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2006年1月11日 (水)

3.3.鎌倉軍の場合

3.3.鎌倉軍の場合

「梶原摂津の国勝尾寺焼き払うこと」「延慶本の場合」

十八 元歴元年二月四日、梶原一ノ谷へ向かいけるに、民ども勝尾寺に物を隠す由をほの聞きて、兵襲いせめしかば、老いたるも若きも逃げ隠れき。三衣一鉢を奪うのみにあらず、たちまちに火を放ちにければ、堂舎仏閣悉く春の霞となり、仏像経巻しかしながら夜の雲と昇りぬ。感陽宮の煙の片々たりしも、仏閣あらねばその咎なを軽く、祇園寺の炎の炎々たりしも、人の企てならねばその罪重からじ。しかるを今滅ぼす所は仏閣僧坊六十八宇、経論しやうしよ九千余巻、仏像道具資材雑物、全て算術の及ぶ処にあらず。罪すでに五逆罪よりも重し。当果あに地獄の苦しみをまぬかれむや。薬師三尊は自ずから炎を逃れ、千手観音は空しく煙となり給へり。目もくれ心も消えて、泣き悲しむ者多し。されども、頂上仏の金銅の阿弥陀の御身に納めたりし金銅の観音と、灰の中より求め奉る、百済国より送れる三尺五寸の撞き鐘も、水の如くに熔けるに、三尊残り給へるを見て、寺僧共歓喜の涙をぞ流しける。
(現代文)
元歴元年(1183年)二月四日、梶原景時の軍勢が一ノ谷へ向かう途中で、近隣の民衆が勝尾寺に資材を隠している(、平家軍の残党が隠れている)らしいという話しを聞きつけて、軍勢が押し寄せたので、老人も若者も逃げたり隠れたりした。衣類や食糧や資材を奪い取るだけでなく、たちまちに火を放けたので、堂舎や仏閣は悉く春の霞のように、仏像や経巻もあわせて夜の雲のように燃え尽きた。感陽宮の煙が片々とたなびいても、仏閣でなければその過ちはいくらか軽く、祇園寺の炎が炎々と燃え上がるとしても、人の企てでわざとでなければその罪は重くない。しかるに今消滅する所は仏閣や僧坊が六十八棟、お経の巻物は九千余巻、仏像や道具など資材や雑物、全て数えることも出来ない。罪はすでに五種の罪悪よりも重い。当果あに地獄の苦しみをまぬかれないだろう。
 薬師三尊の像は運よく炎を逃れたが、千手観音は空しく燃えて煙となりました。呆然自失し、泣き悲しむ者が多い。それでも、頂上仏の金銅の阿弥陀の御身に納めていた金銅の観音と、灰の中から探し出した、百済国より送られた三尺五寸のつりがねも、水のように熔けたのに、薬師三尊は焼けずに残るのを見て、寺の僧達は歓喜の涙を流しました。
(解説)
義経の目付役として有名な梶原景時が食料調達のための追捕の軍勢の指揮官として登場している。一の谷の合戦場へ向かう途中である。勝尾寺は焼失したが、戦後、頼朝は再建し、梶原景時が尽力したと記録されている。

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