平家物語」「高野本」「猫間中納言」

12.「猫おろし事件」

 「平家物語の猫間中納言」の項で、近所の公家「猫間中納言」が訪ねてきたとき、「ねこま殿」を「ねこ殿」と間違えたとか、食事を出したが、粗末な食器で山盛りご飯を強要した。食べ残しを「ねこおろし」したとからかったという話しである。義仲は無礼な奴であるという評価のようである。しかし、創作つまり作り話である。

12.1 「平家物語」「高野本」「猫間中納言」Img_4324

兵衛佐どの出でられたり。布衣に立烏帽子也。顔大きに、せい低かりけり。容貌悠美にして、言語分明也。
(中略)
兵衛佐はかうこそゆゆしくおはしけるに、

木曾の左馬頭、都の守護してありけるが、たちゐの振舞の無骨さ、物いふことばつづきのかたくななる事かぎりなし。ことはりかな、二歳より信濃国木曾といふ山里に、三十まですみなれたりしかば、いかでか知るべき。或時猫間中納言光高卿といふ人、木曾にの給ひあはすべき事あ(ッ)ておはしたりけり。郎等ども「猫間殿の見参にいり申すべき事ありとて、いらせ給ひて候」と申しければ、木曾大きに笑って、「猫は人にげんざうするか」。「是は猫間の中納言殿と申す公卿でわたらせ給ふ。御宿所の名とおぼえ候」と申しければ、木曾「さらば」とて対面す。猶も猫間殿とはえいはで、「猫殿のまれまれわいたるに、物よそへ」とぞの給ひける。中納言是を聞いて、「ただいまあるべうもなし」との宣へば、「いかが、けどき【食時】にわいたるに、さてはあるべき」。何もあたらしき物を無塩といふと心えて、「ここに無塩の平茸あり、とうとう【疾う疾う】」といそがす。ねのゐ【根井】ノ]小野太(こやた)陪膳(はいぜん)す。田舎合子(がふし)のきはめて大きに、くぼかりけるに、飯うづたかくよそひ、御菜(ごさい)三種して、平茸の汁で参らせたり。木曾が前にも同じていにて据えたりけり。木曾箸とって食す。猫間殿は、合子のいぶせさにめさざりければ、「それは義仲が精進合子ぞ」。中納言めさでもさすが悪しかるべければ、箸とってめすよししけり。木曾是を見て、「猫殿は小食におはしけるや。聞ゆる猫おろしし給ひたり。かい給へ」とぞせめたりける。中納言かやうの事に興さめて、のたまひあはすべきことも一言もいださず、やがていそぎ帰られけり。

(現代文)Img_4325
頼朝殿がお出になられました。布衣(ほうい)に立烏帽子(たてえぼし)でした。顔は大きく、背は低いほうでした。容貌(ようばう)は優美で、言語は、はっきりと区別がつきました。
(中略)
頼朝はこのように立派でございますのに、

左馬頭(さまのかみ、馬を扱う役所の長官)木曾義仲は、都の守護職をしていましたが、日常の動作や人目につくような行動の無作法なこと、物を言うときの言葉使いの聞き苦しい事は普通の程度を越えています。道理である。二歳から信濃国の木曾という山里に、三十才まで住み慣れていたので、どうして知る事が出来よう。或時、猫間中納言光隆卿という人が、木曾に相談すべき事があり、おいでになりました。家来達が「猫間殿のお会いして申しあげたい事があると言うて、おいでになりました」と申しますと、木曾は大笑いして、「猫が人に会うのか」。「この方は猫間の中納言殿と申す公卿でございます。御屋敷のある所の地名と思います」と申しましたので、木曾は「それならば」と言って対面しました。猶も猫間殿とは言えずに、「猫殿が、ごくたまにおいでになられたので、食事を差し上げよ」と言いました。中納言は是を聞いて、「いまどきに食事とはとんでもない」と言われたので、「どうして、食事時においでになられたのに、それでは当然のこと」。何でも新鮮な物を無塩と言うと勘違いして、「ここに無塩の平茸があります。早く早く」と急がせました。根井小野太(こやた)が配膳しました。田舎風の蓋付きの椀の大変大きく深いのに、飯を山盛りによそい、おかず三品に平茸の汁で配膳しました。木曾の前にも同じ様子にて配膳しました。木曾は箸をとって食べました。猫間殿は、お椀の汚さに食べないでいると、「それは義仲の仏事用のお椀ですよ」。中納言は食べないのも悪いので、箸をとって食べるふりをしました。木曾は是を見て、「猫殿は小食でございますな。いわゆる猫おろしをなさいました。食べなさい。食べなさい」と何回か勧めました。中納言はこのような事に興さめして、相談すべきことも一言も言い出せず、そのまま急いで帰られました。
(解説)
義仲をけなしている文章の前に頼朝を誉めそやしている文章がある。このように平家物語では2つを対比させる方法で強調する文章技法が多用されているので、頼朝を優美であると強調し、義仲を田舎者と強調している。しかし両者とも20数年を田舎で過ごした田舎者にさしたる違いは無いと思う。猫おろしをしたとからかう場面が面白いと好評のようでこれを採用している本は多い。しかし、次の「延慶本」や「源平盛衰記」にはその記述は無い。歴史研究者の多くは勿論フィクションであると断定している。

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2006年2月20日 (月)

11.2 木曽義仲軍劣勢でも連勝

11.2 木曽義仲軍劣勢でも連勝Img_5373_1

 木曽義仲軍が常に人数では劣勢なのに勝ってきたのは、敵軍の人数が風聞の半分か10分の一かもしれないということ、さらに敵の遠征軍に対して自軍は待ち受けている有利さを考慮した結果であろう。遠征軍は徴兵徴発し、食料の調達をしながらの進軍であるから、疲れているので、2分の一、3分の一でも勝つ事がある。京都より西では状況が逆転したので、なかなか勝てない。
 最後の宇治川の合戦、義経軍6万騎との戦いでは、多分10分の一ないし5分の一の六千ないし1万騎と予想した。自軍は二千ないし三千騎である。敵は遠征で疲れているから、勝てるかもしれないと考えた。
 人数が全く正しければ絶対負けるはずだから、直ちに撤退したはずである。又かなり以前から義経軍の500騎程度がうろうろしていたので、それが若干の増援を受けて侵攻してきたと勘違いしたか。
 「玉葉」によれば、義仲は京都を撤退するとき、法皇を具し、市内を焼き払う予定だった。(参照 玉葉1184年(寿永3年)1月20日)しかし、どちらも実行してない。出来なかったのか。平家は天皇を具し、六波羅辺りを焼き払って、早々と退却した。おかげで市内は大混乱になった。義仲はぎりぎりまで、市内に留まったので、市内の混乱は無かった。義仲の配慮か、偶然か、不幸中の幸いである。兼実は「一切狼藉無し。最も冥加なり」と義経軍のみ賞賛しているが、実は義仲もほめるべきである。

考資料 a 「一家も焼かず、一人も損せず、一切狼藉無し。」
1184年(寿永3年、元歴元年)1月20日
「東軍一番手梶原景時」
東軍の一番手、九郎の軍兵加千波羅平三と。その後、多く以て院の御所の辺に群れ参ずと。法皇及び祇候の輩、虎口を免がる。実に三宝の冥助なり。凡そ日来、義仲の支度、京中を焼き払い、北陸道に落つべしと。而るにまた一家も焼かず、一人も損せず、独身梟(きょう、ふくろう)首せられたり。天の逆賊を罰す。
「東軍入京」
即ち東軍等追い来たり、大和大路より入京す(九條川原辺に於いては、一切狼藉無し。最
も冥加なり)。
(現代文)
「東軍一番手梶原景時」
東軍の一番手は、源九郎義経の軍兵で梶原平三という。その後、多く以て法皇の御所の周辺に多く集まり参上したと。法皇及び側近の者共、虎口を免がる。実に三宝の神仏の助けである。全く日頃、義仲の準備は、京都市内を焼き払い、北陸道に落ちるべしというものであった。それなのにまた一家も焼かず、一人も損傷せず、一人さらし首にさせられた。天は逆賊を罰した。
「東軍入京」
即ち東軍等が追いかけて来た。大和大路より入京した(九條川原辺に於いては、一切の狼藉は無し。最もなる神仏の助けである)。

