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2006年1月

2006年1月31日 (火)

7.3「義仲・行家入京す」

7.3「義仲・行家入京す」

玉葉1183年(壽永二年)7月28日 天気晴れ、
今日義仲・行家等、南北より(義仲は北、行家は南)入京すと。晩頭(夕方)左少弁光長来たりて語る、義仲、行家等を蓮華王院(三十三間堂の寺号)御所に召し、追討の事仰せ下さる。大理(藤原実家)殿上の縁にてこれを仰す。かの両人地に跪(ひざまず)き承る。御所たるに依りてなり。
「かの両人権を争うの意趣あり」
参入の間、かの両人相並び、敢えて前後せず。争権の意趣これを以て知るべし。両人退出の間、頭弁兼光、京中の狼藉の停止すべき由仰すと。今朝、定能卿来たる。法印(慈円)昨日京に下る。
(現代文)
今日義仲・行家等が、南北より、義仲は北、行家は南より京都へ入った。夕方になり左少
弁(太政官(内閣)の役人)の光長が来て話した。義仲、行家等を蓮華王院(三十三間堂の寺号)の御所に呼び寄せ、平家を追討せよとの法皇の命令を下した。検非違使(警察兼裁判官)の長官の藤原実家が殿上の縁にてこれを伝えた。かの両人は御所であるから地にひざまづいて、謹んで聞いた。
「かの両人権を争うの意趣あり」
法皇の御前に進む間、かの両人は共に横に並び、敢えて前後しなかった。共に先を争う意思ありと知る事が出来る。両人が退出する時、頭弁(太政官(内閣)の役人)の兼光が、京都市内の乱暴を停止するように命令を伝えた。今朝は、定能卿が来た。弟の慈円法印は昨日、京都市内に戻った。

7月28日 [吉記]
「義仲行家御前に召し、前内大臣追討すべし由仰せ下さる」
 武将二人、木曽の冠者義仲(年三十余、故義方男、錦の直垂を着し、黒革威の甲、石打箭を負い、折烏帽子。小舎人童取染の直垂劔を帯し、また替箭を負い、油単を履く)・十郎蔵人行家(年四十余、故為義末子、紺の直垂を着し、宇須部箭を負い、黒糸威の甲を着し、立烏帽子。小舎人童上髪、替箭を負う。両人郎従相並び七八輩分別せず)参上す。行家先ず門外より参入して云く、御前に召さるるの両人相並び同時に参るべきか。然るべきの由仰せらると。次いで南門に入り相並び(行家左に立つ、義仲右に立つ)参上す。大夫の尉知康これを扶持す。各々御所東庭に参進し、階隠間に当たり蹲踞(そんきょ)す。別当公卿の座北簀子(すのこ)に下居し、砌下(せいか)に進むべきの由これを仰せらる。然れども両将進まず、西面に蹲踞す。大理仰せて云く、前の内大臣党類を追討し進すべきなり。両人唯(はい)と称し退き入る。忽ちこの両人の容餝(ようしょく)を見るに、夢か夢に非ざるか、万人の属目(しょくもく)、筆端(ひったん)の及ぶ所に非ず。頭の弁下地し相逢い、仰せ含めの旨有り。
(現代文)
「義仲行家御前に召し、前内大臣追討すべし由仰せ下さる」
 武将が二人、木曽の冠者義仲(年令は三十才余、故源義賢の次男、錦の直垂(ひたたれ)を着し、黒革威(おどし)の鎧(よろい)、石打(いしうち)の羽の矢を負い、折烏帽子(おりえぼし)。小舎人童取染(とりぞめ)の直垂(ひたたれ)劔(つるぎ)を帯し、また替箭を負い、油単を履く)・十郎蔵人行家(年令四十才余、故源為義の末子、紺の直垂を着し、宇須部箭を負い、黒糸威の鎧を着し、立烏帽子(たてえぼし)。小舎人童上髪、替箭を負う。両人の郎従は相並び七八人分別せず)参上した。行家が先ず門外より参入して云う、法皇様の御前に進むとき両人は相並び同時に参るべきか。然るべきの由指示されると。次いで南門に入り相並び(行家は左に立つ、義仲は右に立つ)参上した。大夫の尉知康がこれを補佐した。各々は御所の東庭に進み、階隠間に当たりひざまづき敬礼した。長官が公卿の座の北簀子(すのこ)の下に居て、切石のある階下の前に進むように指示した。しかし両将は進まずに、西面にひざまづいていた。検非違使(警察兼裁判官)長官が後白河法皇のお言葉を伝えた。前の内大臣の平宗盛以下の平家党類を追討せよと。義仲と行家の両人は「はい」と承り、退出した。早速この両人のみめかたちを見て思うに、夢か現実か、万人の注目は、筆の運びの及ぶ所に非ず。頭の弁が指図して相談し、命令を徹底するよう指示があった。
(解説)
義仲と行家が法皇に謁見した様子が記述されている。吉記のほうが間近にいて観察しているのがわかる。兼実のほうは伝聞である。

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2006年1月30日 (月)

7.2 義仲入京前の混乱

7.2 義仲入京前の混乱

7月26日[吉記]「眼前に天下の滅亡を見る」
 山僧等京に下る。路次の狼藉勝げて計ふべからず。或いは降将縁辺と称し放火し、或いは追捕物取と号す。人家一宇全うする所無し。眼前に天下の滅亡を見る。ああ悲しきかな。余の亭は此のわざわいを免れる。ひとえに仏神の冥助なり。
(現代文)
比叡山の僧兵達などが、京都市内に入ってきた。道路付近の乱暴乱雑な状態は数え切れないほどだ。平家の武将のゆかりの家だとして火を付けたり、追捕だとして略奪する。人の住む家で完全な所は無くなった。眼前に天下の滅亡を見る思いだ。悲しい事だ。幸いにも私の家はこの災難を免れた。まさに仏様神様のお助けである。

7月27日「玉葉」「義仲、行家、士卒の狼藉を停止、早く入京すべし」

今においては、義仲(木曽)、行家(十郎)等、士卒の狼藉を停止、早く入京すべしか、その後早く速やかに還御あるべし、しからずば、京都の濫吹あえて止めるべからず、これらの趣早く奏聞すべし。
(現代文)
今となっては、木曽義仲や十郎行家などを、武士等の乱暴を停止させるため、早く京都へ入れるべきである。その後速やかに法皇がご帰還されるべきである。そうでなければ、京都の秩序の乱れ、乱暴狼藉は止める事が出来ない。これらの状況と趣旨を早く申し上げるべきである。
(解説)
平家軍都落ち後、予想外の混乱が発生した。「愚管抄」によればたがいに追捕(略奪)をした。市民同士が略奪したのか、市民と平家軍なのかは不明だが、警備の空白に発生した京都市内の混乱、乱暴狼藉を停止させるには義仲・行家の早い入京に期待するしかない。当時の僧兵も外見は僧のようであるが、寺の傭兵のようなもので武力を振るった。

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2006年1月29日 (日)

7.義仲軍の入京の状況 7.1 平家軍都落ち

7.義仲軍の入京の状況

 普通の木曽義仲物語なら、義仲の誕生から解説するのであるが、本章は「平家物語」、「玉葉」における義仲軍乱暴狼藉説の捏造、風聞を説明するものである。そのためこの章では京都市内の乱暴狼藉に関連する事項の説明に限定する。

7.1 平家軍都落ち

7月25日 晴れ、
「法皇御逐電」
寅の刻(4時)人告げて曰く、法皇御逐電と。この事、日来万人の庶幾(しょき、こいねがうこと)する所なり。しかるに今の次第においては、頗る支度無しと言うべきか。子細追って尋ね聞くべし。卯の刻(6時)、重ねて一定の由を聞く。よって女房等少々山奥の小堂の辺りへ遣わし、余・法印(慈円)相共に(他の僧達と同)堂(最勝金剛院)に向かひ、仏前に候ふ。この間(参議大納言、藤原)定能卿来る、法皇の幽閉の所を尋ね出し、密々隠し置きたり。
「宗盛以下安徳天皇を奉じ淀に向かう」
巳の刻(10時)に及び、武士等主上(安徳天皇)を具し奉り、淀地の方に向かいたりといえり。鎮西に籠るに在りと。前内大臣(平宗盛)以下一人残らず。六波羅・西八条等舎屋、一所残らず、併せ灰燼に化したり。一時の間、煙炎天に満ち、昨は、官軍と称し、ほしいままに源氏等の追討せんとす。今、省等に違い、君辺土を指して逃げ去りぬ。盛衰の理、眼に満ち、耳に満つ。悲しきかな、生死有漏の果報、誰人かこの難を免れん。恐れて恐れるべし。慎みて慎みべき者なり。摂政(基通)は自然にそのわざわいをのがれ、雲林院(信範入道堂辺)方へ逃げ去りたりと。
(現代文)
「法皇御逐電」
午前4時頃、ある人が知らせて来た。法皇がゆくえをくらまして逃げたようだ。これは日頃全員の願望であった。しかし今の状況では準備不足というべきだが、詳細は後で聞くことにしよう。午前6時頃、同じ情報を得た。依って女房等は少し山奥のお堂の近くへ避難させ、私(兼実)と弟の慈円法印は一緒にさらに他の僧侶達と共に、最勝金剛院の堂に向かい、仏前で待ちました。この時、参議大納言の藤原定能卿が来ました。「法皇の幽閉場所を探しだし、密かに隠していたのです」
「宗盛以下安徳天皇を奉じ淀に向かう」
 午前10時頃になり、平家軍将兵が安徳天皇を連れ、淀地方面へ向かったようだ。九州方面にたてこもる計略のようだ。前内大臣の平宗盛以下一人残らず。六波羅・西八条等の平家一族の家屋敷は、一所残らず、燃え尽きた。一時の間、煙炎は天に満ちた。昨日までは、官軍と称して、ほしいままに源氏等の追討をしようとした。今日は、朝廷に逆らい、天皇の辺地を指して逃げ去った。盛者と衰者の道理が、眼に耳に満ち満ちた。悲しい事だ。生死の煩悩の果報である。何人もこの難を免れようか。恐るべし恐るべし。慎みむべし慎みむべし。摂政の藤原基通は自からその災いを逃れ、雲林院(信範入道堂辺)方へ逃げ去ったようだ。
(解説)
平家軍都落ちで大きなミスは法皇に逃げられたことである。「愚管抄」によれば、六波羅・西八条等の平家一族の家屋敷は、一所残らず、燃えた時、市民が物取りに争い入るとある。いわゆる火事場泥棒が発生した。

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2006年1月28日 (土)

