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2006年1月16日 (月)

5.2 「ものとりの略奪」と「たがいについぶく」

5.2 「ものとりの略奪」と「たがいについぶく」

 「愚管抄」によれば、義仲軍の乱暴狼藉の記述は無く、義仲軍入京前の平家軍の京都からの退却の時、「六はらの家に火かけて焼(やき)ければ、京中に物とりと名付(なづけ)たる者いできて、火の中へあらそい入(いり)て物とりけり。」の記述とか、法皇・貴族が比叡山に退避し、京都の権力・警備が空白になった時、「その刹那(せつな)京中はたがいについぶくをして物もなく成(なり)ぬべかりければ、残(のこり)なく平氏は落(おち)ぬ。をそれ候まじにて」と記述する。平家物語、玉葉、吉記にも平家軍が京都を撤退するとき、六波羅の屋敷を焼き払った記述はある。しかし「ものとりが争い入る」とか「たがいについぶくした」などの混乱の記述は見あたらない。平家物語は琵琶法師の庶民への語り物として広まったようであるから、そのような庶民に不都合な場面は削除されたようである。しかし後日記録された「愚管抄」や「延慶本」には記述されている。
 「愚管抄」によれば義仲軍等の入京後の状況については「かくてひしめきてありける程に」という程度の表現である。「押し合ってごたごたしているうちに」である。
 筆者も当初は、平家物語は信用してないから、義仲軍の乱暴は事実でないと思っていた。しかし、玉葉の記述によると、もしやかなりの乱暴をしたのは事実かなと疑い始めた。しかし、「愚管抄」の長文の中に、上述の一文を見つけ、謎が解けた思いがした。
 「火の中へあらそい入(いり)て物とりけり」は、すなわち「火事場泥棒」である。
 「その刹那(せつな)京中はたがいについぶくをして物もなく成(なり)ぬべかりければ、残(のこり)なく平氏は落(おち)ぬ。をそれ候まじにて」この場合のたがいは誰と誰の組み合わせであろうか、単純には市民同士だが、落ち行く平家軍に市民が襲いかかり略奪した、平家軍が民家などから略奪しながら退却したというように、平家軍と市民ではないだろうか。いわゆる「落武者狩」と追捕か。いずれにしても美しい話しではない。
 当初、追補(ついほ、ついぶく)とは官吏・官軍が朝廷の許可により正当な権利有りと称して、従来の年貢以上に兵粮米等を強制取り立てしたものが略奪に近いことから、官吏ではない者の略奪をもついぶくとも云うようになったようである。
 さらに、慈円の「愚管抄」では「法住寺合戦」も詳細に記述している。「愚管抄」では天変地異とか、火事、放火、強盗、群盗のような事件の記述は非常に少なく政変とか合戦の記述がメインである。その慈円が義仲入京前の京都市内の混乱「ものとりの略奪」や市民の「たがいについぶく」を記述しているのは、永い人生のなかでよほど印象に残っているからに違いない。
 このような人物が、「玉葉」に記述するような「義仲軍等の乱暴狼藉」を見逃すだろうか。兼実は弟の慈円の面倒をよくみており、当時慈円は法性寺座主であり、7月25日には行動を共にしている(参考資料 a 玉葉1183年(壽永二年)7月25日)。武士団の追捕は当然の軍事活動とみなしたかもしれない。
 多分、九条兼実の風聞では混乱が約1カ月続いたようである。しかし、慈円から見れば、義仲入京前の平家その他僧兵や一般民衆の略奪の混乱、法住寺合戦の混乱に比べれば、記述するほどの事件でも無かった。従前の平家軍と同様の食料調達のための当然の追捕で、平家軍と同じか、ましと見たに違いない。当時、平家軍は兵粮米の調達と称して追捕を行い、食料や資材を没収(略奪)していた。市民らの仕返しとも考えられる。

参考資料 a 「法皇御逐電」玉葉1183年(壽永二年)7月25日
寅の刻(4時)人告げて曰く、法皇御逐電と。この事、日来万人の庶幾(しょき、こいねがうこと)する所なり。しかるに今の次第においては、頗る支度無しと言うべきか。子細追って尋ね聞くべし。卯の刻(6時)、重ねて一定の由を聞く。よって女房等少々山奥の小堂の辺りへ遣わし、余・法印(慈円)相共に(他の僧達と同)堂(最勝金剛院)に向かひ、仏前に候ふ。この間(参議大納言、藤原)定能卿来る、法皇の幽閉の所を尋ね出し、密々隠し置きたり。
(現代文)
午後4時頃、ある人が知らせて来た。法皇がゆくえをくらまして逃げたようだ。これは日頃全員の願望であった。しかし今の状況では準備不足というべきだが、詳細は後で聞くことにしよう。午後6時頃、同じ情報を得た。依って女房等は少し山奥のお堂の近くへ避難させ、私(兼実)と弟の慈円法印は一緒にさらに他の僧侶達と共に、最勝金剛院の堂に向かい、仏前で待ちました。この時、参議大納言の藤原定能卿が来ました。「法皇の幽閉場所を探しだし、密かに隠していたのです」

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