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2006年2月19日 (日)

11.「平家物語」中の軍勢の数について11.1 「ごまんとある」・・・多数ある

11.「平家物語」中の軍勢の数について

11.1 「ごまんとある」・・・多数あるImg_5371

 木曽軍5万騎というが、実数は多分半分以下ないし十分の一の五千人、多くとも一万ではないだろうか。「ごまんとある」これは現在でも多数ある場合の表現である。又その根拠として「玉葉」の寿永2年7月21日の日記によると、「追討使兼実家の傍を経て発向す」の記述で、「午の刻(12時)追討使が発向する。三位中将平資盛が大将軍と為し、肥後守貞能を相具し、余の家東小路、富小路を経て、多原方へ向かう、家僕等密々に見物し人数を数えた、「其の勢僅か千騎」その勢1080騎と、多分確かである、日来、世の推しはかる所7、8千騎及び万騎と、その勢在るを見るに、わずか千騎、有名無実の風聞、これをもつて察すべし、」と、たまたま平家の追討軍の軍勢が家の近くを通ったので数えさせたら1080騎だった。これを普通世間では7.8千騎または一万騎と称している。兼実自身も「風聞の大袈裟ぶり」を確認している。「風聞」の程度は十分の一に割り引いて受け取るべし。(9.2参照)
 大本営発表ではないが、自軍の軍勢を多めに吹聴するだろうし、別ルートで合流したり、途中で志願兵が参加し、徴兵・徴発もあり、人数は増加する。二千ないし三千になるかもしれない。同日の「吉記」の記録では3千余騎としている。
 [吉記]7月21日 「今日新三位中将資盛卿・舎弟備中の守師盛、並びに筑前の守定俊等、家子を相従えたり。資盛卿雑色宣旨を頸に懸く。肥後の守貞能を相伴い、午の刻ばかりに発向す。都廬三千余騎。法皇密々御見物有り。宇治路を経て江州に赴く。」と。当時の軍記物語の軍勢の数は十分の一ないし三分の一に割り引くと実際に近いようである。
 当時の官軍の編成は天皇の宣旨を旗印として、京都を出発し、進軍途中で志願兵を募り、徴兵徴発を行う「かり武者方式」が普通だったから、京都を出発する時の軍勢の十倍位にはなったかもしれない。ただこの時期は官軍平氏の敗色が濃厚になってきたので、2倍か3倍にしかならないだろうと予想したようである。

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2006年2月18日 (土)

10.3 「腹が減ってはいくさは出来ぬ」

10.3 「腹が減ってはいくさは出来ぬ」Img_5333_2

 頼朝は「一の谷合戦」以後、この「路次追捕」のような兵粮米調達と全国への「兵粮米」徴収の禁止の宣旨を出させ通達した(寿永三年二月二十三日、参照6.3,6.4)が、そのため源氏の現地軍は兵粮の調達に苦労し、「一の谷合戦」以後平家追討は遅れた。まさに「腹が減ってはいくさは出来ぬ」のであり、度々の現地軍からの兵粮米不足の要請に頼朝が応じ、後方からの補給や義経の参戦もあり、ようやく平家追討が終わる。
 また平家滅亡後、義経以下が頼朝に無断で法皇より官位を受けたことを非難する文書にもかれら将兵が略奪などをしたとついでに非難している。(参照6.7)
元暦2年4月15日 「吾妻鏡」・・・右任官の習い、或いは上日の労を以て御給を賜い、或いは私物を以て朝家の御大事を償い、各々朝恩に浴す事なり。而るに東国の輩、「徒に庄園の年貢を抑留し、国衙(こくが)の官物を掠め取り」、成功に・・・
 しかし頼朝は約1年半後文治元年11月、新たに全国一律の5パーセントの兵粮米を割り当てた。(参照6.5)
 旧日本軍が各地で略奪暴行した例が報告されるが、やはり食料の補給が不充分なため、現地軍としては現地調達と称して略奪せざるを得ない。
 「平家物語」にも各種あり、平家軍・木曽義仲軍の追捕乱暴は共通に記述されているが鎌倉軍の追捕乱暴の記述は「平家物語・延慶本」のみである。梶原景時の軍勢が勝尾寺を追捕し放火する場面である。当時鎌倉の悪口は書きにくいはずだが、延慶本が記述されたころは、梶原景時は追放された時期でもあり、勝尾寺の記録では戦後、頼朝の命により再建された。その再建に梶原景時が尽力したとされている。
  なお、「平家物語・延慶本」には義経軍は宇治川の合戦のとき、川端の家300軒に放火して焼き払ったので、逃げ遅れて隠れていた女子供、老人、病人などが焼け死んだと記述されている。

 当時の遠征軍の武士の食糧調達はこの「路次追捕」と「諸国の荘園等からの兵粮米の徴収」による。頼朝が発令させた宣旨の文面から推理し判断すると、義仲軍は「路次追捕」は取り締まったようだが、「諸国の荘園等からの兵粮米の徴収」は継続したようである。つまり、義仲軍は「武士達の自由横領」つまり路次追捕の禁止のみはつとめたが、「公田庄園への兵粮米の徴収」は継続したようである。つまり弱者であり貧者たる庶民に被害の及ぶ路次追捕(略奪)は禁止し、強者であり富者たる法皇、宮家、公家、寺社、諸国のみから兵粮米の徴収をしていたことになる。義仲は弱者・貧者の味方である。
 頼朝は「諸国の荘園等からの兵粮米徴収」は悪法なので禁止と言いながらも、後日、再びより強固な兵粮米の徴収を始めている。(1185年 ( 文治元年)11月28日 6.5参照。)
 ここで注目すべきは、頼朝は路次追捕が悪いとは言っていない。法皇の院宣が無いのがいけない。路次追捕についても現場指揮官の判断でやるな、必要な場合は頼朝に申請し、頼朝が法皇に申請して院宣(法皇の命令書)を頂いてから実施せよと命令している。
 いずれにしても広く普及している語り物系の「平家物語」における義仲軍の庶民に対する乱暴狼藉は捏造である。「平家物語・延慶本」に記述する平家軍や鎌倉軍の路次追捕による庶民への乱暴狼藉を義仲軍のみに書き換えている。平家軍の乱暴狼藉の場面は短縮し、鎌倉軍の乱暴狼藉は削除している。さらに義仲軍入京前の京都市民(や僧兵)の略奪の場面も削除している。

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2006年2月17日 (金)

10.2 追捕・・・官軍の食料の調達

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 現代の軍隊の遠征軍は補給部隊が本国から武器・弾薬・食料を補給するのが原則であり、アメリカ軍は補給を重視し戦闘員と非戦闘員(補給担当)の比率が5対5といわれている。日本の自衛隊は旧日本軍と同じく補給を重視せず9対1のようである。
 当時は遠征軍に補給部隊など無く、食料は本人持参が原則である。不足したら現地調達(追捕、強制取立、略奪)が当たり前になっていた。平家の追討軍の遠征から、状況が変化する。
 治承5年2月8日には京中の諸家を左右京職官人・官吏・検非違使等が計る。これは大略、公家・富有の者の兵粮米負担であるが、それに限らず、院・宮併せ富を分かち貧に与えるものであると。飢饉の対策でもあると。備蓄米とか家の広さを調べ、兵士の食料、宿舎に徴用したようである。(6.2参照)さらに、頼朝が悪法と非難した院宣「諸国からの兵粮米の徴収」が発令される。

