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2006年1月18日 (水)

5.4 ひしめきてありける

5.4 ひしめきてありける
 もちろん義仲入京後も混乱は続いたようである。「吉記」7月30日にも「京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及ぶ。また松尾社司等相防ぐの間、社司等の家に放火す。梅宮社神殿追捕に及ぶ。広隆寺金堂追捕に及び、度々合戦す。行願寺また追捕すと。」と記述されている。これらの乱暴が義仲軍とは限らない。義仲追討の平家軍に参加し、逃げ帰り今度は義仲軍に合流した将兵が平家軍と同様の追捕を行った。どさくさに紛れ込んだ強盗、夜盗、平家の残党かもしれない。なにしろ現代のように警察官や軍隊のような制服を着ているわけではない。田舎を出たときの粗末な服装か途中で平家の落ち武者から略奪した服装かもしれない。義仲軍か平家軍か野盗か判別も出来ないだろう。
 「愚管抄」によれば義仲軍等の入京後の状況については「かくてひしめきてありける程に」という程度の表現である。「押し合ってごたごたしているうちに」である。何も無く無風であったわけではない。大混乱の中へ進駐したのである。
 当時、京都市内の民家は公卿の家も含め、官軍平氏の兵舎として徴用されていた。(治承5年2月8日、2月20日参照 5.5 ) なお兼実は右大臣であるから、平家や義仲は遠慮したが、義経軍は兼実の庵を徴用したようである。(寿永3年1月27日参照5.5 )
 頼朝、義仲の反乱を始め各地で反乱が起き、平家は追討軍を発するが、その軍の集結地として、京都市内の徴用された民家などが使用された。出発する前の軍による追捕と幸運にも凱旋した軍、不運にも敗戦した帰還兵による追捕による混乱があった。さらに僧兵、市民による略奪の混乱中であった。それを一応制圧したようである。しかし、六波羅の放火略奪、市内の市民等の略奪、落武者狩の惨状に比べれば、平家軍、義仲軍の追捕によるごたごたなどは慈円から見れば問題ではないようだ。
 とにかくこの時代は全国的な内乱状態で、市内は強盗、群盗、放火など平家軍、源氏軍、僧兵、公卿の従者、庶民の乱暴が横行した時代である。それらをまとめて義仲軍のせいにしたようである。
 これを現代の「スピード違反」に例えてみよう。制限速度50キロの普通道路を平家が取り締まりに必要だと100キロで走行の許可を取った。義仲も真似をした。義経・範頼も真似をした。周辺住民は皆大迷惑である。なかには真似をして許可無しで150キロ以上で飛ばす暴走族や住民もいた。義仲が最初に死んだ。鎌倉が100キロ走行を止めようと提案し、取り締まりを始めた。平家も死んだ。義経も死んだ。暴走族や住民は悪い事をしたと反省したが、悪いことをしたのは義仲だけだと口裏を合わせた。しかし、慈円和尚が一番悪いのは150キロ以上で暴走した奴だとポツリと云った。

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