6.8 官軍の追捕

6.8 官軍の追捕
 この追捕(ついふく)が官軍となった義仲軍にも引き継がれたようである。平家軍に参加し、徴兵徴発された将兵の大部分は義仲軍に投降したり、はやばやと逃げ帰った美濃・尾張・河内・近江の将兵なども義仲軍と同時に源氏軍として京都へ入京している。また大部分は後に義仲軍不利となると頼朝軍に鞍替えしている。当時の不安定な政治情勢ではそれぞれが家系の存続をかけて右往左往していたのだからやむをえないが。
 それらの将兵の食糧の調達は平家軍と同様に官軍としての追捕(つまり略奪)によるものであった。義仲軍は源平盛衰記によれば、百斉寺から米五百石の寄付を受けたようである。しかし全軍に支給するには不足している。木曽軍5万騎、5万人とすると一人当たり1升つまり2日分しかない。仮に実数5千人としても1ヶ月分もない。とすると京都周辺で追補による食料調達をしたと思われる。
 この時期の武士達の食糧調達は自己持参や寄付以外には、この「路次追捕」と「諸国の荘園等からの兵粮米」による。頼朝が後に発令させた宣旨から判断すると、義仲は「路次追捕」は取り締まったようだが、「諸国の荘園等からの兵粮米」は継続したようである。荘園を保有している法皇・宮家・公家・神社・仏寺からは徴集したかもしれない。あるいは京都近隣の諸国へは兵粮米の徴集のための軍勢を出したかもしれない。
 法皇公家からは軍勢が多過ぎるから減らせ、京都市内の治安を回復せよ、平氏の追討もせよ、食量の支給はしないと無理難題を突きつけている。(玉葉7月30日)
 入京時の7月28日(旧暦、新歴8月24日)は米の収穫前で特に食料が不足していた。その後新米の収穫が始まり兼実の風聞でも1ヶ月ほど(旧暦9月5日、新暦10月1日)で追補は終了したと思われる。食料の確保が出来れば治安の回復は容易である。
 義仲も取り締まりをしていたかのような記述がある。(玉葉8月28日)
この時期に頼朝も上京を促されたが兵粮米の確保に不安だ、その他の理由で断った。(玉葉の寿永二年十月九日参照)
 その後上京した義経軍も京都市内では遠慮したが、平家側とみなした公家や京都以外では追捕・乱暴した記録が「玉葉」「平家物語・延慶本」その他の史料に残っている。

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2006年1月27日 (金)

6.7 「自由任官の非難(頼朝軍の追捕)」

6.7 「自由任官の非難(頼朝軍の追捕)」

「吾妻鏡」元暦2年4月15日 
「東国侍の内任官の輩本国に下向することを停止」
 関東の御家人、内挙(ないきょ)を蒙らず、功無くして多く以て衛府(えふ)・所司(しょし)等の官を拝任す。各々殊に奇怪の由、御下文を彼の輩の中に遣わさる。件の名字一紙に載せ、面々その不可を注し加えらると。
 下す 東国侍の内任官の輩中
 本国に下向することを停止せしめ、各々在京し陣直公役に勤仕すべき事
  副え下す交名注文一通
 右任官の習い、或いは上日の労を以て御給を賜い、或いは私物を以て朝家の御大事を償い、各々朝恩に浴す事なり。而るに東国の輩、徒に「庄園の年貢を抑留し、国衙(こくが)の官物を掠め取り」、成功に募らず自由に拝任す。官途(かんと)の陵遅(りょうち)すでにこれに在り。偏に任官を停止せしめば、成功の便無きものか。先官当職を云わず、任官の輩に於いては、永く城外の思いを停め、在京し陣役に勤仕せしむべし。すでに朝列(ちょうれつ)に廁(まじ)う。何ぞ籠居(ろうきょ)せしむや。もし違い墨俣以東に下向せしめば、且つは各々本領を召され、且つはまた斬罪に申し行わしむべきの状、件の如し。
(中略)
 渋谷馬の允(じょう)  父は在国なり。而るに平家に付き経廻せしむの間、木曽大勢を以て攻め入るの時、木曽に付いて留まる。また判官殿御入京の時、また落ち参る。度々の合戦に、心は甲にて有れば、前々の御勘当を免じ、召し仕わるべきの処、衛府して頸を斬られぬるはいかに。能く用意して加治に語らい、頸玉に厚く巻金をすべきなり。
。(以下略)

(現代文)
関東の頼朝の家来達、頼朝様の推薦を受けずにかってに、たいした功績も無く多くの者が朝廷の近衛府・衛門府など、警備の役所や官庁の役職や官職を受けた。それぞれ特にけしからぬ理由を文書によりそれの者に付与した。それらの者の苗字を一枚の文書に記載し、それぞれの不可の理由を追加記載した。
 東国の侍の内で任官した者達に命令する。
 本国に戻る事を停止し、それぞれ京都に居て、軍務や公務に励むべき事。
  注釈付き名簿一通を添えて命令する。
 右任官については、日々の勤労により、御給を戴き、私物を以て朝廷の御大事を償うなど、それぞれ朝廷の恩を戴く事である。それなのに東国の者達は、「やたらに荘園の年貢を強制的にとどめおき、国の役所の官物を横取りし」、功を成すこと無く、かってに官職を受けた。官吏の職務が次第に衰えてゆくことはすでにここに在る。そのことだけで任官を停止したので、功が成るの良い都合は無い。先に任官しようと当職であろうと、任官の者達は永久に関東の城内に入れないと思いきり、京都に留まり軍事の役務に勤めよ。すでに朝廷の臣となっているのである。謹慎などして家の中に閉じ籠もっていてはならない。もし違反して墨俣より東に来れば、それぞれ本領を没収し、また死刑に処す。
(中略)
 渋谷助重は馬の允(うまのじょう、馬を扱う役所の役人)に任官した。これの父重国は本領の相模国にいて頼朝に味方している。それなのに本人は京都において平家に従い経廻する内に、木曽義仲軍が大軍を以て攻め入りし後は、木曽義仲軍に降参して従いて留まる。また判官義経殿御入京の時、また義経殿に降参して従う。その後の度々の合戦には、変心せずに活躍しているので、前々の罪の処罰を免じ、召し仕わるべきの処、衛府の役人となりて首を斬られるはいかがなものか。よく鍛冶屋と相談し用意して注文し、首玉に厚い金を巻いておくのがよいだろう。(以下略)
(解説)
頼朝の推薦を受けずに勝手に任官したので、鎌倉へ戻るな、来たら領地は没収し、死刑にするぞと非難している。そのなかに、「やたらに荘園の年貢を抱え込み、国の役所の官物を横取りし」と「追捕」についても、一年前に停止を命令したのに未だやっていたと非難している。さらに続く約20人の各武士を非難する文章はこれが公文書かというような内容である。これを読んだ義経はどう思ったのだろう。共に命を懸けて戦ってきた武将をかくも非難するのはどうか。たかが任官、表彰状をもらう程度と考えていたかもしれない。
 またこの例のように、親子・兄弟で敵味方に分かれ、家系の存続を計り、有利そうな勢力に追従する武士も少なく無かったようである。

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2006年1月26日 (木)

6.6「船無く粮絶え、船を用意し兵粮米を送る」

6.6「船無く粮絶え、船を用意し兵粮米を送る」
「乗馬を所望、馬は送らぬ」
1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)
1月6日 「吾妻鏡」
「船無く粮絶え、船を用意し兵粮米を送る」
「乗馬を所望、馬は送らぬ」
 平家を追討せんが為西海に在るの東士等、船無く粮絶えて合戦の術を失うの由、その聞こえ有るの間、日来沙汰有り。船を用意し兵粮米を送るべきの旨、東国に仰せ付けらるる所なり。その趣を以て、西海に仰せ遣わされんと欲するの処、参河の守範頼(去年九月二日出京し西海に赴く)去年十一月十四日の飛脚、今日参着す。兵粮闕乏するの間、軍士等一揆(いっき)せず。各々本国を恋い、過半は逃れ帰らんと欲すと。その外鎮西の條々これを申さる。また乗馬を所望せらると。この申状に就いて、聊(いささ)か御不審を散ずと雖も、猶雑色定遠・信方・宗光等を下し遣わさる。但し定遠・信方は在京す。京都より相具すべきの旨、宗光に仰せ含めらる。宗光委細の御書を帯す。これ鎮西に於いて沙汰有るべきの條々なり。その状に云く、十一月十四日の御文、正月六日到来す。今日これより脚力を立てんとし候つる程に、この脚力到来し、仰せ遣はしたるむね委しく承り候たり。筑紫の事、などか従はざらんとこそおもふ事にて候へ。物騒がしからずして、よくよく国に沙汰し給べし。構えて構えて国の者共ににくまれずしておはすべし。馬の事、実にさるべき事にてはあれども、平家は常に京城をうかがふ事にてあれば、もしおのづから道にて押しとられなどしたらん事は、聞く耳も見苦しき事にてあらんずれば、つかはさぬ也。又内藤六が周防のせいを以て志をさまたげ候なる、以ての外の事也。(中略)
(現代文)
 平家を追討する為に、西海道(九州地方)に在る東軍の武士達が、兵船が無く食糧も絶えて合戦の手だてを失うという状況について、その情報が有るので、日頃より指図が有りました。兵船を用意し軍用米を送るべきの趣旨を、東国に命令を下しました。同様の趣旨を以て、西海道にも命令を下すため使者を派遣しようとした処、参河の守範頼(去年九月二日出京し西海道に赴く)からの去年十一月十四日の飛脚が今日到着しました。食糧が欠乏し、将兵等は心を同じくしてまとまることが無い。各々本国をなつかしがり、過半数の者は逃れ帰ろうとしているようだ。その外に九州の国々の者達も同じく申している。また軍馬が不足し乗馬を所望しているようだ。この申し状に就いては、いささか御心配ありといえども、猶雑色(下級の役人)の定遠・信方・宗光等を下し派遣する。但し定遠・信方は在京するものである。京都より相伴うべきの趣旨は宗光に命令する。宗光は委細の御文書を所持する。これは九州に於いての有るべき指図の条件などが記載されている。その文書には次のようになる。十一月十四日の御手紙文は正月六日に到来しました。今日これより飛脚を立てようとている処に、この飛脚が到来し、命令を下し派遣したるむね委しく承りました。九州の筑紫の国の事、なかなかには従はないと思います。大騒ぎせず、よくよく国に指図しなさい。九国の武士共に憎まれないように注意することである。軍馬の事、実にそうあるべき事にてはありますが、平家は常に京都へ攻め上ろうとしているので、もし万一、輸送の途中で横取りされたりすると、聞こえも悪いし良くない結果になりかねないので、送る事は出来ません。又内藤六という武士が周防(山口県東部)の勢力を以て追討を妨げているのは、以ての外の事である。(中略)
(解説)
出発したときの食糧が無くなり、追捕(現地調達、略奪)は禁止されているので、命令を守っている部隊は食糧不足と訴えている。ようやく後方からの補給の必要に気づいたようである。ただし軍馬は平家軍の横取りを警戒して送れないと連絡している。

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2006年1月25日 (水)

6.5「兵粮米(段別五升)を課す」

6.5「兵粮米(段別五升)を課す」

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)
11月28日 「吾妻鏡」丁未
 諸国平均に守護地頭を補任し、権門勢家の庄公を論ぜず、兵粮米(段別五升)を宛て課すべきの由、今夜北條殿籐中納言経房卿に謁し申すと。

[玉葉]
 伝聞、頼朝代官北條丸、今夜経房に謁すべしと。定めて重事等を示すか。又聞く、件の北條丸以下郎従等、相分ち五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜う。庄公を論ぜず、兵粮(段別五舛)を宛て催すべし。啻に兵粮の催しに非ず。惣て以て田地を知行すべしと。凡そ言語の及ぶ所に非ず。
(現代文)
「吾妻鏡」
 諸国へ平均に守護及び地頭を配置し、京都の公家の私有地、国有地を区別せず、軍用米(一反あたり五升)を割り当て徴集すべきとの事、今夜北條時政殿が中納言の籐原経房卿に会見し申し伝えたと。
[玉葉]
 伝え聞きによると、頼朝の代官で北條時政殿が、今夜経房に会見したいと。定めて重要
な事等を示すのか。又聞く、件の北條時政以下の家来等に、五畿・山陰・山陽・南海・西海の諸国をそれぞれ分けて与える。私有地、国有地を区別せず、軍用米(一反あたり五升)を割り当て徴集するようだ。単に軍用米の徴集のみではない。全ての田畑地を管理するようだ。全く何とも言う言葉が無い。
(解説)
 平家は滅亡したが、奥州の藤原氏はまだ残っている。その征伐の準備のためか。守護及び地頭を配置し全国支配の布石が始まった。当時の一反当たりの収穫量は一石だったので5パーセントの税率の軍事費の増税となる。
 平家軍がかってに作った兵粮米(軍事費)の徴収は悪法と非難し、一旦停止の宣言をしてみたが、やはり兵粮米(軍事費)は必要とまた変更した。

