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2006年1月15日 (日)

「愚管抄」の記述(愚管抄巻第五より)

5.「愚管抄」の記述(愚管抄巻第五より)

5.1 1183年 (壽永二年 癸卯)7月

北国の方には、帯刀先生(たちはきせんじやう)義方が子にて、木曾冠者義仲と云者などおこりあひけり。

宮(みや、高倉王)の御子(みこ)など云人くだりておはしけり。清盛は三条の以仁(もちひと)の宮うちとりて、弥(いよいよ)心おごりつゝ、かやうにしてありけれど、東国に源氏おこりて国の大事になりにければ、小松内府(重盛)の嫡子三位中将維盛(これもり)を大将軍にして、追討の宣旨下して頼朝うたんとて、治承四年九月廿一日下りしかば、人見物して有し程に、駿河の浮島原にて合戦にだに及ばで、東国の武士ぐしたりけるも、皆落ちて敵の方へゆきにければ、帰りのぼりにけるは逃げまどひたる姿にて京へ入りにけり。其後平相国入道(へいしやうごくにふだふ、清盛)は同五年閏二月五日、温病(をんびやう)大事(だいじ)にて程なく薨逝(こうせい)しぬ。その後に(後白河)法皇に国の政かへりて、内大臣宗盛ぞ家を嗣(つぎ)て沙汰しける。高倉院は先立ちて正月十四日にうせ給ひにき。かくて日にそへて、東国、北陸道みなふたがりて(塞がって)、このいくさに勝たん事を沙汰してありけれど、上下諸人の心みな源氏に成りにけり。

次第にせめよするきこへども有ながら、入道うせて後、寿永二年七月までは三年が程すぎけるに、先づ北陸道の源氏すゝみて近江国に満ちみちけり。これよりさき越前の方面へ家(いへ)の子(こ)どもやりたりけれど、散々に追ひかへされてやみにけり。となみ山のいくさとぞ云ふ。かゝりける程に七月廿四(日)の夜、事火急になりて、六はらへ(安徳天皇が)行幸なして、一家の者どもあつまりて、山科(やましな)がために大納言頼盛をやりければ再三辞しけり。頼盛は、「治承三年冬の比(ころ)あしざまなる事ども聞ゑしかば、ながく弓箭(ゆみや)のみちはすて候(さふらひ)ぬる由、故入道殿(こにふだどの、清盛)に申してき。遷都のころ奏聞し候ひき。今は如此事には不可供奉」と云ひけれど、内大臣宗盛不用也。せめふせられければ、なまじいに山しなへむかいてけり。かやうにして今日明日義仲・東国の武田など云う者もいりなんずるにてありければ、さらに京中にて大合戦あらんずるとて、をのゝきあいける程に、廿四日の夜半に法王ひそかに法住寺殿をいでさせ給ひて、鞍馬の方よりまはりて横川(よかは)へのぼらせをはしまして、近江の源氏がりこの由仰せつかはしけり。たゞ北面下臈(ほくめんげらふ)にともやす、鼓の兵衛と云ふ男御輿かきなんどしてぞ候ひける。暁にこの事あやめ出して六はらさはぎて。辰・巳・午(たつみうま)両三時ばかりに、やうもなく内をぐしまいらせて、内大臣宗盛一族さながら鳥羽の方へ落ちて、船にのりて四国の方へむかいけり。