1182年 (養和2年)3月17日 天晴 [吉記]
「兵粮米徴収を検非違使庁の遣いに託す」
近日諸国の庄々「兵粮米」重ねて苛責有り。使庁の使を付けらるべき由、院宣を下さる。行隆朝臣沙汰なり。上下色を失う事か。
(現代文)
近日より、諸国の私有地への「軍用米」を重ねて厳しい取り立てが実施される。軍用米の徴収を検非違使庁(警察兼裁判官)から派遣する役人に託す旨、法皇の命令を下された。行隆朝臣の指図である。公家官吏上下ともに驚き恐れて顔色が青ざめる事である。
(解説)
 この「諸国からの兵粮米の徴収」が頼朝が悪法と非難した院宣のようである。

 兵粮米不足であるから征伐を休むよう議論もしている。しかし、無理矢理兵粮米をかき集め路次追捕をしながら追討軍は進軍した。兼実はこの追捕を認める会議に参加出来ず、その宣旨の記述が無いが、この追捕を取り消す宣旨が出ている事(寿永三年二月二十三日)から、追捕、路次追捕は当時としては、合法だったようである。追捕される側からすれば、酷い命令ではある。京都から撤退した平家軍は、相変わらず官軍と称し、同様の追捕による兵粮調達をした。新たに官軍となった義仲軍も鎌倉軍も同様である。兼実は平家軍・義仲軍が京内外で追捕を行ない、どのような結果になるか知っていたようである。そらみろという口調で或人に云わせて記述している。責任は法皇にあるとも言っている。
 路次追捕(現地略奪)は平家軍が始めた。それに参加した進軍途中の将兵は平家軍が負けたので、義仲軍に投降し、従軍した。当然平家軍と同様な調達方法だった。さらに彼らは後に義仲軍が敗色濃厚となると頼朝軍に鞍替えした。当時の武士の一般的傾向である。家系の継続のため、どちらに付くのが有利か不明の場合は、親子、兄弟で敵味方に分かれた。当然、追捕を続けた。
 義仲直轄軍は略奪はしなかったかもしれない。しかし、元平家軍に従い、後に投降し義仲軍に参加した将兵は追捕(略奪方式)が当然と考えていた。これは頼朝軍も同様で、頼朝軍に参加した将兵は元は平家軍、義仲軍に参加したものも多く、やはり追捕(略奪方式)が当然と考えていた。頼朝が略奪方式を禁止する命令を出してもなかなか止まなかった。(1185年 (元暦2年、文治元年)4月15日「吾妻鏡」参照6.7)
 略奪(路次追捕)の実行者は平家軍に従軍し、義仲軍に投降し、頼朝軍に鞍替えした将兵である。おそらく他の将兵もそれを真似したようである。
 愚管抄(巻第五)より左大臣範季(のりすゑ)の「東国武士は夫(〈ふ〉)までも弓箭(ゆみや)にたづさいて候へば・・・」から推定すると、平家軍、源氏軍ともに本来は非戦闘員たる人夫がいたことを示す。人夫は多分、武器・兵粮の輸送任務のために徴発された農民などである。その他工兵担当の木こり、大工職なども徴発されたと思われる。これらの人夫なども食糧の追捕(略奪)を担当したかもしれない。

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2006年2月16日 (木)

10.「食料の調達方法」10.1 寄付・・・反乱軍の食料の調達

10.「食料の調達方法」

10.1 寄付・・・反乱軍の食料の調達Img_5342_1

 木曽義仲軍は最初は朝廷から見れば反乱軍として出発する。食料の調達はどうするか。当時の土地の支配は国有地と荘園という貴族や神社仏寺の私有地があった。まず官庁や政府軍の食料を略奪するか、神社仏寺または地方の豪族に寄付を請うしかない。また配下となった武士豪族から食料は入手出来る。信濃、北陸地方は食料調達は容易であったようである。源平盛衰記でも、延暦寺と対峙したとき、百斉寺から米五百石をいただくと記述する。 
 まず出発するとき、何日分の米が持参出来るか。現在の軍隊のような食料補給部隊は無い。本人持参が原則である。不足したらどうするか。寄付に頼るか、追捕(略奪)しか無
い。当時は大軍の遠征の兵糧米は数ヶ月分持参し、不足分は略奪方式が普通であり、不可能となつたら、やむをえず停戦し本国へ帰還した。
 兵士は1日米何合必要とするか。通常米1石が一人1年分と計算したようであるが、これは1日3合弱となり、宮沢賢治が詩で読んでいるように1日4合の玄米を食すとすれば、1.5石必要である。若い兵士なら1日5合以上必要である。つまり10日で5升。30日で1.5斗、2ヶ月で3斗必要である。昔は米俵を使用した。米俵1表には約4斗が入り、約60Kgとなり、通常の大人なら軽々と担いだようである。米俵1俵で一人約2.3ヶ月持つことになる。米以外の食糧その他も荷物となる。これを牛か馬で運ぶことになる。一人一頭は必要かもしれない。五万騎の軍勢ということは、全員が騎乗するかは不明だが五人と五万頭の馬ということになる。実際に武器を手にして戦う戦闘員以外に馬の世話をしたり、食糧の調達をする非戦闘要員が必要である。さらに現在の工兵隊の働きをする人夫も必要である。
 義仲軍も4月に信濃を出発してから当然最初の米は無くなっているから、どこかで寄付を受けたり、強制調達して進軍したと思われる。義仲直轄軍は入京前に百斉寺から寄付を受け、北陸からも少しは補給があったかもしれない。しかし各地から乱入して義仲軍に合流した数倍以上の軍勢の分には不足したはずである。
 京都に入る前、比叡山延暦寺で法皇、公家と会見した時、兵粮米の調達について追捕を認める旨の指示があつたと思われる。兼実は義仲軍は追捕をしていると非難しているが、法皇以下他の公家は何ら非難せず、やむなしと黙認している。多分慈円も。

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2006年2月15日 (水)

9.6 「風聞・伝聞は事実か」

9.6 「風聞・伝聞は事実か」Img_5341_1

 兼実は平家その他の武家に反感を抱いていた。当然である。兼実は天皇の後継問題に平家や義仲が口出しするのが不愉快だった。これは現代でも同じでガードマンに雇った男が家の跡継ぎはあいつがいいなどと口出ししたら、不愉快である。
 情報を伝える側も義仲の悪評を大袈裟に伝える方が兼実が聞き入れる。良い評判を伝えてもいい顔をしない。それなら悪評のみ伝えよう。捏造しても話そうとなる。これは現代でもある話しで、イラクが核兵器を保有している確かな情報があるとのことで、イラクに進攻したが、実際には核兵器は無かった。
 このように情報は集める側が公平でないと偏った情報が集まり易い。なぜか頼朝の上洛を期待しているので、頼朝上洛すの風聞、伝聞、或人云うは多い。実際の上洛まで何回あるか。数えてみた。8回以上。10回。やはり伝聞、風聞の10分の9は誤りか。
 兼実は当時右大臣であり、後には太政大臣も務めた人物である。その人の日記だから間違いは無いだろうと誤解している小説家・研究者が多い。高校・大学の教師でも、「玉葉」を頭から信じて、記述は真実と思い込んでいる人が多い。朝廷の行事、儀式の記述は間違い無いと思うが、「玉葉」の風聞・伝聞・或人云うはあやしいと、敢えて反論するものである。研究者の一層の検討を期待する。
 火の無い所に煙りは立たぬという言葉もあるが、風聞・伝聞は最初の事実の見聞からいかに変遷するか、簡単な「伝言」ゲームや「伝言」実験でも良く知られている事である。兼実の日記のみで決めつける事は出来ない。兼実がそのような風聞を聞いたのは事実かもしれない。しかしその風聞の元の事実があったかどうかは定かでは無い。
「玉葉に見られる表現の大袈裟なことは大変なものである」と堀田善衛氏は「定家明月記抄」で述べている。