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2006年1月24日 (火)

6.4 「公田庄園への兵粮米を徴集停止の宣旨」

6.4 「公田庄園への兵粮米を徴集停止の宣旨」

「玉葉」寿永三年2月23日 
「宗盛追討宣旨」
「源義仲党類追討宣旨」
「武士押妨停止の宣旨」
「公田庄園への兵粮米を徴集停止の宣旨」
 応(まさ)に早く国司に仰せ、公田庄園の兵粮米を宛て催すを停止すべき事
右治承以降、平氏の党類暗に兵粮と称し、院宣を掠めなし、恣に五畿七道の庄公に宛て、すでに敬神尊仏の洪範(模範となる大法)を忘る。世の衰微・民の凋弊、職(もとより)としてこれに由れり。況や源義仲その跡を改めず、益々この悪を行う。曽(かつて)って朝威を失い、共に幽冥に背く。爰に散位源朝臣頼朝、幾日を廻さず西賊を討滅す。然れば則ち干戈(かんか、たてとほこ、武器)永く劔まり・宇宙静謐す。権大納言藤原朝臣忠親宣す、勅を奉り。早く諸国司に仰せ、宜しく件の催しを停止すべしといえり。諸国承知せよ。宣に依りこれを行う。
     寿永三年二月二十二日     左大史小槻宿祢
   中弁藤原朝臣
   五幾内諸国七道諸国に下すこれに同じ
(現代文)
 まさしく速やかに諸国の長官に命令する。国有地田畑及び私有地田畑への軍用米の割り当て徴集を停止する事。
 右治承年代以降、平氏の武士達が暗黙のうちに軍用米と言いたて、法皇の命令を無断で作製しみだりに全国の国有地田畑及び私有地田畑に割り当て、神様や仏様の尊い教えを無視している。国家社会の衰退や人民の疲弊はもとよりこれによるものである。まして、源義仲はこれを改めず、益々この悪法を続行した。かっての朝廷の権威を失い、共に冥土に背くものである。ここに源頼朝が、永い年月をかけず西国の賊平家を討滅した。さすればつまり戦争は永く収まり・天下は平穏になりました。権大納言の藤原朝臣忠親が宣言する。天皇の命令をいただき、すみやかに諸国の長官に言いつけ、宜しく軍用米の割り当て徴集を停止すると諸国は承知するべし。天皇の命令に依りこれを行うものである。
     寿永三年二月二十二日     左大史小槻宿祢
   中弁藤原朝臣

(解説)
一ノ谷合戦後、武士達の自由横領の禁止と、兵粮米の徴収禁止を宣言した。しかし、頼朝軍はそれ以後路次追捕を完全に停止したかというと、そうはいかず兵粮米不足に悩み追捕を続けたようである。(参照6.6「吾妻鏡」1185年(元暦2年)1月6日)
 文面から推理すると、義仲は「武士達の自由横領」つまり路次追捕の禁止のみはつとめたが、「公田庄園への兵粮米の徴収」は継続したようである。つまり弱者たる庶民からの略奪は禁止し、強者たる法皇、宮家、公家、寺社、諸国からは兵粮米の徴収をした。
 さらに悪法なので禁止と言いながらも、後日、再びより強固な兵粮米の徴収を始めている。(1185年 ( 文治元年)11月28日 6.5参照。)また「吾妻鏡」の記述では諸国兵粮米の停止は文治2年3月21日である。記述ミスか故意に無視していたのか。

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2006年1月23日 (月)

6.3 「武士押妨停止の宣旨」

6.3 「武士押妨停止の宣旨」

「玉葉」寿永三年2月23日 「武士押妨停止の宣旨」
 応(まさ)に散位源朝臣頼朝をして、且つは子細を捜し尋ね言上を経て、且つは武勇の輩の神社・仏寺、並びに院宮諸司及び人領等を押妨すること、停止に従わせしむべき事
右近年以降、武勇の輩皇憲(天皇が定めた法令)を憚らず、恣に私威を輝かし、自由を成す。文を下し諸国七道に廻らす。或いは神社の神供を押し黷(けが)し、或いは仏寺の仏物を奪い取る。況や院宮諸司及び人領をや。天の譴(けん、せめ)遂に露れ、民の憂い定まること無し。前事の云存、後輩慎むべし。左中弁藤原朝臣光雅宣を伝え、左大臣宣す、勅を奉る。自今以後、永く停止に従い、敢えて更に然ること莫れ。但し由緒有るに於いては、彼の頼朝子細を相訪らひ、官に言上し、もし制旨に遵(じゅん、したがう)ぜず、猶違犯せしめば、専ら罪科に処し、曽って寛宥(罪科をゆるす)せずといえり。
     寿永三年二月十九日      左大史小槻宿祢
    左弁官下
        五幾内諸国七道諸国に下すこれに同じ
(注釈)
五幾内・・・大和・山城・河内・和泉・摂津
七道・・・東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道

(現代文)
まさしく源の頼朝の威力による命令により、詳細を調査し意見を申し上げる方法で、武士達の神社・仏寺、並びに院宮諸司及び人領等を横領することを停止させるべし事。
 右近年以降、武士達が天皇の定めた法令を無視し、みだりに武士達がその武力をひけらかし、自由勝手に行動している。命令文書を下し諸国に回覧する。神社の神物を横領し、仏寺の仏物を略奪する。まして法皇などの領地、宮家の領地、多くの役所の領地及び所領なども。遂に天のとがめが露れ、人民の愁いはとどまることを知らない状態である。前に述べた所業は、以後、武士達は慎むべきである。左中弁の藤原朝臣光雅が天皇のことばを伝え、左大臣が宣言する。天皇のことばをいただき、これから以後、永久停止に従い、敢えて更に従来通りではならない。但し理由が有るに場合には、彼の頼朝と詳細を相談し、朝廷に申し上げるべし。もし誡めに従がわず、なお違反する場合は処罰し、罪科をゆるさない。
(解説)
従来の年貢以上に兵粮米(将兵の食糧、武具、道具)の調達と称して、武士達があちこちで所構わず、自由に取り立てを行うのを停止せよと命令している。必要な場合は頼朝を通じて申請せよと。
 頼朝軍はそれ以後路次追捕を完全に停止したかというと、そうはいかず兵粮米不足に悩み追捕を続けたようである。(参照6.6「吾妻鏡」1185年(元暦2年)1月6日)

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2006年1月22日 (日)

6.2 兵粮米不足

6.2 兵粮米不足

「玉葉」養和元年閏二月六日「反逆を宥行か、なお追討か」
「清盛没後は宗盛万事院宣に従うべき旨を奏す」
前大将宗盛卿院に奏していわく、
「関東の事」
先ず関東の事、兵粮すでに尽き、征伐に力無し、
「反逆を宥行せられるべきか、なお追討せられるべきか」
故入道(清盛)沙汰の如くば、西海・北陸道等の運上物を併せて点定(点検し、定める、徴収)し、かの兵粮米に宛てるべしと。此の条又何様に候すべきか。もし宥(ゆるす、なだめる)行されるべしの儀有れば、計らひ仰せ下さるべきか、又猶追討せらるべくば、其の旨を存ずべし。
(現代文)
平宗盛が後白河法皇に申し上げました。頼朝などの関東の反乱については、兵粮米などが不足し、征伐する力がありません。先日亡くなった清盛の指示では、西海道や北陸道等からの運上物を取り上げて兵粮米にあてるべしと。この件はいかがいたしましょうか。もし反乱の罪を免じて許すならばそのようにご命令下さい。あるいは猶追討するべきならば、清盛の指示のようにする事をご承知おき下さい。
(解説)
清盛の死(閏二月五日)後、後継者となった宗盛が、以後は全て法皇の命令に従います。しかし兵粮米が不足しているので、追討軍は運上物を強制取り立てをするのでご承知下さいと申し上げている。

[吉記]養和2年2月22日「人人を食う事実無し」 
 伝聞、五條河原の辺、三十歳ばかりの童死人を食うと。人人を食う、飢饉の至極か。定説を知らずと雖も、珍事たるに依って、なまじいにこれを注す。後聞或る説に、その実事無しと。
(現代文)
人づてに聞く。五条の河原の近くで、三十歳くらいの男が死人を食うという。人が人を食うとは、飢饉が頂点に達したか。明確な説ではないが、珍しい事件なので、あえて記載しておく。後から聞く処ではそのような事実は無いという。
(解説)
人が人を食うの珍事なので、あえて記述するとある。勿論たんなる風説(デマ)である。記述したが誤りと後日訂正している。

1182年 (養和2年)3月17日 天晴 [吉記]
「兵粮米徴収を検非違使庁の遣いに託す」
近日諸国の庄々「兵粮米」重ねて苛責有り。使庁の使を付けらるべき由、院宣を下さる。行隆朝臣沙汰なり。上下色を失う事か。
(現代文)
近日より、諸国の私有地への「軍用米」を重ねて厳しい取り立てが実施される。軍用米の徴収を検非違使庁(警察兼裁判官)から派遣する役人に託す旨、法皇の命令を下された。行隆朝臣の指図である。公家官吏上下ともに驚き恐れて顔色が青ざめる事である。
(解説)
 この兵粮米の徴収が頼朝が悪法と非難した院宣のようである。

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2006年1月21日 (土)

6.「乱暴狼藉の真相・・・とんだ濡れ衣

6.「乱暴狼藉の真相・・・とんだ濡れ衣
        京中はたがいについぶく(愚管抄より)」
6.1 追捕(ついほ、ついぶく)
 「愚管抄」によれば、義仲軍等の乱暴狼藉の記述は無く、「平家物語」の「創作・誇張」であり、「玉葉」による風聞の「大袈裟」な記述によるものである。「追捕」による食料・兵糧米の調達のときのいざこざであろう。
 現在の納税は会社員は給料から天引き(源泉徴収)、自営業者は自主申告の納税である。これを戦費不足の為増税となった時、警察官や兵隊が直接「追加納税せよ」と称し厳しい取り立てに来たらどうなるか。
 当時京都以西の西国は大飢饉だった。「吉記」に人が人を食うの珍事の記述がある。勿論たんなる風説(デマ)である。記述したが誤りと後日訂正している。(参照6.2 養和2年2月22日)
 平家軍も兵粮米の調達に苦心し全国の荘園からも、かき集めた。清盛の死後、宗盛は「兵粮すでに尽き、征伐の力無し、清盛の沙汰の如く西海・北陸道の運上物を点定(徴収)し、兵粮米にあてるべきかと」と提案し、了承を求めている。(参照6.2玉葉の養和元年閏二月六日) 
 また養和2年には諸国の庄々に兵粮米徴収の院宣を下した。参照1182年 (養和2年)3月17日 天晴 [吉記]「兵粮米徴収を検非違使庁の遣いに託す」

