2009年7月11日 (土)

文治元年(1185)九月二日「梶原景季上洛、義経・行家の動静を窺ふ」

「吾妻鏡」文治元年(1185)九月二日壬午。
「梶原景季上洛、義経・行家の動静を窺ふ」
 梶原源太左衛門尉景季と義勝房成尋などが、頼朝様の使者として京都へ上りました。南御堂の仏式完成祝賀会の指導僧へのお布施や、お堂の飾り金具等〔殆ど京都で買い集めております〕を調達するためです。又、平家の共犯者の連中が、流罪を宣告されながら、配流先へ行かずに、京都にいるうちに恩赦でも出されたら仕方が無いけれど、そうではなく、ただ行かせていないだけならば、早く実施するべきだと、伝えるように申されました。それと、頼朝様の使いとして伊予守義經の屋敷へ行って、前備前守行家の居場所を探し見つけて殺してしまうように言いつけて、源九郎義經の挙動を伺うように、梶原左衛門尉景季に云って聞かせましたという。前の五月二十日に前の大納言平時忠を初めとした平家関係者に流罪の太政官布告を出されました。それなのに未だに京都に住んでいるので、頼朝様は怒っていますが、源九郎義經は時忠の娘を妾に貰い、娘婿になっているので、その好から京都に引き止めております。そればかりか、行家を味方に引き込んで、関東に対して反逆をしようとたくらんでいるとの噂があるので、かくのごとしという。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。
http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

| | コメント (0)

2009年7月10日 (金)

元暦二年(1185)八月四日「行家謀反、佐々木定綱に討たしむ」

「吾妻鏡」元暦二年(1185)八月四日甲寅。
「行家謀反、佐々木定綱に討たしむ」
 前備前守行家は、二品頼朝様の叔父です。それなのに何度も平家との戦闘に派遣されたが、何時も最後にはその功をあげる事もなかったので、頼朝様は特に賞賛されなかった。行家も又、自分の方から積極的に出仕してくることも無く、今は西告に隠れ忍んで、関東のご威光を傘に着てあちらこちらで、人々を厳しく責め立てた。そればかりか、謀反の心を持っていることが発覚したという。そこで、京都周辺の御家人達を集めて引き連れ、早く行家を攻め滅ぼしてしまうように、今日命令書を佐々木太郎定綱に下されたという。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。
http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

| | コメント (0)

2009年7月 9日 (木)

2月3日「行家が入洛」

[玉葉] 2月3日 壬戌 天晴 
「行家が入洛」
 慈円法印が来られた、今日行家が入洛するという。その軍勢は僅かに七八十騎という。法皇のお呼び出しによるという。頼朝また勘気を免ずという。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。

http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

| | コメント (0)

2009年7月 8日 (水)

1月20日「義仲敗走し近江国粟津にて討たる」

[玉葉] 1月20日 天気晴れ、物忌みなり、

 6時頃、人告げて云く、東軍は、すでに勢多に到着した。未だ西地に渡らずという。相次いで人云く、田原(宇治田原町)の手勢はすでに宇治に到着したという。その言葉が未だ終わらざるに、六條川原に武士等が馳走するという。仍って人を行かせて見せしむるの処、すでに事実である。
「義広敗績す」
 義仲方の軍兵は、昨日より宇治に在り。大将軍は美乃の守義廣という。而るに件の手勢は敵軍の為打ち敗られた。東西南北に散じた。
「東軍入京」
 即ち東軍等追い来たりて、大和大路より入京した(九條川原の辺に於いては、一切狼藉無し。最もな神仏のお助けである)。引き返さず六條の末に到着した。義仲の軍勢は元々幾ばくもあらず。。而るに勢多・田原の二手に分けた。その上行家を討伐の為また軍勢を分けた。独身で在京するの間このわざわいに遭う。
「義仲院の御幸を促すも成らず」
 先ず法皇御所中に参りお出かけ有るべきの由、すでに御輿を寄せようとと欲するの間、敵軍すでに襲ひ来た。仍って義仲は法皇を棄て奉り、あわてふためき対戦するの間、相従う所の軍兵は僅かに三十四十騎。敵対に及ばざるに依って、一矢も射ず落ちた。
「義仲敗走し近江国粟津にて討たる」
 長坂方に懸けようと欲した。更に帰り勢多の手勢に加わらんが為、東に赴くの間、阿波津野の辺に於いて打ち取られたという。
「東軍一番手梶原景時」
 東軍の一番手、九郎の軍兵は梶原平三という。その後、多く以て法皇の御所の辺に群れ参じたという。法皇及びお仕えの者どもは虎口を免がれた。実に三宝の神仏のお助けである。凡そ日来、義仲の準備では、京中を焼き払い、北陸道に落つべしという。而るにまた一家も焼かず、一人も損せず、独身さらし首にさせられた。天は逆賊を罰した。宜(むべ)なるかな。もっともであるかな。
「義仲の天下六十日」
 義仲が天下を執る後、六十日を経た。信頼の前例(平治の乱)に比べ、猶そのおそきを思う。今日、公卿等が参院すと雖も、門中に入れられずという。
「師家参院すれど追い帰される」
 入道関白(藤原基房)は藤原顕家を以て使者と為し、両度上書(じょうしょ)した。共に答え無し、又甘摂政(藤原師家)は顕家の車に乗り参入した。
追い帰されたという。弾指すべし、弾指すべし。私は風病に依り参入せず。大将又病悩。よつて参らず。恐ろしや恐ろしや。
(注釈)
上書(じょうしょ)・・・意見を書いて書状を差し出すこと。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。

http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

| | コメント (0)

