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2006年1月20日 (金)

5.6 兼実・慈円は頼朝贔屓

5.6 兼実・慈円は頼朝贔屓

 慈円は「愚管抄」を記述するにあたり、史料を集め、「平家物語」を耳にし、兄の日記「玉葉」も眼にしたはずである。しかし、真実を記録しておこうと記述したに違いない。養和の大飢饉のとき、鴨長明の方丈記によれば餓死者が四万人も出たほどの大都市に五万の軍勢が入れば、かなりのひしめきあいでかなりの摩擦ごたごたは有るだろう。ただ此の四万とか五万の人数は多すぎると思うが。義仲軍入京前の混乱に比べれば、それほどの混乱では無いようだ。
 玉葉の風聞によれば、義仲軍等に田は全て刈り取られた、運上物は全て奪い取られたとなっている(寿永2年9月3日)。とすれば北朝鮮のように市内には餓死者があふれそうであるが、そのような報告、伝聞、風聞すら無い。
 平家物語、源平盛衰記、玉葉には義仲軍等の乱暴について非常に詳しく記述するが、義仲入京前に「ものとりが集まる」とか「たがいについぶく」などの記述は無い。「火事場泥棒」とか「落ち武者狩り」など庶民は聞きたくないだろう。また混乱の当時は犯人あるいはは当事者は不明だった。後日判明したのだろう。
 入京後「愚管抄」では「かくてひしめきてありける程に」のみである。入京前の「ものとりが略奪」とか「たがいについぶく」などの混乱ぶりに比べれば随分あっさりしている。更に、平家軍、鎌倉軍も追捕による略奪や放火をしたはずだが、その記述が無い。各軍の追捕があえて記述するほどの事でもないのか。軍事行動の一部としての追捕なら、民間人から見ればひどい話しだが、戦とはそのようなものである。平時において民間人の殺人や放火は重大な犯罪だが、戦時において焼き討ち(放火)や征伐(殺人)は当たり前で、将兵や軍人の大量殺人者は英雄になる。
 慈円は義仲贔屓では無い、どちらかといえば頼朝贔屓である。後に頼朝贔屓の兄兼実の推薦により、天台(比叡山延暦寺)座主にも就任した。

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