 しかし未だ不足し、とうとう寿永2年4月の義仲追討軍の場合は「平家物語・北国下向」にも表現されるように、「片道賜りてければ・・・追捕(ついぶく)し・・・人民山野に逃散す」とあるように兵粮米の片道分は進軍途中で現地調達(強制取り立て・略奪)を認められた。これを「路次追捕(ろじついぶく)」という。現地調達との名目とはいえ実態は略奪に等しく進軍途中の官庁・神社仏寺・民家は大迷惑である。抵抗すると殺されたり焼き討ちされた。食糧の調達以外に人夫としての徴用などもしたようである。
 平家軍は京都を出発する時は京都市内外でも追捕をした。(参考4.1 玉葉の寿永二年四月十三日、十四日)
 この路次追捕の許可について玉葉に記述は無いが、法皇以下の朝廷の暗黙の了承は出ていたと思われる。その理由は「一ノ谷合戦」後に頼朝の申請により、この路次追捕を取り消す宣旨(せんじ)が1184年(壽永3年)2月23日に記述されている。(参照6.3)つまり平家軍、義仲軍、頼朝軍ともに路次追捕(という乱暴)をしていたことになる。この追捕は当時としては合法的軍事活動の一部である。軍事活動即ち戦争行為は平時、民間人から見れば、かなり異常で乱暴な行為である。平時に民間人が人を殺せば殺人罪で罰せられる。戦時に軍人や武士は大量の殺人をすると英雄になれる。平時に民間人が放火をすれば放火罪で罰せられる。戦時に軍人や武士の殺人や放火は当然の作戦行動である。当時の武士団としては軍事活動の一部として兵粮調達の当然の行為としての「追捕」も民間人や貴族から見ればずいぶん乱暴な行為に写ることになる。
 頼朝軍はそれ以後路次追捕を完全に停止したかというと、そうはいかず兵粮米不足に悩み追捕を続けたようである。(参照6.4「吾妻鏡」1185年(元暦2年)1月6日)平家滅亡後、義経以下の武士の自由任官を非難する頼朝の有名な文書にも追捕を非難する文章がある。(参照6.5「吾妻鏡」1185年(元暦2年)4月15日)

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2006年1月20日 (金)

5.6 兼実・慈円は頼朝贔屓

5.6 兼実・慈円は頼朝贔屓

 慈円は「愚管抄」を記述するにあたり、史料を集め、「平家物語」を耳にし、兄の日記「玉葉」も眼にしたはずである。しかし、真実を記録しておこうと記述したに違いない。養和の大飢饉のとき、鴨長明の方丈記によれば餓死者が四万人も出たほどの大都市に五万の軍勢が入れば、かなりのひしめきあいでかなりの摩擦ごたごたは有るだろう。ただ此の四万とか五万の人数は多すぎると思うが。義仲軍入京前の混乱に比べれば、それほどの混乱では無いようだ。
 玉葉の風聞によれば、義仲軍等に田は全て刈り取られた、運上物は全て奪い取られたとなっている(寿永2年9月3日)。とすれば北朝鮮のように市内には餓死者があふれそうであるが、そのような報告、伝聞、風聞すら無い。
 平家物語、源平盛衰記、玉葉には義仲軍等の乱暴について非常に詳しく記述するが、義仲入京前に「ものとりが集まる」とか「たがいについぶく」などの記述は無い。「火事場泥棒」とか「落ち武者狩り」など庶民は聞きたくないだろう。また混乱の当時は犯人あるいはは当事者は不明だった。後日判明したのだろう。
 入京後「愚管抄」では「かくてひしめきてありける程に」のみである。入京前の「ものとりが略奪」とか「たがいについぶく」などの混乱ぶりに比べれば随分あっさりしている。更に、平家軍、鎌倉軍も追捕による略奪や放火をしたはずだが、その記述が無い。各軍の追捕があえて記述するほどの事でもないのか。軍事行動の一部としての追捕なら、民間人から見ればひどい話しだが、戦とはそのようなものである。平時において民間人の殺人や放火は重大な犯罪だが、戦時において焼き討ち(放火)や征伐(殺人)は当たり前で、将兵や軍人の大量殺人者は英雄になる。
 慈円は義仲贔屓では無い、どちらかといえば頼朝贔屓である。後に頼朝贔屓の兄兼実の推薦により、天台(比叡山延暦寺)座主にも就任した。

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2006年1月19日 (木)

5.5 京都市内の兵粮調達と兵舎の確保

5.5 京都市内の兵粮調達と兵舎の確保

玉葉の治承5年2月8日「京中在家を計注せしむ」
夜に入り大夫吏隆職参来、(略)又云う、昨日京中の在家を計らひ注せらるべき由仰せ下さる。左右京職の官人・官使・検非違使等これを注す。但し国使入らずと。
玉葉の治承5年2月20日「天下飢饉により富を割き貧に与うという」
京中の在家計らるる事、大略、公家富有の者を知し食し、兵粮米を宛て召さるべき故と。但し、兵粮米に限るべからず、院宮・諸家併せ宛て奉られるべし、是天下飢饉の間、富を割き、貧に与えるの義なりと。

(現代文)治承5年2月8日「京都市内の家々を調べて記録させる」
夜になり、大夫吏(太政官(現内閣)の下級役人)の隆職が来た。(略)又話した、昨日京都市内の家々を調べて記録するようにお言葉を下された。左右京職役所の役人・太政官の使者・検非違使(警察兼裁判官)等がこれを記録する。但し諸国の国司の使者は入らないという。
玉葉の治承5年2月20日「天下飢饉により富者の財を分け貧者に与える」
京都市内の在家を調べる事は、おおむね、公家とか富有の者を知り、兵粮米を指定して徴集するためであるという。但し、兵粮米に限るだけではなく、院宮家・諸家に併せて指定されるべきである。これは天下の飢饉のため、富を分かち、貧者に与えるの為であるという。

「玉葉」寿永3年1月27日「兼実の庵借り上げの指示」
 院より武士を居ゑられんため、余の庵(いおり)を借られるべく、家を指す由仰せあり(定長奉行)。承り訖(おわ)る由を申す。事の体言うに足らず。然れども逓れ避く能わず。末代(末世)の事勿論(無論)勿論。
(現代文)寿永3年1月27日「兼実の庵の借り上げの指示」
後白河法皇の院の役所から連絡があった、源氏の武将の宿舎にするため兼実の屋敷の一部を借り上げ、何処にするか指定するとお言葉があった。承知したと答えた。事の次第は言うに足らず。しかし逃れることは出来ない。全く世も末だ。

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2006年1月18日 (水)

5.4 ひしめきてありける

5.4 ひしめきてありける
 もちろん義仲入京後も混乱は続いたようである。「吉記」7月30日にも「京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及ぶ。また松尾社司等相防ぐの間、社司等の家に放火す。梅宮社神殿追捕に及ぶ。広隆寺金堂追捕に及び、度々合戦す。行願寺また追捕すと。」と記述されている。これらの乱暴が義仲軍とは限らない。義仲追討の平家軍に参加し、逃げ帰り今度は義仲軍に合流した将兵が平家軍と同様の追捕を行った。どさくさに紛れ込んだ強盗、夜盗、平家の残党かもしれない。なにしろ現代のように警察官や軍隊のような制服を着ているわけではない。田舎を出たときの粗末な服装か途中で平家の落ち武者から略奪した服装かもしれない。義仲軍か平家軍か野盗か判別も出来ないだろう。
 「愚管抄」によれば義仲軍等の入京後の状況については「かくてひしめきてありける程に」という程度の表現である。「押し合ってごたごたしているうちに」である。何も無く無風であったわけではない。大混乱の中へ進駐したのである。
 当時、京都市内の民家は公卿の家も含め、官軍平氏の兵舎として徴用されていた。(治承5年2月8日、2月20日参照 5.5 ) なお兼実は右大臣であるから、平家や義仲は遠慮したが、義経軍は兼実の庵を徴用したようである。(寿永3年1月27日参照5.5 )
 頼朝、義仲の反乱を始め各地で反乱が起き、平家は追討軍を発するが、その軍の集結地として、京都市内の徴用された民家などが使用された。出発する前の軍による追捕と幸運にも凱旋した軍、不運にも敗戦した帰還兵による追捕による混乱があった。さらに僧兵、市民による略奪の混乱中であった。それを一応制圧したようである。しかし、六波羅の放火略奪、市内の市民等の略奪、落武者狩の惨状に比べれば、平家軍、義仲軍の追捕によるごたごたなどは慈円から見れば問題ではないようだ。
 とにかくこの時代は全国的な内乱状態で、市内は強盗、群盗、放火など平家軍、源氏軍、僧兵、公卿の従者、庶民の乱暴が横行した時代である。それらをまとめて義仲軍のせいにしたようである。
 これを現代の「スピード違反」に例えてみよう。制限速度50キロの普通道路を平家が取り締まりに必要だと100キロで走行の許可を取った。義仲も真似をした。義経・範頼も真似をした。周辺住民は皆大迷惑である。なかには真似をして許可無しで150キロ以上で飛ばす暴走族や住民もいた。義仲が最初に死んだ。鎌倉が100キロ走行を止めようと提案し、取り締まりを始めた。平家も死んだ。義経も死んだ。暴走族や住民は悪い事をしたと反省したが、悪いことをしたのは義仲だけだと口裏を合わせた。しかし、慈円和尚が一番悪いのは150キロ以上で暴走した奴だとポツリと云った。

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2006年1月17日 (火)

5.3 「火事場泥棒」と「落武者狩か」

5.3 「火事場泥棒」と「落武者狩か」

 最近ではイラクの首都バグダッドに米軍が進攻し、フセイン軍が撤退した時や、被災地の治安が悪化した時など、一般市民が何をしたか。略奪に走る市民を見て、人間の心理行動はは時代や民族の違いに関係無く共通だと思う。
 [吉記]7月26日(義仲入京前)によれば、「山僧等京に下る。路次の狼藉勝げて計ふべからず。或いは降将の縁辺と称し放火し、或いは追捕・物取と号す。人家一宇全うする所無し。眼前に天下の滅亡を見る。ああ悲しきかな。余の亭は此のわざわいを免れる。ひとえに仏神の冥助なり」となっており、平家関係者は特に狙われたようである。吉記の著者は法皇の院庁の官吏であり、在宅していたので難を免れたようである。山僧も加わり物取追捕したようである。
 「平家物語」は琵琶法師による庶民への語り物として広まったようである。そこで慈円の記述するような平家が都落ちするとき、京中の物とりが集まって物とりした(火事場泥棒)とか、京中の一般民衆が互いについぶく(略奪)をした、平家軍から略奪した(落武者狩)などの混乱の真実を語れるはずが無い。最初の原作者は真実を忠実に記述したかもしれないが、次第に琵琶法師や編集者が、聴衆たる民衆に受けるように、さらに権力者たる朝廷や頼朝から迫害を受けないように変形編集したと思われる。
 平家物語の作者は僧も加わっているからやはり仲間の悪口は書けない。死人に口無し。義仲のせいにしておこう。とんだ濡れ衣を着せられたものである。庶民に媚び、権威に逆らえず、真実を語れない「平家物語」の限界である。いつの時代でも同じだが、事実のそのままの記述では受けない、売れない、没収される、処罰されるかもしれない。

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2006年1月16日 (月)

