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2006年1月 6日 (金)

「平家物語」に見る義仲軍・平家軍の乱暴狼藉の記述

2. 「平家物語」に見る義仲軍・平家軍の乱暴狼藉の記述

2.1 「平家物語・高野本に見る義仲軍の乱暴狼藉の記述」
「およそ京中には源氏みちみちて、在々所々に入り捕り多し。賀茂・八幡の御領ともいはず、青田を苅てま草にす。人の倉をうちあけて物をとり、持ちて通る物奪ひとり、衣裳をはぎとる。「平家の都におはせし時は、六波羅殿とて、ただ大方恐ろしかりしばかり也。衣裳をはぐまではなかりし物を、平家に源氏替へ劣りしたり」とぞ人申しける。」
(現代文)
 まったく京都市内に源氏の兵が満ちあふれているのに、あちこちの家でかってに入り込んでの略奪や強制取り立てが多い。賀茂や八幡の御領地であろうとなかろうと、田んぼの稲が実る前の青草の状態のものを刈り取って馬の餌にしている。人の蔵をかってにうち開いて物を取り出したり、物を持ち歩くと奪われたり、着物を剥ぎ捕られる。「平家が都を治めていたときは、六波羅の清盛様でも、悪口を言うと、ひどい目に遭ったりして、ただ恐ろしいだけだったが、着物を剥ぐことまではしなかった。平家を源氏に替えて悪くなった。」とひとびとは言いました。

とあり、後世の小説家や歴史研究者の多くがここだけ取り上げて、いかにも義仲軍のみが乱暴狼藉したように説明している。しかし、最近の研究者は平家軍・頼朝軍ともに乱暴狼藉した記述が平家物語や玉葉にもあることを知っている。ただしその声は小さい。義経の人気に気兼ねしているのである。

2.2「高野本に見る平家軍の乱暴狼藉の記述」

 義仲軍入京の前に義仲軍追討のため派遣した平家軍が北陸への北国下向の場面において「高野本に見る平家軍の乱暴狼藉の記述」は

「かた道を給はッてげれば、逢坂の関よりはじめて、路地にもてあふ権門勢家の正税、官物をも恐れず、一々にみな奪ひとり、志賀・辛崎(からさき)・三河尻(みつかはじり)・真野・高島・塩津(しほつ)・貝津(かひづ)の道のほとりを次第に追捕(ついふく)して通りければ、人民こらへずして、山野にみな逃散す。」となっている。
(現代文)
兵粮米の片道分の現地調達(追捕、ついほ、ついぶく)を認められたので、逢坂の関よりはじめて、進軍途中にある京都の公家の荘園の運上物だろうが国税だろうが構わず、全部奪い取り、志賀から貝津の街道周辺で順々に現地調達、強制取り立て(正式には追捕)をしながら通過していき、食糧や資材の略奪以外に徴兵や人夫としての徴発や、牛馬の徴発もあり、あまりのひどさに周辺の住民はみなこらえきれずに山や野へ逃げてしまいました。

 つまり、保元・平治の乱以後、約20年間権勢を誇った清盛平家軍も頼朝や義仲などの各地で起こる反乱軍の鎮圧に官軍として追討軍を派遣している内に飢饉も重なり兵粮米が不足し、とうとう寿永2年4月の義仲追討軍の場合は進軍途中で片道分を路次追捕(ろじついふく)という名目の現地調達・強制取り立てを認めさせたのである。進軍途中の官庁、神社仏寺、民家からの強制取り立てを行った。追捕の名目とはいえ実態は略奪に等しく、普通の略奪をも追捕(ついほ、ついぶく)などというようになったようである。そして、頼朝・義経軍の場合は高野本などでは乱暴狼藉の記述が無い。しかし「平家物語・延慶本」「玉葉」には平家軍、義仲軍、頼朝軍ともに追捕による乱暴狼藉の記述がある。また兼実の「玉葉」、経房の「吉記」などの貴族の日記、慈円の「愚管抄」によれば、京都市内の混乱は義仲軍入京前から始まっており、その鎮圧を義仲軍に期待したのである。しかし、入京した義仲軍は制圧に若干の日数を要したようである。

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