2009年7月 7日 (火)

1月19日 「志田義広大将軍として宇治田原を防ぐ」

[玉葉] 1月19日 己酉 
「志田義広大将軍として宇治田原を防ぐ」
 昨今天下頗るまた騒動した。武士等多く西方に向かう。行家を討伐の為という。或いはまた宇治に在り。田原地の手を防ぐ為という。(志田)義廣(三郎先生)が大将軍という。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。

http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

| | コメント (0)

2009年7月 6日 (月)

1月16日「義仲行家を追伐す」

[玉葉] 1月16日 丙午 雨下る 
「義経勢数万に及ぶ」
 去る夜より京中は騒動した。義仲が近江の国に派遣した所の郎従等、併しながら以て帰京した。敵勢は数万に及び、敢えて敵対は不可能の故という。今日法皇をお連れなさり、義仲は勢多に向かうべき由が風聞した。その儀は忽ち変改した。ただ郎従等を派遣し、元の如く法皇御所中を警固し待機すべし。
「義仲行家を追伐す」
 また軍兵を行家の許に分け派遣し追伐すべしという。凡そ去る夜より今日14時頃に至るまで、議定は変々数十度に及ぶ。てのうらを反すが如し。京中のあわてふためきようは喩えに取るに物無し。然れども晩に及び頗る落居した。関東の武士が少々勢多に到着したという。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。

http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

| | コメント (0)

2009年7月 5日 (日)

1184年 1月13日「平氏入洛せざる三つの由緒」

1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)

[玉葉] 1月13日 癸卯 天晴 

 今日、明け方より午後2時ごろまで、義仲が東国に下向の事、有無の間変々七八度、遂に以て下向せず。これは近江に派遣した所の家来の飛脚を以て申して云く、九郎の軍勢は僅かに千余騎という。敢えて義仲の軍勢に敵対すべからず。よって忽ち御下向有るべからずという。これに因って下向を延引すという。
「平氏入洛せざる三つの由緒」
 平氏が今日入洛すべきと決定の処、そうならない三つの由緒有りという。
 一ハ義仲が法皇をお連れなさり、北陸に向かうべきの由風聞するの故、
 二ハ平氏は武士を丹波の国(京都府)に派遣し、家来等を招集させた。よって義仲もまた軍兵を派遣し相防がせた。然る間、平氏は和平を決定した。よって事決定の後、飛脚を派遣し引退すべきの由、お言葉を遣わすの処、猶合戦を企て、平氏方の家来十三人をすでにさらし首にしたという。茲に因って心を置き遅延した。
 三ハ行家が渡野陪(わたのべ)に出逢いテ、一矢射るべきの由を称せしむという。この事に因って遅延した。
色々の風聞が飛び交うが、デマではないのでこれを記録した。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。

http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

| | コメント (0)

2009年7月 4日 (土)

12月2日「去る29日室山に於いて平氏と行家軍合戦す」

[玉葉] 12月2日 天気晴れ、
 伝聞、義仲は使いを平氏の許に差し送り(播磨(兵庫県南西部)国の室津の泊りにあるという)、和親を乞うという。
「去る29日室山に於いて平氏と行家軍合戦す」
 又聞く、去る29日平氏と行家は合戦した。行家の軍は忽ち以て敗績し、家臣の多く以て伐ち取られた。忽ち上京を企だてたという。
又聞く、多田蔵人大夫源行弘(綱)は城内に引き籠もり、義仲の命に従うべからずという。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。

http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

| | コメント (0)

2009年7月 3日 (金)

11月13日 「義仲頼朝追討の院宣を秀衡に示すとの浮説あり」

[玉葉] 11月13日 雨下る、
「義仲頼朝追討の院宣を秀衡に示すとの浮説あり」
 藤原季経朝臣が来た。語り云う、院の庁官康貞、一昨日上京したようだ。ちまたの説に云う、秀衡は頼朝を追討すべき由、院宣有る旨、義仲は秀衡の許に示し遣わし、秀衡は件の証文を以て康貞に付き進覧したようだ。但し此の条定めて浮説かと。追って尋ね聞くべし。
今朝行家は鳥羽(京都市南部)を出発したようだ。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。

http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

| | コメント (0)

2009年7月 2日 (木)

11月8日「平氏追討の為行家進発」

[玉葉] 11月8日 戊戌 天晴 
11月8日 天気晴れ、
「平氏追討の為行家進発」
 今日、備前の守源行家が平氏追討の為出発した。見物者は語り云う、其の勢270余騎という。おおいに少なしと為すは如何如何。今日義仲すでに打ち立ち、只今乱に逢うの事の如し。法皇御所以下京都の諸人、毎家騒動した。
「兼実密かに神鏡等無事を第一とする旨を行家に示す」
 そもそも三種の神器、無事に迎え取り奉る条、朝家第一の大事である。しかるに法皇と臣下共に此の指図無し。よって私は密かに此の趣旨を以て行家に言い含めた(全く親睦の縁なし、然れども偏に天下を思うにより、或僧を招き、詳細に以て聞達した。中心の誓い、上下鑑みるべきのみ)。

「朝日将軍木曾義仲洛中日記」の本が出来ました。

http://homepage2.nifty.com/yosinaka/

| | コメント (0)

«11月7日 「義仲を院中警護の人数に入る」