5.2 「ものとりの略奪」と「たがいについぶく」

5.2 「ものとりの略奪」と「たがいについぶく」

 「愚管抄」によれば、義仲軍の乱暴狼藉の記述は無く、義仲軍入京前の平家軍の京都からの退却の時、「六はらの家に火かけて焼(やき)ければ、京中に物とりと名付(なづけ)たる者いできて、火の中へあらそい入(いり)て物とりけり。」の記述とか、法皇・貴族が比叡山に退避し、京都の権力・警備が空白になった時、「その刹那(せつな)京中はたがいについぶくをして物もなく成(なり)ぬべかりければ、残(のこり)なく平氏は落(おち)ぬ。をそれ候まじにて」と記述する。平家物語、玉葉、吉記にも平家軍が京都を撤退するとき、六波羅の屋敷を焼き払った記述はある。しかし「ものとりが争い入る」とか「たがいについぶくした」などの混乱の記述は見あたらない。平家物語は琵琶法師の庶民への語り物として広まったようであるから、そのような庶民に不都合な場面は削除されたようである。しかし後日記録された「愚管抄」や「延慶本」には記述されている。
 「愚管抄」によれば義仲軍等の入京後の状況については「かくてひしめきてありける程に」という程度の表現である。「押し合ってごたごたしているうちに」である。
 筆者も当初は、平家物語は信用してないから、義仲軍の乱暴は事実でないと思っていた。しかし、玉葉の記述によると、もしやかなりの乱暴をしたのは事実かなと疑い始めた。しかし、「愚管抄」の長文の中に、上述の一文を見つけ、謎が解けた思いがした。
 「火の中へあらそい入(いり)て物とりけり」は、すなわち「火事場泥棒」である。
 「その刹那(せつな)京中はたがいについぶくをして物もなく成(なり)ぬべかりければ、残(のこり)なく平氏は落(おち)ぬ。をそれ候まじにて」この場合のたがいは誰と誰の組み合わせであろうか、単純には市民同士だが、落ち行く平家軍に市民が襲いかかり略奪した、平家軍が民家などから略奪しながら退却したというように、平家軍と市民ではないだろうか。いわゆる「落武者狩」と追捕か。いずれにしても美しい話しではない。
 当初、追補(ついほ、ついぶく)とは官吏・官軍が朝廷の許可により正当な権利有りと称して、従来の年貢以上に兵粮米等を強制取り立てしたものが略奪に近いことから、官吏ではない者の略奪をもついぶくとも云うようになったようである。
 さらに、慈円の「愚管抄」では「法住寺合戦」も詳細に記述している。「愚管抄」では天変地異とか、火事、放火、強盗、群盗のような事件の記述は非常に少なく政変とか合戦の記述がメインである。その慈円が義仲入京前の京都市内の混乱「ものとりの略奪」や市民の「たがいについぶく」を記述しているのは、永い人生のなかでよほど印象に残っているからに違いない。
 このような人物が、「玉葉」に記述するような「義仲軍等の乱暴狼藉」を見逃すだろうか。兼実は弟の慈円の面倒をよくみており、当時慈円は法性寺座主であり、7月25日には行動を共にしている(参考資料 a 玉葉1183年(壽永二年)7月25日)。武士団の追捕は当然の軍事活動とみなしたかもしれない。
 多分、九条兼実の風聞では混乱が約1カ月続いたようである。しかし、慈円から見れば、義仲入京前の平家その他僧兵や一般民衆の略奪の混乱、法住寺合戦の混乱に比べれば、記述するほどの事件でも無かった。従前の平家軍と同様の食料調達のための当然の追捕で、平家軍と同じか、ましと見たに違いない。当時、平家軍は兵粮米の調達と称して追捕を行い、食料や資材を没収(略奪)していた。市民らの仕返しとも考えられる。

参考資料 a 「法皇御逐電」玉葉1183年(壽永二年)7月25日
寅の刻(4時)人告げて曰く、法皇御逐電と。この事、日来万人の庶幾(しょき、こいねがうこと)する所なり。しかるに今の次第においては、頗る支度無しと言うべきか。子細追って尋ね聞くべし。卯の刻(6時)、重ねて一定の由を聞く。よって女房等少々山奥の小堂の辺りへ遣わし、余・法印(慈円)相共に(他の僧達と同)堂(最勝金剛院)に向かひ、仏前に候ふ。この間(参議大納言、藤原)定能卿来る、法皇の幽閉の所を尋ね出し、密々隠し置きたり。
(現代文)
午後4時頃、ある人が知らせて来た。法皇がゆくえをくらまして逃げたようだ。これは日頃全員の願望であった。しかし今の状況では準備不足というべきだが、詳細は後で聞くことにしよう。午後6時頃、同じ情報を得た。依って女房等は少し山奥のお堂の近くへ避難させ、私(兼実)と弟の慈円法印は一緒にさらに他の僧侶達と共に、最勝金剛院の堂に向かい、仏前で待ちました。この時、参議大納言の藤原定能卿が来ました。「法皇の幽閉場所を探しだし、密かに隠していたのです」

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2006年1月15日 (日)

「愚管抄」の記述(愚管抄巻第五より)

5.「愚管抄」の記述(愚管抄巻第五より)

5.1 1183年 (壽永二年 癸卯)7月

北国の方には、帯刀先生(たちはきせんじやう)義方が子にて、木曾冠者義仲と云者などおこりあひけり。

宮(みや、高倉王)の御子(みこ)など云人くだりておはしけり。清盛は三条の以仁(もちひと)の宮うちとりて、弥(いよいよ)心おごりつゝ、かやうにしてありけれど、東国に源氏おこりて国の大事になりにければ、小松内府(重盛)の嫡子三位中将維盛(これもり)を大将軍にして、追討の宣旨下して頼朝うたんとて、治承四年九月廿一日下りしかば、人見物して有し程に、駿河の浮島原にて合戦にだに及ばで、東国の武士ぐしたりけるも、皆落ちて敵の方へゆきにければ、帰りのぼりにけるは逃げまどひたる姿にて京へ入りにけり。其後平相国入道(へいしやうごくにふだふ、清盛)は同五年閏二月五日、温病(をんびやう)大事(だいじ)にて程なく薨逝(こうせい)しぬ。その後に(後白河)法皇に国の政かへりて、内大臣宗盛ぞ家を嗣(つぎ)て沙汰しける。高倉院は先立ちて正月十四日にうせ給ひにき。かくて日にそへて、東国、北陸道みなふたがりて(塞がって)、このいくさに勝たん事を沙汰してありけれど、上下諸人の心みな源氏に成りにけり。

次第にせめよするきこへども有ながら、入道うせて後、寿永二年七月までは三年が程すぎけるに、先づ北陸道の源氏すゝみて近江国に満ちみちけり。これよりさき越前の方面へ家(いへ)の子(こ)どもやりたりけれど、散々に追ひかへされてやみにけり。となみ山のいくさとぞ云ふ。かゝりける程に七月廿四(日)の夜、事火急になりて、六はらへ(安徳天皇が)行幸なして、一家の者どもあつまりて、山科(やましな)がために大納言頼盛をやりければ再三辞しけり。頼盛は、「治承三年冬の比(ころ)あしざまなる事ども聞ゑしかば、ながく弓箭(ゆみや)のみちはすて候(さふらひ)ぬる由、故入道殿(こにふだどの、清盛)に申してき。遷都のころ奏聞し候ひき。今は如此事には不可供奉」と云ひけれど、内大臣宗盛不用也。せめふせられければ、なまじいに山しなへむかいてけり。かやうにして今日明日義仲・東国の武田など云う者もいりなんずるにてありければ、さらに京中にて大合戦あらんずるとて、をのゝきあいける程に、廿四日の夜半に法王ひそかに法住寺殿をいでさせ給ひて、鞍馬の方よりまはりて横川(よかは)へのぼらせをはしまして、近江の源氏がりこの由仰せつかはしけり。たゞ北面下臈(ほくめんげらふ)にともやす、鼓の兵衛と云ふ男御輿かきなんどしてぞ候ひける。暁にこの事あやめ出して六はらさはぎて。辰・巳・午(たつみうま)両三時ばかりに、やうもなく内をぐしまいらせて、内大臣宗盛一族さながら鳥羽の方へ落ちて、船にのりて四国の方へむかいけり。

六はらの家に火かけて焼(やき)ければ、京師(けいし)中に物とりと名付(なづけ)たる者いできて、火の中へあらそい入(いり)て物とりけり。

その中に頼盛が山しなにあるにもつげざりけり。かくと聞きて先(まづ)子の兵衛佐(ひょうえのすけ)為盛(ためもり)を使ひにして鳥羽に追いつきて、「いかに」と云ければ、返事をだにもゑせず、心もうせてみゑければ、はせ帰りてその由云ければ、やがて追様(おひざま)に落けれど、心の内はとまらんと思ひけり。又この中に三位中将資盛(すけもり)はそのころ院の覚えして盛りに候ひければ、御意向をうかがおうと思いました。この二人は鳥羽より打ちかへり法住寺殿に入り居たところ、又京中地(ち)をかへしてけるが、山へ二人ながら事の由を申たりければ、頼盛には、「さ聞食(きこしめし)つ。日比(ひごろ)よりさ思食(おぼしめし)き。忍(しのび)て八条院の辺に候へ」と御返事承りにけり。もとより八条院のをちの宰相と云寛雅(くわんが)法印が妻は姑(しうとめ)なれば、女院の御うしろみにて候ければ、さてとまりにけり。資盛は申しいるゝ者もなくて、御返事をだに聞かざりければ、又落て相具してけり。さて廿五日東塔円融房へ御幸なりてありければ、座主明雲はひとへに平氏の護持僧にて、とまりたるをこそ悪しと云ければ、山へはのぼりながらゑまいらざりけり。さて京の人さながら摂禄(摂政)の近衛殿(基通)は一定(いちぢやう)具して落ちぬらんと人は思ひたりけるも、たがいてとゞまりて山へ参りにけり。松殿入道(基房)も九条右大臣(兼実)も皆のぼりあつまりけり。

その刹那(せつな)京中はたがいに追捕(ついぶく)をして物もなく成(なり)ぬべかりければ、「残りなく平氏は落ちぬ。をそれ候まじ」とて、

廿六日のつとめて(早朝)御下京(ごげきやう)ありければ、近江に入(い)りたる武田先(まづ)まいりぬ。つゞきて又義仲は廿六日に入りにけり。六条堀川なる八条院のはゝき尼が家を給りて居にけり。

(以下8月)

かくてひしめきてありける程に、「いかさまにも国王は神璽(しんじ)・宝剣・内侍所(ないしどころ)あいぐして西国の方へ落給(おちたま)ひぬ。この京に国主なくてはいかでかあらん」と云ふさたにてありけり。父法皇をはしませば、西国王(にしのこくわう)・・・



