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2006年1月28日 (土)

6.8 官軍の追捕

6.8 官軍の追捕
 この追捕(ついふく)が官軍となった義仲軍にも引き継がれたようである。平家軍に参加し、徴兵徴発された将兵の大部分は義仲軍に投降したり、はやばやと逃げ帰った美濃・尾張・河内・近江の将兵なども義仲軍と同時に源氏軍として京都へ入京している。また大部分は後に義仲軍不利となると頼朝軍に鞍替えしている。当時の不安定な政治情勢ではそれぞれが家系の存続をかけて右往左往していたのだからやむをえないが。
 それらの将兵の食糧の調達は平家軍と同様に官軍としての追捕(つまり略奪)によるものであった。義仲軍は源平盛衰記によれば、百斉寺から米五百石の寄付を受けたようである。しかし全軍に支給するには不足している。木曽軍5万騎、5万人とすると一人当たり1升つまり2日分しかない。仮に実数5千人としても1ヶ月分もない。とすると京都周辺で追補による食料調達をしたと思われる。
 この時期の武士達の食糧調達は自己持参や寄付以外には、この「路次追捕」と「諸国の荘園等からの兵粮米」による。頼朝が後に発令させた宣旨から判断すると、義仲は「路次追捕」は取り締まったようだが、「諸国の荘園等からの兵粮米」は継続したようである。荘園を保有している法皇・宮家・公家・神社・仏寺からは徴集したかもしれない。あるいは京都近隣の諸国へは兵粮米の徴集のための軍勢を出したかもしれない。
 法皇公家からは軍勢が多過ぎるから減らせ、京都市内の治安を回復せよ、平氏の追討もせよ、食量の支給はしないと無理難題を突きつけている。(玉葉7月30日)
 入京時の7月28日(旧暦、新歴8月24日)は米の収穫前で特に食料が不足していた。その後新米の収穫が始まり兼実の風聞でも1ヶ月ほど(旧暦9月5日、新暦10月1日)で追補は終了したと思われる。食料の確保が出来れば治安の回復は容易である。
 義仲も取り締まりをしていたかのような記述がある。(玉葉8月28日)
この時期に頼朝も上京を促されたが兵粮米の確保に不安だ、その他の理由で断った。(玉葉の寿永二年十月九日参照)
 その後上京した義経軍も京都市内では遠慮したが、平家側とみなした公家や京都以外では追捕・乱暴した記録が「玉葉」「平家物語・延慶本」その他の史料に残っている。

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