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2006年2月14日 (火)

9.5 「兼実款状」款状(かんじょう、嘆願書)

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「玉葉」元歴元年12月7日
「放火群盗等を禁遏(あつ、とどめる)されるべき事」
 右天下騒乱以後、海内静かならざるの間、五畿七道の海陸の路塞がり、調庸祖税の貢ぎすでに空し、適住反の境、災難猶免れず、或いは炎旱(えんかん、ひでり)の愁いに依り、悉く亡損の地と為す。或るいは武士の妨げを恐れ、敢えて子のごとく来たる民無し、之に加え山門の厳穴未だ安全の栖(せい、すむ)を聞かず、社内寺辺併しながら合戦の場と為す、此の如しの間、貴賤忽ち安堵の計りを失う、し素各危困の嘆きを懐き、国土の凋、年を逐うて増すと雖も、朝家の大営茲に因りて減ずること無し、富者は倉廩(りん、くら)を空しくし、以て僅かに身命を存す、貧者は衣食無く、以て飢え寒さ忍び難し、何況や近曾以来、放火間々起こり、盗賊頗りに聞ゆ、月卿(げっけい、公卿)雲客(うんかく、殿上人)の居所を嫌わず、洛内城外の舎屋を論せず、連夜の災い日を追って絶えること無し、啻(し、ただ)資材を奪ふのみに非ず、殆ど又死傷に及ぶ、万人の歎只此の事に在るのみ、逆党の征伐に於いて、旁々籌(ちゅう、はかりごと)策を運(めぐら)すと雖も、盗賊の厳制に至りては、速やかに刑法行うべし、鎮乱の政、邇(に、じ、ちか・い)より遠きに及ぶ故なり。早く有司並びに武士等に仰せ、慥(ぞう、たしか、あわただしく)禁遏(あつ、とど・める)されるべきか。其の間の子細宜しく有識の輩を訪ね、無為の謀を廻らされるべきなり。此の沙汰もし遅引せば、人家忽ち滅亡し、衆庶いよいよ度を失うものか。(以下省略)
高階泰経大蔵卿殿
(現代文)
「兼実の嘆願書)
「放火や集団強盗を制圧されるように願う事」
 右天下の争乱が開始して以後、国内は不穏な状況であります。五畿(京都近県)七道(全国)の海路や陸路は塞がり、各種の国税や貢ぎ物などは京都へ集まらず、すでにからであります。住むに適さない状況となりました。災難は猶免れず、或いはひでりの愁いに依り、悉く土地は損消しました。或るいは武士の妨害を恐れ、敢えて子のごとく来たる人民はいません。之に加え寺の山門の厳穴ですら未だ安全のすみかとは聞きません。神社内や寺の周辺も合戦の場と化しました。此のような状態では、身分の上下無く安心な生活は確保出来ません。僧も俗人も危険と困難の嘆きの思い、国土の疲弊は、年を逐うて増すというのに、朝廷の大工事は、このような現状でも減ずること無く行われています。富裕の者は蔵の物を減らしながら、以て僅かに身命を永らえています。貧乏な者は衣食も無く、以て飢え寒さは忍び難いものです。まして近頃、放火が度々起こり、盗賊事件も頗りに聞えます。身分の高い人の居所であろうと、京都の内外の舎屋であろうと、連日連夜の災いは日を追って連続して発生しています。ただ資材を奪うのみでなく、殆ど又死傷事件になります。全ての人々の歎きは、只此の事に在ります。反乱軍の征伐に於いて、色々と計略をめぐらすと雖も、盗賊の厳しい取り締まりについても、速やかに法に基づく処罰を行うべきです。乱を鎮める政治は、近くより遠きに及ぶ故であります。早く官吏や武士等に申し付け、確実に制圧すべきであります。其の方法などの詳細は宜しく有識者に尋ね、無為の計略をあれこれ考えるべきものです。此の処置がもし遅引すれば、人家は忽ち滅亡し、人民庶民はいよいよ恐れ驚き狼狽してとりみだすものであります。(以下省略)
高階泰経大蔵卿殿

(解説)

かなり穏やかに書いてあるが、京都内外の治安が悪いと嘆いている。中身は義仲在京中の8月から9月に記述したものと良く似ている。ここ数年天下の状況は悪いままだ。

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2006年2月13日 (月)

9.4 義経が検非違使でも放火強盗事件が多発

9.4 義経が検非違使でも放火強盗事件が多発Img_5339_1

 翌年、範頼軍が中国地方で苦戦し、義経が検非違使(警察官兼裁判官)として京都にいるころ、放火強盗事件が多発する。とにかくこの時代は全国的な内乱状態で、ほぼ全員が武器を持ち、いつ強盗に変身しても不思議ではない。
 兼実は取り締まりを申し込むがその時の文書は義仲軍が乱暴狼藉したと勘違いした記述と類似している。(元歴元年12月7日参照) 贔屓の頼朝の関係者への上申書であるから、かなり穏やかに書いてあるが、京都内外の治安が悪いと嘆いている。中身は義仲在京中の8月から9月に記述したものと良く似ている。
 義仲には反感を抱いているからかなり厳しい表現である。比較的治安が良いと思われていた義経在京中も、義仲在京中もあまり違いが無いのか。義仲在京中治安が悪いと嘆いたのもこの程度か。しかし、義経軍も平家追討の準備に忙しく、翌月には群盗事件が発生した。

参考資料 a 「院御所放火近辺に強盗入るも沙汰なし」
「玉葉」元歴元年12月7日
近日群盗の恐れ連日絶えず、去る比院の御所に放火の事有り、(即ち打ち消したり)又近辺一二町村の中、強盗入り数人を害す。しかれども敢えて其の沙汰なしと。よつて泰経卿に付き上疏を奉ぐ、(中略)
(現代文)
近ごろ集団強盗の恐れが連日絶えない。去る日など法皇の御所に放火事件が有った。(直ぐに打ち消した)又近隣周辺の一二町村の中では、強盗が入り数人に傷害を加えた。しかし、それについて何の処置も無い。そこで大蔵卿の泰経様にお願いを申し上げた。

1185年 (元暦2年)1月9日 壬辰 陰晴不定 [玉葉]
「光輔宅に群盗乱入す」
今日隆職来る。前に召し雑事を仰す。去夜、大内記光輔の家、群盗乱入す。父長光入道同居、同じくこの災いに遭う。所望により綿衣一領、小袖一領これを遣る。
(現代文)
今日隆職が来た。前に呼び寄せ色々な事を命じた。去夜、大内記の光輔の家に、群盗が乱入した。父の長光入道と同居しており、同じくこの災難に遭った。所望により綿いれ一枚、小袖一枚をこれに与えた。
(解説)
義経が検非違使(警察官兼裁判官)として勤務していたが、平家追討の準備に追われていたようだ。

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2006年2月12日 (日)

