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2006年1月14日 (土)

4.3 「玉葉」に見る頼朝軍の場合

4.3 「玉葉」に見る頼朝軍の場合

1184年(寿永3年、元歴元年)1月28日 天晴れ
「隆職追捕さる」
早旦、大夫史隆職使者を進して云く、忽ち追捕(ついぶ)せられ、家中恥辱に及ぶ。これをなす如何。九郎の従類の所為と。召人の滅亡を思ふに依って、使いを九郎の許に遣わし、子細を相触る。縦えその身罪科有りと雖も、当時の狼藉を停止すべきの由なり。
「親能頼朝代官として義経を補佐し入洛」
また書札を以て前の源納言(雅頼)の許に示し遣わす。次官親能彼の納言の家に在り。件の男頼朝の代官となり、九郎に付き上洛せしむ所なり。仍って万事奉行を為すの者と。
「義経勢史大夫と大夫史を取り違え小槻隆職を追捕す」
これに因って触れんが為、件の男彼の納言に示す所なり。九郎の返事に云く、この事、平氏書札を京都に上す。件の使者を搦め取らる。各々報礼を持つと。その中にこれ有り。史大夫の者召し進すべきの由、左衛門の尉時成の奉行として、院より仰せ下さる。仍って相尋ねるの間、大夫史の宅に罷り向かう。次第不敵。狼藉に於いては、早く止むべしと。また納言の返札到来す。親能一切知らざるの由を申すと。叉宰相中将(定能)に相尋ぬる処、返事の上、全く知し食さざる事と。
「隆職の文庫義経従類に打ち破られ文書を奪わる」
 晩に及び使いを隆職の許に遣わし、子細を尋ね問う。帰り来たり云う。文書等少々片山里に遣わすと雖も、要須の文書においては併しながら身に随う。率爾(そつじ)の尋ねに備えるためなり。しかるに文庫の戸を打ち破り、併しながら取られたりと。凡そ官中の文書、古来只一本書なり。然るに肝心失えば、即ち我が朝の滅亡なり。誠に天下の運滅尽の期か。悲しむべし悲しむべし。

(現代文)
「隆職追捕さる」
早朝、大夫史(現内閣の役人)の小槻隆職が使いを寄こして伝えた。いきなり追捕(ついぶ)され、家中が乱暴される恥辱を受けました。追捕を行う理由はなにか。源九郎義経の従者達の所行であるようだ。使用人の惨めな状況を心配して、使いを源九郎義経の許に送り、詳細を問い尋ねた。たとえ隆職に何らかの罪が有るとはいえども、当面の乱暴な行動を停止させるためである。
「親能頼朝代官として義経を補佐し入洛」
また文書を以て前の源納言(雅頼)の許に使いを送る。次官の親能は雅頼の納言の家に在宅している。親能は頼朝の代官となり、九郎義経に付き従いて上京した者である。仍って万事について奉行として指図をする者であるようだ。
「義経勢史大夫と大夫史を取り違え小槻隆職を追捕す」
これにより状況を知らせるため、親能や源納言(雅頼)に知らせを送る所である。九郎義経の返事では、この事は、平氏が文書を京都に送り、その平氏の使者を捕らえた。それぞれ報告の文書を持っていた。その中に関連の文書が有った。「史大夫」の者を呼び出し差し出すように、左衛門の尉時成が奉行として、法皇より命令を受けた。したがって調査のため、「大夫史」の屋敷に向かったものである。ことの次第は不敵当である。乱暴狼藉については、早く停止すべきである。また納言の回答文書が到来した。親能は一切知らないと回答した。叉宰相中将(定能)に質問したが、全く知らない事であると回答してきた。
「隆職の文庫義経従類に打ち破られ文書を奪わる」
 夕方になり、使いを隆職の許に送り、詳細を尋ねた。使いが帰り来て話した。文書等は少々は片山里に避難したが、重要で必要な文書は身近にに置いていた。にわかの質問の回答に備えるためである。しかるに文庫の戸を打ち破り、取られた。全く官公所の文書は、昔から唯一の本書である。それなのに大切な文書を失えば、即ち我が朝庭の滅亡となる。誠に我が朝廷以下の運は滅亡の時か。悲しむべし悲しむべし。

(解説)
頼朝軍は京都市内および近辺では追捕を遠慮したが、平家関係者は追捕したようである。この事件は「史大夫」と「大夫史」の役職名を勘違いしたことによるものらしい。「大夫史」は太政官(現内閣)の政務の実務担当者である。特に五位の者が大史に任じられると「史大夫」と呼ばれた。

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