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2006年1月31日 (火)

7.3「義仲・行家入京す」

7.3「義仲・行家入京す」

玉葉1183年(壽永二年)7月28日 天気晴れ、
今日義仲・行家等、南北より(義仲は北、行家は南)入京すと。晩頭(夕方)左少弁光長来たりて語る、義仲、行家等を蓮華王院(三十三間堂の寺号)御所に召し、追討の事仰せ下さる。大理(藤原実家)殿上の縁にてこれを仰す。かの両人地に跪(ひざまず)き承る。御所たるに依りてなり。
「かの両人権を争うの意趣あり」
参入の間、かの両人相並び、敢えて前後せず。争権の意趣これを以て知るべし。両人退出の間、頭弁兼光、京中の狼藉の停止すべき由仰すと。今朝、定能卿来たる。法印(慈円)昨日京に下る。
(現代文)
今日義仲・行家等が、南北より、義仲は北、行家は南より京都へ入った。夕方になり左少
弁(太政官(内閣)の役人)の光長が来て話した。義仲、行家等を蓮華王院(三十三間堂の寺号)の御所に呼び寄せ、平家を追討せよとの法皇の命令を下した。検非違使(警察兼裁判官)の長官の藤原実家が殿上の縁にてこれを伝えた。かの両人は御所であるから地にひざまづいて、謹んで聞いた。
「かの両人権を争うの意趣あり」
法皇の御前に進む間、かの両人は共に横に並び、敢えて前後しなかった。共に先を争う意思ありと知る事が出来る。両人が退出する時、頭弁(太政官(内閣)の役人)の兼光が、京都市内の乱暴を停止するように命令を伝えた。今朝は、定能卿が来た。弟の慈円法印は昨日、京都市内に戻った。

7月28日 [吉記]
「義仲行家御前に召し、前内大臣追討すべし由仰せ下さる」
 武将二人、木曽の冠者義仲(年三十余、故義方男、錦の直垂を着し、黒革威の甲、石打箭を負い、折烏帽子。小舎人童取染の直垂劔を帯し、また替箭を負い、油単を履く)・十郎蔵人行家(年四十余、故為義末子、紺の直垂を着し、宇須部箭を負い、黒糸威の甲を着し、立烏帽子。小舎人童上髪、替箭を負う。両人郎従相並び七八輩分別せず)参上す。行家先ず門外より参入して云く、御前に召さるるの両人相並び同時に参るべきか。然るべきの由仰せらると。次いで南門に入り相並び(行家左に立つ、義仲右に立つ)参上す。大夫の尉知康これを扶持す。各々御所東庭に参進し、階隠間に当たり蹲踞(そんきょ)す。別当公卿の座北簀子(すのこ)に下居し、砌下(せいか)に進むべきの由これを仰せらる。然れども両将進まず、西面に蹲踞す。大理仰せて云く、前の内大臣党類を追討し進すべきなり。両人唯(はい)と称し退き入る。忽ちこの両人の容餝(ようしょく)を見るに、夢か夢に非ざるか、万人の属目(しょくもく)、筆端(ひったん)の及ぶ所に非ず。頭の弁下地し相逢い、仰せ含めの旨有り。
(現代文)
「義仲行家御前に召し、前内大臣追討すべし由仰せ下さる」
 武将が二人、木曽の冠者義仲(年令は三十才余、故源義賢の次男、錦の直垂(ひたたれ)を着し、黒革威(おどし)の鎧(よろい)、石打(いしうち)の羽の矢を負い、折烏帽子(おりえぼし)。小舎人童取染(とりぞめ)の直垂(ひたたれ)劔(つるぎ)を帯し、また替箭を負い、油単を履く)・十郎蔵人行家(年令四十才余、故源為義の末子、紺の直垂を着し、宇須部箭を負い、黒糸威の鎧を着し、立烏帽子(たてえぼし)。小舎人童上髪、替箭を負う。両人の郎従は相並び七八人分別せず)参上した。行家が先ず門外より参入して云う、法皇様の御前に進むとき両人は相並び同時に参るべきか。然るべきの由指示されると。次いで南門に入り相並び(行家は左に立つ、義仲は右に立つ)参上した。大夫の尉知康がこれを補佐した。各々は御所の東庭に進み、階隠間に当たりひざまづき敬礼した。長官が公卿の座の北簀子(すのこ)の下に居て、切石のある階下の前に進むように指示した。しかし両将は進まずに、西面にひざまづいていた。検非違使(警察兼裁判官)長官が後白河法皇のお言葉を伝えた。前の内大臣の平宗盛以下の平家党類を追討せよと。義仲と行家の両人は「はい」と承り、退出した。早速この両人のみめかたちを見て思うに、夢か現実か、万人の注目は、筆の運びの及ぶ所に非ず。頭の弁が指図して相談し、命令を徹底するよう指示があった。
(解説)
義仲と行家が法皇に謁見した様子が記述されている。吉記のほうが間近にいて観察しているのがわかる。兼実のほうは伝聞である。

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