9.3 情報提供者の信頼度

9.3 情報提供者の信頼度

 「玉葉」では「風聞」、「伝聞」、「或人云う」、「人伝」が多い。(「風聞」176回、「伝聞」383回、「或人云う」235回、「人伝」107回・・・約40年間の回数)この「或人」は誰なのか、信用に足るのか。後日検証すると誤りも多い。義仲軍等乱暴の記述についても「或人云う」であり、兼実は病弱のため自分の眼では見ていない。多分、下級の役人か京都の庶民の何人かが市内外の情報を集め報告していたようである。自分の仲間の不正は報告するはずがない。信憑性に欠ける。風聞・伝聞・その他を報告する者も大袈裟にしないと意味が無い。「昨今売買の便を失う」と言わせているから商売人か。確実な情報は必ず情報提供者の名前を書いている。
 その他たまたま平家の追討軍の軍勢が家の近くを通ったので数えさせたら1080騎だった。これを普通世間では7.8千騎または一万騎と称している。兼実自身も「有名無実の風聞かくの如し」と「風聞の大袈裟ぶり」を確認している。「風聞」の程度は十分の一に割り引いて受け取るべしと。事件があったかもしれないが正確には不明と。被害があったかもしれないが正確には不明と。事件の数は十分の一に、被害の程度はやはり十分の一に割り引いて処理すべきである。
 兼実は平家など武家には反感を持っているが、何故か頼朝には期待している。兼実が義仲に反感を持っているとわかれば、義仲軍の悪評が集まる。一寸した事件も過大に報告され、記録される。その記事も九月五日を最後にぴたりと止まる。殆ど事件が無く報告しようが無いのだろう。
 なお10月14日に義仲が平家に敗れ、京都へ帰るので市内が大混乱になった。という記事がある。ある解説者の説明ではまた義仲軍が乱暴するのではと恐れたという。しかし、これは義仲が京都を撤退し、再び平家軍が入京すると、7月末の大混乱と同様な略奪が起きるのを恐れたようである。結局何も無かった。

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2006年2月11日 (土)

9.2 「有名無実の風聞かくの如し」

9.2 「有名無実の風聞かくの如し」
「其の勢僅か千騎」

「玉葉」の寿永2年7月21日の日記によると、
「追討使兼実家の傍を経て発向す」
「午の刻(12時)追討使が発向する。三位中将平資盛が大将軍と為し、肥後守貞能を相具し、余の家東小路、富小路を経て、多原方へ向かう、家僕等密々に見物し人数を数えた、「其の勢僅か千騎」その勢1080騎と、多分確かである、日来、世の推しはかる所7、8千騎及び万騎と、その勢在るを見るに、わずか千騎、有名無実の風聞、これをもつて察すべし、」
(現代文)
12時に追討使が出発した。三位中将の平資盛が大将軍と為り、肥後守貞能を相伴い、余(兼実)の家の東小路、富小路を経て、多原方面へ向かう、家の従者達がひそかに見物し人数を数えたところ、
「其の勢僅か千騎」
その勢は1080騎である。かなり確かである。常日頃、世間の推定では7、8千騎から1万騎であるとしている。その勢を実際に見ると、わずか千騎あまりである。、有名無実の風聞、これをもつて察すべしである。
(解説)
たまたま平家の追討軍の軍勢が家の近くを通ったので数えさせたら1080騎だった。これを普通世間では7.8千騎または一万騎と称している。兼実自身も「風聞の大袈裟ぶり」を確認している。「風聞」の程度は十分の一に割り引いて受け取るべし。
 もっとも当時の遠征軍の編成方式は天皇の命令書である「宣旨」を旗印として、大将軍とその中心部隊が京都を出発し、進軍途中で、あちこちの将兵などが参加する駆り武者方式だったので、京都を出発したときの人数の数倍以上になるようである。初期の平家軍が順調な時期は10倍くらいになったかもしれない。「吉記」の同日の記事では3千騎と記録している。平家物語中の合戦の人数と玉葉の記事を比較するとほぼ10分の1となっている事が多い。平家物語で軍勢5万とある場合、実数は5千と見るのが良いようである。

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2006年2月10日 (金)

9.「風聞と実態の違い」9.1 兼実は病弱で神経過敏で大袈裟

9.「風聞と実態の違い」

9.1 兼実は病弱で神経過敏で大袈裟

 兼実は権力中枢から遠ざけられているが、いつか返り咲きを期待し、宮中や市内外から各種情報を集めている。親類縁者をはじめ、平家関係者からも情報を集める。但し病弱のせいか伝聞・風聞・或人云うが多い。伝聞・風聞であるから、真偽明らかではない事も、後日真偽の確認のため記録するとしている。風聞は大袈裟だから注意すべしと云いながら、風聞等を実によく記録している。風聞を後日訂正している場合もあるが、修正してない場合も多い。特に義仲軍、頼朝軍の入京の風聞は各所に出てくるが殆ど修正していない。記述した事が真実とは限らない。
 その風聞の程度は約十分の一に割り引いて受け取る必要がある。その理由は本人も自覚しているように軍勢の数の風聞と実数の違いである。(寿永2年7月21日を参照)
 かなり神経過敏で、地震、雷鳴、大雨、大風などの天変地異にも驚き、官軍(平家軍)が大敗したとか、南都(奈良)の七大寺が焼き討ちされた、熊野の那智が荒れた、自分の意見が採用されない、除目(人事異動)が気に入らないときなど、得意の「可悲」(悲しむべし)、天下・王法・仏法・我が朝「滅亡」・「滅尽」、「未曾有」(みぞう)、「不能左右」(左右する能わず)、「可弾指」(弾指すべし)を連発し大袈裟である。又記録漏れもある。(「可悲(悲しむべし)」103回、「滅亡」68回、「滅尽」14回、「未曾有」172回、「不能左右」107回、「可弾指」59回、「天変地異」の記述672回・・・約40年間の回数)

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2006年2月 9日 (木)

8.5 壽永二年10月宣旨

8.5 壽永二年10月宣旨

閏10月13日 天気晴れ、
晩に及び、太夫吏隆職来たり世間の事談ず。平氏讃岐(香川県)の国に在りと。或る説に女房の船に主上並びに剣爾を具し奉り、伊予(愛媛県)の国に在りと。但しこの条未だ実説を聞かずと。又語り云う、院のお使い庁官泰貞、去る日重ねて頼朝の許へ向かいたり。仰せの趣殊なる事無し。義仲と和平すべしの由なり。
「頼朝の申請により東海・東山道の荘園公領を本の如く領知すべき宣旨あり」
そもそも東海・東山・北陸三道の荘園・国領、本の如く領知すべき由、宣下せらるべき旨、頼朝申請す。よって宣旨を下さらるの処、北陸道許り、義仲を恐れるにより、その宣旨を成されず。頼朝是を聞かば定めて欝を結ぶか。おおいに不便の事なり。この事未だ聞かず。驚き思うこと少なからず少なからず。この事、隆職不審に耐えず、泰経に問う処、答え云う、
「義仲を恐るるにより北陸道は入らず」
頼朝は恐れるべしと雖も遠境に在り。義仲は当時京にあり。当罰の恐れ有り。よって不当と雖も、北陸を除かれるとの由答えしむという。天子の政、あに以てこの如しや。小人近臣となり、天下の乱止むべきの期無きや。
(現代文)
夕方になり、太夫吏の隆職が来た。世間の事を話した。平氏は讃岐(香川県)の国に在りと。或るうわさ話しでは女官の船に天皇並びに三種の神器を備え、伊予(愛媛県)の国に在りと。但しこの話しは未だ真実の情報を聞かないと。又話した、法皇庁のお使いの庁官の泰貞が、去る日再び頼朝の許へ向かいました。法皇の命令の趣は殊なる事無し。義仲と和平すべしの事である。
「頼朝の申請により東海・東山道の荘園公領を本の如く領知すべき宣旨あり」
そもそも東海・東山・北陸三道の荘園や国有地を、本のように領有して支配すべきことは宣旨(天皇の命令文書)を下さいと、頼朝が申請した。よって宣旨を下した処、北陸道のみは、義仲を恐れて、そのような宣旨を下されなかった。頼朝は是を聞けば定めて不満に思うだろう。おおいに不便の事である。このような事はいままで聞いたことが無い。驚き思うこと少なくない。この事を、隆職は不審に耐えないので、大蔵卿の泰経に質問した処、次のように答えた。
「義仲を恐るるにより北陸道は入らず」
頼朝は恐れるべしと雖も遠方に在る。義仲は当時京にいるので、罰が当たる恐れが有る。よって不当と雖も、北陸道を除いたとの事を答えたという。天子の政治が、どうしてこのようなものか。大人でない者が近臣であるから、天下の乱が止むべきの期待は無いようだ。
(解説)
頼朝が東海・東山・北陸三道の荘園・国領、本の如く領有して支配したいと申請したのに宣旨では北陸道は義仲を恐れて外した。兼実は法皇は弱腰だと非難している。しかしこの宣旨は頼朝の関東における支配権を認めたものであり、鎌倉幕府の始まりでもある。義仲を牽制するために頼朝に与えた関東の支配権が後に公家政治の終わりに向かう。