(現代文)
北陸道の国々の方面では、皇太子御所の警備隊長を勤めた源義賢の子で、木曾義仲と云う若武者などもたちあがりました。

高倉王の御子(みこ)などと云う人も京から下り北陸道の国においででした。清盛は三条の以仁(もちひと)の宮をうちとり、いよいよ得意になっていましたが、東国に源氏が反旗をひるがえし、国の重大事になりましたので、小松内府(重盛)の嫡子で三位中将の維盛(これもり)を大将軍にして、追討の宣旨(天皇の命令)を下して頼朝を討つため、治承四年九月廿一日京より下りました。人々が見物しているうちに、駿河(静岡)の浮島原において合戦にもならずに、東国の武士を従えていたのだが、皆敵の方へ降参して行ってしまったので、帰り上るときは逃げまどう姿で京へ入りました。その後、平相国入道清盛は治承五年閏二月五日、熱病が重態で程なく亡くなりました。その後に後白河法皇に国の政治の実権は還り、内大臣の宗盛が平家を継いで指図をしていました。高倉上皇は先立つ正月十四日にお亡くなりでした。かくして日に日に、東国、北陸道はみな塞がって、このいくさに勝とうとする事の指図がありましたが、上も下も諸人の心はみな源氏側に付きました。次第に攻め寄せる知らせなど有ながら、入道亡くなって後、寿永二年七月までは三年程経ちました。先づ北陸道の源氏軍が進軍して近江国に満ちみちました。これより前に越前の方面へ平家軍を派遣しましたが、散々に追い返されて終わりました。となみ山(越中国砺波郡)の合戦です。
 そのうちに七月廿四日の夜、事は火急を要すると、六はらの平家の屋敷へ安徳天皇が行幸なされて、平家一家の者達も集合して、山科(やましな)方面の警護に大納言頼盛を派遣しようとしたが再三辞退しました。
 頼盛は、「治承三年冬の比(ころ)不評を聞いたので、ながく武芸は捨てると、故入道殿(清盛)に申しました。遷都のころ申し上げました。今はこのような事には参加することはできません」と云いましたが、内大臣宗盛は聞きいれません。言いふせられて、無理矢理に山しなへむかいました。
 このようにして今日か明日か義仲や東国の武田などと云う者も入るようになる状況になり、さらに京中において大合戦があるだろうと、おそれ震えあううちに、廿四日の夜半に法王はひそかに法住寺殿をいでて、京都の鞍馬山の方面より廻り横川(比叡山三塔の一、よかは)へのぼらせまして、近江の源氏の許にこの状況の使者を送りました。たゞ北面の武士で知康、鼓の兵衛と云う男は御輿かつぎなどして仕えていました。
 あけがたにこの事を怪しみいぶかりはじめて六はらは騒動となりました。朝7時頃から、約6時間をかけて、わけもなく天皇のお供をして、内大臣平宗盛以下平家一族そろって鳥羽の方面へ落ちてゆき、船に乗り四国の方面へむかいました。

六はらの平家の家屋敷には火を付けて、焼き払おうとしたので、京中の物とりと名乗る者達が現れて集まり、火の中へあらそいながら入りこみ、物とりをしました。

その中で頼盛が山しなにいるにも知らせなかった。そうと聞いて先づ子の兵衛佐(ひょうえのすけ)為盛(ためもり)が使いとなり、鳥羽にて追いついて、「どうしますか」と聞きましたが、返事をも出来ず、心も失っているように見えるので、急いで帰るように云いましたら、やがて後を追って落ちてきたが、心中では京に留まろうと思った。又この中に三位中将資盛(すけもり)はそのころ後白河法皇の寵愛があり、御意向をうかがおうと思いました。
 この二人は鳥羽より引き返し法住寺殿に入り居たところ、又京都市内は騒動していますが、比叡山へ二人そろって事の由を申しましたので、頼盛には、「そのように聞いている。ひごろよりそのように思います。ひそかに八条院(後白河院の妹)の辺に来なさい」と御返事を承りました。もとより八条院の乳母の宰相と云う寛雅(くわんが)法印の妻は姑(しうとめ)ですから、女院の御後見であるので、そのように留まりました。
 資盛は申し入れる者も無く、さらに御返事も聞かなければ、再度落ち行き平家軍と相共になりました。
 さて廿五日東塔(比叡山三塔の一)の円融房(円徳院の本房で円仁の弟子承雲が初祖)へ法皇が御幸ありましたが、天台座主の明雲は元は平氏の護持僧(その人のために常に祈祷する僧。明雲は安徳天皇の護持僧だった)ですから、留まるのは悪いと云いましたので、比叡山へはのぼりながら法皇の前には参りませんでした。
 さて京の人は多分摂政の近衛基通は必ず平家と共に落ちるだろうと人は思いましたのに、違いて留まり比叡山へ参りました。松殿入道(基房)も九条右大臣(兼実)も皆のぼりあつまりました。

その瞬間、京都市内では、たがいに追捕(ついぶく)をして物もなくなりましたので、「残りなく平氏は落ちて行ました。おそれはあるまい」とて、

廿六日の早朝、法皇は京に下りましたので、近江に待機していた武田軍が先づ入京しました。続いて又義仲軍は廿六日に入りました。六条堀川の八条院の母の尼の家を頂いて住んでいました。

(以下8月)

かくして、押しあってごたごたしているうちに、「いかにも安徳天皇は神璽(しんじ)・宝剣・内侍所(ないしどころ)の三種の神器を持ちまして西国の方面へ落ちてゆきました。この京に国主がいないのはどうしたものか」と云う次第の指図となりました。父の法皇がおられますので、西国王(にしのこくわう)
・・・

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2006年1月14日 (土)

4.3 「玉葉」に見る頼朝軍の場合

4.3 「玉葉」に見る頼朝軍の場合

1184年(寿永3年、元歴元年)1月28日 天晴れ
「隆職追捕さる」
早旦、大夫史隆職使者を進して云く、忽ち追捕(ついぶ)せられ、家中恥辱に及ぶ。これをなす如何。九郎の従類の所為と。召人の滅亡を思ふに依って、使いを九郎の許に遣わし、子細を相触る。縦えその身罪科有りと雖も、当時の狼藉を停止すべきの由なり。
「親能頼朝代官として義経を補佐し入洛」
また書札を以て前の源納言(雅頼)の許に示し遣わす。次官親能彼の納言の家に在り。件の男頼朝の代官となり、九郎に付き上洛せしむ所なり。仍って万事奉行を為すの者と。
「義経勢史大夫と大夫史を取り違え小槻隆職を追捕す」
これに因って触れんが為、件の男彼の納言に示す所なり。九郎の返事に云く、この事、平氏書札を京都に上す。件の使者を搦め取らる。各々報礼を持つと。その中にこれ有り。史大夫の者召し進すべきの由、左衛門の尉時成の奉行として、院より仰せ下さる。仍って相尋ねるの間、大夫史の宅に罷り向かう。次第不敵。狼藉に於いては、早く止むべしと。また納言の返札到来す。親能一切知らざるの由を申すと。叉宰相中将(定能)に相尋ぬる処、返事の上、全く知し食さざる事と。
「隆職の文庫義経従類に打ち破られ文書を奪わる」
 晩に及び使いを隆職の許に遣わし、子細を尋ね問う。帰り来たり云う。文書等少々片山里に遣わすと雖も、要須の文書においては併しながら身に随う。率爾(そつじ)の尋ねに備えるためなり。しかるに文庫の戸を打ち破り、併しながら取られたりと。凡そ官中の文書、古来只一本書なり。然るに肝心失えば、即ち我が朝の滅亡なり。誠に天下の運滅尽の期か。悲しむべし悲しむべし。

(現代文)
「隆職追捕さる」
早朝、大夫史(現内閣の役人)の小槻隆職が使いを寄こして伝えた。いきなり追捕(ついぶ)され、家中が乱暴される恥辱を受けました。追捕を行う理由はなにか。源九郎義経の従者達の所行であるようだ。使用人の惨めな状況を心配して、使いを源九郎義経の許に送り、詳細を問い尋ねた。たとえ隆職に何らかの罪が有るとはいえども、当面の乱暴な行動を停止させるためである。
「親能頼朝代官として義経を補佐し入洛」
また文書を以て前の源納言(雅頼)の許に使いを送る。次官の親能は雅頼の納言の家に在宅している。親能は頼朝の代官となり、九郎義経に付き従いて上京した者である。仍って万事について奉行として指図をする者であるようだ。
「義経勢史大夫と大夫史を取り違え小槻隆職を追捕す」
これにより状況を知らせるため、親能や源納言(雅頼)に知らせを送る所である。九郎義経の返事では、この事は、平氏が文書を京都に送り、その平氏の使者を捕らえた。それぞれ報告の文書を持っていた。その中に関連の文書が有った。「史大夫」の者を呼び出し差し出すように、左衛門の尉時成が奉行として、法皇より命令を受けた。したがって調査のため、「大夫史」の屋敷に向かったものである。ことの次第は不敵当である。乱暴狼藉については、早く停止すべきである。また納言の回答文書が到来した。親能は一切知らないと回答した。叉宰相中将(定能)に質問したが、全く知らない事であると回答してきた。
「隆職の文庫義経従類に打ち破られ文書を奪わる」
 夕方になり、使いを隆職の許に送り、詳細を尋ねた。使いが帰り来て話した。文書等は少々は片山里に避難したが、重要で必要な文書は身近にに置いていた。にわかの質問の回答に備えるためである。しかるに文庫の戸を打ち破り、取られた。全く官公所の文書は、昔から唯一の本書である。それなのに大切な文書を失えば、即ち我が朝庭の滅亡となる。誠に我が朝廷以下の運は滅亡の時か。悲しむべし悲しむべし。

(解説)
頼朝軍は京都市内および近辺では追捕を遠慮したが、平家関係者は追捕したようである。この事件は「史大夫」と「大夫史」の役職名を勘違いしたことによるものらしい。「大夫史」は太政官(現内閣)の政務の実務担当者である。特に五位の者が大史に任じられると「史大夫」と呼ばれた。

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2006年1月13日 (金)

「玉葉」に見る義仲軍の場合

4.2 「玉葉」に見る義仲軍の場合

寿永2年8月6日
「京中の物取り追捕逐日倍増」、
 京中の物取り追捕、逐日倍増、天下すでに滅亡したり、山掘厳穴、閑かなるべきの所無し、三界無安の金言、誠なるかなこの言。

寿永2年8月28日 
「武士十余人の頸を切る」
伝聞、今日七条河原に於いて、武士十余人の頸(首)を切ると。

寿永2年9月3日 天陰、時々雨降り、
「四方の通路皆塞がる」
 ある人云う、凡そ近日の天下、武士のほか、一日の存命の計略無し、よって上下多く片山田舎等へ逃げ去ると、四方皆塞がり、(四国及び山陽道安芸以西・鎮西等、平氏征討以前通達すること能わず、北陸・山陰両道義仲押領す、院分巳下の宰吏、一切吏務能はず、東山・東海両道頼朝上洛以前、又進退すること能わずと)、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られたり、段歩残らず、又京中片山及び神社・仏寺・人屋・在家、悉く以て追捕す、其の他適々不慮の前途を遂げる所の庄公の運上物、多少を論せず、貴賤を嫌わず、皆以て奪い取りたり、此の難、市辺に及び、昨今売買の便を失うと、天は何ぞ無罪の衆生を棄てるや、悲しむべし、悲しむべし、
「人々の災難法皇の乱政と源氏の悪行より生ず」
此の如しの災難は、法皇の嗜欲の乱政と源氏奢逸の悪行とより出づ、しかる間、社しょく(天下)を思う忠臣、俗塵を逃れる聖人、各非分の横難に遭う、殆ど成仏の直道を怠る、哀しむべしはただ前世の宿業のみ、

寿永2年9月5日 雨下る、
「京中の万人存命不能」
ある人云う、近日京中の物取り、今一重倍増し、一塵の物途中に持ち出し能わず、京中の万人、今に於いては、一切存命する能わず、義仲院の領以下併しながら押領す、日々倍増し、凡そ緇素(僧と俗人)貴賤、涙を拭はざる無し。

