« 6.8 官軍の追捕 | トップページ | 7.2 義仲入京前の混乱 »

2006年1月29日 (日)

7.義仲軍の入京の状況 7.1 平家軍都落ち

7.義仲軍の入京の状況

 普通の木曽義仲物語なら、義仲の誕生から解説するのであるが、本章は「平家物語」、「玉葉」における義仲軍乱暴狼藉説の捏造、風聞を説明するものである。そのためこの章では京都市内の乱暴狼藉に関連する事項の説明に限定する。

7.1 平家軍都落ち

7月25日 晴れ、
「法皇御逐電」
寅の刻(4時)人告げて曰く、法皇御逐電と。この事、日来万人の庶幾(しょき、こいねがうこと)する所なり。しかるに今の次第においては、頗る支度無しと言うべきか。子細追って尋ね聞くべし。卯の刻(6時)、重ねて一定の由を聞く。よって女房等少々山奥の小堂の辺りへ遣わし、余・法印(慈円)相共に(他の僧達と同)堂(最勝金剛院)に向かひ、仏前に候ふ。この間(参議大納言、藤原)定能卿来る、法皇の幽閉の所を尋ね出し、密々隠し置きたり。
「宗盛以下安徳天皇を奉じ淀に向かう」
巳の刻(10時)に及び、武士等主上(安徳天皇)を具し奉り、淀地の方に向かいたりといえり。鎮西に籠るに在りと。前内大臣(平宗盛)以下一人残らず。六波羅・西八条等舎屋、一所残らず、併せ灰燼に化したり。一時の間、煙炎天に満ち、昨は、官軍と称し、ほしいままに源氏等の追討せんとす。今、省等に違い、君辺土を指して逃げ去りぬ。盛衰の理、眼に満ち、耳に満つ。悲しきかな、生死有漏の果報、誰人かこの難を免れん。恐れて恐れるべし。慎みて慎みべき者なり。摂政(基通)は自然にそのわざわいをのがれ、雲林院(信範入道堂辺)方へ逃げ去りたりと。
(現代文)
「法皇御逐電」
午前4時頃、ある人が知らせて来た。法皇がゆくえをくらまして逃げたようだ。これは日頃全員の願望であった。しかし今の状況では準備不足というべきだが、詳細は後で聞くことにしよう。午前6時頃、同じ情報を得た。依って女房等は少し山奥のお堂の近くへ避難させ、私(兼実)と弟の慈円法印は一緒にさらに他の僧侶達と共に、最勝金剛院の堂に向かい、仏前で待ちました。この時、参議大納言の藤原定能卿が来ました。「法皇の幽閉場所を探しだし、密かに隠していたのです」
「宗盛以下安徳天皇を奉じ淀に向かう」
 午前10時頃になり、平家軍将兵が安徳天皇を連れ、淀地方面へ向かったようだ。九州方面にたてこもる計略のようだ。前内大臣の平宗盛以下一人残らず。六波羅・西八条等の平家一族の家屋敷は、一所残らず、燃え尽きた。一時の間、煙炎は天に満ちた。昨日までは、官軍と称して、ほしいままに源氏等の追討をしようとした。今日は、朝廷に逆らい、天皇の辺地を指して逃げ去った。盛者と衰者の道理が、眼に耳に満ち満ちた。悲しい事だ。生死の煩悩の果報である。何人もこの難を免れようか。恐るべし恐るべし。慎みむべし慎みむべし。摂政の藤原基通は自からその災いを逃れ、雲林院(信範入道堂辺)方へ逃げ去ったようだ。
(解説)
平家軍都落ちで大きなミスは法皇に逃げられたことである。「愚管抄」によれば、六波羅・西八条等の平家一族の家屋敷は、一所残らず、燃えた時、市民が物取りに争い入るとある。いわゆる火事場泥棒が発生した。

|

« 6.8 官軍の追捕 | トップページ | 7.2 義仲入京前の混乱 »