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8.6「頼朝朝務を計い申す」

8.6「頼朝朝務を計い申す」

「吾妻鏡」1184年 (壽永3年)2月25日 甲申
  朝務の事、武衛御所存の條々を注し、泰経朝臣の許に遣わさると。
  一、朝務の事
 右、先規を守り、殊に徳政を施さるべく候。但し諸国の受領(長官)等、尤も計りの御沙汰有るべく候か。東国・北国両道の国々、謀叛を追討するの間、土民無きが如し。今春より、浪人等旧里に帰住し、安堵せしむべく候。然れば来秋の比、国司を任ぜられ、吏務を行われて宜しかるべく候。
  一、平家追討の事
 右、畿内近国、源氏平氏と号し弓箭に携わるの輩並びに住人等、早く義経が下知に任せ、引率すべき由、仰せ下さるべく候。海路輙(ちょう、すなわち)ならざると雖も、殊に総て追討すべき由、義経に仰せ付けらるべきなり。勲功の賞に於いては、その後頼朝遂って計り申し上ぐべく候。
  一、諸社の事(中略)
  一、仏寺の間の事(中略)
     壽永三年二月日        源頼朝

玉葉1184年 (壽永3年)2月27日 雨下「頼朝朝務を計い申す」
伝聞、頼朝四月下旬上洛すべしと。また折紙(奉書)を以て朝務を計り申すと。人以て可と為すべからず。頼朝もし賢哲の性有らば、天下の滅亡いよいよ増すか。

(現代文)
  朝庭の政務について、頼朝の御考えの條々を記し、大蔵卿の泰経朝臣の許にお送りしたと。
  一、朝務の事
 右、先代からの規約を守り、殊に租税を免ずるなどの徳政を実施するべきです。但し諸国の長官等は、尤も計画の御指図有るべき事です。東国・北国両道の国々は、反乱軍を追討する間、土着の民はいないも同様の状態です。今春より、浪人等を故郷に帰し住まわし、安心して生活出来るようにするべきです。そうすれば来秋の頃、国の長官を任命され、
官吏の職務が行なうことが出来るでしょう。
  一、平家追討の事
 右、畿内(京都近県)の近国で、源氏や平氏と名乗る武士並びに住人等を、早く義経の令指図に任せて、引率出来るように、御命令下さい。海路はたやすくはないが、殊に総て討すべきように、義経に御命令下さるべきです。勲功の賞については、その後、頼朝が協議し申請いたします。

玉葉1184年 (壽永3年)2月27日 雨下「頼朝朝務を計い申す」
伝え聞く、頼朝は四月下旬に上洛するという。また文書を以て朝庭の政務を相談し申し込むという。人々はこれを以て良しと為すべきではない。頼朝がもし賢明で道理をわきまえた人ならば、我が朝廷の滅亡がいよいよ増すようだ。

(解説)
「東国・北国両道の国々、謀叛を追討するの間、土民無きが如し」、「武士並びに住人等、引率出来るように」は武士以外にも農民も徴兵・徴発して、総動員していたことを示す。東国・北国両道の国々からはしばらく税をとるな、京都近県の近国では武士はもちろん農民等も徴兵・徴発すべしと申請している。平家物語では平家軍は駆り武者が主だから弱い、頼朝軍は忠誠を誓った御家人だから強いという説明があるが、事実とは異なるようである。
兼実は頼朝が朝廷の政務に口出しをしてきた。「もし頼朝が賢いと我が朝廷も危ういかもしれない」と不安を抱く。

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2006年2月 7日 (火)

8.4 「頼朝三ケ条の事を院庁官に付す」

8.4 「頼朝三ケ条の事を院庁官に付す」

1183年 (壽永二年 癸卯)
10月1日 陰雨下る、昼間晴れ、晩に及び風吹き。
伝聞、先日頼朝の許へ遣わす所の院の庁官、此の両三日以前に帰り参る。巨多の引き出物を与ふと。頼朝折紙に戴せ三ケ条の事を申すと。

10月2日 朝間天気陰、午後曇り晴れ、
「頼朝三ケ条の事を院庁官に付す」
ある人云う、頼朝申す所の三ケ条の事、
1は平家押領する所の神社仏寺の領、たしか(慥)に本の如く本社本寺に付すべき由、宣旨を下さるべし。平氏滅亡は、仏神の加護たるの故なりと。
1は院宮諸家の領、同じく平氏多く以て膚掠(りょりゃく)すと。是又本の如く本の主に返し給ひ、人の憂いを休められるべしと。
1は帰降参来の武士等、各其の罪を宥(ゆるす)、斬罪おこなわれざるべからず。其の故何とならば、頼朝昔、勅勘(ちょっかん)の身なりと雖も、身命を全うするに依り、今君の御敵を討伐の任に当たる。今又落ち参る輩の中、自ら此の如しの類ひ無からんや。よって身を以てこれを思うに、敵軍なりと雖も、帰降の輩においては罪科を寛宥(かんゆう)し、身命を存しむべしと。この3条折り紙を戴せて言上すと。
一一の申し条義仲等に斉しからざるか。
(現代文)
10月1日 陰雨下る、昼間晴れ、晩に及び風吹き。
伝聞、先日頼朝の許へ派遣していた法皇の役所の官吏が、此の二・三日以前に帰りました。数多くの贈答品を頂いたようだ。頼朝は文書により三ケ条の事を申し上げたようだ。
10月2日 朝間天気陰、午後曇り晴れ、
「頼朝三ケ条の事を院庁官に付す」
ある人が言いました。頼朝が申請した所の三ケ条の事は、
1は平家が横取りした所の神社仏寺の荘園領地は、たしかに本のように本社本寺に戻すべきよう、天皇の命令を下さるべきです。平氏の滅亡は、仏神の加護によるとの理由です。
2は法皇、宮家、公家諸家の荘園領地も、同じく平氏が多く以て横取りしています。是も又本のように本の主に返しなされて、臣下の心配を取り除くべきです。
3は降参して来る武士等は、各其の罪をゆるし、死刑にすべきではありません。其の理由は、頼朝は昔、罪人の身でしたが、命を完全に保つことにより、今や天皇や法皇の御敵を討伐する任務に当たります。今又降参して参る者の内で、自ら此のような例が有るかもしれません。よって身を以てこれを思うに、敵軍なりと雖も、降参して来る者においてはその罪をゆるし、助命すべきです。この3条を文書により申し上げます。
一一の申し条は義仲等には知らせないで下さい。
(解説)
神社、仏寺、法皇、宮家、公家諸家の領地、荘園は北陸、関東にも多かったようである。平家に横取りされた領地を元に返すと、甘い餌をまいている。喜んだ法皇や公家は頼朝に関東の統治権を与える。さらに10月4日に詳細が記述されている。

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2006年2月 6日 (月)