(現代文)8月6日
 京都市内の物取りや追捕(官軍としての強制取り立て)は、日を追い倍増した。わが朝廷の治世はすでに滅亡したかのようだ。山中の岩屋や岩のほら穴等いかなる所も、静かな所は無くなり、三界(衆生が活動する全世界)無安の金言(古人の残した模範となる言葉)、全くこの言葉の通りである。
(現代文)8月28日 
伝え聞きによると、今日七条河原において、武士十余人の処刑をしたようだ。
(特に乱暴な武士を処刑したのかもしれない)
(現代文)9月3日 
ある人が言いました。おおむね、最近の京都市内では、武士以外の者は、一日として生き永らえる方策が見つからない。そこで身分の上下なく武士以外の多くの人は市外の片山や田舎へ避難したようだ。東西南北の四方の路は全て通行出来ない。つまり四国及び広島より西の山陽道や九州等は平氏を征伐する以前なので通行出来ない。北陸道や山陰道は義仲が不法に占領している。法皇以下の国司は、役人としての一切の職務の遂行が出来ない。東山道や東海道は頼朝が不法に占領し上洛する以前なので、又通行したり国司の職務の遂行が出来ない。京都周辺の諸国の近辺の所領は、田畑の段歩なども残らず刈り取られた。又京都市内及び周辺の神社・仏寺・人屋・在家を悉く追捕した。その他運よく京都に届いた所の庄園や公領の運上物も、多少にかかわらず、身分の高低を撰ばず、全て皆横取した。此の災難は、市中にも及び、昨今は売買など商売も出来ないようだ。どうして神様や仏様は何の罪も無い庶民を見捨てるのだろうか。やれやれ悲しいことだ。
「人々の災難法皇の乱政と源氏の悪行より生ず」
このような災難は、法皇の特に好むところの乱れた政治と源氏の奢りや法令を順守しない悪行とより出たものである。このようなとき、天下のことを思う忠臣や、俗世のわずらわしさを逃れる聖人なども、それぞれ過分の不慮の災難に遭う。これでは素直に成仏出来ない。哀しむべしはただ前世の所業の善悪のみか。
(現代文)9月5日 
ある人が言いました。近頃京都市内の物取りは、今一層倍増し、どんな小さな物も外に持ち出す事も出来ない。京都市内の全ての人が、今や、一切生き永らえる事が出来ない。義仲軍は法皇の領以下も不法に横取りし、日々倍増した。おおむね、僧も一般人も、身分の上下にかかわらず、みな泣いています。

(解説)
さて、これを兼実に報告している「ある人」が誰かが問題である。普段報告に来る官吏ではないようである。「昨日売買の便を失う」と言わせているから、出入りの商人かもしれない。商売人は本当の事は言わないものである。儲かってしょうがないときは「ぼちぼちです。」、「赤字ですよ」と言うときは収支とんとん。大赤字で首が回らないときは夜逃げと。残らず刈り取り、横取りし、残らず奪い取りしたら、京都市内は餓死者があふれそうだが、そのような風聞は無い。病で寝込んでいて、ある人の話を確認も出来ずに書いているだけである。
 全て刈り取られた、全て奪い取られた、一切存命出来ないと書いている。殺されそうだ、餓死しそうだと。北朝鮮のように市内には餓死者があふれかえりそうであるが、そのような風聞は無い。追捕に逆らった一般人が殺されたという風聞すら無い。多分、義仲軍の兵士は農民出身が多いので、刈り取りの応援に出たのが誤解されたか、平家軍のように刈り取りし横取りしたか。ある一人の田一枚が全部奪われたのが、ある一人は田全部奪われた、さらに農民全員が全部奪われたと大袈裟になり、兼実に伝わった。運上物にしても、ある一人の持ち物が全部奪われた、それがその人のグループ全員が奪われた、さらには運上物は全部奪われたと大袈裟になった。普通の常識で考えれば、そのような事はあり得ないが、兼実は義仲軍ならやりそうだと先入観を持っているからそのようなデマも真実と思い込み、記述した。餓死者がいないのは市民が互いについぶくし食糧を手に入れ、更に義仲軍団の追捕による食糧の再分配の効果かもしれない。
 なお9月6日以後は乱暴狼藉の記述が無い。善意に解釈すると、ほぼ1か月で混乱を制圧したようである。あるいは8月27日より以前に制圧し、8月28日には特に乱暴した者を処分したようである。

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2006年1月12日 (木)

「玉葉」に見る乱暴狼藉の記述

4.「玉葉」に見る乱暴狼藉の記述

4.1 平家軍の場合

寿永二年4月13日
「武士等狼藉、賀茂祭警護」
武者の郎従等、近畠を刈り取るの間狼藉と。警護の上卿(しょうけい)(中納言藤原)実宗卿と。
寿永二年4月14日 雨下る、
「武士等狼藉」
武士等狼藉昨の如しと、凡そ近日の天下この事に依りて上下騒動す、人馬雑物、眼路に懸かるにより横に奪ひ取る、
「平宗盛に訴えるも止まず」
前内大臣(平宗盛)に訴えると雖も、成敗する能わず、制止有りと雖も、更に以て制法に拘わらずと。他所の事に於いては知るべからず、近辺の濫吹太だ畏怖有り、仍って前内大臣の許に示し遣わす。制止すべしの報有りと雖も、更に其の終始無し、実に悲しむべき世なり。

(現代文)4月13日
武士(平家軍)の従者などが近郊の畠の(麦)刈り取りという乱暴をしているようです。
賀茂神社の祭りの警護の責任者は中納言藤原実宗です。
(現代文)4月14日 
武士などが乱暴なことをしているのは昨日と同じようである。まったく最近の世の中はこのような武士などの乱暴によって上も下も大騒ぎである。人や馬や色んな物を路上で目につくものは横取りされる。前内大臣(平宗盛)に訴えても、処罰することは出来ません。制止せよといわれても、こと更に法に違反していないという。他の地方のことは知ることが出来ない。京都近辺の乱暴は大いにおそれおののくことである。依って前内大臣(平宗盛)に状況の知らせを送りました。必ず制止させますとの返事はありましたが、ことさらに始めから終わりまで何の変わりもありません。まことに悲しい時世です。
(解説)
義仲軍追討のため北陸方面に向かう平家軍は先ず京都近辺で「追捕」を始めたようである。この後、平家物語の「かた道を給はッてげれば、逢坂の関よりはじめて・・・追捕し・・・人民山野にみな逃散す。」の状況が続くことになる。兼実は右大臣であるが「追捕」について法皇以下の暗黙の了解がなされたことを知らなかったようである。

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2006年1月11日 (水)

3.3.鎌倉軍の場合

3.3.鎌倉軍の場合

「梶原摂津の国勝尾寺焼き払うこと」「延慶本の場合」

十八 元歴元年二月四日、梶原一ノ谷へ向かいけるに、民ども勝尾寺に物を隠す由をほの聞きて、兵襲いせめしかば、老いたるも若きも逃げ隠れき。三衣一鉢を奪うのみにあらず、たちまちに火を放ちにければ、堂舎仏閣悉く春の霞となり、仏像経巻しかしながら夜の雲と昇りぬ。感陽宮の煙の片々たりしも、仏閣あらねばその咎なを軽く、祇園寺の炎の炎々たりしも、人の企てならねばその罪重からじ。しかるを今滅ぼす所は仏閣僧坊六十八宇、経論しやうしよ九千余巻、仏像道具資材雑物、全て算術の及ぶ処にあらず。罪すでに五逆罪よりも重し。当果あに地獄の苦しみをまぬかれむや。薬師三尊は自ずから炎を逃れ、千手観音は空しく煙となり給へり。目もくれ心も消えて、泣き悲しむ者多し。されども、頂上仏の金銅の阿弥陀の御身に納めたりし金銅の観音と、灰の中より求め奉る、百済国より送れる三尺五寸の撞き鐘も、水の如くに熔けるに、三尊残り給へるを見て、寺僧共歓喜の涙をぞ流しける。
(現代文)
元歴元年(1183年)二月四日、梶原景時の軍勢が一ノ谷へ向かう途中で、近隣の民衆が勝尾寺に資材を隠している(、平家軍の残党が隠れている)らしいという話しを聞きつけて、軍勢が押し寄せたので、老人も若者も逃げたり隠れたりした。衣類や食糧や資材を奪い取るだけでなく、たちまちに火を放けたので、堂舎や仏閣は悉く春の霞のように、仏像や経巻もあわせて夜の雲のように燃え尽きた。感陽宮の煙が片々とたなびいても、仏閣でなければその過ちはいくらか軽く、祇園寺の炎が炎々と燃え上がるとしても、人の企てでわざとでなければその罪は重くない。しかるに今消滅する所は仏閣や僧坊が六十八棟、お経の巻物は九千余巻、仏像や道具など資材や雑物、全て数えることも出来ない。罪はすでに五種の罪悪よりも重い。当果あに地獄の苦しみをまぬかれないだろう。
 薬師三尊の像は運よく炎を逃れたが、千手観音は空しく燃えて煙となりました。呆然自失し、泣き悲しむ者が多い。それでも、頂上仏の金銅の阿弥陀の御身に納めていた金銅の観音と、灰の中から探し出した、百済国より送られた三尺五寸のつりがねも、水のように熔けたのに、薬師三尊は焼けずに残るのを見て、寺の僧達は歓喜の涙を流しました。
(解説)
義経の目付役として有名な梶原景時が食料調達のための追捕の軍勢の指揮官として登場している。一の谷の合戦場へ向かう途中である。勝尾寺は焼失したが、戦後、頼朝は再建し、梶原景時が尽力したと記録されている。

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2006年1月 9日 (月)

義仲軍の場合

3.2.義仲軍の場合
 「入京後」「延慶本の場合」
 源氏の世に成りたりとも、させるそのゆかりならざらむ者は、なにの喜びかあるべきなれども、人の心のうたてさは、平家の方弱ると聞けば内々喜び、源氏の方強ると聞けば、京に入りてぞ喜びあひける。さはあれども、平家西国へ落ちたまひしかば、その騒ぎにひかれて安きき心なし。資材雑具東西南北へ運び隠すほどに、ひき失うこと数をしらず。穴を掘りて埋めしかば、あるいは討ち破り、あるいは朽ち損じてぞうせにける。あさましとも愚かなり。
 まして北国の夷討ち入りにし後は、八幡、賀茂の嶺を憚らず、青田を刈せて馬に飼ひ、人の倉を打ち破りて物を取る。しかるべき大臣公家のもとなむどこそ憚りけれ、片辺につきては武士乱れ入りて、少しも穏しき所なく、家々を追捕しければ、いま食はむとてとりくはたてたる物をも取り奪われ、口を空しくしけり。家々には武士有る所もなき所も、門門に白旗立ち並べたり。道をすぐる者も安きことなし。衣装を剥ぎ獲りければ、男も女も見苦しきことにてぞ有ける。平家の世には六波羅殿のご一家と有しと、老いたるも若きも嘆きあへる事斜めならず。木曽かかる悪事をふるまひける事は、加賀の国井上の次郎もろかたが教訓によりてとぞ、後には聞こえし、
(現代文)
 源氏の世に成るといいながらも、さして源氏に縁の無い者は、何も喜ぶ事は無いけれど、人の心の情けなさは、平家の勢力が弱くなると聞くと内心では喜び、源氏の勢力方が強くなると聞くと、京に入るぞと喜びあいました。そうはいいながら、平家が西国へ落ちゆくときも、その騒ぎにつられて安心は出来ません。混乱による略奪を恐れ、資材や道具を東西や南北の片田舎へ運び隠すうちに、ひき失うものは多数である。穴を掘って埋めたりしても、誰かに討ち破り取られる、あるいは朽ち損じて消えてしまうものもある。情けなくとも愚かなことである。
 まして北国からの朝敵が討ち入りし後は、八幡、賀茂の嶺地であろうが遠慮せず、田んぼの稲が実る前の青草の状態のものを刈り取って馬の餌にしてしまう。人の蔵をかってにうち破りて物を取り出す。名のある大臣や公家の家屋敷などは遠慮しても、京都の周辺の片田舎については武士が乱れ入りて、少しも穏やかな所なく、家々を追捕したので、いま食べようとして用意した物をも横取りされ、食べる事が出来なかった。それぞれの家には武士が居る所も居ない所も、門門に目印の白旗を立ち並べた。道を通行する者も安心は出来ない。着物を剥ぎ取られるので、男も女も見苦しい状態になる。平家の世では六波羅殿(平清盛)のご一家とわかると、老人も若者も嘆きあう事はひととおりでなく、はなはだしかった。木曽義仲軍がこのような悪事を行う事は、加賀の国の武士で井上の次郎師方の教えによるものであると、後から聞こえてきました。