六はらの家に火かけて焼(やき)ければ、京師(けいし)中に物とりと名付(なづけ)たる者いできて、火の中へあらそい入(いり)て物とりけり。

その中に頼盛が山しなにあるにもつげざりけり。かくと聞きて先(まづ)子の兵衛佐(ひょうえのすけ)為盛(ためもり)を使ひにして鳥羽に追いつきて、「いかに」と云ければ、返事をだにもゑせず、心もうせてみゑければ、はせ帰りてその由云ければ、やがて追様(おひざま)に落けれど、心の内はとまらんと思ひけり。又この中に三位中将資盛(すけもり)はそのころ院の覚えして盛りに候ひければ、御意向をうかがおうと思いました。この二人は鳥羽より打ちかへり法住寺殿に入り居たところ、又京中地(ち)をかへしてけるが、山へ二人ながら事の由を申たりければ、頼盛には、「さ聞食(きこしめし)つ。日比(ひごろ)よりさ思食(おぼしめし)き。忍(しのび)て八条院の辺に候へ」と御返事承りにけり。もとより八条院のをちの宰相と云寛雅(くわんが)法印が妻は姑(しうとめ)なれば、女院の御うしろみにて候ければ、さてとまりにけり。資盛は申しいるゝ者もなくて、御返事をだに聞かざりければ、又落て相具してけり。さて廿五日東塔円融房へ御幸なりてありければ、座主明雲はひとへに平氏の護持僧にて、とまりたるをこそ悪しと云ければ、山へはのぼりながらゑまいらざりけり。さて京の人さながら摂禄(摂政)の近衛殿(基通)は一定(いちぢやう)具して落ちぬらんと人は思ひたりけるも、たがいてとゞまりて山へ参りにけり。松殿入道(基房)も九条右大臣(兼実)も皆のぼりあつまりけり。

その刹那(せつな)京中はたがいに追捕(ついぶく)をして物もなく成(なり)ぬべかりければ、「残りなく平氏は落ちぬ。をそれ候まじ」とて、

廿六日のつとめて(早朝)御下京(ごげきやう)ありければ、近江に入(い)りたる武田先(まづ)まいりぬ。つゞきて又義仲は廿六日に入りにけり。六条堀川なる八条院のはゝき尼が家を給りて居にけり。

(以下8月)

かくてひしめきてありける程に、「いかさまにも国王は神璽(しんじ)・宝剣・内侍所(ないしどころ)あいぐして西国の方へ落給(おちたま)ひぬ。この京に国主なくてはいかでかあらん」と云ふさたにてありけり。父法皇をはしませば、西国王(にしのこくわう)・・・



(現代文)
北陸道の国々の方面では、皇太子御所の警備隊長を勤めた源義賢の子で、木曾義仲と云う若武者などもたちあがりました。

高倉王の御子(みこ)などと云う人も京から下り北陸道の国においででした。清盛は三条の以仁(もちひと)の宮をうちとり、いよいよ得意になっていましたが、東国に源氏が反旗をひるがえし、国の重大事になりましたので、小松内府(重盛)の嫡子で三位中将の維盛(これもり)を大将軍にして、追討の宣旨(天皇の命令)を下して頼朝を討つため、治承四年九月廿一日京より下りました。人々が見物しているうちに、駿河(静岡)の浮島原において合戦にもならずに、東国の武士を従えていたのだが、皆敵の方へ降参して行ってしまったので、帰り上るときは逃げまどう姿で京へ入りました。その後、平相国入道清盛は治承五年閏二月五日、熱病が重態で程なく亡くなりました。その後に後白河法皇に国の政治の実権は還り、内大臣の宗盛が平家を継いで指図をしていました。高倉上皇は先立つ正月十四日にお亡くなりでした。かくして日に日に、東国、北陸道はみな塞がって、このいくさに勝とうとする事の指図がありましたが、上も下も諸人の心はみな源氏側に付きました。次第に攻め寄せる知らせなど有ながら、入道亡くなって後、寿永二年七月までは三年程経ちました。先づ北陸道の源氏軍が進軍して近江国に満ちみちました。これより前に越前の方面へ平家軍を派遣しましたが、散々に追い返されて終わりました。となみ山(越中国砺波郡)の合戦です。
 そのうちに七月廿四日の夜、事は火急を要すると、六はらの平家の屋敷へ安徳天皇が行幸なされて、平家一家の者達も集合して、山科(やましな)方面の警護に大納言頼盛を派遣しようとしたが再三辞退しました。
 頼盛は、「治承三年冬の比(ころ)不評を聞いたので、ながく武芸は捨てると、故入道殿(清盛)に申しました。遷都のころ申し上げました。今はこのような事には参加することはできません」と云いましたが、内大臣宗盛は聞きいれません。言いふせられて、無理矢理に山しなへむかいました。
 このようにして今日か明日か義仲や東国の武田などと云う者も入るようになる状況になり、さらに京中において大合戦があるだろうと、おそれ震えあううちに、廿四日の夜半に法王はひそかに法住寺殿をいでて、京都の鞍馬山の方面より廻り横川(比叡山三塔の一、よかは)へのぼらせまして、近江の源氏の許にこの状況の使者を送りました。たゞ北面の武士で知康、鼓の兵衛と云う男は御輿かつぎなどして仕えていました。
 あけがたにこの事を怪しみいぶかりはじめて六はらは騒動となりました。朝7時頃から、約6時間をかけて、わけもなく天皇のお供をして、内大臣平宗盛以下平家一族そろって鳥羽の方面へ落ちてゆき、船に乗り四国の方面へむかいました。