8.3  「頼朝忽ちに上洛すべからざる故を申す」

8.3  「頼朝忽ちに上洛すべからざる故を申す」

玉葉1183年(壽永二年)10月9日
静賢法印来たり、世間の事談ず。頼朝使者を進らせ、忽ち上洛すべからずと。
「藤原秀衡頼朝上洛の跡入る事を恐る」
1は(藤原)秀衡・(佐竹)隆義等上洛の跡に入れ替わるべし。
2は数万の勢を率い、入洛せば京中堪えるべからず。
この2の故に依り、上洛延引すと。
(中略)
「頼朝本位に復す」
叉頼朝本位(ほんい)に復する由仰せ下さると。

(現代文)
静賢法印が来て、世間の事について話しをした。頼朝が使者を送ってきたようだ。すぐ京都へ上るべきではないと。
1は京都へ上る跡に陸奥の藤原秀衡や関東の佐竹隆義等が鎌倉へ攻め込む恐れがある。
2は数万の軍勢を率いて、京都へ上ると京都市内の兵粮が不足し堪えることが出来ない。
この二つの理由に依り、京都へ上るのは延引するようだ。
「頼朝本位に復す」
叉頼朝が罪人扱いから元の兵衛の佐(ひょうえのすけ)に復帰するように命令下さると。

(解説)
現在、京都に進駐している義仲軍は食糧調達は追捕(略奪)もしくは諸国への兵粮米徴収によっている。そこへ鎌倉軍が入り重ねて食糧調達のための追捕(略奪)もしくは諸国への兵粮米徴収をしたら、京都市内の食糧が不足し堪えることが出来ない。もし鎌倉軍が持参する食糧のみで間に合い、追捕(略奪)しないならこのような事は言わないはずである。義仲軍と同様の追捕(略奪)方式で進軍しようとする証拠である。つまり、当時の大軍の遠征に食糧調達のための追捕は当然の軍事活動であった。
 また頼朝は約20年前兵衛の佐だったが、平治の乱の結果、死罪になるところを運良く流罪となっていたがそれが解除されたようである。

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2006年2月 5日 (日)

8.2「第一は頼朝、第二は義仲、第三は行家」

8.2「第一は頼朝、第二は義仲、第三は行家」
玉葉の1183年 (壽永二年)7月30日
「頼朝・義仲・行家への勧賞(けんじょう)如何に行わるべきか」
1.仰せ言う、今度の義兵、造意頼朝に在りと雖も、当時の成功の事、義仲・行家なり。かつ賞を行はんとすれば、頼朝の欝(うつ)測り難し。彼の上洛を待たんとすれば、また両人賞の遅きを愁うか。両箇の間、叡慮(えいりょ、天子のお考え)決し難し。兼ねてまた三人の勧賞等差有るべきか。その間子細、計らひ申すべしといえり。
「頼朝参洛待たず三人同時に行わるべし」
人々申して言う、頼朝参洛の期を待たるべからず。彼の賞を加へ、三人同時に行はるべし。頼朝の賞、もし雅意(ふだんの心)に背かば、申請に随い改易する、何の難有らんや。その等級においては、かつは勲功の優劣により、かつは本官(正式の官職)の高下に随い、計らひ行なはるべきか。総じてこれを論ずれば、「第一は頼朝、第二は義仲、第三は行家」なり。
(現代文)
1.法皇が言われました。このたびの正義の挙兵について、企画したのは頼朝であるが、現実の成功は義仲・行家によるものである。賞を与えたいが、頼朝の本心が不明である。頼朝の京都へ上るのを待つと義仲・行家に賞が遅れるので都合が悪い。この件、法皇の考えのみでは決める事が難しい。さらに叉三人の賞に差を付けるべきか。その詳細について検討し申すべしと。
「頼朝参洛待たず三人同時に行わるべし」
会議に参加した人々は申しました。頼朝の京都へ上るのを待つことはない。頼朝の賞も同時に、三人同時に行なうがよい。頼朝の賞が、もし頼朝の心に不本意ならば、申請により改めるのに何の不都合も無い。その等級においては、まず勲功の優劣により、さらに正式の官職の高下により、検討し行なうべきでしょう。総じてこれを論ずれば、「第一は頼朝、
第二は義仲、第三は行家」である。
(解説)
鎌倉を1歩も出ない頼朝が「第一は頼朝、第二は義仲、第三は行家」となるのは、法皇も公家も密書にうまく騙されたものである。

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2006年2月 4日 (土)

8.頼朝の計略8.1 「源頼朝密かに法皇に奏すことあり」

8.頼朝の計略

 頼朝の計略により(1181年(治承5年)8月1日参照)、法皇公卿の間では既に平家追放の功績は頼朝第一、義仲第二とみなしていた(寿永2年7月30日参照)。にもかかわらず、義仲は頼朝などと無視しようとする。さらに天皇の後継問題にも口出しする(寿永2年8月14日参照)。気に入らない。頼朝の方がましかなと期待したようである。
 兼実は平家や法皇と意見の対立があり、義仲入京前(寿永2年7月27日)や、法住寺合戦のとき(寿永2年11月21日 )、義仲に一時期待したこともあったが、まだ見ぬ頼朝に期待が膨らんだようである。後に頼朝が次々に繰り出す巧妙な作戦にもしや我が朝滅亡かと不安を抱く(壽永3年2月27日)が、それは永い年月を経て現実のものとなる。後に頼朝の推薦により、関白・太政大臣になるなど朝廷の権力中枢となるが、結局、公家政権から武家政権への手助けをしたことになった。

8.1 「源頼朝密かに法皇に奏すことあり」
玉葉の1181年(治承5年)8月1日
「源頼朝密かに法皇に奏すことあり」
又聞く、去る日(源)頼朝密々に院に奏し云う、全く謀反の心無し。ひとえに君の御敵を伐つ為なり、
「頼朝源平両氏共に用うべき旨を申す」
もし猶平家滅亡されるべからずば、古昔の如く、源氏・平氏相並び召し仕うべし、関東源氏之の進止(進退)となし、海西平氏の任意になし、共に国宰(大臣、国司)においては、上より補されるべし。只東西の乱を鎮める為、両氏に仰せ付けられて、暫く御試み有るべきなり。且つ両氏孰(いず)れか王化を守り、誰か君命を恐るるや、尤も両氏の翔(ふるま)ひをご覧すべきなりと。
(現代文)
また聞いた。去る日に源頼朝が密かに法皇に申し上げて言いました。「全く主君にそむくつもりではありません。ひとえに法皇の御かたきを征伐する為です。もしそれでもなお平家を滅亡されないのであれば、かなり昔のように、源氏と平氏を共に召し使うとよいでしょう。関東は源氏の支配となし、海西は平氏の任意になし、共に国の長官は、朝廷より任ずるのがよいでしょう。只東西の乱を鎮める為、源氏と平氏の両氏に命令されて、暫く御試しされてはいかがでしょう。そのうえ源氏と平氏の両氏のいずれが法皇や朝廷を守り、どちらが法皇の命令を恐れるか、しっかり源氏と平氏の両氏の行動をご覧下さるべきでありますと。
(解説)
挙兵から1年でこのような密書を法皇へ出している。多分その後も度々出しているだろう。

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2006年2月 3日 (金)

7.6 法住寺合戦の義仲への期待

7.6 法住寺合戦の義仲への期待

法住寺合戦は義仲を警戒した法皇側が御所の法住寺に兵を集め、義仲を排除しようとした。その兵力の比が逆転しそうなので、義仲が法皇の御所の法住寺を攻撃したもので、義仲の一方的な勝利となる。その詳細は後節に述べるが、ここでは兼実が義仲に期待したり、見限る部分のみ記述する。