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2006年1月 8日 (日)

「平家物語」延慶本による追捕乱暴の場面

3.「平家物語」延慶本による追捕乱暴の場面

 「平家物語」延慶本には、平家軍、義仲軍、鎌倉軍の追捕の記述がある。義仲軍入京前の混乱の記述は無い。しかし、よく読むと3.2の前半は入京前の混乱を表現しているようでもある。

3.1.平家軍の場合

 「北国下向」「延慶本の場合」
片道賜りてければ、路地もて会える物をば、権門勢家の正税官物、神社仏寺の神物仏物をもいはず、をしなべて逢う坂の関より、これを奪い取りければ、狼藉なる事おびたたし。まして、大津、唐崎、三津、川尻、間野、高島、比良の麓、塩津、海津に至るまで、在在所々の家々を次第に追ふくす。かかりければ、人民山野に逃げ隠れて、はるかにこれを見やりつつ、おのおの声整えてぞ叫びける。昔よりして朝敵を鎮めむが為に、東国北国に下り、西海南海に赴く事、その例多しといへども、かくの如くの、人民を費やし国土を損ずる事なし。されば源氏をこそ滅ぼして、かの従類を煩わしむべきに、かやうに天下を悩ます事はただ事に非ずとぞ申ける。
(現代文)
兵粮米の片道分の現地調達(追捕、ついほ、ついぶく)を認められたので、進軍途中にあたるものは京都の公家の荘園の運上物だろうが国税だろうが、神社の神物だろうが仏寺の仏物だろうが構わず、全て一様に逢う坂の関から奪い取りながら進むので乱暴で乱雑なことは大変なものである。さらに大津、唐崎、三津、川尻、間野、高島、比良の麓、塩津、海津に至るまで、あちこちの家々を順々に追ふく、強制取り立てしていく。このような状態なので、人民は山野に逃げ隠れて、遠くからこれを見送りながら、それぞれ声をそろえて叫んだ。昔からこのように朝敵を鎮める為に、東国道や北国道に下り、西海道や南海道に赴く事の例は多しといいながらも、このような、人民の労力や資材を費やし国土を損ずる事は無かった。すなわち源氏をこそ滅ぼして、源氏の一族と家来どもを苦しめ悩ませるべきなのに、このように世間一般を悩ます事はただ事では無いと言いました。

兵粮米不足であるが、反乱軍の鎮圧はしなければならない。やむをえない選択である。正式な天皇の命令、宣旨が出たか、暗黙の了解かは不明。食糧だけでなく、色々な資材や、人夫をも徴発したようである。多分、食糧や資材の輸送その他の雑用に使用されたようである。

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2006年1月 6日 (金)

「平家物語」に見る義仲軍・平家軍の乱暴狼藉の記述

2. 「平家物語」に見る義仲軍・平家軍の乱暴狼藉の記述

2.1 「平家物語・高野本に見る義仲軍の乱暴狼藉の記述」
「およそ京中には源氏みちみちて、在々所々に入り捕り多し。賀茂・八幡の御領ともいはず、青田を苅てま草にす。人の倉をうちあけて物をとり、持ちて通る物奪ひとり、衣裳をはぎとる。「平家の都におはせし時は、六波羅殿とて、ただ大方恐ろしかりしばかり也。衣裳をはぐまではなかりし物を、平家に源氏替へ劣りしたり」とぞ人申しける。」
(現代文)
 まったく京都市内に源氏の兵が満ちあふれているのに、あちこちの家でかってに入り込んでの略奪や強制取り立てが多い。賀茂や八幡の御領地であろうとなかろうと、田んぼの稲が実る前の青草の状態のものを刈り取って馬の餌にしている。人の蔵をかってにうち開いて物を取り出したり、物を持ち歩くと奪われたり、着物を剥ぎ捕られる。「平家が都を治めていたときは、六波羅の清盛様でも、悪口を言うと、ひどい目に遭ったりして、ただ恐ろしいだけだったが、着物を剥ぐことまではしなかった。平家を源氏に替えて悪くなった。」とひとびとは言いました。

とあり、後世の小説家や歴史研究者の多くがここだけ取り上げて、いかにも義仲軍のみが乱暴狼藉したように説明している。しかし、最近の研究者は平家軍・頼朝軍ともに乱暴狼藉した記述が平家物語や玉葉にもあることを知っている。ただしその声は小さい。義経の人気に気兼ねしているのである。

2.2「高野本に見る平家軍の乱暴狼藉の記述」

 義仲軍入京の前に義仲軍追討のため派遣した平家軍が北陸への北国下向の場面において「高野本に見る平家軍の乱暴狼藉の記述」は

「かた道を給はッてげれば、逢坂の関よりはじめて、路地にもてあふ権門勢家の正税、官物をも恐れず、一々にみな奪ひとり、志賀・辛崎(からさき)・三河尻(みつかはじり)・真野・高島・塩津(しほつ)・貝津(かひづ)の道のほとりを次第に追捕(ついふく)して通りければ、人民こらへずして、山野にみな逃散す。」となっている。
(現代文)
兵粮米の片道分の現地調達(追捕、ついほ、ついぶく)を認められたので、逢坂の関よりはじめて、進軍途中にある京都の公家の荘園の運上物だろうが国税だろうが構わず、全部奪い取り、志賀から貝津の街道周辺で順々に現地調達、強制取り立て(正式には追捕)をしながら通過していき、食糧や資材の略奪以外に徴兵や人夫としての徴発や、牛馬の徴発もあり、あまりのひどさに周辺の住民はみなこらえきれずに山や野へ逃げてしまいました。

 つまり、保元・平治の乱以後、約20年間権勢を誇った清盛平家軍も頼朝や義仲などの各地で起こる反乱軍の鎮圧に官軍として追討軍を派遣している内に飢饉も重なり兵粮米が不足し、とうとう寿永2年4月の義仲追討軍の場合は進軍途中で片道分を路次追捕(ろじついふく)という名目の現地調達・強制取り立てを認めさせたのである。進軍途中の官庁、神社仏寺、民家からの強制取り立てを行った。追捕の名目とはいえ実態は略奪に等しく、普通の略奪をも追捕(ついほ、ついぶく)などというようになったようである。そして、頼朝・義経軍の場合は高野本などでは乱暴狼藉の記述が無い。しかし「平家物語・延慶本」「玉葉」には平家軍、義仲軍、頼朝軍ともに追捕による乱暴狼藉の記述がある。また兼実の「玉葉」、経房の「吉記」などの貴族の日記、慈円の「愚管抄」によれば、京都市内の混乱は義仲軍入京前から始まっており、その鎮圧を義仲軍に期待したのである。しかし、入京した義仲軍は制圧に若干の日数を要したようである。

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2006年1月 4日 (水)

1.2 各資料の説明

1.2 各資料の説明
 「玉葉」とは、京都の公家、九条兼実(くじょうかねざね)の日記である。彼は自己及び子孫の参考のため記録したのであり、後日公開されるとは考えず、思った事、聞き伝え、秘密事項も詳しく記述している。九条兼実は右大臣も務める貴族であるから、新興勢力の武士に反感を持っている。義仲についてもかなり反感を持って観察し記述している。当時の権力の中枢は御白河法皇とその近臣にあり、九条兼実は右大臣ではあるが病弱で、平家・法皇と意見が対立する事が多く、単なる御意見番のような立場であった。重要な会議に参加出来ないこともあるが、参加者などから伝え聞いて年・月・日毎に詳細に記録している。
 「愚管抄」は兼実の弟で僧侶の慈円(じえん)が、歴史上の大きな事件毎に記述したもので晩年の1220年頃書かれたとされている。
 「吉記」は左大弁吉田(藤原)経房の日記である。後に権大納言となる。「玉葉」に比較すると欠落が多い。
 「吾妻鏡」は鎌倉幕府の公式記録とされ、信用度は高い。これが公式記録かと疑うような記述もある。叉、義仲入京の寿永二年や、頼朝死亡の年などの記録が欠落している。
 「山槐記」は中山忠親の日記である。内大臣と進んだ。三公を三槐ともいう。そこで中山の山を加え山槐記と称した。欠落が多い。平家物語に出てくる「富士川の合戦」で平家軍が水鳥の羽音を敵軍の襲来と勘違いし、退却する話しが出てくるが虚言(デマ)甚だ多しと記述している。
 「平家物語」の原作者は不明であるが、琵琶法師の語り物として伝承され、後日文章化されたので、細部については違いが見られ、大略語り本系と読み本系と分類されている。

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2006年1月 3日 (火)

木曽義仲朝日将軍の洛日

「木曽義仲朝日将軍の洛日」

「朝日将軍木曽義仲の洛日」
「平安貴族の見た木曽義仲」

1.1 「玉葉」「愚管抄」「吉記」「吾妻鏡」

 「平家物語」によれば、木曽義仲軍は京都での乱暴狼藉などの悪評により、鎌倉の頼朝・義経軍に討たれたことになっている。九条兼実の日記「玉葉」にも乱暴狼藉の記述がある。九条兼実の弟の慈円の著書「愚管抄」には、義仲軍の乱暴狼藉の記述は無く、意外な事件の記述がある。乱暴狼藉などは「平家物語」の「創作・誇張」である。多くの歴史研究者が指摘するように「平家物語」は史書ではなく単なる文学作品である。現代の小説である。例えば宮尾登美子の小説は事実かと問うのと同じである。平家物語では他の史料と比較して多くの史実上のミス、又は創作が指摘されている。原作者は案外忠実に記述したかもしれない。しかし琵琶法師の伝承の過程で、変形編集され、原作本が紛失し、後日、再度文章化されたときは、かなり史実と異なる諸本が多く残ったようである。
 「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代である。当時の権力者、鎌倉の頼朝や京都の朝廷に逆らう事は困難である。負けた平家、義仲だけが悪く、頼朝・義経は正しいと表現せざるを得ない「平家物語」の限界である。義経でさえ美男子だったかもしれないのに「色白で反っ歯の小男」と表現されている。もっともこれも最後まで義仲に味方した山本義経という武将の容貌が誤って伝えられたとか、わざと誤報を流したという説もある。後白河法皇とか頼朝の良くない表現は当然の如く有り得無い。
 歴史は勝者が作る。敗者の善行は語られないが、勝者の善行は大いに語られる。敗者の悪事は大袈裟に捏造され語られるが、勝者の悪事は小事でも不問にされる。
 後世の小説家の多くが「平家物語」と「玉葉」の一部の記事を鵜呑みにして義仲軍のみが乱暴狼藉を働いたように記述しているが、実は平家物語や玉葉にも平家軍・頼朝軍ともに同様に乱暴狼藉の記述があり、「愚管抄」には、義仲軍等の乱暴狼藉の記述は無く、意外な事実が記載されている。
 本書では、かなり正確な史料とされている「玉葉」「愚管抄」「吉記」「吾妻鏡」等に基づき、義仲軍が京都へ朝日が昇る勢いで攻め上がり、後白河法皇、頼朝の計略により、落日の如く消えて行く様子を観る。

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