六はらの平家の家屋敷には火を付けて、焼き払おうとしたので、京中の物とりと名乗る者達が現れて集まり、火の中へあらそいながら入りこみ、物とりをしました。

その中で頼盛が山しなにいるにも知らせなかった。そうと聞いて先づ子の兵衛佐(ひょうえのすけ)為盛(ためもり)が使いとなり、鳥羽にて追いついて、「どうしますか」と聞きましたが、返事をも出来ず、心も失っているように見えるので、急いで帰るように云いましたら、やがて後を追って落ちてきたが、心中では京に留まろうと思った。又この中に三位中将資盛(すけもり)はそのころ後白河法皇の寵愛があり、御意向をうかがおうと思いました。
 この二人は鳥羽より引き返し法住寺殿に入り居たところ、又京都市内は騒動していますが、比叡山へ二人そろって事の由を申しましたので、頼盛には、「そのように聞いている。ひごろよりそのように思います。ひそかに八条院(後白河院の妹)の辺に来なさい」と御返事を承りました。もとより八条院の乳母の宰相と云う寛雅(くわんが)法印の妻は姑(しうとめ)ですから、女院の御後見であるので、そのように留まりました。
 資盛は申し入れる者も無く、さらに御返事も聞かなければ、再度落ち行き平家軍と相共になりました。
 さて廿五日東塔(比叡山三塔の一)の円融房(円徳院の本房で円仁の弟子承雲が初祖)へ法皇が御幸ありましたが、天台座主の明雲は元は平氏の護持僧(その人のために常に祈祷する僧。明雲は安徳天皇の護持僧だった)ですから、留まるのは悪いと云いましたので、比叡山へはのぼりながら法皇の前には参りませんでした。
 さて京の人は多分摂政の近衛基通は必ず平家と共に落ちるだろうと人は思いましたのに、違いて留まり比叡山へ参りました。松殿入道(基房)も九条右大臣(兼実)も皆のぼりあつまりました。

その瞬間、京都市内では、たがいに追捕(ついぶく)をして物もなくなりましたので、「残りなく平氏は落ちて行ました。おそれはあるまい」とて、

廿六日の早朝、法皇は京に下りましたので、近江に待機していた武田軍が先づ入京しました。続いて又義仲軍は廿六日に入りました。六条堀川の八条院の母の尼の家を頂いて住んでいました。

(以下8月)

かくして、押しあってごたごたしているうちに、「いかにも安徳天皇は神璽(しんじ)・宝剣・内侍所(ないしどころ)の三種の神器を持ちまして西国の方面へ落ちてゆきました。この京に国主がいないのはどうしたものか」と云う次第の指図となりました。父の法皇がおられますので、西国王(にしのこくわう)
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