玉葉の1184年 (壽永2年)11月19日 「義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使い」
「天下乱逆のうち未だ今度の如きは無し」
凡そ漢家本朝天下の乱逆、其の数有りと雖も、未だ今度の如き乱有らず。義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使いなり。
玉葉の1184年 (壽永2年)11月21日 「義仲もし善政を行はば、余其の仁に当たる」。
「義仲の政に預からざる旨を仏神に祈謝す」
余密々に祈請(きせい、願かけ)して云う、今度「義仲もし善政を行はば、余其の仁に当たる」。此の事極まり無き不詳(不吉、不運)なり。よって今度の事、其の中に入るべからず。義仲に順ふべからざる由、聊(いささ)か仏神に謝したり。言ふ莫れ言ふ莫れ。
(現代文)
およそ中国や日本国で天下の乱逆は、沢山あるが、このような乱は無かった。義仲は不徳の法皇をいましめるための神の使いである。
「義仲の政に預からざる旨を仏神に祈謝す」
私は密かに神仏に祈り誓いを立てていた。今度義仲が善政を行うなら私も一役買うと。この事極めて不吉であった。よって今度義仲の政務の仲間に入らず、義仲に従う必要が無いことを神様や仏様に感謝した。言うべからず。言うべからず。
(解説)
法住寺合戦の後、義仲は法皇の不徳を誡める使いとか、義仲が善政をしようとすれば、助力しようと思ったがすぐ撤回している。次兄の基房がしゃしゃり出てきたからである。

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2006年2月 2日 (木)

7.5「義仲以仁王の王子を推す」

7.5「義仲以仁王の王子を推す」

玉葉の1183年(壽永二年)8月14日
「践祚の事につき法皇より諮問せらる」
大蔵卿泰経云う、践祚の事、高倉院の宮2人、(一人は平義範の女の腹5歳、(惟明親王)、一人は藤原信隆卿の女腹4歳(守貞親王))之間、思し食し煩ふ処、以っての外の大事が出で来たり。
「義仲以仁王の王子を推す」
義仲今日申し云う、故三条の宮ご子息の宮北陸に在り。義兵の勲功かの宮のお力に在り。依って立王の事に於いて、異議有るべからざる由所存なりと。依って重ねて俊尭(ぎょう)僧正を以て(義仲と親昵(しんじつ)のたる故)、子細を仰せられて云はく、我が朝の習い、継躰守文(しゅぶん)を以て先と為す。高倉院の宮両人おはしまし、其の王胤(王者の子孫)を置きながら、強ちに孫王を求めらるる条、神慮測り難し。この条猶しかるべからざるかと。義仲重ねて申し云う、此の如き大事においては、源氏等執し申すに及ばずと雖も、粗事の理を案ずるに、法皇御隠居の刻、高倉院権臣(けんしん)を恐れて、成敗(せいばい)無きが如し。三条宮至孝に依り其身を亡す。争でか其の孝を思し食し忘れざらんや。猶この事其の欝を散じ難し。但し此の上の事は勅定に在りといえり。此の事いかん計らひ奏すべしといえり。申し云う、他の朝議に於いては、事の許否を顧みず、諮詢(しじゅん、相談)ある毎に愚款(かん、まこと)を述べたり。
「王者の沙汰に至りては人臣の最にあらず」
王者の沙汰に至りては、人臣(けらい)の最に非ず。(中略)

(現代文)
玉葉の1183年(壽永二年)8月14日
「践祚の事につき法皇より諮問せらる」
大蔵卿の泰経が云う、天皇の位の件について、高倉上皇の御子息の宮様が2人おいでになります。一人は平義範の娘の子で5歳、(惟明親王)、一人は藤原信隆卿の娘の子で4歳(守貞親王)の間で思案する処、もっての外の大事が発生しました。
「義仲以仁王の王子を推す」
義仲が今日申し出てきました。故三条の宮(以仁王)のご子息の宮が北陸においでになります。義兵の手柄はかの三条の宮(以仁王)のお力であります。依って立王の事に於いて、異議有る事も無いとの思いでありますと。よって重ねて俊尭(ぎょう)僧正を通じて(義仲と親しい故)、詳細を申されて云うのには、我が朝庭の慣習によれば、君主の位を受け継ぐことは武力を使わず文を以て先と為すと。高倉上皇の子の宮様が両人おいでになります。其の王者の子孫を置きながら、強引に法皇の孫の王を求めるのは、法皇の心は測り難いものであります。この条猶そのようには出来ないかと。義仲は重ねて申し云う、此のような大事においては、源氏等がこだわり申すに及ばずと雖も、大略の道理を思案するに、法皇が御隠居のとき、高倉上皇は清盛の権力を恐れて、政治を行うことは無いも同様でございました。三条宮(以仁王)は親孝行のため其の身を亡ぼしました。どうして其の孝を思い忘れることが出来ましょうか。猶この事其の気のふさぐことをなくすことは難しい。但し此の上の事は法皇の決定に在りといえよう。此の事いかに処理し申し上げようか。申し云う、他の朝庭の議案については、事の許すか許さないかを顧みず、相談ある毎に私の愚かな意見を述べました。
「王者の沙汰に至りては人臣の最にあらず」
王者(法皇)の指図すべきことなので、臣下の最もすべきものではありません。(中略)
(解説)
現代でも家の後継ぎは主人が決めるように、次の王は現王(法皇)が決めるべきである。他人特に臣下(家来)が口出しすべきでない。と兼実は考えている。しかし、この立王への口出しが法皇側の義仲への警戒心を大きくしたようである。

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2006年2月 1日 (水)

7.4 「京中の狼藉及び兵糧用途如何すべきか」

7.4 「京中の狼藉及び兵糧用途如何すべきか」

玉葉1183年(壽永二年)7月30日「京中の狼藉及び兵糧用途如何すべきか」
1.仰せ云う、京中の狼藉、士卒の巨万の致す処なり。各その勢を減ずべき由、仰せ下さるる処、不慮の難怖れる処無きに非ず。これを為すいかん。兼ねてまたたとえ人数減ぜらると雖も、兵糧なくば、狼藉絶ゆべからず。その用途又いかん。
(現代文)
後白河法皇のお言葉がありました。京都市内の混乱、乱暴は武士の人数の非常に多いのが原因である。おのおのその軍勢の人数を減らすべきであると。法皇のお言葉ではあるが、減らし過ぎて平家が押し寄せる恐れ無しとは言えず、これをどうしましょうか。それにまた人数を減らしても、軍用米が無ければ乱暴は停止出来ない。その手段はどうしましょう
か。

[吉記]1183年(壽永二年)7月30日
 京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及ぶ。また松尾社司(神職)等相防ぐの間、社司等の家に放火す。梅宮社神殿追捕に及ぶ。広隆寺金堂追捕に及び、度々合戦す。行願寺また追捕すと。成範卿院宣を奉り、時忠卿の許に仰せ遣わす。また内々貞能の許に仰せ遣わすの旨等有りと。
「京中守護義仲院宣を奉りこれを支配す。」
京中守護義仲院宣を奉りこれを支配す。
(現代文)
 京都市内の追捕・略奪等はすでに公卿の家に及んで来た。また松尾神社の神職等が防戦するの間、神職等の家に放火した。梅宮社の神殿に追捕が及んだ。広隆寺の金堂も追捕に及んだので、度々合戦となった。行願寺もまた追捕したようだ。成範卿は法皇の命令文書を頂き、平時忠卿の許に命令の使者を派遣した。また内々に肥後守貞能の許にも命令の使者を派遣する旨等有りと。
「京中守護義仲院宣を奉りこれを支配す。」
義仲は京都市内の守護職に任命する法皇の命令文書を頂き、守護職として京都を警備支配することになった。
(解説)
京都市内の追捕・略奪等が行われ、義仲がその取り締まりを命じられた。「吉記」の8月から10月分が見あたらないので、「玉葉」の風聞しか史料が無い。慈円の「愚管抄」によれば「かくてひしめきてありけるほどに」という表現である。追捕とか物取りとは表現していない。義仲入京前の混乱は追捕とか物取りと表現している。

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