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2006年1月21日 (土)

6.「乱暴狼藉の真相・・・とんだ濡れ衣

6.「乱暴狼藉の真相・・・とんだ濡れ衣
        京中はたがいについぶく(愚管抄より)」
6.1 追捕(ついほ、ついぶく)
 「愚管抄」によれば、義仲軍等の乱暴狼藉の記述は無く、「平家物語」の「創作・誇張」であり、「玉葉」による風聞の「大袈裟」な記述によるものである。「追捕」による食料・兵糧米の調達のときのいざこざであろう。
 現在の納税は会社員は給料から天引き(源泉徴収)、自営業者は自主申告の納税である。これを戦費不足の為増税となった時、警察官や兵隊が直接「追加納税せよ」と称し厳しい取り立てに来たらどうなるか。
 当時京都以西の西国は大飢饉だった。「吉記」に人が人を食うの珍事の記述がある。勿論たんなる風説(デマ)である。記述したが誤りと後日訂正している。(参照6.2 養和2年2月22日)
 平家軍も兵粮米の調達に苦心し全国の荘園からも、かき集めた。清盛の死後、宗盛は「兵粮すでに尽き、征伐の力無し、清盛の沙汰の如く西海・北陸道の運上物を点定(徴収)し、兵粮米にあてるべきかと」と提案し、了承を求めている。(参照6.2玉葉の養和元年閏二月六日) 
 また養和2年には諸国の庄々に兵粮米徴収の院宣を下した。参照1182年 (養和2年)3月17日 天晴 [吉記]「兵粮米徴収を検非違使庁の遣いに託す」

 しかし未だ不足し、とうとう寿永2年4月の義仲追討軍の場合は「平家物語・北国下向」にも表現されるように、「片道賜りてければ・・・追捕(ついぶく)し・・・人民山野に逃散す」とあるように兵粮米の片道分は進軍途中で現地調達(強制取り立て・略奪)を認められた。これを「路次追捕(ろじついぶく)」という。現地調達との名目とはいえ実態は略奪に等しく進軍途中の官庁・神社仏寺・民家は大迷惑である。抵抗すると殺されたり焼き討ちされた。食糧の調達以外に人夫としての徴用などもしたようである。
 平家軍は京都を出発する時は京都市内外でも追捕をした。(参考4.1 玉葉の寿永二年四月十三日、十四日)
 この路次追捕の許可について玉葉に記述は無いが、法皇以下の朝廷の暗黙の了承は出ていたと思われる。その理由は「一ノ谷合戦」後に頼朝の申請により、この路次追捕を取り消す宣旨(せんじ)が1184年(壽永3年)2月23日に記述されている。(参照6.3)つまり平家軍、義仲軍、頼朝軍ともに路次追捕(という乱暴)をしていたことになる。この追捕は当時としては合法的軍事活動の一部である。軍事活動即ち戦争行為は平時、民間人から見れば、かなり異常で乱暴な行為である。平時に民間人が人を殺せば殺人罪で罰せられる。戦時に軍人や武士は大量の殺人をすると英雄になれる。平時に民間人が放火をすれば放火罪で罰せられる。戦時に軍人や武士の殺人や放火は当然の作戦行動である。当時の武士団としては軍事活動の一部として兵粮調達の当然の行為としての「追捕」も民間人や貴族から見ればずいぶん乱暴な行為に写ることになる。
 頼朝軍はそれ以後路次追捕を完全に停止したかというと、そうはいかず兵粮米不足に悩み追捕を続けたようである。(参照6.4「吾妻鏡」1185年(元暦2年)1月6日)平家滅亡後、義経以下の武士の自由任官を非難する頼朝の有名な文書にも追捕を非難する文章がある。(参照6.5「吾妻鏡」1185年(元暦2年)4月15日)

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